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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恋の話をしましょう

作者: minami

新宿地下街のレストランで夕食を食べていると、ピロ、と鞄の中で携帯が鳴った。取り出して開いてみると、メールが一件。差出人の名を見て一瞬、パスタをフォークに巻きつける手が止まった。琴子にとってそれは一瞬だった。まばたきする間ぐらい。でももしかすると、二分や三分平気で経っていたかもしれなかった。その間に十年の歳月を一気に遡ったのだから、無理もない。

 柏木未生、というその名前。みおってどんな漢字なの、と琴子が初めてそう尋ねたとき彼女は「未定の未に生きる、つまりわたしが生きるかどうかはまだ未定なの」と答えた。未生は小学六年生の中途半端な時期に引っ越してきて、琴子のいた小学校に転入した。それから琴子と同じ西東京市の中学に進み、二年生のまた中途半端な時期に引っ越して行った。

 たったの三年間。でもその三年間、琴子と未生はいつも二人で過ごした。お互い恋愛にも興味のない、閉鎖的な二人連れだった。二人とも本が大好きで、図書委員になったのをきっかけにすぐ仲良くなった。何を言っても互いが互いの考えを理解できる、という自信に満ち溢れ、その安心感たっぷりのぬるま湯に浸かっているのが、心地よかったのだ。

 にも関わらず、未生が引っ越してすぐ、連絡をとらなくなった。未生が越したのは横浜だったから、会おうと思えばすぐに会える距離だった。一度未生から琴子に、遊びに行こうと誘いのメールが来たものの、ちょうどクラスの男女グループでボーリングに行く予定が入っていて断った。それきりぷつりと連絡が途絶え、琴子からも何となく連絡するのが憚られて気付けば十年が経っていた。ずっと忘れていた訳ではない。高校生の頃、時折ネットで、柏木未生、と名前を検索してみることもあった。でも彼女の写真や情報が出てきたことは、一度たりともない。そして大学に入ってから今の今まで、未生のことなど琴子の頭の片隅にすらなかった。


「小学六年から中二にかけてよく遊んでいた、柏木未生です。覚えていますか? 突然連絡してごめんなさい。元気にしていますか? 琴子がメールアドレスをずっと変えていないことを祈ります。琴子はあんまりそういうのを変更するようなタイプの人じゃないと思うから、きっと届くんじゃないかな、と半分運試しみたいに思いながらこの文面を打っています。もし届いていたら、せっかくだから返信ください。待っています」


 何よりもまず琴子は、自分が十年もメールアドレスを変更していなかったことに驚いた。それから「琴子はあんまりそういうのを変更するようなタイプの人じゃない」なんてことを、あの幼い三年間のうちに未生が感じ取り、その特徴を今も記憶していることに、奇妙さを覚えた。

 未生がメールをよこした具体的な理由が分からない。こちらが一度返信をすれば何か切り出すのか、と予想をつけて、琴子はすぐに返信メールを打った。


「本当に久しぶり! で驚きました。私は何とかやっています。今は新宿区で一人暮らし。区の職業相談所で働いてるんです。未生はどうですか?」


 レストランを出て、地下街を西武新宿駅の方へと歩いていると、また携帯が鳴った。未生からだった。


「よかった、やっぱり届いた。元気そうでよかった。私は少し前まで飲食店で働いていたけれど、辞めました。高い金を持って高い食べ物と高い酒を注文しまくるお客さんたちは、まるで豚みたいです。豚の給仕係なんて、あほらしくってとてもやってられなかった。私も琴子に職業相談にのってもらおうかな、なんて。琴子は、彼氏はいるの?」


 整った語り口の中から「豚」という強烈な漢字が浮き上がって見える。琴子は記憶をたどった。もしかしたら時折そんな風に、刺激的な、辛辣な物言いをすることもあったかもしれない。未生も読書家だったから、文学を好む人特有の批判的な言い回しなのだろう、と当時は思っていた。


「大学の時からずっと付き合っている彼氏が居るよ。未生は?」

 そう返すとまたすぐに返事が来た。黄色い車体の西武新宿線に乗り込んで、画面を開く。

「じゃあ未生の彼氏は、ケーキの苺はいつ食べる? 先に食べちゃう? 途中で? それとも最後にとっておく派?」


 もしかしてこれは、嫌がらせだろうか。相手は未生ではなく、未生のフリをした誰かで、自分を困らせようとしているのか。琴子は急に警戒心を強めた。これ以上返事を送るのを少し躊躇ったが、一方で半ばゲームのように楽しんでいる自分もいた。ふと窓の外を見やる。ラブホテルの猥雑な看板が、宵闇にぼうっと浮かび上がっている。琴子は一旦閉じた画面をまた開き、未生からのメールをもう一度読み返して、返信のマークに触れた。


「私の彼氏は確か、先に食べちゃう人です。先に食べておいた方が色々と安心だからって、そんなようなことを言ってたような気がします。ところで、これは占いか心理テストか何か?」

