乳母
「上様、少しお話をよろしいでしょうか?」 菊之助様は頃合いを見計らって尋ねられた。
「ああ」 上様はお返事をされると私を見られたので、私は上様から優を受け取りにいった。上様はご自分の席に着かれ、衣服を整えられた。
「昨日、御台所様にお里殿が無事にお子をお産みになられたことをお伝えいたしました。御台所様は、今日は一日お里殿のお傍についておられてはいかがとおっしゃっていました」
「そうか・・・そうさせてもらおう」 上様は頷きながらおっしゃった。
「それから・・・乳母の件について相談しておいてほしいと・・・」
「乳母か・・・」 上様は考えるようにされてから、私の方を見られた。そして「お里」 と私を呼ばれた。おぎんさんが私の元へ来られるとお優を預かってくれたので、私は返事をして、上様のお傍までいった。
「今は辛くないか?」 上様はまず私の体調を気遣ってくださった。
「はい、大丈夫でございます」
「そうか、足は崩しておいてかまわないからな」 私は足を崩しておしりを付く方が辛かったので、正座をしたままでいた。
「あのな・・・お里、これまで大奥では側室は子を産み、その後の子育ては乳母にまかせている」 上様が少し話にくそうにされた。
「はい」
「乳を飲ませるのも、おしめを替えるのも乳母がやるのだよ」
「えっ?」 私は少し驚いて声をあげた。
(それでは、母として何をされるのだろう?)
「乳母は子を産んだ後、まだ乳が出る女中から選ばれる」
「・・・・」
「お里? 嫌か?」 上様は私の顔を覗きこんでおっしゃった。
「・・・・」
「お里、いいから言ってみなさい」 上様は私を優しく見つめながらおっしゃった。
「私は自分の手でお乳を飲ませ、おしめを替えて優を育てたいと思っております」 私はどうしても乳母という制度が受け入れられず、半泣きになりながら言った。
「だが、子は夜も泣き、何度も起きて乳を飲ませなくてはならない。乳母に任せておけば、お前は今までの生活を変えることなく夜はゆっくり眠れる、昼間に優を可愛がればよい」
(きっと、上様の中では乳母が子育てをされることが当たり前なのだろう・・・上様もそうやって育ってこられたに違いない。悪気があっておっしゃっているわけではないのはわかるけど・・・)
「それは決まりなのでございますか?」 私は下を向いたまま聞いた。
「決まりであるかどうかは正確ではないが・・・みな、そのようにしている」 上様は困ったようにおっしゃった。
「上様はそれでよろしいのですか?」
「いいとか悪いとかではなく、私はお里にとってはその方が体が楽だと思って言っているのだ」
「上様がどうしてもそうしろとおっしゃるなら、私はここではないところで優を育てたいと思います」 私は疲れもあったのか、普段なら冷静になれるのにイライラが抑えられなかった。私は感情的に話をしていることに自分でも驚いた。
「お里、ちょっと待て」 上様は私の言葉に驚かれたようだった。
「申し訳ございません。少し頭を冷やさせて頂きます」 私はおぎんさんから優を預かり、自分の部屋へ駆け込むと襖を閉めた。
上様が「おい」 と呼び止められたけれど、これ以上話をすると上様を困らせてしまうと思った。私は部屋の布団の上で優を抱きしめて泣いた。優は自分の手でお乳を飲ませ、おしめを替えて育てていけるものだと思っていた・・・自分がお乳が出ないとか病気であるとかではないのに、他の人がお乳を与えるということがどうしても納得いかなかった。
しばらく泣いたら、自分の気持ちが落ち着いてくるのがわかった。それを見計らったようにおぎんさんが部屋に入って来られた。
「お里様?」 おぎんさんは私の横にそっと座って、背中をなでてくれた。
「申し訳ございません。私はおりんさんのように、ここで優をずっと自分の手元において過ごせるものと思っておりました」
「お里様のお気持ちはわかります。ですが、大奥にも習いがあります」
