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二幸(ふゆき)

作者: daru

 目が覚めると教室にいた。窓際の一番後ろの席から、誰もいない教室を見渡す。1年3組、自分の教室の自分の席だ。

 なぜ学校なんかに?その疑問よりも気になるのは、恐ろしく静かなこと。外は昼間だ。それなのに、教室には誰もいない。休日だったとしても、部活動が盛んな私の通う中学校には、人がいない日など無いはずだった。


 とにかく学校にはいたくない。そう思って帰ろうとすれば、自分の鞄が無いことに気づく。普通なら紺色のリュック型の学校指定バッグが机の横にかかっているはずだ。ロッカーだろうか。


 私はロッカーを見ようと席を立ち、そういえば、と自分を服装を確認した。白いブラウスに紺無地のジャケット、同じく紺無地スカート。制服だ。着替えた記憶はないが、部屋着じゃなくて良かった。耳にかかる程度のショートヘアを撫でる。


 ロッカーは廊下にある。入学したばかりの時、男子が「廊下にあるロッカー」なんてダジャレを言って、何も面白くないのに仲間内でゲラゲラ笑っている様子を見て、男子って精神年齢が低い、と思った。

 ともかくロッカーを見る為に廊下に出ると、そこにもやっぱり誰もいなくて、夜の病院とまでは言わないが、無人の学校というのもずいぶん不気味だった。

 自分のロッカーは出席番号と同じ5番だ。白いキューブが積み重ねられたようなロッカーの、右から2列目の1番上。そこを開けると、鞄どころか私物は一切入って無い。白い空っぽの空間は、私の心を表しているようだ。

 静かにロッカーを閉じる。


 帰ろう。どうしてこんなところにいるのか分からないが、誰かに見つかる前に帰りたい。そもそも、誰もいないということは、何かしらの理由で入ってはいけない日だった可能性もある。

 私は足早に昇降口に向かった。


 1年生の教室は1階だ。教室に背を向けて右手に進み、向い合う学生ホールと1組の教室を通りすぎたところを左に曲がって真っ直ぐ進むと、すぐ昇降口にたどり着く。

 ずらりと並んだ下駄箱の自分の場所を見ると、今度は外靴が無い。私はどうやってここに来たのだろうか。それとも、また嫌がらせか。


 怖くなった私は、上履きのまま扉の所へ駆け寄り、立派な両開きのガラス扉の取っ手を押した。が、開かない。鍵がかかってるのかと思いガラス扉の下部にある円形の鍵のつまみに手を伸ばしたが、回らない。

 半ばパニックになった私は、扉の取っ手を押したり引いたりガタガタと揺らしてみるが、ガラス扉はびくともしなかった。


「開かないみたいだね。」


 突然背後から聞こえた声に、心臓をギュッと掴まれた。ガラス扉に背を預けるように振り返り、辺りを見渡すが、誰もいない。


「…誰?」


 決して大きい声ではなかったが、2階まで吹き抜けの作りになっている昇降口に、その空間の広さのせいか、それとも静けさのせいか、私の声がやたらと響いた。

 ドクドクと全身の血が全速力で駆け巡る。


「ばぁ!」


 突然、正面の下駄箱の後ろから男子の顔が現れた。少し肩がすくみあがったものの、身体を隠した姿勢のせいで斜めった顔と、気の抜けた声のおかげでさっき程驚きはしなかった。

 私がリアクションを取れずにしばし沈黙の間が空いたが、彼は特に気にならないようで、にこにこと人懐っこい笑顔を浮かべて歩み寄ってきた。

 制服の学ランを着ている。知らない男子生徒だ。先輩だろうか。すっきりとした目鼻立ちに、清潔感ある短髪姿はどちらかというと知的な印象を受ける。


「ねぇ、びっくりした?」


「…まぁ。」


 人、いたのか。まずそのことに安堵した。


「出られないみたいだし、せっかくだから校内の案内してよ。」


「案内?…あ、転校生とかです?」


「んー…まぁ、そんなトコ。」


 そんなトコ?転校生に類似するものなんてあるだろうか。転校生は転校生だろう。それとも、そう言われるのが嫌なのだろうか。

 しかし、この状況でずいぶん呑気なものだ。


「だからほら、まずは教室に行こう、二幸。」


 そう言ってその男子生徒は私の手を取った。自然に繋がれた手を見ると、暖かい気持ちになった。どこか懐かしいような温もりに、私は抵抗せず、黙って流れに身を任せた。


 先ほど速足で歩いた廊下を逆戻りして、再び教室へと向かう。先輩じゃないのかな。


「あなたの名前は?」


「友って呼んで。」


 キョロキョロ見渡しながら歩く友はなんだか楽しそうだ。


「ねぇ、どうして私の名前を」


知っていたの?と言い終わる前に、おっ!、と友の声に遮られた。


「ここだよね、1年3組。」


 嬉しそうににこにこ笑う友。

 ロッカーと柱であろう出っ張った壁の間に、教室へと繋がる白い引き戸が立ちはだかる。私はこの教室が大嫌いになった。




 思い出されるのは、アレが始まってからの、ある日の記憶。


 いつも通り登校してきた私は、引き戸を開けて教室に入った。その途端、顔に衝撃を受けたかと思うと、頭から水が滴っていた。小さな水たまりができた床に、緑色のごみが落ちている。それを見てようやく何が起こったか理解できた。

 水風船を投げられたのだ。


「あれー?二幸のとこだけ雨降ってるー!」


「ちゃんと拭いときなねー。あははは!」


 愉快そうに笑う3人の女子生徒。私に水風船を投げたであろう真ん中の女の子、冴凪は、一緒にバスケットボール部に入った小学校からの友達だった。


 高らかに笑う彼女たちに、私は何も言い返せなかった。恐怖心ではない。確かに嫌がらせがエスカレートするのは嫌だったが、それよりも、冴凪に対して少なからず罪悪感があったのだ。




