申出
京都から無事に江戸城に到着した。
私は、その日のうちにお常さんのところへ、無事に帰ってきたことを報告しに行った。お常さんは、私の帰りを喜んでくれた。次の日はゆっくり休めばいいと言われたけれど、休めと言われても特に何もすることがないので、翌日からいつものお里として働くことにした。
さすがに翌日は、上様も将軍様としてのお仕事があるようで菊之助様から連絡はなかったけど、その次の日には、部屋へ来るよう連絡があった。
「失礼いたします」
襖を開けると、すぐそこに上様がおられて、私が下げていた頭を上げるとすぐに抱きついてこられた。
「上様?」
「ああ お里。あれだけ毎日会っていたから、一日離れているだけで、私はおかしくなりそうだよ」
「上様・・・でもお忙しいのでは? 京都から戻られたばかりでございますし・・・」
「菊之助が意地悪でな、今日もここへは来れないと言ったのだが、一目だけでもお里に合わせろと、時間をとらせたのだ」
「上様! 意地悪ではございません」
菊之助様が少し怒り気味に言われた。菊之助様と私は、二人で苦笑いした。
「お里、私は早々に戻るが、お前もすぐに戻れば不審がられるだろう。少しここでゆっくりしてから戻ればよい」
「はい、ではお掃除をしてから戻ることにさせていただきます」
それから、少しの時間菊之助様が席を外され、二人で時間を過ごした後、上様は戻られた。
「早く仕事を片付けて、ここへ来るからな」
「はい。でも、無理はされませんように。お体に障りますので・・・」
「わかった」
私は久しぶりの部屋の掃除を楽しみながら済ませ、少し早めに御膳所へ戻った。
それから上様は、やっぱりお仕事がお忙しいらしく、お部屋には来られなかった。私も、少し寂しいと思いながら御膳所の仕事とは別に、時々お部屋へ行って掃除をしたりしながら過ごしていた。
次、お会いしたときの上様がどうなられるか想像しただけで顔が赤くなる。菊之助様から連絡があったのは、1週間後だった。
私は嬉しい気持ちが抑えられず、少し早足になった。部屋の前まで来ると、少し緊張した。
「お里でございます。失礼いたします」
そう言って、襖を開けた。
「おお お里。やっと会えた。早くこっちへ」
笑顔いっぱいの上様に、私もつられて笑顔になり、素直に上様の隣に座った。
「お里殿、お久しぶりですね。部屋の掃除をしておいてくださったそうでありがとうございます」
菊之助様が言われた。
「はい。毎日お会いしていたので、本当にお久しぶりに思いますね」
「今日は、私がいるだけで上様が不機嫌になられそうなので、早速下がらせて頂きます。それと・・・お菊が具合が悪いので、今日は朝までお里殿がお夕の方様に付き添うことになっていますので、後のことはよろしくお願いいたします」
「えっ?」
「上様もお里殿に会いたいために、慣れない表のお仕事を頑張ってこなされたのです。今日はお二人でゆっくりすごしてください。この部屋なら、お里殿も勝手がおわかりでしょう」
「はい。わかりました。菊之助様、ありがとうございます」
菊之助様は、襖はお閉めくださいと笑いながら言われ、部屋を出られた。
「菊之助も、早く仕事が終わるよう調整してくれたのだ」
「上様は、頼もしいお方をお持ちですね」
「だから、菊之助を褒めるな」
そう言って、ギュッと抱きついてこられた。
その日は、久しぶりに二人の時間を過ごすことができ、幸せを感じた。
この日を境に、上様はお夕の方様のお部屋で夜を明かされることが増えた。その度に、お菊さんの具合が悪いということになるのだけど・・・そこは上手く菊之助様が取り計らってくださっているらしいから、お常さんにも疑問に思われることはなかった。
私がこの世界へ来て、そろそろ1年が経とうとしていた。
(結局、元の世界に戻る手がかりさえも掴めないまま、もう一年か・・・今は、以前の世界に戻ることより、この世界での上様や皆さんとの時間がとても愛おしいと思っている・・・私は薄情な人間なのかしら・・・でも、このままずっと上様のおそばにいたい・・・)
穏やかな日々を送っていた私たちだが、やっぱり事件が起きてしまうのだった。
ある日の午後、そろそろ夕餉の支度をしようかと御膳所で忙しく働いていたとき、急に御膳所内が騒がしくなった。女中たちが一斉にその場に座り頭を下げた。
(どなたがいらっしゃったのかしら?)
