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ひまわりと、海

ひまわりと、海

作者: 小山らいか

「ねえ、ハルくん。ひまわりの絵、描いて」

 風花は、そう言って縁側にいた僕の隣に座った。手に持ったお気に入りの赤いコップには、母親に入れてもらったリンゴジュースが入っている。「うん、いいよ」

 縁側からは、数本のひまわりと、その向こうには海が見えた。南の海特有の、透き通るような淡い青。強烈な夏の日差しを浴びてなお、力強く咲く黄色いひまわり。「じゃましてごめんね」アヤカさんが、僕の横に冷えたアイスコーヒーを置いた。

 二月のまだ肌寒かった頃。僕は砂浜へ出て、いつものように絵を描いていた。昨年大学を卒業してから、午前中には絵を描き、午後は家庭教師のバイトをして生活していた。

 突然、絵を描いていた僕の横に、小さな女の子が来てしゃがみこんだ。僕の絵をじっと見ている。そのあまりの距離感に驚いていると、母親らしき女性が慌てて駆け寄ってきた。

「ごめんなさい。驚かせてしまって」アヤカさんはそう言って、風花の手を取った。「まだ、見たいの」風花は動かない。「この子、人見知りなのに……」アヤカさんは困った顔をしている。「別に、いいですよ」すると、彼女はほっとしたように微笑んだ。

 その日以来、二人はときどきこの砂浜を訪れ、言葉を交わすようになった。ここより少し町に近いところに住んでいて、風花はこの近くの保育園に通っているという。アヤカさんは僕より四つほど年上で、会話の流れから、母子家庭であることは何となくわかった。

 アヤカさんは物静かな女性で、いつも風花のことを愛おしそうに見ていた。人と話すのが苦手な僕と口数の少ない彼女は、それでも少しずつお互いのことを話した。

「ハルくんの描く絵を見ていると、心がしんと静まって、透明になる感じがする」

 アヤカさんがつぶやいた。「透明になる感じ」という表現が、僕の心に響いた。

 ある日、砂浜に突然冷たい風が吹き、雨が降り出した。激しいスコール。僕は二人を、海のすぐ近くにある自分の家へ誘った。ここは以前祖父が住んでいた小屋で、縁側から海が見渡せるところが気に入っていた。「よかったら、シャワーどうぞ」ずぶ濡れの二人に着替えを用意した。僕がシャワーを浴びて戻ってくる頃には、風花はぐっすり眠っていた。

「ごめんなさい。迷惑かけちゃって」

「大丈夫ですよ。風花ちゃん、少し休ませてあげましょう」

 風花を布団に寝かせると、隣の部屋へ行き、熱いコーヒーを淹れた。黙ったまま、二人でソファに座ってコーヒーを飲んだ。「美味しい」僕のTシャツを着たアヤカさんは、恥ずかしそうに目を伏せた。頰が少し赤くなっている。

 雨の音はますます強くなった。激しい雨音に、会話もままならない。

「……」

 アヤカさんの唇が少し動いた気がした。声は聞きとれなかった。僕は彼女のほうへ体を寄せた。するとアヤカさんは緊張したように僕を見た。手が震えているのがわかった。

 思わず、その細い肩に手を回した。アヤカさんは驚いたように僕を見た。それから、そっと僕のほうに体を預けた。言葉はいらなかった。ただ、お互いに相手を強く求めていた。静かで、でも激しい思い。もう、止めることはできなかった。

 アヤカさんはそれからたびたび、この家を訪れるようになった。風花のいない昼間、二人で過ごすこともあった。彼女は僕が絵を描く様子を、いつも静かに眺めていた。僕は途中で筆を置くと、彼女をそっと抱きしめた。それは穏やかで、満ちたりた時間だった。

 夕方二人が訪れると、僕は夕食を作った。「ハルくんは、料理が上手だね」風花は僕の作った料理をいつも喜んで食べてくれた。そんな風花を、アヤカさんは嬉しそうに見つめていた。幸せだった。この時間がずっと続けばいいと思った。

 その年の夏は、いつもより暑かった。春に風花にせがまれて三人で植えたひまわりが、気持ちよさそうに風に揺れていた。夜には、砂浜で花火をした。たくさんの光の洪水に、風花は目を輝かせていた。その横で、僕はそっとアヤカさんの手を握っていた。

「私たち、東京に来ないかって誘われているの」

 ある日、アヤカさんが伏し目がちにそう告げた。二人の生活を心配した親戚が、仕事や住むところを世話してくれるという。この南の島で、二人の生活が決して楽ではないことは、僕もうすうす気づいてはいた。「ハルくんは、どう思う?」目が何かを訴えていた。

 僕は、彼女を愛していた。そして、風花のことも大切に思っていた。二人と、離れたくない。できることなら、このまま、ずっと一緒にいられたら……。

 でも僕は、彼女の問いにすぐに答えることができなかった。町はずれの小屋でただ一人絵を描き、しっかりした根を持たない自分に、二人を幸せにすることはできるんだろうか。そして、こんな自分が、父親になるなんて……責任の重さを強く感じた。僕は口を噤んだ。

 アヤカさんは、それ以上何も言わなかった。東京行きの話は着実に進んでいき、遅い冬が来る前に、二人はこの島を去っていった。

 縁側から見える海は、透明に近い淡い青から、日々少しずつ暗い色に変わっていく。三人で植えたひまわりは、いつしか枯れ果ててしまっていた。

 部屋の壁には、風花が僕に描いてくれた絵が飾ってある。ひまわりと、海。

 僕は、最後に渡された彼女の東京での連絡先を、静かに破り捨てた。


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