最後のお部屋
「お里、そろそろ中へ入ろうか」 籠が全く見えなくなると、上様は私におっしゃった。
「はい」 私は返事をして踵を返した。すると上様が手を取ってくださった。
「お里は本当に御台所と打ち解けたのだな」 歩きながらおっしゃった。
「はい 優のことも本当に可愛がってくださり、私の不安な気持ちを聞いてくださって理解してくださりました」 私が微笑んでそう言うと 「そうか・・良かったな」 と上様も微笑んで言ってくださった。
「少し部屋に戻る前に御台所の部屋に寄ってもかまわないか?」 上様がそうおっしゃったので私は返事をして、そのまま御台所様のお部屋に行った。お部屋の中は何もなくシーンと静まり返っていた。この間まで、ここで御台所様と一緒に楽しく会話をしていたのが嘘のようだった。
「こうやって見ると、とても広いお部屋でございますね」 私は部屋を見回しながら言った。
「ああ でも明日からここが私たちの場所となる・・・正式にはお里の部屋だがな」 上様はそう言って笑われた。
「上様もこのお部屋にも通ってくださるのでございましょう?」 私は上様に確認するように聞いた。
「ああ もちろんだ。ここで夜も一緒に過ごすつもりだが・・・いいか?」 上様は急に不安そうなお顔をされた。
「もちろんでございます。ここで上様と優と一緒に過ごせることが楽しみでございます」 私はそう言って微笑んだ。
「良かった・・・」 上様はホッとされたような言い方をされた。
「上様? 何か不安に思われていることがあるのなら教えて頂けませんか?」 私は上様が少しでも不安に思われていることがあるのなら知っておきたかった。
「いや・・・不安というか・・・最近、お里は御台所とよく会っていたであろう? 私が御台所を追い出したとか、お里に気を使って御台所が出て行ったとか・・・いらぬことを考えて、お里がここへ来ることに気が引けているのなら、私と一緒にここで暮らすことが嫌になるのではないかと考えてしまうことがあってな」 上様はまた不安そうなお顔をされた。
「確かに、御台所様に申し訳ないという気持ちが初めはございました。ですが、そういう考えは無駄であると御台所様と過ごさせて頂くうちに教えて頂きました。ですから、私はここで新しい自分を始めたいと思っています」 私は自分の決心を上様を見つめて話した。
「そうか・・・またウジウジと考えているのは私だけであったか」 上様はそうおっしゃると苦笑いをされた。
「上様、明日からもよろしくお願いいたします」 私はそう言って頭を下げた。
「ああ こちらこそよろしくな」 と上様も頭を下げられた。私たちは同時に頭を上げると顔を見合わせて笑いあった。
「さっ 部屋へと戻ろうか」 上様は立ち上がられて私の手を取ってくださった。私も上様の手をしっかりと握り、部屋へと戻った。
部屋へ戻ると、おぎんさんが優と遊んでいてくださった。私たちの部屋はほとんどのものが片付けられていた。明日、皆さんが一斉に荷物を運び出してくださる手筈になっている。
「おぎんさん、ただいま戻りました」 私はおぎんさんに挨拶をした。
「おかえりなさいませ」 おぎんさんは笑顔で迎えてくださった。上様はご自分の席に着かれて「優、こっちへおいで」 と声をかけられた。優はにっこりと笑い、ハイハイをして上様の元へと進んだ。上様の元までたどり着くと、上様は優を膝の上に乗せられて頭を撫でられた。優はそうされるのが気持ちいいのか、目を細くして嬉しそうにしていた。
「上様、お里様、今日は最後のこのお部屋でゆっくり過ごされることでしょう。私は昼の御膳を準備しましたら、下がらせて頂きますが、夕食はお常さんが廊下まで運んでくださいます。お里様にお願いしてもよろしいですか?」 とおぎんさんが尋ねられた。
「ああ 私はかまわないが、お里もそれでいいか?」 上様が私に確認してくださった。
「はい 大丈夫でございます」 私はそう返事をしておぎんさんに笑顔を見せると、おぎんさんは黙って頭を下げられた。
昼食を早めにとり、しばらくすると菊之助様がいらっしゃった。
「失礼いたします」 菊之助様は部屋に入って来られ、上様と私に一礼をされた。
「菊之助、ご苦労だな」 上様がそうおっしゃった。
