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5月の風

Vチューバーとしての活動を始めたものの、初配信が7秒で終わってしまった蟻宮。「泣きのもう1回」のデビュー配信はどうなるのか?視聴者視点からお届けします。

努力は裏切らない。


「そんなこと言ってた時期もあったな」


浦島耕輔うらしま こうすけ62歳はつぶやいた。


定年を迎える60歳がゴールだと信じて、がむしゃらに頑張っていた頃、口癖のように部下に言った言葉だ。


年金支給開始が65歳になった。「60歳は高齢者ではない」という発言が政治家の口から飛び出した。きな臭さを感じてはいたのだ。だが、定年を目前にして「定年延長」なんて四文字熟語が回覧されてきたときには、「嘘だろ?」「嘘であってほしい!」という心の叫びの裏に「やっぱり」という気持ちも確かにあったのだ。


「退職が少し延びただけでしょ」なんて思える奴は幸せだ。「延長」なんて言っているが、雇用はいったん切れる。肩書きも消える。給料は3割カット。臨時雇いの平社員から再スタートなんだ。「強くてニューゲーム」じゃねえ。「弱くてニューゲーム」なんだ。なにせ20代の体力もない。老眼で細かい字も読めん。記憶力だって怪しい。


60歳で辞めるという選択肢もあった。だけど、考えてもみろ。65歳まで食いつないでいける蓄えを持ってる奴なんていねえ。令和元年に「老後資金2,000万円必要」と金融庁が発表して世の中が大騒ぎになった。俺たちは、その時に絶望という名の現実を見せつけられたんだ。令和7年になって急に政府が「氷河期世代の救済」とか言い出したときには暴れ出しそうになったね。遅えよ!今さら資産形成なんてできねえんだよ!しかも具体的方策がない?ふざけてんのか!?


「60歳で辞めるという選択肢はあった」と言った。


嘘である。「辞める」というボタンはあったかもしれないが、最初から押せないようにロックされていた。二人の娘のうち、最後まで残っていた姉の方が、ようやく昨年結婚相手が見つかって、家を出ていった。そりゃ泣いたよ?「お父さん好き!」って言ってくれる娘たちだったからな。3歳の時の話だけどな。子ども一人育てるのに1億円かかるって試算もある。家計は家内に任せてるから知らんが、相当、金はかかったはずだ。まあ、それはいいんだ。俺は、そのために働いていたようなもんだったからな。でも、老後は遊んで暮らす貯金なんてできると思うか?


職場は同じとはいえ、変化もあった。新規のプロジェクトは若手のところへ行き、責任ある仕事は来なくなった。期限に追われて残業することもなくなった。


「つまんねえな」


家に帰っても、今さら妻と話すことなんてない。気まずいだけだ。たいして面白くもないテレビを見て、風呂に入って寝るしかやることがない。


努力は裏切らないなんて、誰が言ったんだよ。まるっと嘘じゃねえか。耕輔の口から、苦すぎる笑いが漏れた。


パソコンには、最近見始めた動画投稿サイトYouTubeの画面が映っていた。


耕輔は、最近になって「推し活」を始めた。理由は「推し活」を始めたかったから。


「推し」がいるわけじゃない。誰でもよかった。自分じゃない誰かがキラキラしている姿を見たかった。応援したかった。ただ、それだけだ。すっかり冷えて消し炭になった心を、何か別のもので温めたかったんだよ。


「新人Vチューバ―です。名前はまだ内緒なの。4月26日夜8時の配信で発表するね。質問読むね。『Vになった理由を教えて』。わたし、日本のアニメと歌が好きなの。Vならどっちもあるなんて最高だよね。4月26日夜8時の配信見てくれるとうれしいな。またね~」


「新人Vチューバ―です。名前はまだ内緒なの。4月26日夜8時の配信で発表するね。YOASOBIさんの『アイドル』歌ってみた。♪<アイドル>」


こんな調子で4月初めから、毎日のようにショート動画がネット上にアップされていた。耕輔は、偶然見つけたその子の動画を追っていた。「誰でもいい」とはいうものの、せっかく推すなら、まだデビューしてない新人がよかった。努力して、少しずつ上手くなって、諦めずに最後までやり通す、そんな姿が見たかった。応援したいと思えるような子がよかった。ぶっちゃけ、可愛い女の子がよかった。だから、ちょうどよかったのだ。


