不安払拭
次の日の朝も上様と私はゆっくりと過ごした。菊之助様もおぎんさんも来てくださったけれど、特に変わったこともないとのことだった。
菊之助様は少しだけ上様と表のお仕事の打ち合わせを終えられると、お部屋を出て行かれる前に挨拶をしてくださった。
「菊之助様? おりんさんの具合はいかがでしたか?」 私は昨日、菊之助様がおりんさんの様子を心配して帰られたので、気になっていた。
「はい・・・ご心配を頂きありがとうございます。私が戻りましたら、ピンピンしておりました・・・」 菊之助様はそうおっしゃると、苦笑いをされた。
「ほら、言いましたでしょう? 本当に苦しそうであれば、私がきちんとお知らせいたします」 おぎんさんが呆れられたようにおっしゃった。
(上様もきっと、菊之助様と同じように・・・それ以上に私に過保護になられるはずだわ)
私も今後のことを想像すると、苦笑いをするしかなかった。
「それでも、もしものことがあった場合を考えるとな・・・菊之助、これからも表の仕事はその日の分だけ早めに済ませて、早く帰るがよい」 上様はそう菊之助様におっしゃった。
「いえ、おぎんの言うように今まで通り仕事をさせて頂きます。お気遣いありがとうございます」 菊之助様は上様に頭を下げられた。
「いや、そうしろ。私も菊之助と一緒に仕事を切り上げて、早めに部屋に戻ることにする」 上様は決心されたようにおっしゃった。
「まあっ」 私とおぎんさんは同時に驚いた声をあげてから、二人で顔を見合わせた。
「上様、それはご自分のためでございますね」 おぎんさんが言われた。
「いや、私のためでもあるが、菊之助とおりんのためでもある。一石二鳥というやつだ」 上様は爽やかに笑われた。それから私の方を見られておっしゃった。
「お里は私が早くに帰ってくるのは迷惑か?」
「迷惑なんてとんでもございません。お仕事はしっかりとして、私のことも心配してくださるのはとても嬉しいです」 私はそう言った。
「仕事はしっかりとする」 上様はそう言って私に微笑まれてから、菊之助様を見られた。
「ありがとうございます。私も、早くに仕事を切り上げられるよう今以上に励みます」 菊之助様はそうおっしゃると、頭を下げられた。
「まったく・・・」 おぎんさんは呆れてそう呟かれた。
「まあ そう呆れるな、おぎん。と言っても、私は総触れには出ねばならないし、何か変わったことがあれば遅くにもなる。ただ、それほどお里の傍にいたいということだ」 上様がおぎんさんにおっしゃった。私はそれを真横で聞いていて、少し恥ずかしくなった。
「はいはい、それはわかっております。私だってお里様を思う存分甘やかしたいのでございますから、上様のお気持ちはわかります。お里様はなかなか甘えてくださらないので、少々手こずっておりますが・・・」 おぎんさんはニコニコしながら言われた。
「そうなんだよ、おぎん。そういうところが可愛くてなあ」 そうおっしゃっている上様を菊之助様は今までのような冷たい視線ではなく優しいお顔で見ておられた。そして、うんうんと頷かれていた。
「あの・・・みなさん? 私は恥ずかしくて・・・どうすればいいのでしょうか?」 私は顔を真っ赤にして、俯いたまま言った。
「お里はそのままでいいんだよ」 そう言って、みなさんが一斉に笑われた。
(甘やかす甘やかすとおっしゃっているけれど、私はもう溶けてしまいそうなほど充分に甘やかされている・・・この場でそんなことをおっしゃるなんて、新手の意地悪かしら・・・)
どんどんと顔を赤くする私を3人さんはニコニコしながら見ておられた。
「もう見ないでください」 私は耐えかねて体ごと反対を向いた。もう一度、笑い声が一斉にあがった。一通り、笑い声がおさまると上様が膝をポンと叩かれた。
「菊之助、表に戻るのであろう? 私も一緒に行くとする」 上様が菊之助様におっしゃった。
「承知いたしました」 菊之助様も応えられた。
「では おぎん、お里のことを頼んだぞ。お里、ちょっといってくるからな。ゆっくりとしておきなさい」
