第三十五話「どれだけ心配したと思ってるの」
藤枝邸の裏口から出て、洋風の庭を真っ直ぐに伸びる白い石畳の道を歩いて行く。
突き当りには大きな広葉樹と目隠し用の植木があって、隠れるように鉄柵と扉がある。その扉をくぐった先、敷地の最も奥にある荒れた裏庭のことを、前に千鶴ちゃんはこう言っていた。
藤枝邸に暮らす人たちの、意識の死角にある庭――。
長年、使われていなくて、扉も植木によって隠されている。茶色いツルに覆われて、長いこと使われていない物置があるだけの荒れた庭。
あるとわかっているはずなのに意識に上らない。そういう場所だから、千鶴ちゃんは一人で過ごすための隠れ場所としてあの荒れた裏庭を選んだ。
そして今回も、夏希ちゃんとノエルと家出するための隠れ場所として選んだのだ。
「灯台下暗し……と、言うのでしょうか。こんなところに居たなんて」
ログハウスにしか見えない物置の入口から中をのぞき込んだ秋穂さんが、ため息混じりに言った。そのため息には安堵が混じっていた。
入口の対角線上に位置する物置のすみっこで、夏希ちゃんと千鶴ちゃん、ノエルは一塊になって眠っていた。どこから持ってきたのか。二人とも寝袋に包まって、真ん中でお座りしているノエルに寄り掛かって眠っている。
ノエルは俺と秋穂さんに気が付くなり、舌を出して満面の笑顔になった。尻尾がさわさわと物置の床をはく音がした。駆け寄ってこないのは、眠っている二人に気を使っているからだろう。
と、――。
「……っくしゅ!」
「バウッ」
千鶴ちゃんがくしゃみをした。ノエルが心配そうな顔で千鶴ちゃんの顔をのぞき込んだ。
「ん……何よ、ノエル。……うぅ、寒っ!」
「バウッ」
ノエルが身じろいで寝袋がズレたらしい。夏希ちゃんは悲鳴をあげると自分の肩を抱きしめた。ノエルは心配そうな顔で、今度は夏希ちゃんの顔をのぞき込んだ。
まだ二月。避暑地のこのあたりは夜になるとぐっと冷え込む。暖房器具も何もない物置きで寝袋とノエルの体温だけでは風邪を引いてしまう。
夏希ちゃんの心臓の病気のこともある。
「夏希ちゃん、千鶴ちゃん!」
秋穂さんが悲鳴混じりに駆け寄ったのも当然だろう。
「お姉さま!」
「秋穂姉さん!」
「バウッ」
夏希ちゃんと千鶴ちゃんは目を丸くして飛び起きた。二人のクッション兼暖房器具代わりを全うしたノエルは、ゆっさゆっさとお尻ごと尻尾を振りながら立ち上がった。
まずは夏希ちゃんと千鶴ちゃんの元に駆け寄る秋穂さんに、すれ違いざまに頭を撫でてもらって満面の笑顔を浮かべ。
「バウッ、バウッ」
「よしよし、ノエル!」
続いて俺の目の前までやってくると元気いっぱいに吠えて、飛び跳ねて。
「……撫でさせろってば」
なかなか撫でさせてくれない。
「バウッ」
俺がため息混じりに言うのを聞いて、ノエルはようやく大人しくなった。撫でろと言わんばかりにおでこを突き出してくるノエルに苦笑いして、くしゃくしゃに撫でまわす。
「トウマさん!」
「戻ってきたのね!」
千鶴ちゃんと夏希ちゃんも駆け寄ってきた。秋穂さんの横を素通りして――。
「学校から帰ってきたら、トウマさんもミコトちゃんも出て行ったって聞いて、びっくりしました」
「戻って来てくれてよかったわ。ミコトも戻って来てるの? ちょっと文句を言ってやらないと……!」
微笑む千鶴ちゃんと目をつり上げて怒る夏希ちゃんをじっと見つめたあと。俺は二人の肩をがしりと掴んだ。
このあと、どうなるかは想像できていた。それでも二人の肩を掴んで、くるりと体の向きを変えさせた。
二人の真後ろで歯を食いしばり、目をつり上げている秋穂さんの方へと――。
