第三十七話「お前が望んでなくても、俺は望んでるんだよ」
「俺と一緒に行動してた方が……俺一人を監視する方がずっと楽だっただろ」
藤枝邸は広いし、使用人たちに見つかって追い出される可能性もある。秋穂さんは大学に、夏希ちゃんと千鶴ちゃんは高校に通ってるし、それ以外にもあちこち出掛けるはずだ。
三姉妹を監視するよりも、俺一人に張り付いて、俺一人を監視する方がずっと効率的だ。
なのに――。
「なんで、俺の前からいなくなったりしたんだよ!」
ミコトを怒鳴りつけたあとで、しまったと唇を引き結んだ。勝手に不安になって、不安にさせるなと怒鳴りつけるなんて。こんなの八つ当たりだ。
おずおずと目を向けると、
「だって、父さんは……目の前に困っている人がいたら助けちゃうじゃないですか。だから、父さんの目の前からいなくなろうって思ったんです」
当のミコトは不思議そうな顔で首を傾げていた。
目の前にさえいなければ、困っている人のことも、ミコトのことも助けないんだろうと責められているようで。俺は唇を噛んでうつむいた。
秋穂さんに不誠実だと言われるのも当然だ。
「父さんが僕をとんばあちゃんに預けたときもそうでした」
ミコトも秋穂さんと同じように思っているかはわからないけど、もし、そう思われていたとしても文句は言えない。
心臓がバクバクと鳴り出す。
前にも聞いた。未来の俺は七才のミコトをとんばあちゃんに預けて、それきり。一度もミコトに会いに来ていないのだと。
どうしてミコトを置いて行ったのか。どうして会いに来ないのか。
ずっと気になってたけど怖くて聞けなかった。でも、いい加減に向き合わなきゃいけない。
「俺は、なんで……お前を置いていったんだ」
尋ねて、結局、ミコトから目を逸らしてしまった。ろくでもない理由だったらと思うと、ミコトに恨まれていたらと思うと……やっぱり怖かった。
「戦争に行けって国から手紙が届いたんです。それで僕をとんばあちゃんのところに預けて、父さんは戦争に行ったんです」
「戦争……?」
ミコトの言葉に、俺は小さく唸り声をあげた。戦争という単語にどうにも違和感がある。でも、俺が感じている違和感なんて無視してミコトは話を続ける。
「本当は隣の家に届いた手紙でした。父さんと僕が住んでいた家の隣」
「え、なんで……?」
「だから、言ったじゃないですか。父さんは目の前に困っている人がいたら、絶対に助ける人なんです」
真っ白な髪の野良猫は俺をじっと見上げて、相変わらずの無表情で言った。表情はほとんど変わらないけど、唇が少し尖っているし、ジト目な気がする。これはもしかして、やっぱり責められているのかもしれないとたじろいだ。
「隣の奥さんのお腹には赤ちゃんがいたんです。とんばあちゃんが言ってました。奥さんは目が不自由で、体も弱くて、一人で子育てをするのは難しかったって」
「もしかして、それで……」
「はい。父さんは隣の家の旦那さんの代わりに戦争に行ったんです」
「まだ小さかったお前を置いて、か?」
「とんばあちゃんのところに預けて、です。置いていったわけじゃありません」
「ん? んん……?」
きっぱりと言い切るミコトを前に、俺は腕組みをして唸り声をあげた。これは……責められているのだろうか?