「はい、わかっております。わかっているのですが・・・」 そう言っておぎんさんを見ると、おぎんさんは優しく私を見つめられた。
「お里様のお気持ちをもう一度上様に話されてはいかがですか? 上様もそうしたいとおっしゃっています。お里様のお気持ちが落ち着かれたら話をさせてくれと・・・」
「はい・・・わかりました」 私はそう言って頷いた。
「優姫様はよく眠られていますね。お話をされる間、私が預からせて頂いてもよろしいですか?」 おぎんさんがそう言われたので、私は頷いてからおぎんさんに優を預けた。おぎんさんは優を抱っこされたまま、向こうの部屋へ行かれた。しばらくすると、襖を少し開けて上様が覗かれた。
「お里、入ってもいいか?」
「はい・・・」 私が返事をすると、上様は私の前に座られた。私は俯いたままでいた。
「お里、すまなかった。お前の気持ちを聞かずに、私が一方的に話をしてしまった」
「いえ、感情的になってしまい申し訳ございません。私がこの大奥でのしきたりについて知らな過ぎたのでございます」
「お里? 私は自分の子供と遊んだことがないと以前に言っただろう?」
「はい」
「私も乳母に育てられた。父上は私に用事があるときにしか会わなかったし、母上も昼はよく遊んでくれたが、夜になると乳母と一緒に自分の部屋で寝ていたのだ・・・だから、どのように子を育てるかということを知らずに育った・・・それが当たり前だと思っていたし、将軍としてこの城に入ってからも、みながそうしていたから何も不思議に思うことがなかった」
「はい、わかります」
「お里はいつも大丈夫だと言いながら無理をする・・・だから、乳母に任せた方がゆっくり休めると思った・・・でも、お里の気持ちは違ったのだな・・・聞かせてくれるか?」 上様は優しく尋ねてくださった。
「はい・・・上様と私の大切な宝物が誕生し、私は自分でお乳を飲ませ、おしめも替えたりしながら一日ずっと一緒にいて、成長する優を見ていきたいと思っています。夜に何度も起きることなど、苦にはなりません。それ以上に幸せを感じることの方が多いでしょう・・・その成長を上様と一緒に見守っていけるものだと・・・」
「そうか・・・そういう幸せを味わっていくのか・・・私は何もわかっていないな」 上様の声が辛そうだったので私は顔を上げて上様を見た。上様は悲しそうな顔をされていた。
「でも、上様が私のことを思って言ってくださったことは有難いと思っています」 私がそう言うと、悲しそうな顔をされたまま頷かれた。
「上様、お願いします。私の手で優を育てさせてくださいませんか? 他の決まり事は、全てそのようにさせて頂きますがこの事だけは・・・お願い致します」 私はそう言って頭を下げた。
「お里、頭をあげてくれ。私は無理にお里に言うことをきかそうと思っているわけではない・・・お里がそうしたいというのなら、そのように御台所に話そうと思っている・・・ただ、体を壊すような無理だけはしないでくれ。しんどいときにはおぎんやお常を頼ると約束してくれるか?」
「はい、約束いたします。今もおぎんさんがおしめを替えてくださったりしているので助かっています。私は、ずっと優を傍におくことができればそれで・・・」 私がそこまで言うと上様は私を抱きしめられた。
「優は私とお里の宝物だ。それはわかっている・・・だが、私もずっと一緒にいるということも忘れないでくれ」 上様は私の耳元でそうおっしゃった。
「はい、もちろんでございます」 私はそう言いながら頷いた。上様は少し体を離されて、私を見つめられた。
「おぎんが言っていたように、私は優に嫉妬しそうだよ」 そう言ってハハハと笑われた。
「上様、3人一緒でないと幸せではないのです」
「ああ わかっている」 上様はそうおっしゃると、優しくキスをしてくださった。隣におぎんさんも優もいたけれど、今だけは上様との時間を大切にしたかった。
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