「…二幸?二幸、大丈夫?」


 私を呼ぶ友の声にはっとする。友が私の肩を軽く揺らしていた。嫌な事を思い出してぼんやりしてしまったようだ。


「あ…うん、大丈夫。」


 とはいえ、教室に入るのは気が進まない。


「…ねぇ、私じゃなくて、友のクラスに行かない?」


 そう提案すると、友は困ったように首を触った。


「んー…俺も1年3組だから。」


「えっ。」


 友は遠慮なく白い引き戸を開けて、1年3組の教室に入った。


 教室の後ろから入室した友は、そのままずかずかと進み、私の席を指差した。


「二幸は窓際の1番後ろでしょ。俺はその隣。」


 今度は私の隣席を指差す。

 私の隣に転校生とは聞いていなかった。それもそのはずだ。


「そーなんだ。…その…私…あんまり学校来てなくて…。」


 今となっては、あんまりではなく、全くだ。そんな小さな強がりも友の言葉で無意味になった。


「知ってる。」


 ドキリと心臓が跳ねて、友を見ると、相変わらずにこにこ優しく笑っていた。

 私が不登校生だなんて、知っていて当たり前だ。隣の席なのだから。私は恥ずかしくて顔が熱くなった。顔を上げられない。不登校だということも、少しばかり強がりを言ったことも、急いで帰ろうとしていたことも、なにもかもが恥ずかしく、消えてしまいたかった。


 そんな私に気がつかないのか、友は声を弾ませる。


「そうだ!ちょっと席についてよ二幸!」


 そう言って私の席の椅子を引く友に、私は少し困惑した。


「いーから、いーから。」


 半ば強引に座らせられると、友は教室の前の方へ駆けていった。


「教師ってやってみたかったんだよねー!」


 教師?つまり今から教師ごっこをやると。誰もいない校舎から出られない異常事態だというのに、呑気な人だとは思っていたが、その無邪気さにどうにも毒を抜かれる。


 友はノリノリで教団の前に立ち、バン!と大きな音を立てて左手を教団に置いた。


「よーしお前ら、席つけー!おら、もたもたすんな!」


 威張り腐った教師だな。


「日直!」


 日直?1人2役するのだろうか。様子を窺っていると、じっ、と友からも視線を送られてきた。あぁ、私か。


「起立。礼。着席。」


 正直、面倒くさいと思ったが、にこにこと楽しそうにする友を見ると、文句を言う気にはなれなかった。


「よーっし、HR始めまーす!」


 腰に手を当ててふんぞり返っている教師役の動きが、ぴたりと止まった。何を言うのか待っていると、友のにこにこ笑顔が、突然消え去った。


「HRって何するの?」


 驚愕の事実。私も知らない。もちろんいつも存在する時間で、教室に貼ってある時間割の日々の先頭にも、しっかりその文字は印字されている。しかし、何をやっていたかあまり覚えていない。なんとなく過ぎ去っている時間、それがHRだ。そもそもHRってなんなのだろう。学校生活を送っていて、初めてそんな疑問が浮かんだ。

 気になって調べようとスマホを出そうと思ったが、持っていない事に気が付いた。そうだ、鞄が無いのだった。


「とりあえず、出欠取ったり…かな?」


 友は、なるほど!と開いた右手の平に左の拳を乗せた。所作が古い。


「ゴホン。じゃあ、榎宮二幸。」


「…はい。」


 はい、出欠終わり。もー、と口をとがらせる友。


「なんかないー?連絡事項とかさー、なんでもいいから何か言ってー。」


 もう終わりでいいのでは?そうはっきり物を言える性格だったら良かった。


「じゃ、じゃあ、理科係から連絡あります。」


「お!二幸、どうぞ!」


「…今日の理科の授業の後、ノート提出があるので、私までお願いします。」


 恥ずかしさで顔が引きつる。教室には2人しかいないのに、中学生になってまで、ごっこ遊びとは。

 しかし、友が満足気に「みんな聞いたなー!」なんて言っているから、やった甲斐があったと自分を励ますことができた。友が嬉しそうにしていると、私まで嬉しくなるのはなぜだろう。


「はい、HR終わりー。」


 一安心したのも束の間。


「次はー、よし、せっかくだから理科にしよう!」


 まだやるんだ。恐らく呆れ顔を隠せていないだろう私の手を、友はぐいぐいと引っ張る。移動教室、移動教室!と遠慮がない。

 初対面の相手にこんなに強引なのは、友の性格なのか。それとも、どこかで会ったことがあるのだろうか。そういえば私の名前も知っていた。いや、同じクラスなら名前くらい知っていて当然か。では顔は?顔を知らないのに名前を言い当てるなんてできるはずがない。そうなると、やはりどこかで?


 2階にある理科室へ行くには、昇降口の横にある階段を通る。その階段を上る手前で、友の足が止まった。手を引かれていた私も必然的にそうなる。


「グリコしよう!」


 勢いよくふり返った友の目が輝いていた。


「…え。」


「あの、ジャンケンして買った方が、グーだったらグ・リ・コって3文字分階段を登れるやつ。チョキだったら、チ・ヨ・コ・レ・イ・トって。」


 うん、知ってる。パーなら、パ・イ・ナ・ツ・プ・ルだよね。もちろんやったことはある。小学生の時に。しかも、わざわざ学校の遊び時間でやったことはない。ミニバス(小学生対象のバスケットボール競技)の大会や練習試合の合間に、暇つぶしに遊ぶくらいだった。