「明日の確認だけさせて頂き、私はすぐに下がらせて頂きます」 菊之助様も気を使ってくださっているようだった。
「ああ わかった」 上様も菊之助様のお気持ちがわかられているようだった。
「明日は、朝から荷物を運ばせて頂きある程度ご用意が出来ましたら、3人様揃って御台所様のお部屋へと移動して頂きます。昼食はあちらのお部屋で取って頂きます。その時に、お清殿、侍女であるおぎん、そして私も一緒に昼食を取らせて頂きますのでよろしくお願い致します」 菊之助様が明日の流れについて説明をされた。
「わかった。それで、その後は私たち3人になれるのだな?」 上様が尋ねられた。
「いえ・・・その後も荷解きをさせて頂きたいと思いますので、それに午後からは側室たちが挨拶にくる手筈となっております」 菊之助様はそうおっしゃると、上様を窺うような目で見られた。
「なに? それではお里が疲れてしまうであろう。挨拶なら、初めての総触れの後でいいではないか」 上様がそうおっしゃると菊之助様は困ったようなお顔をされた。
「上様、私なら大丈夫でございますよ。総触れの前に皆さんに挨拶をしておきたいと思いますので」 私がそう言うと、上様は少し考えられた。
「だが・・・度々、この部屋に色んなやつが訪ねてくるのは問題だ・・・そうだ、菊之助、御台所の所まで続く廊下に面している部屋を一つ開けて、そこを御台所との面会の部屋としろ」 上様はいいことを思いついたというように笑顔でおっしゃった。
「はあ・・・」 菊之助様は既に呆れられている様子だった。
「それから今後、御台所の部屋へは私の許可がないもの以外は入らないようにとお清に伝えておけ。そうでないと、私があの部屋でゆっくり出来ぬ」
「承知致しました。ご挨拶の件はそうさせて頂きますが、お里殿もよろしいですか?」 と菊之助様は私に確認をされた。
「あの・・菊之助様、お楽の方様へは私からご挨拶に向かわせて頂きますので、その旨お清様にお伝えください」 と私が言うと 「お里・・・」 上様が驚かれたように私を見られた。
「お里殿、ですが本来ならばお楽殿が御台所様のところへご挨拶に来られるのが筋かと・・・」 菊之助様がおっしゃった。
「女には女の仕来たりがございます」 と私が言うと、上様と菊之助様が顔を見合わせられ、「承知しました」 と菊之助様がおっしゃった。
「それから・・・」 菊之助様が話を続けられようとすると「まだあるのか」 と上様は少し不機嫌になられたようだった。
「はい・・・御台所様には直接役人に会って頂く機会もございますので、そのご挨拶を・・・」 菊之助様は段々とお声が小さくなられた。それと同時に上様がギロッと菊之助様を見られた。
「それは、おいおい私が取り仕切る。それに今後はそういった話し合いは私も参加するゆえ、そのように取り計らえ。以前のように、お里のことを気に入る輩が出て来ては大変だからな」
「・・・はい 承知致しました」 菊之助様はそうおっしゃってから、私の方を見られた。私は苦笑いをして応えた。
(菊之助様、ご苦労様でございます)
「それでは上様、明日はよろしくお願い致します」 とおっしゃると、お部屋を出て行かれた。
「はあ せっかく引っ越しをしてお里と優と3人でゆっくりと過ごそうと思ったのに、なかなかゆっくり出来ないではないか」 とため息をつかれながらおっしゃった。
「上様、そんなに焦らなくてもこれから長いのでございますから・・・」 私がそう言うと、上様は機嫌を直されたのかにこりと笑って「まあ そうだな」 と言ってくださった。
優は菊之助様と話をしている間に上様に抱かれたまま眠ってしまったので、布団へと移動させた。隣の部屋から戻ると、上様が「お里」 と名前を呼ばれた。私は、こう呼ばれた時は膝枕をさせて頂くということがわかっていたので、上様のお傍に行き体勢を整えた。上様は嬉しそうなお顔をされて、私の膝に頭を乗せられた。そして「はあ」っと大きく息をつかれた。私は上様の頬を撫でながら、この部屋でこうして過ごすのも最後なのだと実感した。
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