FREESiA(フリージア)
いつも読んでいただき、ありがとうございます。今回は蟻宮の大学生の姿に触れていきます。
ちなみに……めちゃ長いです!
蟻宮吉野の一日は忙しい。
蟻宮は、朝から大学に通っている。両親と3人で暮らす家は名古屋にあり、希望学科がある大学も名古屋にあったので、家から通学していた。歌枠V(歌動画を中心に活動するバーチャルユーチューバー)としては珍しく、蟻宮の専攻は情報科学だった。理工系は文系に比べて実験や実習があり、必修科目も多いので、文系よりも圧倒的に忙しい。
蟻宮が所属しているゼミではAIの研究をしている。一般的なAI(Artificial Intelligence:人工知能)は、データを収集する「学習」と、データから結果を判別する「推論」によって判断したり実行したりする。例えば、写真を見て「リンゴである」と判断するためには、まず、リンゴとリンゴ以外のあらゆる写真を収集する「学習」をする。その収集した写真をリンゴとリンゴ以外に分け、そこからパターンやルールを読み取って、「これはリンゴかもしれない」という「推論」をするのだ。
ただ、この方法だと、膨大な情報を前もって「食べさせる」必要があるし、「知らないこと」や「初めてのこと」は処理できない。そこで、蟻宮のゼミでは、人間のように失敗体験や成功体験を重ねて学習するAIを研究している。AIについて詳しく説明すると長くなるので、ここではAIには「弱いAI(特化型AI)」と「強いAI(汎用型AI)」があり、現在広く使われているChatGPT(チャット生成AI)やMidjourney(画像生成AI)などは「弱いAI」であり、蟻宮のゼミが研究しているのは「強いAI」の初歩であることだけ述べておく。
蟻宮のゼミでは、次世代AIを開発するだけでなく、AIを実際に会社や店舗の業務に組み込んで、経営負担を軽減する社会実験をしていた。人間の業務をAIに置き換えるのではなく、人間の業務をサポートして効率や安全性を上げることを目指していた。これは、狩猟社会(Society1.0)、農耕社会(Society2.0)、工業社会(Society3.0)、情報社会(Society4.0)に続く、超スマート社会(Society5.0)へとつながる研究だった。需要が伸び、市場が拡大している注目の研究だが、データを集積し、分析し、それを基に理論構築をするのは、AIの力を借りても膨大な時間のかかる作業である。
「大学生は勉強せずに遊んでいる」と思っている人も多いだろうが、「人による」というのが答えだ。蟻宮には、Society5.0の実現という夢があった。蟻宮は、小学生の頃から、PCを自分で組み立て、モーションキャプチャーとAIを組み合わせて、体の動きとアバターを連動させて仮想空間の中で、実在空間と同じように生活できるアプリを作った。だから、今の大学での研究や、Vとしての活動は、蟻宮の天職と言ってもよかった。そんなわけで、蟻宮は、飛び抜けて勉強熱心な学生だった。遊んでいる暇などなかった。
そんな蟻宮でも、受験勉強に明け暮れた高校時代と違って、放課後は自由が利く時間があった。大学では、受けたい授業を選択して、自分で時間割を組む。曜日によって違うが、蟻宮は、夕方4時半には授業を終えて大学を出る。部活にもサークルにも入っていないし、自宅住まいで生活費は必要ないので、バイトをする必要もない。そこで、空いた時間で芸能活動をすることにしたのだ。
Vのアバター(分身として表示されるキャラクター)は、絵師と呼ばれるイラストレーターがイラストを描き、モデラーがそのイラストをパーツごとに分解してLive2Dに組み込んで動くようにする。言葉にすると簡単だが、実際には、Vの中の人が、絵師やモデラーと何度も打ち合わせをして、体の動きや表情の変化などを繰り返し調整しながら作り上げていく。このやり直し作業が延々と続くので、十分な報酬や信頼関係がないと、途中でトラブルになり、作成自体が中止になってしまうこともあった。
蟻宮は、自分で描いたイラストを画像生成AIで加工し、三面図(キャラクターの正面・側面・背面を描いたイラスト)を生成した上で、著作権協会から類似品のないオリジナル作品である証明を受け、パーツ分解、Live2Dへの組み込み、モーションキャプチャーとの調整、動画作成や配信をするPC作成まで、事務所のサポートを受けながらではあるが、全て一人でやってのけた。