 さあ、今度はどう来るか、とボードゲームで相手の駒の動きをうかがう時のように、琴子は鼓動の音が速まるのを感じながら不適な笑みを浮かべた。ピロ、と音が鳴るとすぐに画面を開いた。

「いいね。先にぱくっと食べてしまうのが一番きれいだもん。私が嫌いなのはね、途中でちびちびちびちび食べる人。一口で食べちゃえばいいじゃない? それをわざわざ、フォークでスポンジを切るついでに苺も一緒に切って、少しずつ口に運ぶ。苺の汁も垂れて、ぐちゃぐちゃになった生クリームをあかく染めて、汚いったらありゃしない。唇の端にも生クリームをつけて、嬉しそうに頬張っている。そんな食べ方見てると本当に反吐が出そう。いっそ殺してやりたくなるぐらい」


 背筋をすっと冷たいものが這った。途中までは迷惑メールを読むときのように面白半分で眺めていた琴子も、最後の「殺してやりたくなる」という言葉に胸が騒いだ。これ以上踏み込んではならない。本能がそう警告していた。ケーキの食べ方ひとつで、殺してやりたくなるだなんて。

 琴子はもうそれ以上返事をせず、柏木未生のアドレスを迷惑メールに登録しておいた。何となく薄ら寒く、アパートに帰るとすぐ、恋人の省吾に電話をかけた。事の次第を話すと、琴子が昔フッた男が嫌がらせか何かでその子に成りすましてるんじゃないか? と冗談っぽく言うもんだから、少しだけ恐怖も薄らいだ。

「省吾、今何してるの?」

「相変わらず設計図と睨めっこ」

 電話の向こう側から、大きな欠伸の音が聞こえた。省吾は建築学科の院を卒業し、つい数ヶ月前に設計事務所に見習いとして入ったばっかりだ。

「省吾の家行っちゃだめだよね?」

「設計図だらけで、足の踏み場がないんだ。よかったら俺が琴子の家に……」

 省吾がそう言いかけた途中で、いい、いいの、と琴子は明るい声で遮った。省吾が忙しいのは百も承知だ。こうして電話ができるだけでもありがたかった。


 心が少し落ち着くと、ふと思い出して、箪笥の引き出しの中に入れておいたポーチを取り出した。その中には、中学から大学一年ぐらいにかけて撮ったプリクラが全部入っている。ビー玉のように大きな瞳たちを掻き分けて、一枚だけ見つけることができた。一回だけ、近くのショッピングセンターに、未生とプリクラを撮りに行ったことがある。二人とも、こういうのあんまり好きじゃないんだよね、なんて格好つけながらも、ちゃっかりポップな落書きをしていた。二人の周りにはハート型のスタンプが散りばめられ、「我ら友情永久不滅」と書かれている。プリクラだから大いに加工はされているものの、未生の端整な顔立ちを思い出すには充分だった。目、鼻、口、全てのパーツが小ぶりで、それらが白い肌の上のベストポジションにそっと馴染んでいるような、自然で美しい顔立ちだった覚えがある。


 「所長、呼んでこようか?」と琴子の上司の佐倉さんが、まだ閉まったままの自動ドアを険しい目つきで見ながら言った。佐倉さんは三児の母だがどこか少女のようなかわいらしい顔つきをしていて、でもその一方で面倒見がよくからっとしている。

 自動ドアの向こうには、男性がひとりガラスにへばりつくように突っ立って、八時三十分になるのを待っている。齢はもう五十に差しかかろうかという男性で、三日に一度は必ず職業相談所にやって来て、きまって琴子の前の席に座る。

 いやいやいいですよ、と琴子が顔の前でぶんぶん手を振ると、「何かあってからじゃ遅いんだからね、やばいと思ったらすぐ相談」と言ってチョコレートをひとつくれた。

 

八時三十分になって自動ドアが開くと、男は真っ直ぐ琴子の目の前まで来て座った。

「琴子ちゃん、外は暑いね、まだ七月だっていうのに。開くの随分待ったよ」

 暑いですね、と琴子は流すように相槌を打ち、求人票を何枚か男の方に向けて並べ、話題を変える。

「この前おすすめした製造の会社はどうでしたか?」

「ああ、あそこね、一回面接に行ったんだけど人事がクズみたいなので、あんまり信用ならなかったね。連絡も来ないから、面接のとき俺が嫌な顔してたの分かったんだろうな」

「そうですか。じゃあこの求人なんかも、中々条件がよくって……」

「そんなことよりさ、琴子ちゃん、今朝のニュース見た? すごかったね。あんな美女になら俺殺されたっていいよ。俺ももし死にたくなったら、琴子ちゃんに頼んで首を絞めてもらうよ」

「何ですか? やめてくださいよ、そんな物騒な話」

 訳もなく胸が騒いだ。求人票に伸ばした手の指先が微かに震えている。その先を聞きたいような、聞いてはならないような相反する感情が琴子の中でせめぎあった。しかし攻防むなしく、男は軽口の延長でニュースの内容をすらすらと喋った。

