兆候
上様は次の日から通常のお仕事に戻られた。背中の痛みもだいぶ和らいでこられたようだった。
「お里、また今日から私は仕事に戻るが何かあればすぐに言うんだよ」 いつもの上様の心配症が朝から出ていた。
「はい、おぎんさんもいてくださいますので大丈夫でございますよ」 私もいつものことなので、何度もそう答えた。朝の総触れが終わられると一度戻られ、お部屋でお仕事をされてお昼に表に行かれたけれど、夕食の前には戻ってこられた。その後、夕食を一緒に取った後夜の総触れに向かわれた。私はお戻りになった上様に言った。
「上様、何だか慌ただしくはございませんか? 私のことを心配してくださるのはとても嬉しいのですが・・・これでは、落ち着いてお仕事が出来ないのではと・・・」
「そうだな・・・私は大丈夫だがこんなにバタバタと出たり入ったりしてはお里が落ち着いて休めないかもしれないな」 上様は顎に手を当てて考えながらおっしゃった。
(どちらにしても、私を心配してくださるのだわ)
「では、やはり総触れが終わってからこちらに戻ってくることにしようか。いや・・・でも、それだとお里と一緒に食事が出来ないか・・・」 私は真剣にあれやこれやと考えておられる上様が愛しくてジッと見つめていた。
「それでは 上様? 朝食はいつも通り一緒に取らせて頂いて・・・お昼を一緒に取れるときは、朝の総触れが終わってから戻られて・・・お昼を一緒に取れないときは夕食を一緒にとって頂けないですか?」 私は上様のご負担にならないような案を提案してみた。
「そうだな・・・そうしよう。それならお里も私が戻ってくることがわかってゆっくりと休める時間が出来るな」 上様はパッと明るいお顔をされておっしゃった。
「私は充分にゆっくりさせて頂いておりますよ。何もすることがなくて暇なくらいでございます」 私は掃除もさせてもらえないので、一日何をしようかと思うことがよくあった。
「そうか・・・だったら、村にいたときのように本を読んでみるか? またお里が読めそうな本を持ってこよう。わからないところは私に聞けばよい」
「本当でございますか? それならば、体に負担をかけることなく楽しむことが出来ます」 村からお城に戻ってからは、お仲様の市の準備などを手伝っていてあまり本を読んでいなかったので嬉しかった。まだ、読めない字や意味の分からない言葉があるけれど、上様は丁寧に解説してくださる・・・本も私が読みやすいものを選んでくださる。私は上様と読書をする時間がとても楽しかったことを思い出した。
「ああ わかった。じゃあ、そうしよう」 上様も微笑んでおっしゃった。私が楽しそうにどんな本を持ってきて頂けるのか楽しみですと言うと、上様も嬉しそうにこんなのはどうだ?と話してくださった。
「お里、明日の朝匙に来てもらう。総触れが終わった頃に来るように言ってあるから私も話しを聞こうと思っている」 本の話が一段落した頃、上様がおっしゃった。
「はい わかりました」 私もお腹の子のことが心配だったので、お匙に診てもらえることに安心した。特に、安静にしているように言われている間体に異変はなかったから、自分の感覚では大丈夫だと思うけれど・・・やはり、お匙に診てもらって安心したかった。
次の日、お匙の診断では体の方も安定してきているが今からつわりなども出てくるだろうから危ないことはくれぐれもしないようにとのことだった。今まで通り普通に過ごす分には問題がないとのことだったので上様も私も一安心した。
「お里、とりあえず良かったな。これからも体を大事にして、無理をせず過ごすのだぞ」 上様は笑顔でおっしゃった。
「はい、ありがとうございます」 私も笑顔で答えた。普通に過ごすと言っても、相変わらず総触れはお休みをしていたし、掃除や片付けもさせてもらえなかったので静養しているようなものだった。ただ、おぎんさんが来てくれて色々な話をするのが楽しみだった。上様も、二人で決めたように昼食か夕食は一緒にとってくださった。その後は、つわりの兆候もなく毎日元気に暮らしていた。
