傷心
次の日、朝一番にお常さんから呼び出された。
「これからは、毎日お菊が朝に今日の予定を書面で持ってくるそうだから、その指示に従っておくれ。お夕の方様の用事がないときは、いつも通り御膳所の仕事を頼むよ。今日は私が書面を預かっているから渡しておくよ」
そういって、お常さんから書面を預かった。
『本日、朝餉の準備、その後部屋の掃除 以上』
(えっ? これだけでいいの? いつも御膳所でやっていることと変わらないけど…)
「はい。わかりました」とお常さんに言って、朝餉の支度を始めた。
お膳を持って、お夕の方様の部屋の前まで来ると今日は襖が全て開けられていた。
「失礼いたします。朝餉の準備にまいりました」
「はいりなさい」
(菊之助様の声ね)
そっと、開けられた襖の前まで移動し、床に手をつき頭を下げた。
「お初にお目にかかります。お夕の方様のお部屋にて雑用係をさせて頂くことになりました、お里ともうします。何卒、よろしくお願いいたします」
そう言って、少し顔を上げたところでお夕の方様と目が合った。
第1印象で引き込まれてしまった。
(なんて穏やかな笑みを浮かべられるのだろう)
私はしばらく見とれていたようで、菊之助様の咳払いで我に返った。
「あっ! 申し訳ございません。 失礼いたします」
部屋へ入り、お夕の方様の近くに寄り食事の準備を始めた。お食事中もお茶をいれたり、お椀を下げたりしていたのだが、顔を見ることはなかなか出来なかった。
お夕の方様は、静かに食事を進められたが、お椀の持ち方、お箸の使い方がとても優雅で気を抜くとボーッと見てしまうほどだった。
(それにしても、すごく見られている…粗相がないかチェックされているのかしら…お言葉を発せられないので、どうしていいかわからない)
黙ったまま控えていると、菊之助様から庭の掃除をするように言われた。
「はい。承知しました」
私は席を立ち、庭に向かった。
(とても息苦しかったので助かった…)
庭はすごく質素で、春が近づきやっと新芽が出始めた植木が少しある程度だった。
(本当にお夕の方様は、この離れで寂しくないのだろうか…)
そんなことを考えながら、空を見上げた。
(!!!!)
「お夕の方様、どうぞこちらへいらっしゃいませんか?」
言ってしまった後にすぐにしまった!と思っても遅かった。菊之助様が眉をひそめられ、何か言おうとされたとき、お夕の方様がそれを手で制された。
「方様…」
菊之助様に向かって頷き微笑まれてから、ゆっくり縁側の方へ向かって来られた。
「申し訳ございません」
そういう私にも頷いてくださった。縁側まで来られたお夕の方様に
「お庭に建っている小屋の上をご覧ください」
お夕の方様が見上げられたのを確認してから
「ツバメにございます。少し早いですが、巣作りの場所を探しているのかもしれないですね」
「もうそんな時期か…そろそろ春だなあ…」
菊之助様がおっしゃった。
「この小屋で巣作りをしてくれれば、雛を見ることも出来ますね」
お夕の方様は頷かれて、もう一度小屋の上を見上げられた。そして、お綺麗な顔で静かに微笑まれた。
「失礼ながら、本日は風もなく日差しも暖かいので少しこのまま縁側におられてはいかがでしょうか? その間にお部屋のお掃除を済まさせて頂きます」
「たまにはいいかもしれないな」
そう菊之助様が言われたので、暖かい敷物と羽織をお持ちし、お茶を淹れなおした。そして、時々お夕の方様が外を眺められている姿を見ながら部屋の掃除を終わらせた。
(少し、春を感じてくださるとうれしい)
その日は掃除を終えると下がっていいと言われたので、昼からはお常さんのもとで仕事をこなした。
次の日からも朝餉のお膳を運んでお掃除を済ます…たまにお昼のお食事の用意もする…といった日が続いた。でも、夕方には戻ってよいと言われる…
お膳をさげて私が掃除をしている間、お夕の方様は本を読まれていたり、文机に向かわれたりしている。その横にはいつも菊之助様が付き添われている。
(お夕の方様も何かお仕事があるのかしら…古典は苦手だったので何が書かれているかはよくわからないけど)
お夕の方様からの視線も相変わらずだけど、不思議と嫌なものではなかった。どちらかといえば、暖かく見守られているような、そんな感じさえした。
ある日の朝、朝のお食事が終わり庭の掃除をしていた時、ふと小屋の上の方からポトッと音がした。そちらの方を覗いてみると
(!!!!!)