「つまりね、男とその女の子は愛人関係にあった訳だよ。男は四十六。俺よりちょっとだけ年下だな。女の子は琴子ちゃんとおんなじ年だよ。琴子ちゃんも中々だけど、まあその子もありゃびっくりするような美人だ。男はその子のためにマンションを一室借りてたんだとさ。俺と違って随分余裕ぶっこいた奴だよまったく。で、女の子はその部屋で、パソコンのコードを使って男の首を絞めた」

 まさか、そんなはずない、と琴子は胸の中にもたげた疑念をかき消そうとした。そうだ、その子の名前を聞けばいい。そうすれば、ああ単なる思い過ごしだった、とすっきりするはずだ。

「その犯人の女の子は何て名前なんですか?」

「ん? 名前か、何だったかな。覚えてないや」

 その答えに、琴子は内心ほっとした。

「でも、びっくりするのはここからだよ琴子ちゃん。男を殺したあと女の子はその部屋でケーキを食べてから、銀座へ買い物に出かけたんだって。それから三日間、高級ホテルを泊まり歩いて、やっとマンションに戻ったところで逮捕。数日前に奇妙な物音がした、と隣の部屋の住人が言ったらしい。しかも男は妻子持ちで、嫁が捜索願を出してたみたいだからな。嫁はありゃ検察たきつけて死刑でも要求するんじゃねぇかな?」

 ケーキ、という単語にひっかかりを覚える。琴子の浮かない表情などお構いなしに、男は二時間ぐらい好き放題喋って満足すると、一応求人票を二枚脇の下にはさんで帰って行った。


 調べようと思えばすぐにでも、調べることができた。でももしもそこに、琴子の思った通りの名前が表示されたならば、平然としてはいられない。求職の相談に来る人たちは、琴子たち職員の様子や態度を敏感に察知する。相談者を不安にさせてはならない。

ちょうど金曜日だった。仕事が終わってからその事件を調べよう、と琴子は心に決めた。


 十七時半ぴったりに退勤のカードをかざし、歩いてすぐのところにある喫茶店に入った。窓際のカウンター席が空いていることを確認すると、アイスコーヒーを注文して腰かけた。WiFiに接続して、検索サイトのニュースページを開く。コーヒーには一口も口をつけず、琴子はごくりと唾をのみ込んだ。

 何と検索しようか、と考える必要もなく、トップページをスクロールするとすぐに、それらしき見出しが目に飛び込んできた。「23歳女、愛人関係にあった男を殺害」琴子が親指の先でおそるおそるその見出しをタッチしようとした瞬間、電話が鳴った。見知らぬ番号だった。半ば反射的にもしもし、と出ると、「原法律事務所弁護士の原敏樹と申します。西条琴子さんの携帯でよろしいでしょうか?」と聞こえてきたのですぐに電話を切った。ニュースを見なくとも、琴子の予想は当たっていたのだと分かった。

さあ、答え合わせだ、と今度は吹っ切れたような気持ちになって、さっきのページをまた開いた。案の定、そこには予想通りの四文字の名前が並んでいた。

 未定の未に生きる、つまりわたしが生きるかどうかはまだ未定なの……いくらでも漢字のつけようはあっただろうに、未生はどうして、未生という名前を背負うことになったのだろう。


「7月22日、横浜市のマンションで男性を殺害したとして、自称飲食店勤務の柏木未生(23)を殺人容疑で逮捕した。本人は容疑を認めている。

捜査1課によると、柏木容疑者は22日の夜にマンションの部屋で、パソコンのコードを使って品川区の会社員三ツ谷聡史さん(46)の首を絞めて殺害し、その場で軽食をとって普段どおり隣の寝室で朝まで眠ったというもの。翌日23日、柏木容疑者は銀座へ買い物に出かけ、高級ブランド品を多々購入している。そして23、24、25日の三日間、都内の高級ホテルを転々とし、26日夜に自宅マンションに戻ったところで逮捕された。

捜査関係者によると、三ツ谷さんには妻と子どもがおり、二人は愛人関係にあったとのこと。柏木容疑者が犯行に及んだマンションは、三ツ谷さん名義で半年ほど前に借りられたものだったという。

22日は三ツ谷さんの誕生日だった。三ツ谷さんを殺害したあとその場でケーキを食べたことについて柏木容疑者は、残すと勿体なかったから、と述べている。本日中に送検される模様」


 三ツ谷聡史、というその男は、きっとケーキの食べ方がどうしようもなく汚かったのだろう。でも、だからといって。琴子は十年前の未生を思い出そうと勤めたが、ニュースの中の「柏木未生」とは全くつながらない。すぐ横でプリクラの落書きをする未生、図書委員会の発表で、おすすめの本を紹介する未生。あれは何の本だったか、そうだ、川端康成だ、中学一年で川端康成だなんて、早熟だ。この子にはきっと敵わない、琴子はそう思った覚えがある。

 中学二年のとき、夏祭りも一緒に行った。かき氷を買った。琴子は苺で、未生はブルーハワイ。未生が真っ青になった舌をべろりと出して、二人で大笑いしたのだ。ちょうどその時、二人の座っていたベンチに、同じ中学の三年の男の先輩たちが数人やって来て、そのうちのひとりが未生を一本外れた路地に誘った。五分ぐらいすると戻ってきたが、未生の手にはさっきまでたっぷりとあったはずのかき氷がなくなっていた。琴子が何かあったのかと聞いても、未生は、別に、とはぐらかすだけだった。だから琴子はそれ以上何も聞かなかった。