 正直、中学生になってまでやりたくない。その思いとは裏腹に、NOとはっきり言えない性格が、勝手に表情筋を操り笑顔を作らせた。


 みごと勝利を収めたのは、友だった。チ・ヨ・コ・レ・イ・トで逆転勝利をつかみ取った友が、チョキのままの両手を上げて喜ぶ。

 ようやく終わった、と心の中でため息をつきながら、友の計算の無い無邪気な言動に、どこか救われていた。


 友はずいぶん馴れ馴れしくて、中1の私から見ても子供っぽい。でもきっと、冴凪のように影で悪口を広めたり、卑怯な嫌がらせなんかしない人だ。

 そう考えては、冴凪を悪く思う自分自身にも嫌悪感が募った。自分の思考が雨となり、溜まっていく水がじりじりと重くなっていく。そこに傘など存在しないのだ。




 出入り口は教室の前後に2か所あり、私たちが来た方からだと後ろの入り口が近い。ガラッと白い引き戸を開けると、なんだか懐かしいな、と思ってしまった。私が学校に行かなくなって1ヶ月とちょっとしか経っていなかったが、理科係だった私には、なんとなく他の教室より馴染み深かった。


 廊下側の壁にはガラス戸の棚が並び、その中には理科室でおなじみの半身人体模型もいる。この人体模型のことを、勝手に担任の先生の名前で呼んでいた。理科室特有の広い教壇では、授業後に全員分のノートやプリントを回収するまでだらだら待っていたりもした。そういう時、冴凪も必ず一緒に待ってくれていた。

 あの頃は本当に楽しかった。こんなことになるなんて、誰が予想できただろう。


 干渉に浸る私を置いて、おお!ともの珍しそうにあちこち理科室を見て回る友。理科室には来たことが無かったのだろうか。理科は必ずしも移動教室というわけでは無かったから、そうだとしても不思議ではない。


「んー理科室に来たはいいけど、何しよっか?」


「やっぱり、決まってなかったんだね。」


「実験しよう!実験!」


「えぇ?!だめだよ!怒られちゃうよ?」


 何をするにしても、何かしらの器具を勝手に使うことになる。ダメに決まってる。


「大丈夫だよ。誰もいないじゃん。」


 そうだった。今、現在進行形で困った状況にいたことをすっかり忘れていた。友の呑気に充てられていた。私たち、こんなことをしている場合じゃないのでは。


「ねぇ、誰かいないか探した方がよくない?」


「…誰もいないよ。二幸と会う前にあちこち見たけど、二幸以外誰もいなかったよ。」


「…私、実は、学校に来た記憶が無いの。家にいたと思うんだけど…。友は?」


「似たようなもんかな。いつの間にかここにいたんだ。」


「そう…。」


 得体の知れない恐怖は感じたが、誰もいないということに安堵している自分もいた。不思議な状況ではあるが、学校で嫌がらせを受けていた時に比べると、いくらかましにさえ思える。友がいるのも大きいかもしれない。


「だからさ、まずこの状況を堪能しようって。分からないこと考えても無駄だしさ。」


 まぁ、それもそうだ。堪能するしないは置いておいて、外に出られない、他に誰もいない、解決策もないこの状況では、やることも特にない。

 それならば友のように、少しのんびり構えた方が楽かもしれない。


「二幸、教科書持ってない?教室にあったりする?」


 私は首を横に振った。


「教科書も資料集も、私物は学校に置いてない。」


 嫌がらせの対象になるから、というのは省略しておく。


「でも、理科準備室にあるはず。」


 理科室で授業をする時に、教科書を忘れた人はその棚から借りていた。


 私は窓側の黒板横にある白いドアの丸いノブを回して、少し驚いた。鍵、かかってないんだ。いつもは先生がいる時しか開いていないのに。

 そのままドアを押し開け、すぐ右の本棚から1年生の教科書を抜き取り、友に渡す。また、おお!と感嘆の声を上げていた。


 理科準備室に近いテーブル、窓際の1番前の席に着き、友はパラパラと教科書を捲った。勉強が好きなのか、それともこの教科が好きなのか、まるで流行のファッション雑誌でも読んでいるかのように目を輝かせていた。男子がファッション雑誌を読んでいるところなんて、見たことがないけれど。


 パラパラ早送りをしたり、戻ったり。そんな事をしていると、友があるページで教科書を置き、指差した。


「これやりたい!」


 首を伸ばして見てみると、アンモニアの噴水実験の図解。これは…無理なのでは。

 この実験は、前にやったことがあった。レポートの提出もあったし、なにより印象的だったからよく覚えている。楽しかったからもう1度見てみたい、とは思った。器具は壁側のガラス戸の棚から揃えられるし、理科係の特権で実験の下準備も手伝ったので、必要な薬剤の在処も分かる。とはいえ、やはり薬品を勝手に使うのは少々、いやだいぶ恐れ多い。


 キラキラした瞳を向けてくる友に、抵抗するのは至難の業だった。


「だ…めだよ…さすがに、化学薬品は…。本当に怒られるよ。」


 友は私の言葉をするりと躱し棚に駆け寄る。そうだ、棚のガラス戸にも鍵がかかっていたはず。そんな思いはガラッという音に打ち砕かれた。先生、鍵ちゃんと閉めてください。職務怠慢ですよ。


「これだよね!」


 持ってきた器具を教科書と見比べて、うんうんと嬉しそうに頷きながら、教科書を参考にセットし始める。丸底フラスコに真っ直ぐなガラス管とL字型のガラス管、2本が通ったゴム栓をし、それを逆さに固定して…。


「待って、フラスコにアンモニアを入れないと。」


 しまった。つい、助言を。

 友は目をぱちくりさせたあと、教科書の図解に視線を落とす。


「…アンモニア(気体)。ふ…二幸、これはどうやって…?」


「上方置換で集めるの…。」


 縋るように見つめてくる友に、巻き込まないで、とは言えず、教科書内の答えが載っている場所に指を置いた。

 アンモニアを発生させるには、塩化アンモニウムと水酸化カルシウムを混ぜて熱を加える必要がある。その部分を熟読した友が、先ほどを同じ視線を送ってきた。


「ふゆきぃ…。」


 私に用意をしろというの?!できないことはない。1度授業で見たし、教科書にも詳しく書いてあるし。でも、だからって!