そんなわけで、4月26日、ゴールデンウイークがスタートした土曜日の夜、耕輔は、ビール片手に8時になる10分も前から、PCの前に陣取っていた。画面の向こうで小さな女の子のアバターが、軽くウェーブがかかった金髪を揺らしながら、目を閉じ、膝を抱え、ふわふわと浮いていた。


配信開始の時間になった。オルゴールのBGMが、華やかなオープニング曲に変わった。アバターが目を開き、薄青色の瞳が画面の向こうから耕輔を見つめた。


「は、初めまして、蟻宮吉野です!……あ」


ぱっと画面が暗転し、数秒後に「本日の配信は終了です―――7秒―――」という白い文字が表示された。


今、何が起きた?


耕輔は、しばらくビール片手に固まっていた。はっと我に返ると、猛然とスマホとキーボードを指で叩いて検索し始めた。「X」「Google」「Yahoo!」「5ちゃんねる」あらゆるサイトを見ていった。

「7秒って草」

「フリージアって何?有識者教えて」

「これって身バレじゃね?」

書き込みが、どんどん増えていった。ネット民には、個人情報っぽいものを目にすると、暴きたくなるというやっかいな習性があった。数時間すると新たな情報が……ない?散発していた「いじり」的な書き込みは消えていき、代わりに、

「まじでなんも出てこんのやけど」

「蟻宮って名前自体、一人か二人しかおらんで」

「本名じゃなくて、普通にVの名前やろ」

「普通だったらデビューで同接100人集めた企業勢が名前だけ叫んで消えるとかねえわ」

と混乱した書き込みが飛び交い、すごい勢いで拡散されていった。何も出てこないとむきになるのもネット民のやっかいな習性だ。最初にさらした奴が天下獲れるのだ。耕輔には理解できない価値観だった。


数時間後、公式サイトに「この度は突然の配信打ち切りとなり、誠に申し訳ありませんでした。配信は改めて明日の夜8時に再スタートいたします。本日は、お時間つくって会いに来ていただいた方々、ありがとうございました。また、明日も会いに来ていただけるとありがたいです。今後とも新人VirtualYouTuber蟻宮吉野をよろしくお願いいたします」という丁寧な謝罪文が掲載された。「配信済み」となった動画の隣に「蟻宮吉野にもう1回チャンスをください」と書かれたサムネ(サムネイル:扉絵)が並んだ。




翌日の夜、耕輔は、ビール片手に8時になる10分前から、PCの前に陣取っていた。画面の向こうでは、小さな女の子のアバターが、軽くウェーブがかかった金髪を揺らしながら、目を閉じ、膝を抱え、ふわふわと浮いていた。何事もなかったかのように。既視感ありまくりだった。


「いいけどな。どうせ連休にやることもねえし」


耕輔はビールをちょっとだけ口に含んだ。苦みと刺激が口に広がり、金属っぽい香りが鼻を抜けて行った。1日1本しかないのだ。大事に飲まないといけない。


アバターが目を開き、薄青色の瞳が画面の向こうから視聴者を見つめた。


《初めまして、蟻宮吉野です》


@aprilfool:こんばんは。初めましてw

@牛頭馬頭:声かわいい

@Dorothy:今日は何秒枠?

@ぴぴ:なんか既視感がw


蟻宮のパステルボイスが吹き込まれると、チャットがすごい勢いで流れ始めた。


「読めねえ……って同接10,000超えてるじゃねえか!」


《昨日は配信打ち切ってすみませんでした》


蟻宮のアバターがぺこりと頭を下げた。


@牛頭馬頭:ちゃんと謝れてえらい!

@ダンダダン:新人ちゃん可愛い

@pipin:気にしないで(*´˘`*)♡"

@ややこ:蟻宮吉野は本名なんですか?