私は縁側に座って読書をされているお夕の方様の方へ小走りで近づいた。
「失礼いたします。お夕の方様、菊之助様、こちらへ来て頂けないでしょうか」
お二人が何事かと目を合わせておられる間に、履き物を用意した。
菊之助様が先に庭におりてから、お夕の方様が履き物を履かれるのを確認して、その場所へ案内した。
「あちらをご覧ください」
「おおっ こんなところに」
お部屋からは見えない軒下にツバメが巣を作っていたのです。
「この間飛んでいたツバメでしょうか? 全く気付きませんでした。 でも…」
「どうした?」
「このような所に作った巣は、処分されてしまうのでしょうか?」
菊之助様はお夕の方様に確認の合図をしたあと
「ここは誰のジャマにもならないだろう。このままにしておこう」
私は嬉しさのあまりテンションがあがってしまった。
「本当でございますか? これからここで雛が育っていくのを見ることが出来るのでございますね? 楽しみです」
と、思わず軽口をたたいてしまった。
(こんなところで自分の楽しみなど語ってしまった)
思い直してすぐ
「申し訳ございません。嬉しくてつい興奮してしまいました」
怒った方がいいのか迷ったかんじの菊之助様の横で、お夕の方様が 「プッ」と口を押さえて吹き出された。
(こんな風に笑われるのは初めてだ)
菊之助様も「まあ いいだろう…」と小さな声で呟き「楽しみだな」と言われた。
3人でもう一度、軒下でせっせと巣作りに励むツバメの姿を眺めた。
「お付き合い頂き、ありがとうございました。少し冷えてまいりましたので、お茶をおいれしますね」
と部屋へ戻った。
次の日から、朝のお膳をお持ちすると庭に降りて軒下を眺められているお夕の方様を見かけることが増えた。たまに、2人で巣を見ながら
「卵が産まれたようですね。いつ頃かえるのか楽しみですね」などと、お話させて頂くこともあった。そういうとき、いつもにこりと微笑み返してくださった。
(ああ この時間が穏やかで好きだなあ…少しずつだけど、雑用係としての仕事にも慣れてきたつもり…お夕の方様のお役に立てているかしら?)
春を迎えたはずなのに、少し季節が逆戻りしたかのような寒さを感じる朝、いつものようにお膳を持って廊下を歩いていた。
(今日はお庭へはおりてらっしゃらないようだわ…少し肌寒いですものね)
その時、小屋の方でバサバサバサっとすごい音がした。私は何事かと思い、お膳を横に置き小屋の方を覗きこんだ。すると、大きな黒い物体が飛び上がるのが見えた。
(もしかして…)
私は周りが見えなくなり、履き物もはかず軒下まで駆けていった。
!!!!!
巣の下には卵が落ち割れていた。きっと、あの大きな黒い物体はカラスだったのだ。私は空を見上げて、慌てたように小屋の上を旋回する親鳥を見た。あとからあとからこぼれてくる涙を拭うことも忘れて…
後ろからふと暖かいものが私を包んだ。顔は確認しなくてもそれがお夕の方様だということがわかった。なんだか安心するお夕の方様の匂いがしたからだ。
「申し訳ございません。お膳を廊下に置いたままにしてしまいました。すぐに作り直してまいります」
そう言って体を動かそうとした私をお夕の方様はもう一度ギュッと抱きしめてくださった。
「何事ですか?」
菊之助様の声がした。
その声を聞き、お夕の方様の力が緩められた。私は「申し訳ございません」と、急いで廊下へ戻りお膳を持って御膳所へ走った。
(着物のせいでよくわからなかったけど、スッポリ包まれたような気がした。私が小さいからか、お方様は背が高いなあと思っていたけれど、力もお強かったなあ…)
そんなことを考えながら、朝のお膳をもう一度作り直していた。私の真っ赤になった目を見ても何も言わずにお常さんが手伝ってくれた。
目の赤みは戻らないままお膳を持ち、部屋へ戻った。
「失礼いたします」
部屋に入り、準備をしていると菊之助様が
「残念であったな。巣の中をもう一度改めたが、卵は1つもなかった」
「そうでございますか…取り乱してご無礼をはたらき申し訳ございませんでした」
私は2人の方を向いて頭を下げた。
「いや、今朝のことはお方様も心を痛めておられる。お里はその場で目にしたのなら仕方がなかったであろう」
「お心遣いありがとうこざいます」
そのときお方様が私の手を取り、いつものではなく悲しそうに微笑まれた。私はすぐに両手をつき
「勿体ないことでございます」
と頭を下げ、お茶をいれる準備をした。
(お方様も卵がかえり、雛が育つのを楽しみにされていたはず…私を慰めてくださるなどあってはならない…)
その日はいつも以上に静かに過ごすこととなった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。