「全て一人でやってのけた」と言うと特別のことのようだが、個人勢(事務所に所属しないソロ配信者)では、よくある話だ。蟻宮の場合は、小学生から続く人間不信により、「知らない人と協力するより一人でやった方が楽で早い」という悲しい事情と、AIやコンピュータの高いスキルがあった。とはいえ、全てを一人でやろうと思ったら、それなりの時間がかかった。
そんなわけで、蟻宮は多忙だった。
大学が終わると速攻でダンススクール『Charis』に行き、歌とダンスのレッスンを受け、レッスンが終わると、すももの容赦ない特訓を受けた。夜になって自宅に帰ると、アバターの調整や企画書の作成をした。特に企画書は、なかなか、えるるのOKが出なかった。
「アントちゃん、これさあ」
「はい」
書いてきた企画書を事務所で渡すとき、えるるは、二重人格かと疑うぐらい。鋭い目をしていた。
「おもしろいと思って書いてんの?」
「はい」
えるるは紙面から目を上げて蟻宮を見た。
「じゃあ、聞くけど」
「はい」
「ただ、ゲームやってるだけの配信見て、何がおもしろいの?」
「……」
「アントちゃんは、そういう配信見ておもしろいの?」
「……」
「はい、答えられないからボツね」
蟻宮は、準備期間の3か月で、えるるが「鬼」であることを確信した。
とはいえ泣き言を言っていても始まらない。蟻宮は毎日のように企画書を書き、えるるのところに持って行った。そして、毎日のように(言葉で)ボコボコにされた。3か月が経つと、ようやく、えるるから「ギリ合格」と言ってもらえるようになった。何とか企画が通ったものを、事務所にあるスタジオで収録し、ショート動画に加工してもらって配信した。配信は3日に1回というペースではあったものの、蟻宮にとっては、なけなしの時間と才能を絞り出して作った「血の一滴」とも言える作品だった。そんな毎日が、そこからさらに3か月も続いた。フォロワー数は、じわじわと増え、1万を超えた。蟻宮は知らなかったが、大手でもないハコ(Vチューバー事務所)のVの、それもデビュー前で、まだ名前も公表されていない新人(ファンからは「妖精ちゃん」と呼ばれていた)が、1万人ものフォロワーを獲得したのは異例の出来事だった。
蟻宮はデビュー前の研修生扱いだが、給料は契約に基づいて「きちんと」支払われていた。会社勤めの人は「当たり前じゃん」と思うかもしれないが、芸能界では、かなり異例で、すももの前の所属先のように、無給であるばかりか、研修費という名目で研修生から大金をぼったくる事務所は多い。何事もはっきりさせたい性格のすももは、この件について、えるるに尋ねたことがあった。
「私は、芸能と何の関係もないバイトで身も心もすり減らすのって、バカじゃないの?と思ってるのよ」
えるるからは辛辣な答えが返ってきた。
「確かに、そういう苦境から這い上がって、成功する人もいるにはいるよ。だから、根性論を完全に否定するわけじゃないけど」
えるるは、昔を思い出すような目で、表情を歪ませた。
「でも、その陰で、才能があるのに、無駄に年齢を重ねて、社会の底辺に消えていった人を何人も見てきた」
えるるの声は氷のようだった。
「社会の底辺……」
えるるの言葉の冷たさに、すももはぞっとした。
「すももちゃんは、知らなくていい世界だよ」
えるるは、すももに優しい眼差しを向けた。
「誰も這い上がって来れなくて、研修生ばかり増やして、研修生から搾り取った研修費だけで事務所を運営しているような〝終わってる〟事務所だってあるよ」
えるるの口元に嘲笑が浮かんだ。
「でも、私は、〝そんなもの〟になりたくなかった」
えるるは、すももを真っすぐ見た。えるるの笑顔は、どこか怖かった。
「すももちゃんは、お金の心配はしなくていいよ。フリージアの運営資金は、わたしが立ち上げたファッションブランド『FREESiA』の収益を当てているからさ。事務所だけ見れば大赤字だけど、ブランドとダンススクールのブランドイメージ向上のための経費として落としてるから」
税金対策だよ、とえるるは言って笑った。
神座えるるは、アイドル現役時代にファッションブランド『FREESiA』を立ち上げた。「日常で着られるシンプルな甘ロリ」との謳い文句のデザインが話題となり、本人のトップアイドルとしての知名度と相まって、超人気ブランドになった。えるるは、人気絶頂の時にアイドルを引退(「卒業」という言葉を使わなかったことで話題になった)し、同時にファッションブランド『FREESiA』の名を冠した服飾会社と芸能事務所を設立した。活動拠点を名古屋に移転したのは、TV業界に君臨するキー局(全国放送権を持つ日本テレビ・テレビ朝日・TBSテレビ・テレビ東京・フジテレビの6局)から距離を置くためだったと言われている。
