緊張
御台所様のご名代としてお役人様とお会いする日、私は朝から落ち着かなかった。
「お里、大丈夫か?」 上様は朝食をとっているとき、私に尋ねられた。
「はい 何だか朝から緊張してしまって・・・ご迷惑をおかけしないように致しますので今日はよろしくお願いいたします」 と私は頭を下げた。
「そんなに緊張をしなくて大丈夫だよ。昨日もあまり眠れていないのではないか?」
「いえ 睡眠は充分に取らせて頂いたと思います」
「だったらいいが・・・」 上様は心配そうにされていた。
「上様、今は落ち着かずソワソワしておりますが本番はしっかりとやりますので」 と言って私は笑顔を作った。
「だから、そんなに気を張らずともよいと言っているのに」 上様はそうおっしゃると声を出して笑われた。私も急に恥ずかしくなり、一緒に笑った。何だかそうしていると緊張がほぐれてきたような気がした。
「お里、もし優が愚図って仕方がないとか、お前の気がしんどくなったとかがあれば必ずおぎんに言って私に知らせなさい。そこまで無理をさせるつもりはないからな」 上様は表へ行かれる前におっしゃった。
「ありがとうございます。準備をして、お時間までには伺わせて頂きます」 私はそう言って頭を下げた。上様は最後にもう一度優しく微笑まれてから表へと行かれた。
「お里様、本当に大丈夫でございますか? 早く着替えてしんどくなられてはいけませんので、お着替えは出掛ける直前にいたしましょうね」 おぎんさんがそう言ってくれたので、私は一度座って優と遊びながら落ち着くことにした。
「ありがとうございます。 さっ、優、母上と遊びましょうか」 優は私の顔を見てニッコリと笑うとおもちゃを振り回した。
優と遊んでいると私の緊張も段々とほぐれてきた。優のお腹を満たし、おしめを替えてから私も準備を始めた。最近は軽い着物を着ていることが多いため、分厚い打掛を着ると気が引き締まったような気がした。
「お里様、出来ました」 おぎんさんは少し離れたところから、全体を眺められうんうんと納得されたように頷かれた。
「ありがとうございます」
「失礼いたします」 その時廊下から声がした。菊之助様のお声だった。
「はい おはいりください」 私が返事をすると、菊之助様はお部屋に入って来られた。
「準備の方は整っているようですね。本日は裏の小屋から中奥に向かって頂くので、私がお迎えにあがらせて頂きました」
「ありがとうございます」 私はそう言って頭を下げた。
「優姫様は大丈夫でございましょうか? お里殿と離れられて泣かれたりされませんか?」 菊之助様は優に笑顔を見せながらおっしゃった。
「おぎんさんがいてくださるので、大丈夫だと思います」
「そうですか。そんなに長い時間ではございませんので」 と菊之助様はおっしゃった。
「優、母上は父上のお仕事をお手伝いにいってまいりますね。いい子でお留守番をしていてね」 私はそう言って優の手を取った。優は不思議そうな顔をした後、ニコッと笑い返してくれた。
「それではまいりましょう」 菊之助様が立ち上がられたので私も続いて立ち上がろうとした。そのとき、菊之助様が手を差し出してくださったけれど、私は上様がまた嫉妬されるかと思い一瞬戸惑った。
「上様には了承済みです」 菊之助様はクスッと笑っておっしゃった。私も笑い返して「ありがとうございます」 とその手を取った。優は私が部屋を出て行く時も、笑顔のままでいてくれたので私はひと安心して部屋を出た。
そのまま、小屋を通り中奥の廊下へ向かった。
「上様がお里殿が緊張されているようで、とても心配されていました」 歩きながら菊之助様がおっしゃった。
「はい 朝はかなり緊張していたのですが、優と遊んでいると落ち着いてきました」
「それは良かったです。本当に緊張されなくても大丈夫ですよ」 と菊之助様が言ってくださった。
大広間の手前の控室のようなお部屋に入ると上様は既に席に着かれていた。
「失礼いたします」 私が一旦廊下に座って挨拶をすると、上様はすぐに私の傍まで来てくださった。
「ああ ご苦労」 と言いながら私の手を取ってくださり、席まで連れて行ってくださった。
「上様、それではまた後でお声をかけさせて頂きます」 と言って菊之助様は一旦下がられた。
「お里、久しぶりにそこまで着飾った姿を見たがやっぱり綺麗だな」 上様は笑顔でそうおっしゃった。