 柏木未生が三年の男にかき氷を投げつけたらしい、という噂を耳にしたのは、未生がもうすでに引っ越した後のことだった。それから琴子は何度か、校門のところでその時の男たちが固まって話しているのを目にし、裏門からこっそり帰ることもあった。


 琴子はやっとアイスコーヒーに口をつけると、先ほどの着信をもう一度見た。自分が何か悪いことをした訳ではないのだ、堂々とすればいい。いずれにせよ、また電話はかかってくるだろう。未生からメールがあったのは、26日の夜だ、ということは、未生がマンションに戻って逮捕される直前だろう。琴子は未生が逮捕される直前に連絡をとった唯一の人物かもしれないのだ。弁護士としても何としてでも琴子に話を聞きたいはずだ。このまま電話に出なければ、家や職場を探し当てられかねない。そんな面倒なことになるより、自分から電話をかけた方がいいだろう。

 西条琴子と申します、と名乗ると電話口の男性は、「よかった、さっきは急に電話なんかかけて、驚かしちゃいましたよね」とフレンドリーな調子で言った。琴子は結局、原敏樹、というその弁護士と、土曜に事務所で会うことになった。


 地下鉄御成門駅の出口を出て振り返ると、雑居ビル四階の窓に「原法律事務所」と緑色の太いゴシック体文字が貼り付けられているのが目に入った。年季の入ったエレベーターに乗って四階へと上がり、重厚そうな扉をノックすると、出てきたのは琴子の想像よりも随分若い男性だった。電話口での声の落ち着きから、四十後半から五十代と決め込んでいたが、実際に目の前に立つ男性は三十を過ぎたばかりといった感じだった。灰色のスラックスに、上は紺のポロシャツを着ている。

 小さい事務所だった。奥の小部屋へと案内され、原と琴子は向かい合って腰かけた。法律事務所なんて来るの初めてですよね、と気を遣うように言いながら、原は白い封筒を琴子の前に差し出した。

「気持ちですが……お車代です」

「そんな、家はそんなに遠くもないのに、申し訳ないです」

「心配なさらないで。別に僕のポケットマネーじゃない、事務所の経費ですから。受け取ってください」

 原が冗談交じりにそう言うものだから、琴子は厚意に甘えて封筒を受け取り、鞄の中に仕舞った。

「僕が琴子さんをお呼び立てした理由は、琴子さんもよくお分かりだと思うので、説明は省きます。早速それを見てください」

 机の上に並べられた紙の上には、琴子と未生のあのメールのやりとりが印刷されていた。

「未生さんの携帯本体は今押収されています。琴子さん、琴子さんは未生さんからこんなメールを受け取って、何を思いましたか?」

「正直、少し怖かったです。途中から未生じゃないような気もして、未生のフリをして誰かがいたずらを仕掛けてきてるんじゃないかとも思いました」

「じゃあ、昔の未生さんのイメージとこの文面が結びついた訳ではない、ということですよね?」

「そうですね……まあ、随分昔だし、一緒にいたのは三年だけだから、私の知らない部分もたくさんあったんでしょうけれど」

「この、ケーキの話はどう思いましたか?」

「食べ方一つで殺してやりたくなるだなんて、怖いことを言うと思いました。でも、そういう、汚い食べ方をする人物が確かに未生の近くに居て、未生はその人のことをすごく嫌悪しているんだとは思いました」

「それは殺された三ツ谷のことだと思いますか?」

「さあ、多分そうじゃないかな。でも私に、断定できるようなことは何にもないので……」

「分かりました、ありがとうございます。貴重な話が聞けました」


 不思議と何の抵抗もなく、すらすらと質問に答えている自分が居ることに琴子は気付いた。頭だけじゃない。弁護士には、人に話をさせる能力も必要不可欠なのだ。

 アシスタントらしき男性がコーヒーを運んできて一口飲んだところで、原が、お願いがあるんです、と切り出した。これからが本題だったのか、と琴子は察した。

「未生さんに、会ってほしいんです」

 久しぶりに会おう、と連絡を取り合ってカフェでご飯を食べる、駅でばったり遭遇する、いくらでもそんな再会の仕方がある。こんな風なかたちで、また会うことになるだなんて。これは、再会という名の「面会」だ。

「会えるんですか?」

「未生さんは昨日送検され、今は裁判所で質問を受けている段階です。おそらく今日中にも勾留が決定するでしょう。そうすると留置所に入ります。立ち会いの元にはなりますが、面会は可能です。僕は国から未生さんの弁護をするように頼まれているだけで、まだ一度も直接会ったことはありません。明日面会に行きたいと思っています。それで落ち着いたら、琴子さんあなたにもぜひ、彼女に会いに行ってほしいんです」

