由来
廊下から明るい日差しが入ってきだした。まだ春が来て間もないため朝は冷えこむ日もまだあった。
「お里様、寒くはございませんか?」 おぎんさんが聞いてくれた。
「いえ、お部屋の中は暖かいので大丈夫です」 部屋の中は、冷えないために夜通し火鉢を焚いてくれていたため暖かかった。
「上様、私は少し外させて頂いてもかまいませんか? 平吉に知らせたいのですが・・・」 おぎんさんが言われた。
「ああ おぎんも寝ずにご苦労だったな。少し休んできてもかまわないぞ」 上様は赤子を抱っこされたままだったので、声を抑えておっしゃった。
「いえ、朝のお食事の支度には間に合うように戻りますので」 おぎんさんはそう言うと、お部屋を出て行かれた。
「おぎんさん、眠られていないのに大丈夫でしょうか?」 私は上様に聞いた。
「ああ おぎんは慣れているだろうからな。今は私とお里を二人にしようと気を使ってのことだ。平吉なら、朝になれば必ず私のもとへ御用聞きにやってくるのだから」
「そうなのでございますね」 私はおぎんさんはやはりすごいと感心した。
「上様? よく眠っているようなので、こちらのお布団へ寝かせてください」 私は上様の元へ小さな布団を持っていった。上様はそっと、そのお布団に赤子をおかれた。すると、少し起きそうに体を動かした後、また気持ち良さそうに眠ったようだった。私と上様は二人で顔を見合わせてクスッと笑った。
「お里、この子の名前なんだがな・・・」 私は無事に子が産まれたら上様から名前を聞こうと思っていたのだった。
「はい」
「ゆう というのはどうだろうか?」 上様はそうおっしゃられた後、私を窺うような目をされた。
「ゆう でございますか?」
「ああ お里のように優しい子に育って欲しいという願いを込めて・・・優という名にしようと思う」 上様はそうおっしゃると、一旦席をたたれて文机に向かわれ、紙を一枚持って来られて私に見せてくださった。そこには、『優』と一文字書いてあった。
「ですが、上様が名のられているお夕様と同じ読みになってしまいますね」 私は上様が私と出会ったときお夕の方様としてこのお部屋におられたときのことを思って言った。
「ああ だから『お夕』はもうお終いだ。もうこの部屋はお里の部屋になる。表だってそう呼ばれることはないだろうが、私はそのつもりだ・・・どうだ?」 上様はそうおっしゃられると私の手を取ってくださった。
「素敵なお名前でございます。この字には上様に優しく見守られて育っていけるようにという意味もありますね」 私は笑顔でそう言った。
「そうか あーよかった。気に入ってもらえなかったらどうしようかと思っていたからなあ」 上様は大きく息をつかれた。
「上様が一生懸命考えてくださったお名前です。気に入らないわけがありません」 私は上様の傷だらけの手をさすりながら言った。そして、気持ち良さそうに眠っている赤子を見つめた。
「あなたは優と名付けられましたよ。父上と母上があなたを優しく見守ります。だから、あなたも沢山の人に優しさをあげてね」 私がそう言っている間に上様は私の膝に頭を乗せられた。
「お里、しんどくなければ少しだけいいか?」 そう尋ねられたので、私は上様の頬を撫でることで返事をした。上様は気持ち良さそうにされていた。そして「ああ 本当に幸せだ」 そうおっしゃると私と目を合わせて微笑まれた。私はこのひと時を一生忘れないだろうと頭の奥に刻み込んだ。
上様は私が疲れてはいけないとすぐに座られた。
「お里、しばらくの間は無理をしてはいけない。優が寝ているときは一緒に寝ておくようにな」 上様はそうおっしゃると私を抱き上げて、布団の方へと連れて行ってくださった。私は素直に布団に横になることにした。上様は優の横に寝ころばれて、肘をつく体勢で優を見られていた。襖は開けたままにしてくださっていたので、私はその様子を布団の中から見ていた。上様は私の視線に気付かれると、嬉しそうに笑われた。初めて家族3人で過ごす幸せな時間だった。
私はウトウトと1時間程眠っただろうか・・・目を覚ますと、上様も優の隣で眠っておられた。その上様にちょうど布団をかけようとしていたおりんさんと目が合った。おりんさんは、ニコッと笑われそっと私の傍に来てくれた。
「お里様、ただいま戻りました。朝食は上様が起きられてからでもかまいませんか?」 そう耳元で言われたので、私は頷いて返事をしてから起きようとした。
「まだ横になられていても大丈夫ですよ」 おぎんさんがそう言ってくれたので、私はそのまま布団に横になり上様の寝姿を見ていた。おぎんさんは、私の部屋の方で優のおしめや着替えなどを整理してくれていた。
しばらくして目を覚まされた上様は、優を確認されると微笑んでおられた。そして、それをジッと見ていた私と目が合うと照れくさそうに笑われた。
「お里、起きておったのか・・・すまない・・・寝てしまっていたよ」 上様は私の傍に来てくださり腰を下ろされた。
「上様もお疲れですのに・・・優を見て頂きありがとうございます。二人の姿をここから見ながら、とても幸せな気分を味合わせて頂いておりました」 私がそう言うと上様は「ああ」とだけおっしゃった。
おぎんさんは上様が起きられるとすぐに朝食の準備をしてくれたので、私たちは朝食をとることにした。 お常さんが気を使ってくださり、食べやすいものを用意してくれたのでしっかりと食べることが出来た。
食事が終わる前に、優が起きたのでおぎんさんがおしめを替えてくれた。その後に、私がお乳を飲まし終えると上様が「私が抱いているから、お里は食事を済ましてしまいなさい」 とおっしゃった。私は上様にお任せして、食事を終えた頃に菊之助様がいらっしゃった。
「上様、お里殿おはようございます。昨日は産声を聞いた後、私は家に帰らせて頂きました。本当におめでとうございます」 とおっしゃり頭を下げられた。
「菊之助、ありがとう」 と上様がおっしゃった後、「菊之助様、ありがとうございます」 と私も続いて頭を下げた。
菊之助様は上様が抱っこされている姿を見られて微笑まれた。
「上様、お顔を拝見させて頂いてもよろしいですか?」 菊之助様が尋ねられると上様は嬉しそうに「ああ」とおっしゃった。菊之助様は上様のお傍までいかれ、横から優を覗きこまれた。
「なんと、お可愛らしい・・・」 菊之助様は笑顔で優を見つめられた。
「そうだろう」 すっかり優の虜になっておられる上様はすぐに反応された。
「おりんも早くお会いしたいと言っていたのですが、彦太郎と一緒ではお里殿が落ち着かれないだろうと、また後日伺わせて頂きます」 菊之助様が私に向かっておっしゃった。
「きっと彦太郎さんが来てくだされば、優も喜ぶことでしょう・・・いつでも、来てくださいと伝えてくださいね」 私がそう言うと、菊之助様はお礼をおっしゃった。
「お名前を決められたのですね?」 おぎんさんが言われた。
「はい 上様に優と名付けて頂きました」 私は上様が書いてくださった紙を指さして言った。
「優姫様ですか・・・いいお名前でございます。これで、お夕の方様はお役御免でございますね」 そう言って菊之助様は上様の方を向かれ微笑まれた。上様は 「ああ」 と返事をされた。
(さすが菊之助様、上様のお考えがわかられているのだわ)
しばらく上様を見られる菊之助様の優しい視線を私は嬉しい気持ちで見つめていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。