「ありがとうございます。上様にそう言って頂けると嬉しいです」 私も笑顔で答えた。
「どうだ? だいぶ落ち着いたか?」 上様はまだ心配してくださっていたようだった。
「はい 先ほどまでは優が、ここからは上様がついていてくださるので大丈夫でございます」 と私は心配させないように微笑んで言った。
「そうか、なら良かった」 上様はホッとされたようなお顔をされた。
しばらくすると、菊之助様が呼びに来られたので私たちは立ち上がって大広間に向かう準備をした。上様はずっと手を取って(握って)くださっていた。大広間につながる部屋の前まで来ると、一旦立ち止まって上様は私の方を見られ頷かれたので、私も頷いて返事をした。
部屋に入ると、お役人様が5人ほど頭を下げられていた。私たちはその前を通り、一段高くなっているところまで歩き、上様は先に私の席まで連れて行ってくださった後、ご自分の席に着かれた。私も上様が座られたのを確認した後席に着いた。
(これはお清様から言われていたことである)
「おもてをあげよ」 と上様がおっしゃると、お役人様はゆっくりと顔を上げられた。
「奉行、久しぶりであるな」 上様が真ん中に座られていた方にお声をかけられた。この方は、以前村で・・・そして、上様の偽物が登場した時にいらっしゃった方だった。
「上様におかれましてはご機嫌麗しく・・・」 とお奉行様が話始められたところで上様が「もうよい」 とおっしゃった。
「はっ」 と言ってお奉行様は頭を下げられた。私はうつむき加減でその様子を見ていた。
(真っすぐ顔をあげてはならないと言われていたわね)
「上様、失礼ながら本日は御台所様ではなく・・・」 とお奉行様が私の方を見られ、何と言っていいかわからないようなお顔をされた。
「お里だ。これから御台所の名代をつとめることとなるから、知っておけ」 とおっしゃった。
「かしこまりました。私どもは北町奉行所のものでございます。今後ともお見知りおきを」 とお奉行様がおっしゃると、他の方も一緒に頭を下げられた。私は軽く微笑んで、少しだけ頭を下げた。
(これもお清様に言われていたわ。決していつもみたいに、頭を床に付けようとしないように・・・そして、声は出さずすべて会釈で答えなさいと・・・)
「あの・・・もしかして・・・上様? 私はお里様と村でお会いしたことがございましたか?」 と上様に尋ねられた。
「ああ よく覚えておったな。そうだ」 と上様はにこやかにおっしゃった。お奉行様はやはりというお顔をされた。そのとき、上様は私にしか聞こえない程のお声で「その後も会っているはずだがな」 とおっしゃって、私を見られたので私は苦笑いを返した。
(どうやら捕り物があったときの町娘が私だということはわかっておられないようだわ。菊之助様がうまくごまかしてくださったんだわ)
「ところで奉行、町の様子を知らせてくれ」 上様はお仕事モードのお顔をされた。お奉行様は、地震が起きたあと町の混乱に乗じて強盗の類が多発していたこと。その後、巡回を強化した結果、最近は数が減ってきたことを報告された。上様はその報告を受けられ今後も巡回を怠らぬように、また、時々昼も巡回がてら役人が町を歩くことも大切だとおっしゃった。その時に、町のもの達が困ったことを言っていたら報告するようにと指示された。お奉行様は、上様のお言葉ひとつひとつに返事をされ、今後のことについて話し合われていた。
(こういうときの上様はいつものかんじとは全く違い、とても凛々しくてかっこいい。お声もいつもよりも低く、威厳があるのです)
私は俯きながらも、上様のお顔を盗み見していた。そして、上様が私の方を見られたので、目が合った。
「・・・?」 私は一瞬話を聞いていなかったので、頭が真っ白になった。
「話は以上だ」 と上様がおっしゃった。(たぶん、2回目・・・)
そしてクスッと笑われた・・・お役人様たちは既に頭を下げられていたので、見られなくて本当に良かったと思った。
私は急いで立ち上がる準備をして、上様が手を取ってくださるのを待った。行きと同じように上様が手を取りに私の席まで来てくださり、そこから同じようにお役人様たちの前を通り部屋を出た。
控室へ戻り、襖が閉められると上様は声を出して笑われた。私は最後の最後に失敗してしまった恥ずかしさで真っ赤になった。
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