父上
私が一人で部屋で待っていると、廊下を歩く音がした。上様がお戻りになられたと思い、胸を弾ませた。
!!!
襖が開いた先には、ご隠居様がたっておられた。私は、訳がわからなったが、とりあえず頭を下げた。
「お夕、ここにおったのか」
「はい。ご隠居様、何かございましたでしょうか?」
「お夕ともう少し話したくてな」
私は、すぐに上座に案内した。そして、大きく離れたところに座った。
ご隠居様は、私の方を見られて、ニヤリと笑われた。
「お夕よ。ワシの元へ来ぬか? ワシなら家斉以上にお前を可愛がってやるぞ」
(何を言っているの?)
「ご隠居様・・・私は上様にお仕えしておりますので・・・そのようなことはできかねます」
「家斉には私が話してやるから大丈夫だ。何も心配することはない」
そう言って、立ち上がられ私の手を取られて、自分の方へ引き寄せようとされた。一瞬で鳥肌が立ち、怖くてたまらなくなった。
(いやだ・・・こわい・・・どうしたらいいの? 上様!)
そう思っていた時、襖が開くと同時に上様が叫ばれた。
「父上!!!」
ご隠居様は何事かと冷静だった。私の手を離そうともされなかった。
「なんだ、家斉か。ちょうど良かった。今、お夕に私の元へ来るように言っていたところだ。しかし、お夕はお前に義理立てて、それは出来ぬと申す・・・お前から、言ってやれ!」
(ご隠居様は上様がご自分の言うことはきくものだと決めつけておられる・・・上様も私と一緒でずっとお父上の言われるままに・・・我慢をしてこられたのだわ)
上様は下を向かれ、手をギュッと握られた。そして、ゆっくり、はっきりとおっしゃった。
「父上、それはできかねます」
ご隠居様は、少し気の抜けた顔をされ、一瞬理解できなかったようだった。
「なに? お前は側室になど執心せんと聞いておるぞ! 側室など沢山いるであろう。お夕のことをワシが気に入ったのだ。お前はワシの言う通りにしていればいい!」
悪びれることなく当たり前のようにおっしゃった。
上様は、今度はキッとご隠居様の顔を見つめられた。
「父上!! それはできかねると申しております! 家臣の手前もありますゆえ、今日はお引き取りください!」
上様の形相に、ご隠居様は少し怯まれたのか、やっと私の手を離されて立ち上がられた。そして、フンッと鼻で笑われてからおっしゃった。
「お前がワシに口答えをするとはな。ワシは明日には大阪へまいるゆえ、挨拶はいらぬ」
廊下に向かって歩きながらそう言われ、ご隠居様は部屋を出られた。上様は立ったまま、頭を下げられた。
ご隠居様が廊下から見えなくなり、二人きりになった途端に上様が走って私の方へ来られ、力いっぱい抱きしめられた。
「お里、こわかったであろう? 申し訳ない・・・」
上様のお声が震えている・・・泣いておられる?
(あれ? 私も泣いている・・・)
一瞬冷静だったが、先ほどの事を思い出し、恐怖と安堵で声を出して泣き、上様にすがりついた。上様も私をしっかりと抱きしめ、背中をさすってくださった。どれぐらい、そうしていたかわからないほどの時間、ずっと上様は力を緩められなかった。
(こんな泣き方をしている自分に少し驚いている。人にすがりついて泣くことなんて、子供の時からあったかしら)
しばらくして、少し落ち着きを取り戻した。上様のお着物が、私の涙とよだれでグショグショになっていることに気付いき、慌てて顔を離した。
「上様、取り乱して申し訳ございません」
「少し落ち着いたか?」
「はい」
私は上様から少し離れて、お顔を見た。
(目が赤い・・・やっぱり泣いておられたのだ・・・)
「上様・・・お着物を汚してしまいました」
「そんなことはいい。それより、大丈夫か?」
「はい。あの・・・上様も大丈夫でございますか?」
「ああ 私は自分が情けない・・・おりんが、父上が部屋へ向かったと教えに来てくれなければ、どうなっていたかと思うと・・・考えただけで気が狂いそうだ」
上様は、苦しそうな顔をして話された。
「でも、上様は助けにきてくださいました」
「それに、今までの私なら、見て見ぬフリをしていたであろう・・・父上に逆らったことなどなかったからな」
「でも、上様はお父上にお断りしてくださりました」
「そうなのだ・・・お里のことになると私は力を出せるみたいだな」
「上様・・・」
「私は、お里がいれば変われるような気がするのだ。お前が、私から離れることを考えると何も手につかなくなる・・・なさけないな・・・」
「ならば、私がおそばにいます。上様がご自分を変えられたいと思われるなら、私がそのお役に立ってみせます」
上様は、私の顔を見られ嬉しそうに笑われた。
「お里、そうしてくれるか?」
「はい。もちろんでございます」
私はそう言って、上様に笑顔を向けた。上様も、もう一度、笑顔で返してくださり、私をギュッと抱いてくださった。
しばらくそうしていたが、私はふと今の状況を思い返し、上様に聞いた。
「上様? 家臣の方たちがそのままでは?」
「ああ 菊之助が後は任せて、お里の元へ行けと言ってくれたから大丈夫だ」
「そうでございますか。菊之助様は頼もしいですね」
と言って、今度は私から上様にもたれかかった。
「あまり菊之助をほめるな」
と少し拗ねられた上様を見て、私はこの人を心から愛しているのだなと確信した。
本日も読んでくださりありがとうございました