「師匠がね……」
えるるが「師匠」と呼ぶのは、えるるが所属していたアイドルグループをプロデュースした大物プロデューサーだ。飛び抜けた美少女揃いのグループの中では一番容姿がぱっとしなかったえるるがトップアイドルになれたのは、このプロデューサーの教えを熱心に学び、「売れる」ための努力を惜しまなかったからだ。そんなえるるが、プロデューサーを「師匠」と呼んで慕っていたことは、現役時代からよく知られていた。
「これからの時代はテレビに頼らずにやってみろって、俺にできなかったことをやってみろって言うからさあ」
テレビに頼らない。その発想が、バーチャルアイドルユニット『FREESiA』を生んだ。配信はアバターを使い、対面ライブは生身というバーチャルとリアルを兼ね備えた新時代のアイドルユニットだ。蟻宮は、その最後のパズルのピースだった。えるるが、持てる知識と経験と才覚を全て注ぎ込んで創り出したそれが、世に受け入れられるかどうかは、全くの未知の領域だった。
「蟻宮さん、猫、好きなの?」
誰だっけ?というのが、蟻宮の正直な感想だった。
その日最後の授業が終わり、すぐに帰ろうと席を立った蟻宮の前に、三つ編みに眼鏡という、地味を絵に描いたような女子学生が立っていた。
蟻宮の類稀な容姿は男子はもちろん女子をも惹きつけ、入学当初から、蟻宮と何とか仲良くしたい、ひと言でも話をしたいという学生がひっきりなしに押しかけてきた。だが、高校までに完全熟成された蟻宮の人間不信がフルパワーで効力を発揮し、蟻宮は、例外なく塩対応で撃退した。だから、梅雨に入る頃には、もう、蟻宮に話しかけてくる学生はいなくなった。そんなわけで、3か月が過ぎ、来月からは夏休みという時期になっても、蟻宮はクラスメイトの顔も名前も知らないという残念な状況だった。
蟻宮に無言で視線を向けられ、三つ編み眼鏡女子学生は、震え上がった。しかし、立ち去ろうとはせず、声を震わせながらも、さらに蟻宮に話しかけた。
「あの、あの……今日のお昼に、噴水のところで一人でご飯食べてたよね。そのとき、猫ちゃんが肩に乗ってて……」
女子学生は、泣き出しそうだった。蟻宮は、今日のお昼を思い出していた。蟻宮は、普段は人の多い学生食堂を避けて、コンビニで買った弁当を人のいない教室で食べていた。今日は、いつもの教室に珍しく人がいたので、Uターンして教室を出た。梅雨の合間で珍しく天気がよかったので、学生がほとんど立ち寄らない図書館棟の、さらに奥の、人気のない噴水のある中庭のベンチで食事したのだ。
「猫は嫌いじゃない」
蟻宮は短く答えた。
ちょっと遅くなったお昼ご飯を食べようと、蟻宮がコンビニで買ってきた弁当の蓋を開けると、どこからともなく白猫が出てきた。お腹を空かせている様子だったので、魚フライを一つあげた。白猫は、舌で器用に衣をはがし、中の魚だけを美味しそうに食べた。そして、蟻宮の肩によじ登ってきた。蟻宮は、「衣も食べてよ。片付けが面倒じゃない」と思いながらも、白猫を肩に乗せたまま、弁当を食べ始めたのだ。
「あの……、あの、わたしも、猫、好きなの」
「そう」
わたしは好きとは言っていないが?と思いながらも、蟻宮は短い答えを返した。嫌いでもないけど。
しかし、女子学生はひるまなかった。
「そ、それでね。よかったら、明日、一緒にお弁当食べないかなって……」
「え?」
蟻宮の口から思わず素で声が出た。
「なんで?」
「あの、あの……えっと、蟻宮さん、いつも1G教室で一人で食べてるじゃない?今日、一緒にお昼食べようかなって思って待ってたんだけど、蟻宮さん、教室を出て行っちゃったから……」
こいつか?こいつのせいで、わたしは教室でお昼食べれなかったのか?
「いや、なんで、一緒に食べようと思ったのかなって……」
「あ、あ、そう、そうだよね」
女子学生は、あわあわし始めた。と思ったら、ぴたりと手足の動きを止め、蟻宮を真っすぐに見て言った。
「わたしも一人なんです」
蟻宮は無言で目の前の女子学生を見つめた。この人は何が言いたいんだろう?わたし「も」一人ってどういう意味?それで、なんで、お昼ご飯を一緒に食べようって発想になるの?もしかして同情されてるの?