 NOと言えない私が返答に困っていると、そこでふと疑問が浮かんだ。友は転校生だと言っていたが、前の学校ではやらなかったのだろうか。学校による進み具合の差か。それとも前の学校では実験を省略して、ひたすら講義をやっていたのだろうか。


「わかった…二幸に迷惑はかけたくないし、自分で探してみる!」


 友が左の拳を握り立ち上がったかと思うと、言うが早いか、今度は準備室へ駆けて行った。落ち着きがない。

 なんだか無知な友があれこれ触るのも心配で、私も足を運ぶことにした。


 友は、あれでもない、これでもない、と準備室の棚の中を漁って、1つずつ薬品名を確認していく。ときおり、あれ、名前なんだっけ?と教科書を確認しに戻る姿が、正解を知っている私には可笑しかった。

 くすくす笑っていると、もー手伝ってよー、と口を尖らせる友と目が合った。


「ねぇ、本当にやるの?」


 なかなか諦めない友に声をかけると、やるよ、と軽い声が帰ってくる。この性格は、呑気というより、怖いもの知らずという方が合っているのかもしれない。


「なんでそこまでこだわるの?他の事した方がいいよ。怒られないこと。」


 私がそう言うと、ようやく友の手が止まった。一度私を見つめて、視線を薬品棚に戻す。


「これがいいんだよ。こんなこと、今しかできないじゃん?」


「この実験じゃなきゃダメなの?」


「…楽しいことをしたいんだよ。二幸と。」


 ドキッとした。なんだろう、また、懐かしいような不思議な感覚。


 友はもしかして自分の好奇心を埋めるだけじゃなくて、私も楽しめるような実験を選んでくれたのかもしれない。そういえば、学校で笑ったのなんて久しぶりだ。私も、友と楽しいことをしたい。

 私は覚悟を決めて、友がいる近くの棚からフェノールフタレイン溶液を、反対側の棚から塩化アンモニウムと水酸化カルシウムを手に取った。そして友にじとっと湿った目で見られる。


「知ってたなんて、意地悪だな。」


「…ごめん。」


 素直に謝れば、すぐ二カッと笑顔に戻った。友の笑顔は、心に雨雲がかかる私にすら眩しく感じる。


 理科室に戻った私たちは、残りの必要器具を揃え、再び席に着いた。

 友が開いた両手の甲を見せ、実験を始めます、と言う。それは手術の時にやるやつだと思ったが、楽しそうに成りきっているので水は差さないでおいた。


 教科書を見ながら、試験管に塩化アンモニウムと水酸化カルシウムを混ぜ入れ、穴の開いたゴム栓をする。丸底フラスコから伸びたL字のガラス管の先を試験管のゴム栓に差し込み、試験管は口をやや下に傾けた横向きの姿勢で固定器具で固定した。試験管にアルコールランプで熱を入れれば、アンモニアが発生するはずだ。着火役は友だった。


「点火!」


 火を付けるだけでも楽しそうだ。友はいそいそと今度はピンセットを手に取り、濡れたリトマス紙を丸底フラスコの口付近に待機させた。


 実は私もわくわくしている。先生たちにバレて怒られるかもしれないという恐怖よりも、友と2人で実験を成功させた時に感じるであろう喜びが勝ってしまった。悪いことをする人は、この高揚感に抗えないのかもしれない。

 もしかしたら冴凪も、私への嫌がらせをすることで何かしらの高揚感を感じていて、本当はあんなことしたくないのに、ふよふよと心臓が頭の上まで浮かび上がって、花火のように弾けるようなこのアドレナリンに支配されているのかもしれない。そう考えて、苦笑した。


「どうかした、二幸?」


「ううん、なんでもない。」


 そうなわけがない。冴凪が私に嫌がらせをするのは、単に私が邪魔だからだ。私がいなければ、冴凪があんなふうになることは無かったはずだ。私さえいなければ。


 丸底フラスコを眺めても、一見様子は何も変わらない。それでも、中には少しずつアンモニアが溜まっているはずで、そんな様子をぼーっと眺める。


 小学校3年生からずっと同じクラスで、冴凪に誘われてミニバスチームにも入り、中学まで同じクラスになって、運命的な大親友だと思っていた。大好きだった。だから、


「ずっと嫌いだった!二幸がいると、私は惨めになる!」


そう言われた時は本当にショックだった。私が冴凪を傷つけていたなんて、考えもしなかったから。謝れば謝るほど、冴凪の視線は鋭くなった。


 この丸底フラスコのように、見えない何かが冴凪の心に溜まっていたのかもしれない。私もリトマス紙を持っていれば、その変化に気づけたのだろうか。今となっては何もかも手遅れだ。


「あっ!」


 友の持っていた赤いリトマス紙の色が青に変わった。どうやらうまく気体が溜まったようだ。私と友は目を合わせて頷いた。

 丸底フラスコのゴム栓を、最初に取り付けたガラス管が通ったゴム栓に付け替え、下に伸びるガラス管をビーカーに入れたフェノールフタレイン溶液入りの水に浸かるように入れる。最後に先がL字に曲がった水入りのスポイトをゴム栓のもう1つの穴に通せば、準備完了だ。いよいよショータイムが始まる。


「行くよ。」


 友はスポイトに指を当て、相変わらず輝かせた瞳でちらりとこちらを向く。


「おーけー。」


 にやりと笑って頷けば、スポイトからピュッと水がフラスコ内に放たれた。その途端、真っ直ぐなガラス管がびーかーの水を勢いよく吸い込み、フラスコ内に噴射する。フラスコに入った水はアンモニアに反応して赤くなり、みるみる中に溜まっていった。