私も、仕事の手を止め、その場に座り頭を下げた。何人かの忙しない足音が近づいてきて、私の前で止まった。
(???)
「お里であるな?」
(私?)
「はい・・・」
「顔をあげなさい」
私は、言われるまま顔を上げた。
(!!! お清様!! 冷静にならなくては・・・ここは・・・あっそうだ! 私がこの方の名前を知ったのは、お夕の方様の格好をしているときだから・・・お里はお顔は知っていても、名前は知らないはず・・・とりあえず、何か話されるまでは、黙っておこう)
「・・・」
「今日はお夕の方様のお部屋へは行かぬのか?」
「はい。本日は、朝のお食事とお掃除をして、昼からはこちらにおります」
「そうか・・・相変わらず、上様はお夕の方様の部屋に通われているとのことでのう・・・お前も知っているだろう・・・」
(!!! あっ! それは、私が上様にお会いしていることをここの女中は知らないのに・・・)
一瞬、頭を下げている全女中の肩がピクッと動くのを感じた。
(ここは仕方がない・・・)
「はい・・・でも私は、上様がおいでの時はほとんど席をはずしておりますので・・・直接お話させて頂くことは、めったにございません」
「そんなことは別にどうでもよい!」
急にイラついた話し方に変わった。
(こわい・・・)
そのとき、お常さんが入ってくれた。
「お清の方様、今は御膳所も忙しい時間にござります。よろしければ、お部屋を用意いたしますので、そちらでお話をされてはいかかでしょうか?」
お清様は周りを見渡して、冷静になられたのか
「そうですね。お里、一緒にきなさい」
そう言われた。私は黙ってついて行くしかなかった・・・
部屋に入って、私は全身に汗が出てくるのを感じながら、お清様の前に座った。
「お里、私は事情があって、お夕の方様の部屋へは近付くことができぬ」
(はい。それは、よく知っています)
お清様が、なぜか諭すような口調に変わった。
「毎年、中奥で上様とご隠居様、そして側近の者たちでの宴が行われる。その際に、奥から何人か側室も出席することとなっている。今年も、側室を何人か私が選ぶのだが・・・
今回は、ご隠居様がどうしてもお夕の方様を呼ぶよう言われている」
(えっ? ご隠居様が!?)
「そのわけは、私にはわからないのだけどね」
(・・・・)
「上様にその件をお伝えしても、断るの一点張りで・・・お夕の方様にもきっと話もされておられないだろう」
(はい。何も聞いておりません)
「そこで、お里からお夕の方様に、出席くださるよう伝言を頼みたいのです」
「私がですか? でも・・・」
「上様は最近、ご隠居様との関係があまりうまくいっていないと聞いている。ここで、ご隠居様の機嫌をそこねると、さらに上様の風当たりが強くなる。家臣をまとめておられるのは実際はご隠居様ですからね」
(上様のお仕事は奥へ行かれることだとか・・・)
「とにかく、この話をお夕の方様に直接話してくれないか? それで、お夕の方様もお断りになるのなら、今回は私も諦めます。私も本当は、上様のお立場をお可哀想と思っているところもあるのです。ですが、私はこの役職を全うしなければなりません。」
そう言われて、お清様はため息をつかれた。私はいつの間にか、こわさはなくなっていた。
「わかりました。お清の方様のお話をお夕の方様に伝えさせて頂きます」
「そうか。頼みましたよ」
最後は、もう一度威厳のある口調に戻って言われた。
私は「はい」と頭を下げた。
その時、私の心は決まっていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。