《え?本名って言っていいの?》


@明日葉:草w

@ぴぴ:草ww

@Dorothy:もちろん言っていいよ( ᐛ )っY

@牛頭馬頭:やめれw


《もう手遅れだから言っていい?あ、はい。蟻宮吉野は本名です》


@tuyoshi4129:手遅れw

@月見草:配信前に教えとけよw

@無味無色:反省してないw

@ぴぴ:昨日、何で配信中止したの?


《社長が用意した名前がアント・ワ・ネットって言うんだけど、わたしが名前間違えて言ったら急に画面が消えちゃって。あれ、何だったんだろうね》


@牛頭馬頭:草すぎるw

@月見草:wwwwwwwwwwwwwwwwwwww

@ぴぴ:最初から黒歴史じゃんw

@Nori:ていうかネーミングセンスw

@神座えるる@FREESiA<公式>アントちゃん、さらすのやめてぇヾ(゜д゜; )


《あ、社長》


@月見草:さすが、える様w

@Yoryu:独特のネーミングセンス健在w

@Dorothy:デビュー前から黒歴史w


《社長が恥ずかしくないって言ってたから、言ってもいいと思って》


神座えるる@FREESiA<公式>:ぅぅぅぅぅぅぅぅう言い返せない(;゜∀゜)

@無味無色:容赦ないw

@牛頭馬頭:やめてあげてw

@pipin:もう致死量だからww


《今日は歌枠配信だから、さっそく歌っていきますね》


@aprilfool:すももちゃんは?

@ぴぴ:今日は一人なの?


《このチャンネルは、わたし一人なの。ていうか、なんで知ってるの?わたしが、すももちゃんと歌ってるって》


@ぴぴ:駅前広場で見た

@ややこ:路上ライブ動画バズってたよ


《路上ライブ来てくれたんだ》


@aprilfool:仕事帰りに毎日行ってた

@牛頭馬頭:ありりん可愛かった₍₍ ◟(♡ˊOˋ♡)◞ ₎₎


《ありりん?》


@牛頭馬頭:蟻宮さんだから、ありりん

@明日葉:ありりん、いいね

@Dorothy:アント・ワ・ネットよりは(ボソッ)

@Nori:wwwwwww

@ダンダダン:www


《えっと、じゃあ、ありりんで》


@牛頭馬頭:♡♱⋰ ♡⋱✮⋰ ♡♡⋱♱⋰ ⋱✮⋰ ♪⋱♱⋰ ♡♡

@ぴぴ:♡♥♡ ゜*:.。.:*♡゜*:.。.:*♡♥♡

@月見草:♥♡♡*。,。*゜*。♡♡*。,。*゜*。♥♡♡

@ぴぴ:◇♡◇♥◆♥◇♡◇♥◆♥◇♡◇♥◆♥


弾幕(YouTubeの場合は多数のコメントが同時に入力され、チャット欄を埋め尽くす状態のこと)が流れた。


《あの……ありがと》


@aprilfool:♥◇*.。.:*・゜♥*.。.:*・゜♥◇*.。.:*・゜

@ややこ:♥○ ˚◇◇*‧₊̊‧*˚̩*♥○ ˚◇◇*‧₊̊‧*˚̩*♥○ ˚◇◇*‧₊̊‧*˚̩*♥

@牛頭馬頭:゜・*†*・゜゜・*†*・゜゜・*†*・゜゜・*†*・゜゜・*†*・゜゜・*†*・゜゜

@Latan:*.。.*゜*.。.*゜*.。.*゜*.。.*゜*.。.*゜*.。.*゜


弾幕が一気に加速した。


《じゃ、じゃあ、『花の塔』歌うね》


♪<花の塔>


@牛頭馬頭:♪♥✽.。.:*・゜♥♪✽.。.:*・゜

@Nori:*。,。*゜*。♪♪♪*。,。*゜*。♪♪♪*。,。*゜*。

@aprilfool:♪♪♪♪.•*¨*•.♪♪♪♪.•*¨*•.♪♪♪♪.•*¨*•.