「そんな、まるで入院のお見舞いみたいに言いますけど、私が行ってどうにかなるんでしょうか?」

「会って、話をしてもらうだけでいいんです。それでその都度、未生さんがどんな様子だったか僕に教えてほしい。実は、聞いたところによると、未生さんは事件について全く話さないみたいなんです。私が殺しました、間違いありません、の一点張りで、釈明もしなければ詳しい動機も話そうとしない。琴子さんが行けば、何か変化があるかもしれないと思うんです」


 もっと高校とか大学時代の友達に当たれねぇのかな、と省吾は首を傾げた。省吾は元々石橋を叩いておいて渡らないタイプの心配性で慎重派が故に、琴子が何か妙なことに巻き込まれはしないかと、気を揉んでいた。

「だってその、未生とかいう子と琴子は、十年も前に三年間だけ付き合いがあった訳だろ? 十年の間に、その子だっていろんな人と関わったはずだよ。何でわざわざ琴子に」

「やっぱり逮捕の当日に、私とメールのやりとりをしたのが大きいのかもね」

「琴子さあ、返す必要のないメールは返さなくてもいいし、やりたくないことはやらなくてもいいんだよ」

 上司の佐倉さんの顔が浮かんだ。何かあってからじゃ遅いんだからね、と本気で心配そうな表情を浮かべる佐倉さんと、省吾の顔がかぶった。

 琴子は大抵ふらふらと、興味や直感、好奇心で動いてしまい、それらが恐怖や抵抗にすぐ打ち勝ってしまう。

 省吾との出会いだってそうだ。大学時代、琴子はキャンパス内のカフェでアルバイトをしていた。ある時コーヒーを注文した男の子が、片方の脇に丸めた模造紙を挟んでいた。ホットのコーヒーカップを差し出しながら琴子は、それ、何ですか、と尋ねた。男の子は一瞬不意をつかれたような表情をしたが、鞄を床に置くと模造紙を広げて、設計図なんです、と答えた。琴子にはそれがまるで絵画のように目に映り、しばらくの間見惚れた。それが省吾との初めの出会いだった。


 テレビを付けるとニュースで、オリンピックのために新たに建設される施設の概要が紹介されていた。省吾は横でビールの缶を開けながら、つまんねぇな、と溜め息を吐いた。

「でも、有名な建築家だよね?」

「全部ビジネスだよ。設計事務所というよりも一つの企業で、建築家というより有能な社長なんだよ、あの人は」

 施設の紹介が終わると、今度はオリンピックボランティアの待遇があまりにもひどい、という問題について、スタジオでの議論が始まった。シャワー浴びてくるよ、と省吾が立ち上がったちょうどその時に、携帯が鳴った。弁護士の原からのメールだった。

「面会に行ってきました。未生さんは思ったよりも平然としていて、逆に留置所という空間に不自然さを感じてしまうぐらいでした。それでもやっぱり、こちらの質問には何一つはっきりと答えてくれません。三ツ谷を殺害したときのことを聞くと、そのときはそうするより他なかった、と言います。そうしなければ、世界の風景がぜんぶ自分の中に流れ込んできてしまうように思った、と。あなたの名前を出すと未生さんの目の色が変わりました。そして、会いたい、とはっきりそう言いました。お仕事が終わってからでも間に合います。明日でも明後日でも構いませんから、会いにいっていただけませんか。受付で僕の名刺を出してください」

 以前に車代、と言って原から渡された封筒の中には、五万円が入っていた。琴子はなるほどな、と思ったが、果たしてそれが高いのか安いのか、妥当な金額なのかはよく分からなかった。


 仕事をしている間も、琴子はやっぱりどこかそわそわとしていた。けれども仕事が終わってすぐに警察署へ行き、受付で手続きまで済ませると、逆に気持ちが落ち着いた。十年会っていない上に、ここは留置所の中だ。もしも未生がやつれて目も当てられぬような姿になっていたとしても、笑顔で話を始めよう、と琴子は思った。しかし、そんな心配は一切必要なかったのだと、ガラス越しに未生を一目見た瞬間、琴子は分かった。

 警察官に連れられ入ってきた未生は、小綺麗でかたちの良いピンクのブラウスに、白いフレアスカートを履いていた。肩甲骨のあたりまで伸びた栗色の髪はきれいに切り揃えられ、唇は桜色にほんのりと色づいている。大きな瞳とすっと通った鼻筋は、昔とちっとも変わらなかった。まるで銀座や表参道のお店の前で、恋人を待つ女性の出で立ちだ。原のメールに「留置所という空間に不自然さを感じてしまう」と書かれていた理由がよく分かった。

 綺麗になったね、とそれが琴子の思わず出た第一声だった。それを聞いた未生はまるで、十年前と変わらぬ少女のようにあどけない笑みを浮かべた。

「琴子だってすごく綺麗になったよ。大人になった。びっくりした」

「そんなことないよ。でも、十年も会ってなかったんだもんね」

 十年、と呟くと未生は、目線を右斜め下に落として、指先をいじり始めた。よく見てみると、爪の根元の皮がどの指も剥けていて、ピンク色の皮膚が見えかけている部分もあった。

