第二十九話「少しだけ……信じてみようと思ったのに」
「とっても賑やか」
夏希ちゃんと千鶴ちゃんの声に目を細めていると秋穂さんが囁いた。いつの間に隣にやってきたのだろう。思わず背筋を伸ばした。
藤枝邸の使用人にも、夏希ちゃんや千鶴ちゃんにも近付くなと言われていた。秋穂さんにバレれば良くて住み込みのバイトを失って、藤枝邸から追い出される。悪ければ、せん馬ルート。去勢だ。
千鶴ちゃんが今日のお茶会に秋穂さんも誘いたいと言ったときから覚悟はしていた。覚悟はしていたけど――いざ、審判の時となるとやっぱり怖い!
どうか、せん馬ルートは回避できますように――!
そう心の中で祈っていると、秋穂さんは笑みを含んだため息をついた。
「こんなにも楽しそうにケンカする二人を見れる日が来るなんて思わなかった。私には……できなかった」
自嘲混じりの笑みだ。
「邸のことを取り仕切るのも、妹たちを守るのも、長女である私の役目。そう思ってきたけど……ダメですね。全然、上手くできない」
秋穂さんと千鶴ちゃんはやっぱり姉妹だと思う。
長いまつ毛を伏せて、苦い笑みを浮かべる秋穂さんの表情は千鶴ちゃんにそっくりだった。迷子の子供みたいに頼りなげな表情が、そっくりだった。
「秋穂さん……」
千鶴ちゃんにそうしたように、秋穂さんの頭を撫でようと手を伸ばして――。
「トウマくん!」
「うぎゃ、ひゃい!」
勢いよく顔をあげる秋穂さんに慌てて手を引っ込めた。
あっぶね! 頭なんて撫でようもんなら、せん馬までのカウントが一瞬でゼロになる!
バクバク言ってる心臓を押さえて、不思議そうな顔で首を傾げている秋穂さんにぎこちない笑みを返した。秋穂さんはもう一度、首を傾げたあと、正面を向くと一歩、前に出た。
「妹たちにも、我が家の使用人たちにも、私にも近付かないように。そう忠告しましたが、撤回します」
秋穂さんの動きにあわせて長い髪がさらりと揺れた。動いた空気に乗って穏やかな、陽だまりのような優しい匂いがした。幸せな匂いだ。
「私、トウマくんのことを少しだけ……信じてみようと思います」
俺の前にまわりこんで振り返った秋穂さんが、俺の顔をのぞき込んだ。
「これからもあの子たちと……それから、私とも仲良くしてくださいね。……トウマくん、ミコトちゃん、ありがとう」
後ろ手に組んで、秋穂さんはくしゃりと子供のように無邪気に笑った。さっきとは違う理由で心臓がバクバク言い出す。
俺の動揺になんて気付きもしないで、秋穂さんはくるりと背中を向けた。
「なんだか、やっと……本当の家族になれた気持ち」
にぎやかな食堂を眺めて、秋穂さんは目を細めて微笑んだ。本当に、嬉しそうに――。
俺が知っている家族はろくでもない母親だけだ。ぎんじいちゃんたちの想いで今の俺は作られていると思っているけど、それでも、やっぱり、家族と言われたらあのろくでもない母親なのだ。
だから、家族を作ることも、結婚することも、恋人や好きな相手を作ることも、考えもしなかった。漠然と避けてきた。
ミコトが未来からやってきたということよりも、俺の娘だということの方が信じられなかった。俺が家族なんて、好きな相手なんて……そう思っていたから。
でも、今、秋穂さんの笑顔を見て。秋穂さんが〝本当の家族〟と言った光景を見まわして、心が揺らいだ。
夏希ちゃんと千鶴ちゃんが言い合っていて――。
それを秋穂さんとノエルが見守っていて――。
そんな光景をミコトと並んで見つめている。
そんな今に、ほんの少しだけ、心が揺らいだ。
「でも、節度は守ってください。夏希ちゃんや千鶴ちゃん、使用人たちにひどいことをしたり、泣かすようなことがあったら……あとは言わなくてもわかりますよね?」
「ひゃ、ひゃい……!」
すーっと目を細める秋穂さんに、俺は慌てて背筋を伸ばした。そんな俺を見て、秋穂さんは意地の悪い笑みを浮かべると、テーブルへと足を向けた。足取りが軽い。
「ねえ、秋穂お姉ちゃんも千鶴ちゃんたちが作ったホットケーキを食べたいわ。また今度、お茶会を開いてくれる?」