ある日、上様がお昼過ぎまで菊之助様とお部屋でお仕事をされるとのことだったので、おぎんさんは一度おりんさんの様子を見に行かれた。
私は自分の部屋で上様が選んでくださった本を読みながら過ごしていた。そのとき、廊下を小走りに走って来られ、「失礼いたします」 というおぎんさんの声と同時にお部屋に入って来られた。
(おぎんさんにしては珍しい)
私は少し胸がざわついた・・・
「おぎん、どうした?」 上様も少し慌てて尋ねられたようだった。
「はい、先ほどおりんが産気づいたようでございます。お匙に使いを出しましたが、先にこちらにお知らせをと・・・私はすぐに戻らせて頂きます」 そう言われるとおぎんさんはすぐに廊下を戻られた。
「ああ わかった。菊之助、すぐに戻る支度を致せ。後のことは私がやっておく」 上様が菊之助様に急ぐようにおっしゃった。私も襖を開けて、隣の部屋に行った。
「菊之助様、おりんさんに頑張るようお伝えください。菊之助様も落ち着いてくださいね」 私も焦る菊之助様にお声をかけた。
「上様、お里殿ありがとうございます。何かございましたら使いをよこしますので・・・申し訳ございませんが私はこれで失礼させて頂きます」 菊之助様は急いでおられたけれど、私たちに丁寧にご挨拶をされてお部屋を出て行かれた。残された私たちは、どうしたらいいものか一瞬動きが止まったようになってしまった。
「上様? 何か菊之助様が残されていることで私に出来ることはございますか?」 とりあえず私に何か出来ることがあるのか聞いてみた。
「今、書状を書いていたところだ。ならばお里、これをここにあるものと同じように折っていってくれるか?」 その横には、既におられている書状がいくつかあった。これを見本にして折るぐらいであれば私にも出来そうだった。
「はい、わかりました」 私は上様の文机の方へ行き書状を折り始めた。その間も上様は紙に向かってスラスラと字を書かれていた。こんなに間近でお仕事をされている様子を見ることはあまりなかったので、なんだかその姿がとても素敵で見惚れてしまいそうだった。
「お里、どうした?」 私の視線に気付かれた上様が声をかけられた。
「机に向かっておられる姿を間近で見るのは初めてなので・・・」 私はその先が恥ずかしくて言えなかった。
「初めてだから? ・・・見直したか?」 上様はニヤリとされておっしゃった。
「はい・・・」 私はそう返事をした後、顔を赤くした。上様はそんな私を見てハハハと声を出して笑われた。
「そうか・・・それは良かった。さあ、そろそろ一段落だ。少し早いが二人で食事をとろうか」 上様がそうおっしゃったので私も席を立ち、廊下へお膳が来ているか見に行こうとした。上様は私が行くとおっしゃり、私より先に歩いて廊下へお膳を取りに行ってくださった。さすがに、お膳の準備をしてもらうわけにはいかないので、私がそこから先は準備をさせてもらった。食事をしながら、おりんさんの話となった。
「おりんの子はどれくらいに産まれるのであろうなあ」 上様がそうおっしゃった。
「今からですと・・・初めての出産になりますので、早くても夜か明日の明け方でございましょうか・・・」 私は自分が陽太を産んだときのことを思い出して言った。
「そんなにかかるのか?」 上様は驚かれていた。
「はい、人にもよりますが・・・平均的にはそんなものかと思います」
「そうか・・・それは菊之助も気が気ではないだろうな」 時間の長さをご自分と重ねられたのだろうか、菊之助様のことを思われたようだった。
「そうでございましょうね。お部屋の周りをウロウロされることでしょう・・・きっと、無事に産まれます。私も祈りたいと思います」
「ああ そうだな。母子ともに健康である報告を待つとしよう」 上様は明るくおっしゃった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今年最後の投稿です。今年は、初めての投稿から徐々に沢山の方に読んで頂けて嬉しい年となりました。
また来年も、頑張って更新させて頂くのでよろしくお願いいたします。
みなさん、よいお年をお迎えください。