「ねぇ、未生、口紅の色、すごく素敵だね。化粧品は持ち込めるの?」

「この口紅はね、岡田さんが差し入れで持って来てくれたの。私この口紅じゃないと駄目で、岡田さんはそれをよく知ってるの。この口紅は、一本四万円するの。でも岡田さんは二本も買って来てくれた」

「岡田さんって、友達か誰か?」

「ううん、岡田さんはね、神様みたいな人なの。神様って見返りも何にも求めないでしょう? 岡田さんはただいつも与えてくれる。それで私の存在をちゃんと尊重してくれる」

 警察官が、あと五分です、と機械的な調子で言った。

「もう、夏祭りの季節だね。琴子、今年は行かないの?」

 そう話す未生が制服を着ていて、ここはまるで学校の教室だと、思わず錯覚しそうになる。

「今年は特別暑いし、人混みに行く気力がなくって……」

「そうだよね。十年も前は、夏でも夕方になれば涼しかったもんね」

「そう、風が心地いいぐらいだった」

「あの商店街の角の、たこ焼き屋のおじさん覚えてる?」

「ああ、トイレおじさん、だっけ?」

「そう、トイレおじさん。立ちションしたその手のまんまたこ焼き焼いてるって、もっぱらの噂だったもんね。今思えばつまんないあだなだよね」

 放課後無駄話をしていた時のように、二人で笑った。あの頃はよく、もう帰れよ、と進路指導の先生に怒られたものだ。今はもしも時間を超過すれば、警察官に注意されてしまうだろう。

「ああ、あの、これ……」

 琴子は鞄の中から川端康成の小説を取り出して、未生の方に差し出した。

「本は差し入れても大丈夫って、ホームページに書いてあったから……」

「『たんぽぽ』だ、琴子覚えててくれたのね」

「川端康成の中でいちばん好きだって、未生よく言ってたから」

「ありがとう、嬉しい。百回でも二百回でも読むよ」

 面会終了です、と警察官が立ち上がった。短いわ、と未生が心持ち頬をふくらませて不服げに、警察官の顔を見上げた。その瞬間、警察官の頬がぽうっとあかく染まったのを、琴子は見逃さなかった。

 ドアを出て行く直前に未生は琴子の方を振り返り、お願い、また来て、とさっきとは打って変わって線の細い声で懇願するように言った。琴子はただ頷くことしかできなかった。


 岡田、か……と原は琴子の話を聞いて少し考え込んでから、その感じなら多分、店の客だな、と言った。

「店?」

「そうだ、言ってなかったか。未生さんは、逮捕される一ヶ月ほど前まで、銀座の高級クラブで働いてたんですよ。一晩に二十万や三十万平気でおとすような客の行くところです。一本四万の口紅ぐらい、何ということもないんでしょう」

「未生が、銀座のクラブで……」

「聞いたところによると、随分な人気で、上客もたくさんついてたみたいです」

 豚の給仕係、とはそういうことだったのか。琴子は考えもしなかった。

「僕は明日、その岡田とやらに会って話を聞いてみようと思います。検察官は間違いなく未生さんを起訴します。明日明後日のうちに、葛飾区の方の拘置所に移送されるでしょう」

 事務所の窓の外に、ライトアップされた東京タワーが見える。省吾と付き合いたての頃に一度のぼったな、と琴子は不意に懐かしくなった。


「未生ちゃんを初めて見た瞬間から、僕は目が離せなかった。そのぐらい不似合いだったんですよ、ああいう場所が。だから僕は彼女を不憫に思いました。それで僕は未生ちゃんを度々指名したし、出勤前にもよくご飯に連れて行きました。高い寿司屋に連れて行くと、本当にお父さんに連れて来てもらった娘のように、目をきらきら輝かせるんです。僕はいつの間にか父親のような気持ちになって、彼女が欲しいというものは何でも与えてあげたいと思うようになりました。だから彼女がお店を辞めたときはショックで、糧というか、そういうものが何か失われたように思って、何度も連絡したんです。お小遣いが必要ならいつでもあげるよ、困ってないかって。しばらくすると、いつもすぐに来てた返信が全然返って来なくなって、電話もしてみたけどつながらないし、でもそしたら、まさかこんなことになってるとは思わなかったですよ。すぐに面会に行って、未生ちゃんの好きだった口紅を二本差し入れました。あんなガラス越しの対面だなんて悲しいですよ」


 原は未生が「神様みたい」と形容した岡田と喫茶店で向かい合い、話を聞いた。岡田は殺された三ツ谷と同じ五十手前で、住宅建材を取り扱う商社の社長だった。未生が働いていた銀座のクラブの上客だ。

