疑惑
お糸さんに、お夕の方様からお許しをもらったことを告げると
「本当ですか? 夢みたいです」
と言って、飛び上がって喜んでくれた。私はその姿をニコニコ眺めていた。
お夕の方様のお部屋へ、お糸さんを伴っていく日、私もなんだか緊張してしまっていた。
(私は、はじめ・・・まさかお夕の方様が上様だったなんて考えてもみなかった。今から考えれば、あの優しい笑い方は上様だったのに、全然気づかなかったな。久しぶりに上様が、お夕の方様の姿をしておられるかと思うと・・・少し楽しみだわ)
部屋の前に二人で並んで座り挨拶をした。
「お里にございます。失礼いたします」
「はいれ」
(今日は菊之助様がお返事をされている)
「はい」と言って、襖を開け部屋に入った。
「本日は、二人で雑用係をさせて頂きますのでよろしくお願いいたします」 と頭を下げると
「お里さんにお仕事を教わっております、お糸と申します」 とお糸さんが挨拶をした。
「ああ それでは頼む」と菊之助様が言われたので、私たちは食事の準備を始めた。
「お糸さん。ではこちらの準備からいたしましょう・・・それをこちらに・・・」
「はい」といったように手際よく教えながら準備を整え、定位置に控えた。
お夕の方様こと上様が食事を始められた。私は見とれてしまった。
(いつもあんなに近くにいるのに、なんだかよそよそしい振りをするのは、新鮮で・・・逆にもっと上様に近付きたいという気持ちが膨らむ)
そんな、私の視線に気付かれたのか上様が私の方を見てニコッと微笑まれた。私は恥ずかしくなり下を向いてしまった。
その後、片付けやお掃除も少し要領を説明するだけで、お糸さんが率先してやってくれた。菊之助様が「お糸はなかなか要領がいいな」とおっしゃったので、私は「はい。そうでございますね」と言った。
庭のお掃除をしているお糸さんを私が縁側から見ているとき、お夕の方様のお姿の上様が、そっと私の後ろに立たれ前からは見えないように私の手を取り握られた。私はなんだかとても嬉しくてギュッと握り返した。そして小声で
「ありがとうございます」と言った。すると、小声で菊之助様が
「お二人とも、後ろからは丸見えでございます」 と言われ、私は急いで手を離した。上様は、菊之助様を睨んでおられた。
全ての雑用が終わり、いつもなら上様と時間まで過ごすのだけど、菊之助様が
「ご苦労であったな。お里、お糸、下がってよいぞ」 と言われたので、私たちは
「失礼いたします」 と頭を下げて部屋を下がった。襖を閉める一瞬、上様と目を合わせ微笑みあった。
廊下を歩きながら、
「お里さん、お夕の方様は素敵な方でしたね。とてもお綺麗でしたし・・・」
「はい。本当にそうですね」
私は、素直にそう思った。私が変身するお夕の方様とは、全く違うと改めて恥ずかしくなったくらいだった。
お糸さんは興奮したまま、ずっとお方様のお部屋の様子などを思い出ししゃべっておられた。その姿がとてもかわいく思えた。
次の日、上様に改めてお礼を言った。
「上様、菊之助様、昨日は私のわがままを聞いて頂きありがとうございました」
「ああ お里が喜んでくれたならそれでいい」 と、上様はおっしゃった。
「昨日はあれから、お里様と二人きりになれず戻られたので、ずっと機嫌がお悪かったんですよ」
と菊之助様がおっしゃったのを、
「菊之助、いらぬことを言うな」 と制された。
私はもう一度、
「ありがとうございました」と頭を下げた。
「お里、久しぶりにお夕になって、1年前にお里のことをお夕の姿のままずっと恋焦がれていたことを思い出したよ。今は、こんなに近くにいられて、私は幸せだ」 そう言って、抱き寄せられた。
「上様・・・私も懐かしく思い出しておりました」
と言って頬を寄せた。
「はいはい。私はお邪魔なようですので失礼いたします」
と菊之助様が、お部屋を出て行かれた。
(菊之助様。久しぶりに『はいはい』を聞きました)
それ以降は、少しずつお糸さんも仕事を覚えて、ほぼ雑用の仕事は出来るようになっていた。私も、そろそろお夕の方様のお部屋の雑用係に重点をおかせてほしいと思っていた頃だった。
その日は、お糸さんはお常さんに用事を頼まれているので一緒には仕事が出来ないことになっていた。菊之助様に前日予定を確認したら、午後から夕方まではお部屋におられるとのことだったので、少しの時間だけでも上様にお会いできればとお部屋へ向かった。
部屋の前に差し掛かろうとしたとき、ドサッと音がした。何事かと思い、私は走ってお部屋に向かった。
「失礼いたします」
!!!!!
目の前には、上様とお糸さんが・・・そして、お糸さんの上に上様が!!
こういう時の私は一瞬冷静になるみたいだった。もともとは、感情的に怒鳴ったりすることが苦手だから・・・
「お糸さんどうして?」
「はい。お夕の方様に用事があったのですが・・・上様が・・・」
そう言って、座り直された後、着物を直しながら廊下を走って出て行かれた。
菊之助様がそのときに、
「どうされましたか?」と、小屋の方から部屋に入ってこられた。
「おさと・・・」
上様が、私に手を伸ばされた。しかし、私はそれを振りほどいてしまった。そして、「失礼いたします」と、逃げるように御膳所へ戻った。
御膳所へ戻っても、頭の中がもやもやしてずっと胸が締め付けられるような気持だった。お糸さんが私に近付いてきたことも気が付かなかった。
「お里さん・・・」 私は、ビクッとなってしまった。
「はい・・・」 お糸さんは、言いにくそうに話した。
「あの・・・私、もう一度お夕の方様にお会いしたくて、お部屋に伺ったんです。勝手なことをしてごめんなさい。でも、そこには上様がいらっしゃって・・・あんなことに・・・」
私はそれ以上聞きたくなかった。
「そうだったんですか。私は、お夕の方様にお仕えしているので上様のことは、あまりわかりません・・・今日はお夕の方様は何か用事がおありになったのかもしれませんね」
そういうだけで、精一杯だった。
「はい・・・このことは・・・」
「わかっています。誰にも口外しませんよ」
そう言って、忙しい振りをして仕事に戻った。ショックを顔に出さないようにすることがこれ以上は無理だと思った。
女中部屋の布団の中に入ると、嫌でもさっきの光景が思い出された。
(上様がお子をお作りにならなければならないことは、理解していた。私が暮らしていた以前の世界とは違って、この時代は後継ぎを作るために正妻とは別に沢山の側室を抱えられていることは、知っている。もちろん上様は将軍様で今後も江戸が続いていくよう務められなければならない。でも、どうしてお糸さん? 目の前のお糸さんを可愛く思われたのだろうか? だけど、あの部屋でだけは、嫌だった。私が上様と二人だけで過ごせる大切な場所だったのに・・・)
ジワジワと悲しみと同時に、涙が出てきた。周りの女中たちがいるので必死に声がでないように泣いた。
(私がここへ来るきっかけのひとつとなった、主人の不倫を見つけてしまったときは、こんなに悲しくなかった。どちらかというと、怒りがこみ上げてきていた。でも、今はただただ悲しい・・・つらい・・・明日からどうしよう)
同じ疑問や思いがグルグルとして、私は一睡もできなかった。
いつも読んでくださり、ありがとうございます。