出産
結局、お名前を聞くのは子が無事に産まれてからにしようと決めた私は上様にお伝えした。上様は「お里ならそう言うような気がしたよ」と言って微笑まれた。
その日、上様はお昼過ぎまでお部屋で菊之助様と一緒に仕事をされるとのことだったので、私とおぎんさんは自分の部屋で縫い物をして過ごしていた。同じ体勢でずっといたせいだろうか、お腹が少し張るような感じがした。私は休憩がてら姿勢を楽にして、お腹をさすった。
「お里様?」 おぎんさんが心配そうに聞かれた。
「少し、お腹が張ってしまったようだわ・・・」 私は痛みも少しあったけれど、それはよくあることだったので、とりあえず張りが治まれば大丈夫だろうと思いそう言った。
「それはいけませんね」 おぎんさんはそう言って、私がもたれられるように肘掛けを用意してくれた。私はそれにもたれながら「フーッ」と息をつきしばらくお腹をさすっていたが、痛みが治まりそうになかった。
「お里様、顔色が悪うございます。お布団に移動いたしましょう」 そう言って、おぎんさんは布団を敷く準備をしてくれた。そのついでに、上様のお仕事場に寄られて声をかけられているようだった。おぎんさんが準備を整えられ、私を呼ばれたと同時に上様がお部屋に入って来られた。
「お里、どうした? 大丈夫か?」 上様が私の顔を覗きこんで尋ねられた。
「はい、お腹が張ってしまっただけですから、大丈夫でございますよ。少し、布団で休ませて頂きますね」 私はそう言って立ち上がろうとした。すかさず、上様が手を貸してくださった。そのとき、上様が「ん?」 と声をあげられた。
「お里、座布団が濡れておるが汗でもかいているのか?」 上様が私にそう言われると、おぎんさんが急いで私に近寄られた。
「お里様!」 おぎんさんは私の座っていた座布団を確認されると、すぐに顔色を変えられた。
「上様、お子を産まれる準備を始めます。すぐに、菊之助様に言って匙を呼んでください。それから、しばらくお里様の手を握ってあげていてください。私は部屋の準備をいたしますので」 おぎんさんはハキハキとそう言われると、素早く動き始められた。
(破水をしてしまったようだわ。いよいよこの子に会えるのね。私も頑張らなくては・・・)
私は実際は2度目の出産だったためか、とても冷静でいられた。ただ、不安なのは江戸時代ではどのように出産するかということだった。私が頑張ることはどの時代でも一緒だけど・・・出来るだけ、自分が思うようにさせて頂こうかしら・・・そんなことを考えていた。上様は、おぎんさんが動き出されると「菊之助!」 と大声で呼ばれた。菊之助様は様子を察しられたようで襖の向こう側から返事をされた。
「菊之助、お里が産まれる! はよう匙を呼べ」 上様はそうおっしゃった。
(上様は相当動揺されているようだわ。私が産まれる・・・って)
菊之助様は「はっ」 とだけお返事をされて、小走りで廊下を出て行かれた。私がさっきのことで「フフフ」と笑っていると上様は真剣な顔で私を見られた。
「お里、大丈夫なのか?」 上様が尋ねられた。
「はい、ずっとお腹が痛いわけではございませんので」 私はまだ笑いながら言った。
「そうなのか・・・」 上様は大きくため息をつかれた。そして、私に出来ることはないかなど尋ねてこられたが、「こうやって手を握ってくださるだけで安心でございます」 私はそう言った。
そうこうしているうちに、お部屋にはお匙・・・年配の女性でこの時代も産婆さん(助産師さん)がいたようです。その助手の方、そしてお常さん、おぎんさんが揃われた。おぎんさんが、出来るだけ私がかしこまらなくていいように、手筈を整えておいてくれた。
「それでは上様、今から準備をいたしますので・・・ここからはお外でお待ちくださいませ」 産婆さんが上様におっしゃった。上様は私の手を握ったまま、動こうとされなかった。
「上様?」 私は上様にお声をかけた。
「私はここでお里と一緒にいる」 上様は低い声でそうおっしゃった。
「ですが上様・・・お産は出血も多く忌み嫌われるものでございます。上様のお体を汚すわけには・・・」 産婆さんはとても言いにくそうにおっしゃった。