 なるほど神様と呼ばれても納得がいく。岡田を神様だとすると、三ツ谷は悪魔か疫病神だったのか。


「岡田さんは、三ツ谷のことはご存知ないですよね?」

「うん、知らないなあ。少なくとも店で顔を合わせたことはないですよ。前の店の客なんじゃないかな? いつまでも未生ちゃんに付き纏ってたとか?」

「前の店?」

「そう、未生ちゃん前は中野のスナックで働いてたみたいで、そこのママに言われたそうです、あんたはこんなとこでくすぶってる女じゃない、銀座でも充分やっていけるって」

「なるほど、そうでしたか」

「あの三ツ谷とかいう男は、ただの会社員でしょう。無理なんですよ。まあ三ツ谷がそうだったかは分からないけど、店に行く男の中には、彼女たちも同じように愛やぬくもりを求めてると本気で思ってる奴も少なくないんですよ。でも彼女たちはビジネスだ、一番欲しいのはお金です、じゃないとあんなとこで働かないでしょう。だから気持ちをそそぎたいなら、それと同等の金もそそがないといけない。そのへん僕は割り切ってるんですよ。三ツ谷は割り切れないタイプで、ちょっとしつこかったのかもしれないな。それで未生ちゃんは我慢ならなくなって……といっても、殺すことなかったのになあ。一言僕に相談してくれてれば……」


 どちらからともなく席を立つと、ああ、いいですよ、と岡田は伝票をつかんで原の分のコーヒー代まで支払った。僕にできることがあったら何でも言ってください、と岡田は左手を差し出して原に握手を求めた。これだから経営者は苦手だ、と原は思う。


 琴子が駅を降りるとすぐに、それらしき建物が見えた。まるで大手の会社オフィスのような佇まいだ。危うく自分が求人先の会社に挨拶にでも訪れようとしているみたいに錯覚する。

 未生は葛飾区の拘置所へと移送された。


「バッグは、持ち込み可能なの?」

 この前行った留置所よりも、心持ち分厚いように思えるガラス越しに、膝の上に小さなピンクのバッグをのせた未生が見えた。

「ううん、本当はだめなの、でもね、どうしても琴子に見せたくて、面会の時だけ持たせてくれるように頼んだの。だからここを出たらすぐに没収。しかもね、このバッグショルダーにもできるんだけど、さすがに紐はとられちゃった。知ってる? 拘置所には紐やゴムのようなものは絶対に持ち込めないの。何を心配してるんだか。私こんな可愛いバッグのショルダーで首なんか絞めないのに」

 未生の後ろでパイプ椅子に座った女性刑務官の眉が、ぴくりと動く。

「そのバッグは、誰が持って来てくれたの?」

「お母さん。私のマンションの部屋に入ってもらって、クローゼットの下の段の右の方にあるから持って来てってお願いしたの。このバッグはちゃんと自分で選んで買ったのよ。誰かが買って来てくれた訳じゃない。ちゃんと自分で銀座の正規店に行って、これがいいくださいって」

「お母さんは、今どんな様子なの?」

「まだ信じられないみたい。私が人を殺しただなんて、何かの間違いだろうって。仕事上恨みを買うこともあったかもしれないし、誰かに騙されて濡れ衣を着させられてるんだって。未生ちゃんがいなくなったらどうしよう、ってまるでお母さんを失う少女みたいな顔で言うのよ。そう、あの人は私が幼い頃からずっと少女だった。それは今も変わらないの」

「未生、あのね、答えたくなかったら答えなくてもいいんだけど……」

「私がどうして三ツ谷を殺したか?」

 未生は不自然なくらいに冷静だ。そして饒舌。瞳の奥は、誰も踏み入れたことのない泉のように澄んでいる。

「警察官や裁判官にも何度も聞かれたわ」

「嫌ならいいの、本当に」

 琴子の方が、まるでやましいことがあるかのように焦っている。

「別に嫌じゃない。でもどうして殺したんですかと聞かれても、答えように困ってしまう」

「理由がないってこと?」

「理由……確かにあの瞬間はあったんだと思う。三ツ谷が自分で自分のハッピーバースデーの歌をうたって、三ツ谷の食べかけのバースデーケーキが土砂崩れのようで見てられなくって、机の上にさっきまで使っていたパソコンのコードが見えて……ここでぜんぶを止めてしまわないと、私何もかもだめになる、と思って」

「あの瞬間はってことは、今は……?」

「今は、何もない。憎しみとか、殺意とか、そういうの何にもない。でも、どんな道をたどっても、あそこに辿り着く運命だったのかな、とは思う」

 あと一分です、と女性刑務官が低く響く声で言った。

「ねぇ琴子、恋愛の話をしようよ。琴子の彼氏の話、聞かせてほしい」

 未生は急に話を変えた。残りあと五十秒。

「琴子と一緒に居た三年間、私たちまるでお互いに避けるみたいに、恋愛の話はしなかった。だからその分、聞きたいの。琴子がどんな人を好きになるのか」

 面会終了です、と刑務官が半ば強制的に未生をパイプ椅子から立たせた。未生はその手を気だるそうに振り払った。刑務官の左手薬指に、きらりと光るものが見える。

「へぇ、結婚してるんだ」

 棘を含ませた声で未生がそう言うと、刑務官は聞こえてないとでもいうように無反応だ。

「どれぐらいの頻度でセックスするの?」

「私語は慎みなさい!」

 刑務官に叱咤され、未生は目を伏せるようにして、ドアの外へと出て行った。


 確かに琴子と未生はあの二人で過ごした三年間の中で、不自然だと言ってもいいほど恋愛の話に触れなかった。日々の些細な出来事、先生の物真似、読んだ本の話、それだけで充分だった。琴子は中学に入ってすぐの頃、あれが思い出せる最初の恋だ。相手は理科の教師。大学を出たばかりの新米だった。実験の時にフラスコを握るあの手の指の繊細さ。その指の動きを見るだけで、琴子は胸がおしつぶされるように苦しくなった。