俺の疑問にミコトはすぐに答えてくれた。
「父さんは目の前に困っている人がいたら、絶対に助ける人。僕はそれを自慢に思ってます」
どうやら俺は――ミコトの父親である未来の俺は、ミコトに責められていたわけでも恨まれていたわけでもなかったらしい。
「……でも、寂しかったのは事実です」
ただ、悪いことをしたとは、やっぱり思う。まだ小さかったミコトに寂しい思いも我慢もさせたのだから。例え、未来の俺が選択したことだとしても、今の俺でも同じ選択をするだろうと思うから。
だから――。
「ぶにゃ!」
ミコトを力一杯、抱きしめた。
「何するんですか、父さん!」
ミコトは珍しく動揺したようすで悲鳴をあげた。しばらくジタバタしていたけれど、そのうちに背中に腕をまわして、ぎゅっと俺にしがみついた。
俺の腕の中にいるのは細くて、小さな、十六才という年齢以上に幼く見える少女だ。野良猫みたいに図々しいし、太々しいけど、可愛らしい少女。
でも、抱きしめても少しもドキドキしない。
秋穂さんにくしゃりと無邪気に笑い掛けられたとき。夏希ちゃんにしな垂れかかられたとき。迷子の子供みたいに頼りなげな表情で千鶴ちゃんに見つめられたとき。
正直、男としてドキドキした。
でも、ミコトを抱きしめているときは違う。俺のベッドに潜り込んできたときもそうだ。少しもドキドキしないけど、それでも愛おしく思う。
こういうことがあるから、本当に俺の娘なのかもと思ってしまうのだ。
「僕は死刑にならないといけないんです。父さんと母さんの仲を邪魔して、僕が生まれて来ないようにしなくちゃいけない。あいつらに殺されるのが癪だってのもあります。でも、まだ生きている犬たちが……僕の家族が殺されるかもしれないんです」
ミコトの大切な家族を戦争の道具として使って、まだ脅しの道具としても使おうとしているのか。ミコトの髪を撫でながら唇を噛んだ。
「僕は、僕を死刑にする。覚悟なんて言葉も浮かばないくらい心は決まってました」
ミコトはいつも淡々と、抑揚のない話し方をする。
「過去に来て、父さんと過ごすまでは」
でも、今のミコトの声は掠れて、震えていた。
「本当にそうなったとき、怖いと言ってしまうかもしれない。嫌だ、消えたくないって言ってしまうかもしれない。いつの間にか、そう思うようになっていたんです」
泣くのを必死に、堪えているようだった。
「それを聞いたら父さんは……まだ僕の父さんじゃない父さんでも。僕が娘だと信じていなくても。過去の……この時代の父さんでも。きっと僕を助けようとするだろうって思ったんです」
――目の前で困っているやつがいるんなら、助けてやるのは当然。
ぎんじいちゃんや近所のじいちゃん、ばあちゃんたちが俺を助けてくれたように。ろくでもない母親の血だけじゃなくて、ぎんじいちゃんたちの想いが今の俺を作っていると証明するために。
俺は〝目の前で困っている人がいたら助ける〟と決めて、いつも行動してきた。
でも、今は違う――。
「だから、父さんの前からいなくなったんです。この邸を監視する方が僕の目的は果たせるって、そう思ったんです」
俺は自嘲気味に笑って、ミコトの背中をぽん、ぽん……と、叩いた。
「お前が、本当に未来の俺の娘かなんてやっぱりわからない。まだ、信じられてない」
「はい、それが普通だと思います」
「でも、もしもお前が消えたりしたら。死んじゃったりしたら。そう思ったら、気が気じゃなかった」
老人ホームに入るため、娘夫婦の車に乗り込むぎんじいちゃんを見送ったときと同じ。これで最後。二度と会えないんだと思った。
ぎんじいちゃんにもらった、大切な馬のぬいぐるみを抱きしめて。
秋穂さんに渡された、しばらくは生活に困らないほどの大金を手にして。
それでも、何もかもを失ったような気持ちになった。
実際、ぎんじいちゃんとは二度と会うことができなかった。
ミコトとは、そうなりたくない。ミコトには消えてほしくない、死んでほしくない――守りたい。
そう、思った。
「だから、目の前で困ってなくても、助けを求めてなくても、お前が望んでなくても。お前が消えたり死んだりしないように、俺は、俺の望みを叶えるために行動する。そう決めたから、俺はこの邸に戻ってきたんだ!」
目の前で困っている人がいるからでも、助けを求められたからでもない。
自分の意志で、自分の望みとして――。
「今度は簡単には追い出せないからな、ミコト」
にやりと笑うと、ミコトが俺の背中に爪を立てた。
「僕はそんなこと、望んでません」
「イデデデ!」
「うるさいですよ、父さん。黙っててください」
「って、言いながらさらにガリガリ爪立ててんじゃねえよ!」
爪を研ぐ猫のように俺の背中をガリガリと引っ掻くミコトの頭をガシリと掴んだ。
「お前が望んでなくても、俺は望んでるんだよ!」
「……っ」
怒鳴りながら引き剥がそうとすると、ミコトがぴたりと引っ掻くのをやめた。ほっと息をついた瞬間――。
「イデデデデデ!!」
ミコトは再び、俺の背中を引っ掻き始めた。さっきよりもさらに乱暴に引っ掻かれて、俺はミコトを引き剥がすのも忘れて悲鳴を上げたのだった。