乾いた音が響いた。
二回――。
秋穂さんの平手を受けて、夏希ちゃんも千鶴ちゃんも呆然としていた。秋穂さんの行動にノエルも驚いたらしい。吠えもせず、二人と秋穂さんの顔をおろおろと見上げている。
秋穂さんは二人の妹に甘い。とことんまで甘い。そんな秋穂さんに叩かれたことに、夏希ちゃんも、千鶴ちゃんも、ノエルだってびっくりしたはずだ。
俺は黙って秋穂さんの顔を見つめた。唇を噛んで、肩で息をして、涙で目を真っ赤にして、夏希ちゃんと千鶴ちゃんを睨みつけている。
叩かれた二人よりもずっと辛そうな、痛そうな顔をしていた。
怒るのと叱るのとは別物だ。叩くという行為も、そう。
ろくでもない母親に頭を小突きまわされるのは、痛いし、怖いし、嫌だった。
ぎんじいちゃんや近所のじいちゃん、ばあちゃんに頭を叩かれるのも痛いには痛かった。
でも、叩かれた頭よりも、胸の奥の方がきゅっと痛かった。俺以上に辛そうな、痛そうな顔をしているぎんじいちゃんや近所のじいちゃん、ばあちゃんたちの顔を見る方がずっと痛かった。
夏希ちゃんと千鶴ちゃんを叩いた秋穂さんの気持ちも、きっと、ぎんじいちゃんや近所のじいちゃん、ばあちゃんと同じだ。
だから――。
「夏希ちゃんと千鶴ちゃんが誘拐されたりしてないか。夏希ちゃんが発作を起こしたりしてないか。秋穂さんは泣くほど心配してたんだ」
怒りや安堵や罪悪感や、色んな感情でぐちゃぐちゃになって何も言えなくなっている秋穂さんの代わりに、俺は夏希ちゃんと千鶴ちゃんの肩を叩いた。
「俺のことで怒ってくれたのは嬉しいけど、まずは秋穂さんに謝って」
もう一度、二人の肩を叩くと、二人は揃ってうな垂れた。
「ごめんなさい、秋穂姉さん」
「……ごめんなさい」
そう言ったかと思うと、まずは夏希ちゃんが犬のぬいぐるみに顔を埋めて泣き出した。夏希ちゃんにつられたのだろう。唇を噛んでうつむく千鶴ちゃんの目にも涙が滲み始めた。
二人が泣き出したのを見て、秋穂さんはハッと目を見開くと、おろおろとうろたえ始めた。
「ご、ごめんなさい、痛かったわよね! お姉ちゃん、ついカッとなっちゃって……腫れちゃったらどうしましょう! とにかく、戸延先生に診てもらって……」
おろおろとうろたえていた秋穂さんが口をつぐんだのは、夏希ちゃんと千鶴ちゃんに抱きしめられたからだ。
状況を飲み込めていないらしい。目を丸くした秋穂さんは助けを求めるように俺を見つめた。俺は微笑んで、あごでうながした。何も言わなくても、それだけで伝わったらしい。秋穂さんはおずおずと二人の背中に腕をまわした。
小さな夏希ちゃんの背中と、背は高いけれどか細い千鶴ちゃんの背中。二人の背中にそっと触れた秋穂さんは、
「本当に……どれだけ心配したと思ってるの!」
すぐさま強く抱きしめて、頬擦りした。
「みんな、あなたたち二人のことを心配して必死に探してくれてる。こんなに寒くて暗いのに。邸に戻ったら使用人のみんなにも、きちんと謝ってお礼を言うのよ。……わかったわね!」
秋穂さんに叱られて、夏希ちゃんと千鶴ちゃんは泣きながら頷いた。
抱き合う三人を見ているうちに、つられて泣きそうになってきた。
「バウッ」
照れ隠しにノエルを思い切り、くしゃくしゃに撫でまわした。
と、――。
「誰ですか!?」
秋穂さんが鋭い声で叫ぶのと同時に物置の外――庭のどこからかガサッ! と、音がした。ツルを踏ん付けたような音に慌てて顔をあげた。
「ミコト!」
ヘチマ棚だか藤棚に絡まった茶色いツルの影から、白くて短い髪を揺らしてミコトが顔を出した。