君は違う世界の人だから
時雨は縁側に座っていた。彼女は名家の末娘であり、昨日の夜に十八歳になった。長女と次女は既に何処かの家へ嫁いでおり、長男は次期当主として日々精進している。兄と姉が家族という円環に巻き込まれていく様を眺めていた時雨は、自分の番が来る日を恐れていた。
それでも今日まで生を繋いできたのは、縁側があったからだ。目の前に広がる立派な庭を無視して、時雨は塀の一ヶ所を凝視していた。
すると、時雨が見ていた縁側に一人の少年が半身乗り出すように上ってきた。その少年の名を時雨は知らなかったが、名前を知っている誰よりも信頼し、恋心さえ抱いていた。それは少年が自分とは違う世界に生きる人間だからだろうか。
「また一人でそこにいる。いいね、金持ちの娘は気楽そうで」
「君もそうじゃないか。毎日この時間になると、そこへ現れる」
「僕は盗みに来てんのさ。でもお前がそこにいる所為で、盗みに行けずにいるのさ」
「遠慮する事はないよ。家の人には黙っておくし、万が一に見られても、私が逃がしてあげる」
「それじゃ盗みにならんだろ。人目を盗むからこそ、盗みになるのさ。わざわざ金目の物がある場所まで案内されて逃がしてくれるのは、盗みとは言えない」
「おかしな矜持を持ってるね。それじゃあ君は、このまま飢えて死んでもいいの?」
「お前と違って金持ちではないが、普通に生きていくだけの稼ぎはある」
「それじゃあ、どうして盗もうなんて考えてるの?」
「道楽だね」
今日も今日とて、少年は時雨に付き合わされる。最初に少年がこの家に盗みに入ろうとしたのは、時雨が十五の三年前。それから毎日盗みに入ろうと試みるが、毎度時雨がそこにいるもので、半ば諦らめかけていた。
それでも少年が塀を上るのは、時雨の姿を見る為。それは恋心とも、嫉妬心とも捉えられる執着であった。
「ねぇ。今日はどんな話を聞かせてくれるの?」
「毎度毎度止してくれよ。僕は芝居師じゃないんだ」
「そう言って、いつも話してくれるじゃない。君が見て感じた事を話してよ」
「僕を知ったつもりで……そうだな」
少年は片方の唇を吊り上げると、意地の悪い話をし始めた。
「僕がいつもここへ来るのは、お前に会いたいからだ」
「私に?」
「ああ、そうさ。それこそ僕が見てきた女と比べると、お前は特別美人だ。三日で飽きるようなただの美人じゃなく、特別なね」
「まぁ! どういう所が特別かしら!」
好反応な時雨の姿に少年は心の中でクスクスと嘲笑うが、その心とは裏腹に、表情には戸惑いが現れていた。そんな自分に少年は気が付くと、嘲笑っていた心の中でさえ戸惑いが生まれていた。
時雨は腰を上げると、縁側から離れて、塀の上にいる少年へと一歩ずつ近付いていく。近付く度に跳ね上がる心臓に、確かな期待を寄せて。
少年が悩んでいる間に、時雨はすぐ目の前まで近付いていた。中々打ち明けてくれない少年に痺れをきらした時雨は、自分も塀の上へ行こうと跳んでみせた。
しかし、時雨がどれだけ手を伸ばして跳んだ所で、指の先が塀の上に掠りもしない。見かねた少年は時雨に手を貸そうとしたが、すんでの所で手を引っ込めた。
「止しなよ。怪我をするよ」
「なら聞かせてよ。君の気持ちを」
「他の話をしてあげるよ。もっと面白い話さ」
「嫌よ。君が私をどう想ってるのか。それだけを聞きたいの」
「……言えないよ」
「……どうして?」
「だって、君は金持ちの娘じゃないか。親もいない孤児の僕と話すのだって、本当はやっちゃいけないんだ」
「誰が決めたっていうの?」
「誰もがさ。身分ってものがあるだろ?」
「そんなのどうだっていいじゃない。私は君と話したいの。もっと傍で君と話したいの」
少年は「なんて我が儘な女だ」と心の中で呟いた。それは少年も本心では時雨の傍にいたいと思っている事の表れであった。
しかし、少年は時雨よりも大人であった。歳は下であっても、積み重ねてきた経験は箱入り娘の時雨よりも色濃い。諦める事など、少年にとっては慣れたものであった。
塀の上から下りた少年。そんな少年を追うように、時雨は塀の壁に空いてある小さな穴から向こう側を覗き込んだ。少年も遅れて塀の壁に空いてある小さな穴から向こう側を覗き込んだ。
「これが本来の僕達の関係だ。興味本位で覗き込むような退屈凌ぎに過ぎないんだ」
「無茶を言ったのは分かったよ。もう二度と傍に来てなんて言わない。だから明日も、ここへ来てよ」
「……」
「ねぇ……ねぇ! どうして何も言ってくれないの!?」
時雨は涙を零しながら、少年に訴えかけた。それでも少年は一言も返さず背中を見せたままで、遂には何処かへ去ってしまった。時雨は外へ出ようと考えるも、門には番人が常に張り付いている。見ず知らずの少年と話す場面を目撃されてしまえば、本当に二度と少年と会えなくなってしまう。
時雨は泣いた。塀の壁に沿って滑り落ちていくように、うずくまって泣いた。その声は屋敷の中まで聞こえていたが、誰もが聞き流していた。
それから一ヶ月後。時雨はいつものように縁側に座っては、塀の上を凝視していた。朝陽が夕陽になっても、時雨は待ち続けた。
明日、時雨は家族の円環に巻き込まれる。