@月見草:♪♪♬♪♫☆彡♪♪♬♪♫♪♪☆彡



配信時間143分。蟻宮吉野の「初配信」が終わった。


「なんか、よくわからんけど、元気出たわ」


耕輔はつぶやいて、キーボードをカチャカチャと叩いた。


《弾幕ありがとうございました。『花の塔』次はすももちゃんと歌いたいな》


@aprilfool:歌って歌って!

@ぴぴ:次も絶対に来る!

@無味無色:楽しみ


《あ》


蟻宮の声が不意に止まった。


《「ありりんの歌で元気出た。仕事嫌になりかかってたけど、連休終わったら、ちょっとだけ頑張るわ」くるみ割り人形さん、ありがと。わたしの歌で元気になってくれてうれしい。お仕事大変だと思うけど頑張ってね》


こんな、こんなたくさんのチャットの中から、俺の言葉を拾ってくれたのか。


耕輔の心に弾けるような衝撃が現れた。そこからじわじわと温かいものが広がっていった。高校2年生の5月、好きだった女の子から不意に声をかけられた時の驚きと胸の高鳴り。あの時、新緑の青々しいにおいを乗せた初夏の風がさっと吹いて、耕輔の顔をなでていった。


耕輔は、右手でそっと頬に触れた。16歳の自分と、62歳の自分が時空を超えて確かにつながった。


耕輔は、PCの画面を見た。小さな女の子のアバターが、軽くウェーブがかかった金髪を揺らしながら、目を閉じ、膝を抱え、ふわふわと浮いていた。いつの間にか配信は終わっていた。


耕輔は、PCの電源を切ると、台所に行き、薬缶に湯を沸かした。急須に茶葉を入れ、湯をゆっくり注ぐと、ふたを閉じ、急須をくるりと1回転さえた。急須を傾けると、黄金色の液体が湯呑に流れ込んだ。


耕輔は、お盆に湯呑を二つ乗せて、居間に入った。


「あら、どうしたんですか」

妻の美代子が驚いて耕輔に尋ねた。

「たまには、一緒にお茶でも飲もうと思ってな」

「まあ」

美代子は目を見張ったが、ふわっと笑顔になった。

「それなら、お茶に合いそうなお菓子でも持ってきますね」

そう言って席を立ち、カステラを乗せた小皿を二皿持って戻ってきた。

「こんなふうに、お茶を飲むのも久しぶりですねえ」

「あなたの入れたお茶は、昔と変わらず美味しいですねえ」

何がうれしかったのか、終始上機嫌でにこにこと笑う美代子を見た耕輔は、この夜初めて「定年になってよかった」と思えたのだった。


※弾幕は『キラコメ弾幕まとめ』(https://kiracome.jp/)掲載のものを使用(一部環境依存文字のため削除または置き換え)させていただきました。ありがとうございました、

高校2年生の時、『くるみ割り人形』という話を書きました。定年間近の会社員男性が、家では役立たず扱いされていて、妻にも娘達にも邪険に扱われていました。そんな彼は、娘達が小さかった頃に、クルミを二つ合わせて握って割り、家族に分け与えていました。クルミは素手では割れないので、クルミが大好きな家族からは便りにされていたのですが、ある時、出張先で見付けたくるみ割り人形を土産に持って帰ったら……という話です。


配信を見ている視聴者視点で、人物は定年延長でやさぐれた初老男性で……といった設定が頭に浮かんできたので書き始めたのですが、最後に思い出したのが、この『くるみ割り人形』でした。


前回の後書きで小説を書く参考として、うら飯紺汰さんというVチューバーの方をフォローしているということを書きました。先日の配信の際、初めて同接(同時接続)で参加して、応援メッセージを載せてスーパーチャット(投げ銭)を贈りました。うら飯紺汰さんには、メッセージを読み上げていただき、お礼の言葉もいただきました。そうした時に感じたことが反映されてお話しができていきます。今後も読み続けていただけると、うれしいです。

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