蟻宮はいろいろ考えたが、どれも違うような気がした。
「で?」
蟻宮は端的すぎる質問をした。それでも意味は伝わったようだった。
「え?えと、ほら、学科の人たちって、もう、仲良しグループができちゃってるじゃない?わたし、どこにも入れなくて。でも、一人は寂しくて。蟻宮さんも一緒かなって思って、それで……」
寂しくないが?一緒じゃないが?……と思ったが、それを口に出すのは違うような気がした。
「別にいいけど」
蟻宮は気怠そうに視線をそらして答えた。
「ほんと、ありがとう!明日は1Gで集合?それとも噴水がいい?お弁当、何持ってこようかなあ、じゃあ、また、明日ね」
女子学生は、ぱっと顔を輝かせ、早口でそれだけしゃべると、あっという間に教室を出て行った。
みんなが帰った教室に一人取り残された蟻宮は気が付いた。まだ、女子学生の名前を聞いていないことを。それが、女子学生、中間多恵との出会いだった。蟻宮は、翌日、多恵に名前を尋ね、多恵が同じ学科の同級生だったことを知らなかったとバレてしまい、多恵の表情を真っ白にさせてしまった。
「多恵ちゃん、こっち」
蟻宮がライブハウスの裏口をそっと開けて多恵を呼んだ。心細そうに裏路地をうろうろしていた多恵は、蟻宮の顔を見てほっとし、急いで裏口から中に駆け込んだ。
蟻宮が多恵と一緒に昼食を食べるようになって4か月が経った。途中、夏休みを挟み、後期が始まった10月になっても、二人の関係は続いていた。
「多恵ちゃん、来てくれてありがと」
蟻宮は多恵の手を取った。ステージに合わせて濃い目のメイクをした蟻宮の白い顔は、そこだけがスポットライトが当たったように、薄暗い楽屋の中に浮かび上がって見えた。多恵は、そんな普段とは別人のような蟻宮の顔を見て、恥ずかしそうに目を伏せた。そして、大学では絶対見ないような、肌の露出が多めの派手なステージ衣装が視界に飛び込んできて、目のやり場に困り、慌てて視線をそらす先を探した。まだ、音楽も照明もないが、蟻宮のいる空間は、現実と切り離された別世界のようだった。
蟻宮の配信に、自分が入り込んだようだった。多恵が、蟻宮がバーチャルユーチューバーアイドルユニット『FREESiA』のメンバーだと知ったのは、ほんの1か月前のことだった。それから多恵は、蟻宮の配信を過去のものも含めて全て見た。多恵が研究しているMR(Mixed Reality:仮想オブジェクトを現実空間に投影する技術)が現実になり、ネットで話題の金髪の妖精が、モニターの前に座る自分の手を取って、仮想空間へ引っ張り込んだ。そんな錯覚を覚えた。
「ありり、その子が、ありりのお友達なの?」
妖精が、もう一人増えた。
「すももちゃん、紹介するね。わたしのお友達の多恵ちゃんです」
蟻宮は多恵の手を引いて、すももの前に連れてきた。
「あ、あの、中間多恵です。蟻宮さんとは、同じ大学のゼミで仲良くさせてもらっていて、あの……」
多恵はしどろもどろに挨拶した。赤を基調とした蟻宮の衣装とは対照的に、青を基調とした衣装をまとった美しい少女だった。蟻宮と同じぐらい背が小さく、蟻宮とは違う可愛いらしさのある少女だった。二人が並ぶと、対になったティンカーベルが、妖精の粉をまき散らしているかのような愛らしさと華やかさがあった。
「ありりが大学でお世話になっています」
青いティンカーベルが、多恵に向かってぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、吉野ちゃんがフリージアでお世話になってます」
多恵も思わず頭を下げた。
「もう、やめてよ。二人して、わたしの保護者みたいじゃない」
赤いティンカーベルが頬を膨らませた。それを見て、すももと多恵は顔を見合わせてくすりと笑った。
「へえー、アリーに、こんなお友達がいたんやね」
蟻宮とすももの後ろで座っていた雛菊が立ち上がり、多恵に右手を差し出した。多恵は、雛菊の手を自然に握り返した。
「いいねえ、初々しいねえ」
小学生のように握手をする雛菊と多恵に、あかねが快活な声で言った。
「二人とも大学生なんやね。すごいねえ」
雀のほんわかした声が、その場を包み込んだ。すもも、雛菊、あかね、雀の4人が入れ替わり立ち替わり。「ねえ、アリーって大学ではどんななの?」「多恵さんの他にも友達はいるの?」「どうせ孤立してんだろ?こいつ、初めて会う人には塩対応だから」「ありっちと仲良くなったきっかけって何?」と質問攻めに合い、気が付けば出演時間が迫っていた。