「お里が子を産むことで私の体が汚れるというのか? そんなことをいうやつは私が成敗してやるわ」 上様は少し不機嫌な様子で産婆さんに向かっておっしゃった。
(これはマズイわ・・・産婆さんも困っておられる)
「上様? 本当にここにいてくださるのでございますか?」 私は上様に聞いた。
「ああ でもお里が嫌だというなら、出て行く」 上様は私の方を見ると優しくおっしゃった。
(私は以前、陽太を産んだときは一人で病院に行き、母がかけつけてくれてホッとしたことを覚えている。この時代、立ち合い出産なんてとんでもないけれど、それもいいかな・・・)
「わかりました。上様? 私のお傍にいてください。でも、もし気分が悪くなられたとしたらすぐに部屋を出てくださいね」 私は上様の手を握って、お願いするように言った。
「わかった」 上様はその手を握り返してくださり、穏やかにおっしゃった。
「では、申し訳ありませんが私のお腹あたりの両端にに衝立をして頂けませんか?そしてそこに、手ぬぐいをかけてそちら側が隠れるようにしてください」 私はさすがに全てを見て頂くのは恥ずかしいのと、産婆さんたちも上様とお顔をずっと合わすのは気を使われるだろうと思い、上様には私だけを見て頂けるようにそうお願いした。産婆さんの助手さんとおぎんさんが私が言ったようにしてくださった。
「お里様? これでよろしいですか?」 準備が出来るとおぎんさんが聞いてくれたので私は「はい ありがとうございます」 と言った。その頃には一旦、痛みも治まっていた。それでも上様は心配そうに私の顔を見られていた。
「上様、そんなに気を張っていられると最後までもちませんよ。これから、長いのですから」 私は上様が少し心配になった。
「ああ わかっているのだが・・・」 上様はそんな自分に気付かれたのか照れたように笑われた。
それからは、順調に痛みの間隔が狭くなっていきいよいよ私も苦痛に顔を歪めた。その度に上様は私の名前を呼んでくださった。
何時間が経っただろうか・・・私は汗で顔も体もぐっしょりと濡れていた。上様は、私の額の汗を手ぬぐいで拭ってくださり、時折頬を撫でてくださった。私は痛みが辛くても、上様が傍にいてくださることに幸せと安心を感じることが出来た。
「お里、すまない・・・私には何もしてやることができないな」 上様はそうおっしゃると苦しそうなお顔をされた。
「ここにいてくださるだけで、充分だと言っていますのに」 私はそう言って微笑んだ。
「お里様、そろそろいきんで頂きますよ」 産婆さんがそうおっしゃった。私は、産婆さんに頷いた。
「お里、頑張るんだよ」 お常さんも心配そうに私の顔を衝立の向こうから覗いて言ってくれた。
「はい」 私はお常さんにも頷いた。上様が握ってくださっている手は、私の汗なのか上様の汗なのかわからないくらい湿っていたけれど、そんな事は気にならなかった。
「お里、私の手をしっかり握ってくれていいからな」 上様は私が連れ去られたときも、倒れたときもこんな心配そうなお顔で私のことを見守ってくださっていたのだろうな・・・と改めて思っていた。私は遠慮なく上様の手を思い切り握らせて頂いた、何度か大きくいきんだ時私の感覚が変わった。
私のお腹の下で、バタバタと忙しそうに産婆さんと助手の方が動いているのがわかった。そして、一瞬シンッと静まり返ったかと思うと・・・
オギャー!!
大きな産声が聞こえてきた。私は、その声を聞いて大きく息を吐いた。
「上様、お里様、おめでとうございます。玉のように可愛い女児でございますよ」 産婆さんがおっしゃった。
「そうか・・・そうか・・・」 上様は私の顔を見て、一気に力が抜けたようにおっしゃった。私はまだ大きく深呼吸をしていた。
「お里、よく頑張ったな・・・」 上様は何度もそうおっしゃり、涙を流しながら私の頬をなでてくださった。私は笑顔で何度も頷いた。
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