「おぉー!すっげー!大成功!」


 あっという間に終わってしまうその実験をみて、友は拍手をしてはしゃぎ、私はというと、一気に赤く変色した水を見てぞっとした。

 スポイトから放たれたちょっとした変化で、フラスコ内は全く別の姿に変わってしまった。赤い色の水が溜まる様子は、冴凪の怒りを表しているようだった。


「二幸、大丈夫?なんかぼーっとすること多いよね。」


「えっ、ごめん、大丈夫。」


 本気で私の事を心配しているのか、友はうーんと左拳を顎に当てて、考える仕草をみせてから、私の手を引いた。なんだかデジャブ。


「次は社会です!」


 まだやるの?!そこに驚いたが、強引に引っ張られて、自然と足が動く。


「ちょっ、片付けないと!」


 そう訴えると、友は止まって、先ほどまで感動していた実験器具たちに目を向けた。


「大丈夫だよ。」


 なぜそんなに軽く言えるのか。ちゃんと、だめだと反対しようとしたら、行くよ、とまたまた強引に、今度は走り出す。


「犯行現場は素早く去るのみ!」


 証拠隠滅も大事だと思います!という私の異議は、友の笑い声に却下された。


 社会と言うから何をするのかと思ったら、3階の社会科教室でひたすら黒板に落書きをするだけだった。社会科教室にあった資料集を見ながら、土偶を描いたり刀を描いたり。

 織田信長の顔を描いている時は、顎を小文字のeを逆さにしたような形にしゃくれさせてて、吹出した。


 案の定それだけでは終わらず、気が済むまで落書きしたあとは、音楽だ!と叫んで2階の音楽室に行き、友はタンバリンを片手に真剣な表情で、見たこともない踊りを踊っていた。果たしてそれは音楽でしょうか?とはつっこまなかった。


 それが終わると、今度は英語だ!と教室に戻ってくる羽目に。


「リピートアフターミー。ファックユー!!!」


「…ふ…ファックユー。」


「ソノバビッチ!!!」


「…先生、言葉遣いが悪いです。」


「リピート!アフター!ミー!」


 途中から、教室のどこにも時計が無い事に気が付き、お腹も空かず、時間の感覚は完全にマヒしていた。それでも友と一緒にいるのが楽しくて、少しずつ何もかもどうでもよくなっていった。

 このまま、この誰もいない学校で友と遊んでいられたら。そんなバカげたことまで考えた。




 今は体育館にいる。制服のまま、用具室からバスケットボールを取り出し、2人で走り回った後、フリースローがしたいという友にシュートの指導をしていた。左利きの友に教えるのは少し苦労したが、変な癖が無い分すんなりと綺麗なシュートフォームを身につけた。

 ゴール前の円の真ん中の線を踏まないように、練習通りのフォームでボールを放ると、綺麗にバックスピンがかかったボールが、弧を描いてリングに吸い込まれていく。スパッ、とボールがリングに当たらずにネットを通る音が鳴ると、友はガッツポーズでイエス!と叫んだ。


「ナイッシュー!」


 ハイタッチを交わすと、友はそのまま円の中で仰向けに寝っころがった。やりきった感を出す友を見ると、教えた私まで達成感を感じて、嬉しくなる。


「はぁー疲れたぁー。」


「友、いっぱい走ったもんね。」


「二幸がバスケ上手いんだもん!」


 あはは、と笑いながら私はシュートを打つ。ボールはバックボードに当たってリングを通る。跳ね返るボールを追って、その場からまたシュート。こういうの、久しぶりだ。


「でも、すげー楽しかった!二幸は?」


 ダム、ダム、と突いてたボールを手に取る。


「すっごく楽しかった!」


 友といると、自然体でいられる。いつの間にか笑顔が引き出される、不思議な男の子。


「バスケは、もうやらないの?」


 声のトーンから、今遊んでやっているバスケのことではないと分かる。

 友は、私がバスケ部であることを知っていたのだろうか。私のめちゃくちゃになってしまった交友関係を。崩壊した学校生活を。


「教えて。」


 友が私の心を読んだかのように言うので驚いた。


 誰かに聞いてほしくて、両親に相談するべきか悩んで、それでも黒い煙のようなもやもやが体の周りを渦巻いて、いつも私の口を覆った。その煙は恥なのか、それとも意地なのか、自分でもよく分からない。でも、どうしてか友には、友にだけは素直に話せるような気がして、私は口を開いた。


「どうしたらいいのか、わからなくて…。」






 * * * 


 4月、中学校に入学した私はクラス分けを見て歓喜した。小学校でも同じクラスだった、仲良しの冴凪と一緒だったからだ。冴凪も同じで、喜んでいると思っていた。

 部活動も冴凪と一緒に決めた。他には見学に行かず、小学校からやっていたバスケットボール部に真っ直ぐ向かって、即、入部届を出した。


 6月に行われる中総体では、1年生で唯一ユニフォームを貰い、試合の出番こそあまりなかったが、冴凪はすごいすごいとはしゃいでくれたので、私はなんだか誇らしくなった。


 そして、その中総体の男子の応援をしている時、冴凪は恋をした。私が知る限り、初恋だった。藤堂先輩。2年生ながら、3年生に混じり得点を重ねるエースだった。ドライブ(ドリブルをしながらゴールに向かうこと)が速く、見るからに3年生の信頼も厚そうで、私から見ても頼もしい先輩だと感じた。うっとりと眺めてはきゃあきゃあと騒ぐ冴凪がとても新鮮で、可愛いかった。


 藤堂先輩が体育館で遊んでる!藤堂先輩がこのマンガが好きって話してた!藤堂先輩と目が合った!藤堂先輩の話を毎日幸せそうに報告してくる冴凪は、声かけなよ、と私が言うだけで顔を赤くした。心から、2人がうまくいきますようにと両想いになることを願っていた。


 部活漬けの夏休みが終わると、10月には2年生が主力となる新人戦が始まる。3年生が抜けた為、1年生もほとんどベンチ入りして、私はスタメンの1人としてチームに貢献した。今考えると、同じポジションの冴凪には、これも面白くなかったのだろうと思う。