「みんな、そろそろ、準備はいいかな?」
ステージ側の楽屋の扉が開き、スタッフ証を首から下げた女性が入ってきた。
「ああっ、ごめんなさいっ、ちょっと挨拶するつもりだけだったのに、もうこんな時間!」
多恵が、慌てて言った。
「心配しなくていいわよ。もう準備は終わってるから」
すももが、冷静な声で言った。フリージアのリーダーらしく落ち着いて見えるが、よく目を凝らすと少しだけ額に汗が浮かんでいた。
「うぅー、緊張してきた。だってよお、こんな大きいとこでやるの初めてじゃん」
「ああっ、言わないで!考えないようにしてたのにぃ!」
「大丈夫よ~。場所なんて、変わってもいつも通りやるだけよ~」
かえでと雛菊が声をあげ、雀がマイペースを絵に描いたようなのんびりした声で言った。
「吉野ちゃん、わたし、客席の方に行くね」
「うん」
蟻宮は多恵に輝くような笑顔を見せた。
「多恵ちゃん、わたしね……」
多恵が、夢心地のような、ふわふわした足取りで控室を出ようとした時、蟻宮が声を掛けた。
「あの日、多恵ちゃんが声をかけてくれた日……」
「うん」
「Vの仕事がうまくできなくて、わたしには向いてないかな、辞めちゃおうかなって思ってた」
すももが、蟻宮の後ろで、目をまん丸にした。
「でも、フリージアのみんなには言えなくて。ごめんね、すももちゃん」
すももが黙ってうなずいた。
「わたしね、小学校から友達って一人もいなくて」
「うん」
「みんな、わたしのこと嫌いなんだって思ってた。友達になってくれる人なんて、この世に一人もいないって思ってた」
「うん」
「だから、多恵ちゃんが、声かけてくれて、うれしかったよ。あの白猫が、わたしに友達を連れてきてくれたって思ったんだ」
「吉野ちゃん……」
「だから、多恵ちゃんには、今日のステージ見てほしい。我儘聞いてくれてありがと。わたし、頑張るね」
蟻宮の父、蟻宮毅や、蟻宮の母エレーヌの長年の友人、神座えるるが、その時の蟻宮吉野の笑顔を見たら、口を揃えてこう言っただろう。勝利の天使の異名で知られる母エレーヌにそっくりだ、と。
「バーチャルとリアルを兼ね備えた新時代のアイドルユニット」などと言うと、「他にも前例がある」と言われるかもしれません。わたしが思いつくのは、〝THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS(アイドルマスター シンデレラ ガールズ)〟や、秋元康さんプロデュースの〝22/7(ナナブンノニジュウニ:ナナニジ)〟です。他にもバーチャルとリアルを融合させたアイドルは登場してきているようです。正直、わたしは、Vチューバーやアイドルの分野に関する知識に乏しく、それがゆえに、今回の小説を書くにあたって、瞬時に脳裏でイメージ形成された『FREESiA』の姿を維持しつつ、後付けでバーチャル世界のことを調べて、お皿に盛り付けました。つまり、知らない人間が妄想で創り出したアイドルユニットという立ち位置で「バーチャルとリアルを兼ね備えた新時代のアイドルユニット」という表現を使うことをご容赦くださいませ。
これまで、わたしは、小説を「即興で書いている」と述べてきました。それは嘘ではないのですが、今回のエピソードをリリースするために、10日間ほどの時間を要しました。その理由は、最初に書き上げたものが、あまりにも薄っぺらだったからです。最初に書き上がったのは6月24日のことでした。わたしは、「完成した」と思えば、すぐに放流するのですが、今回は、何となく足りない気がして、一日寝かしては加筆し、また一日寝かしては加筆するということを繰り返しました。そのため、いつもは、ステップを踏むように流れるお話のリズムが崩れ、説明過剰になっているかと思います。それでも、「これで足りた」とやっと思えたので公開に踏み切りました。
この小説は、パズルのように、時間も空間もばらばらなものをつなぎ合わせて、一つの絵になっているようです。足りないピースが何なのかは作者にもわかりませんし、絵の完成形も見えません。それでも書き続けること、書き終えることが、今はわたしの目標になっています。読者の皆様、もうしばらく、わたしの気ままな旅にお付き合いくださいませ。