「もちろんです、秋穂姉さん!」
「やめた方がいいとは言わないけど、覚悟はしておいた方がいいと思うわよ。お姉さま」
微笑み合う三姉妹を見つめて、俺は目を細めた。
「……」
そして、ひっそりと隣にやってきたミコトを見下ろした。細くて小柄な野良猫は、俺の視線に気が付いて顔をあげた。
「やったな、ミコト」
「……そう、ですね」
無事に夏希ちゃんの願いを叶えることができた。秋穂さんも笑ってくれた。最高の気分だ。にひっと歯を見せて笑って、ミコトの白い髪をくしゃりと撫でた。
「トウマ、ミコト! さっさとこっちに来なさいよ!」
「今、行くよ!」
夏希ちゃんに呼ばれて、俺もテーブルへと足を向けた。
ミコトの返事に妙な間があったことを、このときの俺は気にもしていなかった。三姉妹の笑顔とミコトが隣にいることに安心しきっていた。
だから、すっかり忘れていたのだ。
ミコトの目的は、ミコト自身を死刑にすること――。
自分が生まれて来ないように過去を変えること。そのためにミコトの母親だろう三姉妹と俺の仲を邪魔しようとしていること。
全部、すっかり忘れて、俺はのんきにホテルで出てきそうな豪勢なパンケーキを頬張っていた。
思い出したのは翌朝――。
「この写真、覚えがありますね」
執務室みたいな秋穂さんの部屋に呼び出されて、差し出された写真を見た瞬間だった。
大きな執務机に置かれた写真には、天蓋付きのベッドで眠る夏希ちゃんと、覆い被さるようにして四つん這いになっている俺が写っていた。
いつ、撮られた写真か。すぐに思い当たった。
ミコトに騙されて、うっかり朝一で夏希ちゃんの部屋に侵入してしまったときの写真だ。ミコトに蹴飛ばされて、うっかり疑われかねない体勢になってしまったときの写真だ。
でも、夏希ちゃんはたぬき寝入りをしていて、すぐに誤解は解けた。
それに――。
「この写真……削除したはずじゃ……」
夏希ちゃんがミコトからスマホを取り上げて、削除していたはずだ。削除する瞬間を見せつけられて、ミコトは悲し気な声をあげていた。俺もスマホを返してもらったあとで確認した。
「削除したデータを復元するくらい、簡単にできます」
俺の心の中を見透かして、秋穂さんは冷ややかに言った。
「トウマくんには感謝しています。千鶴ちゃんと夏希ちゃんと、昨日みたいにお茶が出来る日が来るなんて……諦めかけていたから。とても嬉しかった」
静かに目を伏せて、分厚い茶封筒を写真の隣に並べた。
「ですから、これは感謝の気持ちです。今日までのお給金と退職金が入っています」
「待ってください、話を……!」
「言ったはずです。節度を守ってください、と。もしものことがあったときには覚悟してください、と」
「で、でも……!」
「言い訳は結構です」
ぴしゃりと俺の言葉を遮ったあと。秋穂さんは俺をじっと見つめて唇を引き結んだ。思わず、つられて俺も唇を引き結んだ。
瞬間――。
「……すぐに荷物をまとめてください」
秋穂さんはため息混じりに言った。
「それと、ミコトちゃんからお借りしていたスマホをお返しします」
執務机にすっとスマホを置いた。俺のスマホだ。
「ミコト、が……」
誰が、秋穂さんに俺のスマホを渡したのか。スマホに削除された画像があると教えたのか。
薄々、わかっていた。それでも俺は、呆然とスマホを見つめた。
「ミコトちゃんとは兄妹だと聞いていましたが……まさか恋人同士だったなんて。戸籍を調べておかしいとは思っていましたが。それなのに、夏希ちゃんにこんなこと……」
ミコトのやつはスマホの写真だけじゃなく、とんでもない嘘までついたようだ。お父さんの女好きに散々、苦労して、嫌悪してきた秋穂さんの逆鱗に触れるには十分過ぎる。
例え、それが誤解と嘘だったとしても――。
「少しだけ……信じてみようと思ったのに」
そう言って、秋穂さんは俺に背中を向けた。
「……残念です」
秋穂さんの動きにあわせて長い髪がさらりと揺れた。動いた空気に乗って穏やかな、陽だまりのような優しい匂いがして――あっと思う間に消えた。