 しかし、冴凪の変化の1番の決め手となったのは、やはり大会の試合後の出来事だ。


 大会会場から1度学校に帰ってきて、片付けやらミーティングやらを終えて、ようやく解散となった時、体育館用の出入口に藤堂先輩がいた。


「榎宮、ちょっといい?」


 どうやら男子バスケ部は先に解散して、先輩は私のことを待っていたらしい。私も隣にいた冴凪もキョトンと先輩を見つめていると、2人で、と言うので、冴凪は自転車置き場にいるね、と先に行ってしまった。


 この時、恋をまだしたことのなかった私は、先輩の話の内容なんて全く想像できない、馬鹿で鈍い愚か者だった。


「惜しかったな、2試合目。」


「男子は県大会出場ですね。おめでとうございます。」


「県大会応援に来る?」


「部活がなければ、冴凪と行くと思います。」


「あぁ、いつも一緒の。」


「はい!冴凪は優しくて、女子力高くて、かわいいんですよ!」


 いつも声をかけられずにいる冴凪に代わって、冴凪の良いところを売り込んだつもりだったのに、藤堂先輩はあははと笑って、予想外の爆弾を投下した。


「榎宮も…その…かわいいよ。」


 デクレッシェンドで投下された言葉爆弾で、私の口はガラガラと瓦礫に埋もれてしまった。


「あのさ、いきなりだってのは自分でも分かってるけど、俺と…付き合ってくれませんか。」


 瓦礫の撤去で忙しく、声を出せないでいると、藤堂先輩の顔がどんどん赤くなった。火が出るようなって、こういう表情の比喩なのかな、と頭が別のことを考えようとする。


「あのっ、俺も最初はラインからー、とか少し仲良くなってからー、とか思ったんだけど!でも榎宮いつも友達と一緒にいるし…なかなか、声、かけらんなくて…。」


 いつも冴凪と一緒に眺めていた時と全然違う顔をする藤堂先輩に、少なからず私も心を揺さぶられた。誠実そう、と素直に思った。藤堂先輩に告白されたら、大抵の女子は宙に舞うほど喜ぶのだろう。でも、私はだめだ。馬鹿で鈍い愚か者にも、これがよくない状況だということは分かった。


「俺、榎宮のこと…好きなんだ。」


「ご、ごめん…なさい。」


 その言葉を置き去りにして、私は逃げた。背中から榎宮!と呼ばれたが、私は振り向かずに自転車置き場に向かった。先輩も追いかけては来なかった。


 屋根付きで、学年分の3例ある自転車置き場には、冴凪しかいなかった。体育館出入口から校舎の前を横切って自転車置き場まで全速力で走ってきた私は息を切らしていて、もしかしたら顔も歪んでいたのかもしれない。


「ちょっ、二幸、どうしたの?!」


 心配そうに冴凪が駆け寄ってきた。冴凪の顔を見ると、今起こったことなんてとても言えなくて、言葉の代わりに涙が溢れ出た。泣いている場合じゃないし、泣いていい立場でもない。でも頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいのか分からなかった。ただ、ごめんねと、口には出せない冴凪への言葉を頭の中でひたすら繰り返した。


 翌日の月曜日は学校をずる休みした。泣き腫らした顔も酷かったし、まだ冴凪にも藤堂先輩にも会う心の準備が出来てなかった。でも、どんなに腫れた顔でも、行くべきだったのかもしれない。

 その日の内にラインが来た。


[藤堂です]


[体調不良って聞いたけど、大丈夫?]


 どうして先輩が私のラインを知っているのだろう?その疑問は、別のトークルームで解消された。


[藤堂先輩に聞かれてライン教えておいたよ]


[昨日告られたんだってね]


[なんで私に黙ってたの?]


 冴凪と2人だけのトークルームだ。いつもかわいい絵文字や変な顔文字がついてるのに、飾りの無い文章に冴凪の怒りをひしひしと感じた。

 私は先輩のラインには返事をせず、冷たくなっていく指先で、急いで冴凪へ謝罪の言葉を打ち込んだ。


[ごめん!冴凪の気持ち知ってるから言えなかった!本当にごめん…]


[ちゃんと断ったよ]


 私も誠意を見せる為に、飾らずに送る。

 すると、返信は思いもよらない方向から私の心を刺してきた。


[は?ちゃんとって何?私断って欲しいなんてお願いした?]


 お願いされたわけではない。でも、なんとなく、そういうルールがあるのだと思っていた。『友達』というルールブックに、ルールその1、同じ人を好きにならない、という具合に。もちろんそんなルールブックは存在しない。私が思い込んでいた無言ルールに他ならない。


 なんと返せばいいか迷っていると、返信を待たずにスマホが立て続けに震える。


[私に譲ってあげたとか思ってんの?]


[ポジションも取っちゃったし彼氏はどうぞって?]


[いつもそうだよね二幸って

にこにこ笑顔振りまいて自分は優しい人アピールして]


[善人ヅラうざ]


 大好きな冴凪から届く辛辣な文字列に、私は打ちのめされた。

 そして、とどめを刺したのはラインのシステムだった。


[冴凪が退出しました]




 次の日から、冴凪は口をきいてくれなくなった。謝りたくても、声をかけた瞬間に誰かに話しかけたり、その場から立ち去ったり。部活では必要最低限の言葉は交わすが、それだけだ。弁解を聞いてはもらえなかった。


 そのうち、だんだんと女子の間で私の悪いうわさが立つようになり、クラスメイトからも、部活の先輩たちからも疎まれる存在になった。そして、冴凪を中心とする女子グループ、私もかつて仲良く話をしていた子たちからの嫌がらせが始まったのだ。


 最初は課題の提出が自分の分だけ抜かれたり、私物を隠されたりとみみっちいものだったが、次第にエスカレートしてきて、鞄や靴がゴミ箱に捨てられていたり、水風船を投げられたり、日に日に陰湿さが増していった。それでも耐えた。トイレの個室に入っている時に上から水をかけられたことも、筆箱にカッターの刃を入れられていて、そうと知らずに指を切った時も、非があるのは私だと思っていたから耐えるしかなかった。

