アイボール・イン・マイ・マティーニ
デモ。おれたちはなぜかデモを忌避する。腫れ物のように扱う。おれたちが持っている数少ない攻撃の手段のひとつなのに。意味がないってことはない。連中は結構これを嫌がる。だが本来はおれたち側の立場の人間であるはずなのに、デモを嗤うやつらがいる。もちろん参加するしないは個人の判断だから、そんなもん好きにすりゃいい。価値観や思想の違いで批判をするのも勝手にしやがれだ。だがなぜいちいち嘲笑う必要があるのか。ジジイババアが必死になっている姿が面白いか。うらなり野郎が声を張り上げる姿が滑稽か。同性愛者が、女性が、群れをなし権利を主張するのは気に食わんか。それがそんなに可笑しいことか。おまえは学校の運動会で好きな女の子が一生懸命走っているのを見て萎えるタイプか。それをとびきりの笑い話のようにまわりに吹聴するタイプか。おれはそんなタイプだった。クソガキの頃はな。
おまえはいつまで雲の上から大局的に世界を眺めている気分に浸っているつもりだ? 泥で汚れるのがそんなに嫌いか? だがおれたちは地を這いずる獣だ。所詮、おれも、おまえもな。おれが阿部千代だ。なめんなよ、ヨロシク。
洗面台の電気を点けたり消したりして、瞳孔が広がったり縮こまったりする様子を鏡で見る遊びをしていた。ヘリの音がやかましい。そういえばさっき発砲事件がどうのこうのと外で防災センターが騒いでいた。きっとそれ関係の報道ヘリだろう。
目玉に惹かれる人は多い。子どものころ教室にひとりは執拗に目玉の落書きをしているようなやつがいた気がする。おれ自身もよく目玉の絵を描いていた。なんせ描くのが簡単だ。質感を出すのも容易い。落書きが好きなやつは、一度は大量の目玉を描いたことがあるだろう。
ホラーはもちろん、ホットロッド系のペイントなどにも目玉はよく使われているモチーフだ。フライングアイボールのデザインはおそらく誰もがどこかで見たことがあるはず。ここ日本では目玉の親父というそのまんまなキャラクターがいて、長きに渡って愛され続けている。幼稚で素直でちょっと不気味。目玉にはそんなイメージがある。
とかなんとか。エッセイっぽく字数稼ぎをしていると、おやっと思った。左右の瞳孔の大きさが違う。明らかに右の方が大きい。光の加減によるものかしらと思い、均一に照らしてみたが、結果は変わらない。相変わらず右目の瞳孔の方が大きい。
人間には利き腕があるように、利き目もあるのだと聞いたことがある。例えば利き目が右の人は左打席に立つと球が良く見えるらしい。利き目が左の人は右打席だ。おれは例えですぐに野球を持ち出してしまうのが玉に瑕だが、そもそも利き目というものを知ったのが野球関係の情報からだったので、今回は仕方のないことだと割り切ってもらおう。
おれの利き目は右だったのか。単純にそう思った。大きい方が偉い気がするからだ。
どうりで。おれは右バッターだった。あまり打てない右バッターだった。正直なところ試合でスカッとするような良い当たりを打てた記憶がない。いつだって打ち損ないのコースヒットだった。
自分で言うのもなんだが、おれは野球を結構頑張っていた。フィジカルは平均よりもだいぶ低かったものの、身体の使い方は上手かった方だ。守備は得意だったし、スウィングの美しさは、コーチも絶賛していた。阿部のスウィングを見習えと、よく皆の前で素振りをさせられたものだ。
だが打てなかった。三振が多く、選球眼は悪く、長打を期待できず、足も遅かった。おれはまったくのへなちょこバッターだった。自信があったのはバントくらいか。
利き目だったのだ。おれは左打席に立つべきだったのだ。そうしていたら、おそらくは試合のたびに快打連発、篠塚二世との呼び声も高く、近隣のエースピッチャーからは恐れられ、スカウトからはあの身体じゃプロの世界ではちょっと厳しいかなぁ、と首をかしげられていたのかもしれないのだ。
だがもう過ぎたこと。かもしれないで悔しがるほど最近の話でもない。リビングに移動し、ソファに深々と腰を下ろす。発砲事件はいつの間にか立てこもり事件になっていた。相変わらず報道ヘリがうるさい。
小説の続きを書こうかな。そんなことを考えていた。でも頭使うの嫌だな。そんなことを考えていた。頭使うと頭が痛くなるんだよな。……? おれの脳が、痛く、という言葉に反応した。なんだか……気のせいかもしれないけれど……心なしか、なんとなく、そこはかとなく、右目が痛い気がする。それもいまに始まったことじゃなく、ここ最近、ずっと右目が痛かったような気がしていたようなそうでもないような。そんな雰囲気があった。そのあるようなないような右目の痛みは、頭痛に繋がっている感じがしないでもない。これは一体。
――ファントムペイン。言葉の意味はまったく違うが、思いついたからちょっと書いてみた。
こういうときはググるに限る。瞳孔、左右、大きさ、違う。
まず一発目に出てきたのは、なんにも心配ない、という内容の記事だった。なんでも5人に1人は先天的にそうらしい。ふうん、そうなんだ。知らなかった。だがその次からは、こんな病気かも、あんな病気かも、緑内障になっちゃうかも、脳内出血しちゃうかも……。もう、これでもかってくらい心配を煽る煽る。
最初からわかっちゃいたが。ネットで自己診断なんてどだい無理な話だ。身体がどういかれているかなんて本人にだってわからない。他人の身体のプロである医者だって誤診をするのだから。
まあ今まで健康診断でなにも引っかかったことないし、放っておくことに決めた。なんか痛いような気がするけど。気づいたらこんな時間だ。いつの間にか立てこもり事件は終わっていた。容疑者は80代? ……爺さん、死にきれなかったか……? いや、事情もなにも知らないのに勝手なことは言うべきじゃない。
明日にはぜんぶ忘れていることだろう。右目の痛みも、なにもかも、ぜんぶ。