「はい」 私とおぎんさんは一緒に返事をした。上様は立ち上がられ、廊下を出て行く前にもう一度私に微笑みかけてくださった。私もそれに応えるように頷いた。
「上様はお里様が不安に思われていることお気付きだったのでしょうね。だから、先ほどあのようなことをおっしゃったのでしょう」 二人になると、おぎんさんが言われた。
(昨日、何も心配することはないとだけおっしゃったけれど、私の表情が不安だったことをご存知だったのだわ。御台所様のところへ行かれる前に少しでも私が安心するように・・・)
「上様には隠し事ができませんね。こうやって、結局私は甘やかされているのです・・・」 私は上様の思いを痛いほど感じて、胸の奥が詰まるようだった。
「それが上様の幸せであり、お二人が幸せならばいいではないですか」 そう言っておぎんさんは私を見つめられた。
「はい」 私もおぎんさんを見つめながら言った。
「お里様? 少し甘いものでも食べませんか? お茶も淹れましょう」 おぎんさんは湿った空気を変えるように明るくおっしゃった。
「はい、甘いものは別腹でございますね」 私も明るく返事をした。おぎんさんと甘いおやつを食べたり、私も体調が戻ったら産まれてくるお子のために産着を縫おうという話になり布を広げたりしている間にあっという間に時間が過ぎたようだった。
「お里、戻ったぞ」 上様が入って来られた。
「おかえりなさいませ」 私は頭を下げた後、目の前に広げている布を片付けようとした。おぎんさんも一緒に手伝ってくれた。
「かまわないぞ。こんなに広げて何をしていたのだ?」 上様も布を一枚拾われて尋ねられた。
「お里様と産着を縫おうという話になりまして・・・どんな色がいいか話していたところでございました」 おぎんさんが言ってくれた。
「そうか、でもせっかくの産着だ。新しい布で作ってやるがよい。おぎん、そういたせ」 上様は微笑みながらおっしゃった。
「はい」 おりんさんがそう言われた後、「ありがとうございます」 と私も頭を下げた。
(私にとっての贅沢なら遠慮をしてしまうところだけど、上様のお子のためだからいいわよね)
上様は、拾った布をおぎんさんに渡されると席に着かれた。おぎんさんが「後は私が・・・」と片付けをしてくれたので、私は上様の方へ向かった。上様が隣へ座るように手でおいでおいでとされたので、私は隣に腰を下ろした。
「お里、どうだ? 体調はだいぶ戻ってきたか?」 上様は、体を私の方へ向けておっしゃった。
「はい、お常さんのおかげで食欲も戻ってきましたし、食べた後も気分が悪くなることもございません。先ほどなんて、おぎんさんとお団子をペロッと平らげてしまったほどでございます」 私も上様の方に体を向けて笑顔で答えた。
「そうか・・・じゃあ、2、3日後に一度匙にみてもらおうか」 上様はホッとした様子でおっしゃった。
「はい、よろしくお願いいたします」 私が言うと上様は頷いてくださった。
「それでな お里、匙から許可が出たなら一度御台所に会ってきてくれるか?」 上様は少し私を気遣うようにおっしゃった。
「はい、それはもちろんでございます」 私も御台所様へのご挨拶は当たり前だと思っていたので、そう言った。
「今まで側室が産んだ子たちは、御台所の指示のもと育てられている。やはり、お里のことだけ私が決めるというのはな・・・でも、私の気持ちなどは御台所へ伝えてきた。あとは、御台所とお里で決めてもらおうと思う・・・」 上様は、私の手を握られながらおっしゃった。
「私も御台所様のご指示に従うつもりでおります。上様、どういうご指示があろうと私はこのお腹のお子を元気に産むことだけを考えたいと思っております。上様が心配されなくても大丈夫でございます」 私は上様の手を握り返して言った。
「そうか・・・ありがとう。 なんだか、昨日と反対だな」 上様はフッと笑われた。
「本当でございますね」 私も一緒に笑った。
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