 クラスでの持ち物点検の時にエロ本を鞄に入れられていた時は、男子にまでからかわれ、あまりの恥ずかしさに涙を我慢できなかった。


「どうしてこんなことするの?!」


 放課後、部活前、この時私はもう部活には行っていなかったが、教室で冴凪が1人になったタイミングを見て、私は冴凪に訴えた。すると、冴凪は表情1つ崩さず答えた。


「二幸って、見てていらつくから。」


「前は仲良かったじゃん!藤堂先輩のことならちゃんと謝ったでしょ!」


 そう言ってようやく顔を歪ませた冴凪は、私を後ろに強く突き飛ばした。机に背中をぶつけた私は痛みで涙が流れた。


「は?冗談言わないでよ。二幸が勝手に私についてきてただけでしょ。」


 私のことなど気にせず、冴凪は続ける。


「冴凪冴凪ってくっついてきて、なんでも私よりできるくせに変に私を持ち上げようとして、挙句の果てに、私の為に藤堂先輩を振ったのよって?バカにすんのもいい加減にしてよ!」


「そ、んな…つもりじゃ…。」


「ずっと嫌いだった!二幸がいると、私は惨めになる!いちいち二幸の行動を私にかこつけないでよ!」


 冴凪が私に嫌がらせをするのは、藤堂先輩の件が原因だと思っていた私は、この言葉に衝撃を受けた。それは机に背中をぶつけるよりもずっと激しくて、しかも治まることのない鈍痛。大きな鉄球に押しつぶされて、そこから動けなくなってしまったようだった。


 私なんだ。ずっと嫌がらせをしていたのは、私の方。気が付かないなんて、余計に罪が重い。冴凪が私を傷つけるのは当たり前のことなんだ。それだけ私が冴凪を傷つけていたのだ。


 その翌日から、私は学校に行けなくなった。


 * * * 






「どうすればいいか分からなくなった。学校での過ごし方とか、友達との接し方とか、何がいけなかったのか、考えれば考えるほど…。」


「…そっか。」


 ぽつりぽつりと話す声が、広い体育館に響いては消えた。

 私の話に、友は真剣に耳を傾けて、優しく相槌を打ってくれる。


「冴凪の言うことはもっともだと思う。私が一方的に寄りかかってたんだ、きっと。」


「二幸はどうしたいの?また冴凪と仲良くなりたい?」


「…無理、だと思う。」


「学校は?行きたい?」


「…分からない。もう、何もかも捨てたい。いろんな気持ち、全部捨てたい。」


「そっか…。」


 友は俯き、しばらく黙っていた。

 私は今吐き出した気持ちを追い出すように、ボールをゴールに放った。ボールがネットを通過する際の爽快な音を聞くと、すぅっと心に溜まった淀みが弾けて浄化されるような感覚になる。


 ダム、ダム、ダム…とボールが跳ねるのを止めると、また体育館は静かになった。静寂を破ったのは、友だ。


「…だから、切ったの?」


 切った?真っ直ぐ見上げてくる友の瞳に、訳も分からず狼狽える。

 友はいったい何の話をしているんだろう。そう思った矢先、自分の左手首から血が流れている事に気が付いた。


 焦ってブラウスの袖を捲り、傷口を確かめると、手首を横に横断するように傷ができている。血が止まらない。


「な、なにこれ…。」


 傷口をぐっと掴むが、血は止めどなく溢れ、体育館の床を汚していく。

 身に覚えのない傷にドクドク心臓が速くなり、余計に血が出てくるような気がした。


 そこでふと、同じような光景が脳内にフラッシュバックされた。

 場所は自宅の洗面所。排水溝にチェーンのついたゴム栓をし、水が溜まっている。その中に、血が流れる左手を浸け、私の命がそこに溶け込むように、赤い淀みが水の中で揺れていた。


 身に覚えのない傷なんかじゃない。これは、この左手首は、私が自分で切ったのだ。


「そうだ…私…。」


 傷口を抑えたまま、へたりとその場に座り込んだ。

 では私は死んだのだろうか。


 そっと、友の手が傷を抑える私の右手に重なった。


「痛かったよね。」


 優しい声に、温かい手。凍った水道管が溶けたように、涙が溢れ出た。蛇口が馬鹿になっているようだ。


「違うっ…私っ…ホントに死のうと思ったわけじゃなくて!…眠るように死ねるって…そうネットに書いてあって…私…。」


 嗚咽で途切れ途切れに紡いだ言葉。自分でも何を言っているのか分からなかった。

 思ったことをそのまま口に出すと、自分の頭の中がいかにぐちゃぐちゃになっているかが分かった。死にたい。死にたくない。消えたい。消えたくない。誰も知らない場所に行きたい。皆に自分という人間を知って欲しい。矛盾だらけだ。

 ただ、取り返しのつかないことをしてしまったということだけは、理解できた。


「…死にたかったわけじゃ…ない…。」


 苦しい呼吸でその言葉を絞り出すと、私の手に重なる友の手に、力が入った。


「良かった!」


 顔を上げると、友のにこにこと輝く笑顔がぶり返していた。


「二幸は、まだ生きたいんだ!二幸は頑張りたいんだね!良かった!」


 その物言いに、友は今のこの状況を把握しているのだと気がつく。

 生きたい。頑張りたい。友の言葉が私のぐちゃぐちゃな思考に、結論付けてくれた。誰もいないこの静かな世界で、私を支えてくれる友、あなたは誰?


「…友は、死神?」


 途端、友の手が離れ、輝く笑顔が萎れた。


「ひっでー!俺がそんな禍々しいものに見える?!」


「ご、ごめん…。」


 空気にそぐわないすっとんきょうな声を上げる友に、私の涙腺の蛇口がキュッと閉まった。

 死神でないならなんなのだ。


 友はそわそわと正座をし、頬を赤らめながら真っ直ぐ私の目を見てきた。かと思いきや、わざとらしい咳払いを挟み、視線を逸らして話し始める。


「二幸は、自分の名前の由来、知っていますか。」


 なぜ敬語?と思ったが、話の腰を折りたくなかったからつっこまなかった。


「うん。」


 小学校1年生だったか、2年生だったか、とにかく低学年の頃、学校の宿題で出されたことがあった。自分の名前の由来を、両親に聞いてくること。私はお母さんに聞いた。

 説明よりも先に、1枚の写真を見せられた。白黒の切り絵のようなよく分からない写真。私が産まれる前の、お母さんのお腹の中のエコー写真だった。そう言われてもよく分からなかったが、お部屋が2つあるでしょう、と言って指差した母の慈愛に満ちた顔を、今でも覚えている。私には双子の弟がいたのだ。だけど弟が泣き声を上げることはなかった。

 2人分、幸せになるように。私の名前には、その想いが込められていた。


 はっとした私は、びっくりマークでも頭の上に出たのだろう。私が気が付いたことを友は察したようで、ちらりと目を合わせると、また逸らした。


「ずっと一緒にいたんだよ。お母さんのお腹の中だけじゃなくて、外に出てからも、ずっと二幸から離れなかった。俺ができないこと、二幸がいっぱいやってくれて、それだけで一緒に生きてるみたいで、すっげー楽しかった。」


「じゃあ友は、私の弟…なの?」


 疑っているわけではなかった。ただ、死んだ弟に会えるなんて、そんな奇跡が本当に起こったのかと確認したかったのだ。

 友は肯定するように、今度こそちゃんと目線を合わせて、にこっと笑った。


「ずっと、それでいいと思ってたんだけど…、今回のことは、すげー悔しい…。生きてたら、側にいれたら俺が守れるのにって…でも俺にできることなんて、なにもなくてさ…。どうして死んじゃったんだろうって、どうしてもっと頑張れなかったんだろうって、初めて後悔した。」


「ごめん…。」


 謝っても謝りきれない。それでも、ごめんと繰り返す私に、友は、まぁでも、と笑顔を輝かせた。


「怪我の功名、なんて言っていいか分からないけど、こーゆー形で二幸に会えたのは、めちゃくちゃ嬉しい!」


 その言葉に目頭が熱くなる。再び蛇口が弛んできたようだ。


「一緒に学校中見て回って、バスケして、最高だった!」


「…っ私も!」


 はにかむように笑った友は、その額を私の額にくっつけた。突然のことにドキリと心臓が跳ねたが、その熱が心地良い。


「…そろそろ、二幸は帰らないとね。」


「…帰る?」


 どこに、と言葉を続ける前に、友がいつの間にか血が止まった私の手を引いた。


「二幸は今、閉じ籠ってるんだよ、自分の中に。ちゃんと生きたいなら、ここから出ないと。」


「…わ…私、生きてるの?」


 友はキョトンとして額を離すと、当然のことのように軽く答えた。


「当たり前だろ。死んでたら自分の中に閉じ籠るなんてこともできないんだから。」


 私、生きてるんだ。また、お母さんやお父さんにも会えるんだ。

 元の私に戻ったら、これからどうしていくべきか。ぼーっと考えてる内に、友に引っ張られるまま体育館を後にする。


 話しかければ答えてくれるし、笑顔は太陽のように眩しい。何より、繋いだ手はちゃんと温かい。それなのに、友は死んでいる。帰れると友は言うけれど、そうしたらもう二度と友には会えない。友にぐいぐいと手を引かれることは、もう二度とないのだ。そう思うと、涙が止まらなくなった。


 昇降口にたどり着くと、くしゃくしゃだろう私の顔を見て、友は困ったように笑った。


「0歳の俺より泣き虫だなぁ。」


「ごめん…。」


 友が私の涙を、制服の袖で拭う。

 生きている私が、寂しいなんて言ってはいけない。喉まで出かけたその言葉を、必死で飲み込んで、他の言葉を探した。ありがとうと、大好きを伝える言葉。どうか友の心に届いて。


「友っ…私っ、友と双子で良かった!友の姉だっていうことが嬉しい!私の…一生の自慢だよ!」


 ずっと笑顔を絶やさなかった友の目から、雫が零れる。あぁ、友は涙までキラキラ光って綺麗だ。

 突然ギュッと抱き締められた。私のことをいっぱい励ましてくれた友。ずっと寂しかったよね。私よりも、ずっとずっと辛かったはず。そういう想いを込めて、私も力いっぱい抱き締めた。この身体が、実物だったらどんなにいいだろう。そう思わずにはいられない。


「俺のこと、忘れないで。」


「忘れないよ。」


「ずっと二幸の側にいるからね。」


「うん。友のこと、どこまでも連れてくよ。」


 腕を解かれると、友には笑顔が戻っていた。私も精一杯の笑顔を返す。


 私は友に背を向けて、並ぶ下駄箱の間を通り、一度深く息を吸ってから、ガラス扉を押した。もう鍵はかかっていなかった。


「二幸!」


 振り返ると、友が軽く手を振っている。


「いってらっしゃい。」


 私も笑顔で手を振り返す。


「行ってきます。」


 友、私、強く生きるからね。友の分もちゃんと幸せになるよ。


 外はなんだかやたらと眩しく感じて、目を開けているのもやっとだった。その明るい世界に、私は力強く一歩を踏み出す。


 最後まで読んで頂きありがとうございます。

 暖かいお話を書こうと勇んでみましたが、ラストはくどいまでの涙話になってしまったかもしれません。途中途中で少し雰囲気を軽くする場面を入れようか入れまいか悩んだ挙句、あのような着地になりました。

 読んで頂いた方には、それぞれ思うところがあるかと存じますが、この話の先にある、二幸の逞しく生きていく姿を想像してもらえていたら嬉しいです。


表紙:tama様(pixivにてお借りしました)

雰囲気のある素敵な作品をありがとうございました。

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