 未生には決して言わなかった。言ってはいけないことのようにも思えた。けれども今思えば、悟られていてもおかしくはない。あの頃未生も同じように、想っていた人が居たのだろうか。琴子が鈍感なだけだったのかもしれないが、未生から恋愛の気配を感じ取ったことは、一度たりともなかった。


 地下鉄の三越前駅を降りて目の前にある外資系ホテルのロビーで、琴子は原と待ち合わせていた。未生が逮捕の前日に泊まったホテルだという。38階にラウンジがあり、未生はそこでアフタヌーンティーセットを注文したそうだ。

 聞き込みのついでに、そのラウンジでゆっくり話でもしよう、という原からの提案だった。そんな高級ホテルのラウンジでお茶をしたことなんて、琴子には今まで一度もない。省吾とも学生同士の付き合いだったから、クリスマスや誕生日といっても、大学近くの小洒落たカフェでランチをするぐらいだった。お互い働き始めてからは、省吾のあまりの忙しさに、特別な日でもたいてい琴子の家で過ごすようになった。

 いつもは滅多に着ない小花柄のワンピースを取り出し、髪を巻いた。ロビーのソファはふかふかとして、お尻が沈み込んでしまう。ソファに身をもたせかけ、きらびやかなシャンデリアをぼんやりと見上げていると、上下紺色のスーツに身をまとった原が現れた。

「こんなところに、未生はひとりで……」

 立ち上がって周りを見回しながら、琴子は独り言のようにそう呟く。原は何も言わず、あっちです、とエレベーターホールの方に足を向けた。


 38階ラウンジの窓からは、都内の高層ビルの背景に山並みまで見えた。黒いベストに蝶ネクタイを結んだボーイが、クッキーやスコーン、サンドイッチののったティースタンドを運んでくる。すごい、と琴子が思わず目を輝かせると、原は笑った。笑うと目尻にかすかな皺が寄る。

「やっぱり、こうやって目を輝かせてくれるのを見ると、嬉しいもんだな。癖になるのかもしれない」

「どういうことですか?」

「ここ最近、未生さんが働いてた店の客に何人か、話を聞いて回ったんですよ。ほら、あの岡田とかもね。みんなが共通して言うのは、未生さんが喜んでくれる表情や、驚いている様子を見ると、嬉しかった、それが生活の糧になったって。僕にはそれが理解できなかったんですよ。でも今の琴子さんの表情を見て、ちょっと分かった気がしました」

 本当は今日省吾に、久々の休みだから一日琴子の家でゆっくりしたい、と言われたのを、断って来たのだ。未生のことで弁護士に呼ばれている、とそう正直に言えばよかったものを、高校時代の友達との集まりがある、となぜだか嘘を吐いた。

「そのお客さんたちの話、聞かせてください。というより、未生がどんな風にお店で仕事をしていたのか、知りたいんです」

 紅茶を一口飲んで唇を拭うと、琴子は話を本筋に戻そうとつとめた。原は分かりました、と言って、ホワイトチョコレートを一口かじると、甘すぎたのか残りをティッシュにくるんでテーブルの隅に置いた。


 未生が初めて中野のスナックに面接に行ったとき、随分夜の世界のイメージとかけ離れた子が来た、とママは驚いたという。

「今までこういう仕事したことある?」

「いいえ、一切ありません」

 毅然とそう答える未生の目が据わっているのを見て、この子は覚悟を決めて今日ここへ来たのだ、とママは感じた。

「どのぐらい来られる? 大学は?」

「学校はもうやめたんです。だから、毎日でも」

「やめたって、もう退学したってこと?」

「はい、これ以上通うお金がもうないんです。もうちょっと頑張って、いろいろやって、学生ローンでも借りればやめなくて済むのかもしれないんですけど、別にそこまでしなくても、もう二年で充分なんです」

「そう……じゃあ、早速明日から毎日、入れる? 難しいことは何にもないわ。ニコニコ笑ってお客さんとお話してくれればいいのよ。飲み物はお客さんにねだってね。別にノルマじゃないけど、あなたの給料にプラスになるわ。食べる物は、まかないみたいなのでよければあたしいつでも作るから、心配しないで。ここに居る間は安心なさい」

 ありがとうございます、と頭を下げる未生の肩が、小刻みに震えていた。

 未生が鞄を持ってひとまず帰ろうとしたところで、カランコロン、とドアが開く音がした。小太りのスーツ姿の男性が入って来た。つねちゃんいらっしゃい、とママが言う。常連さんよ、と未生に向かって目配せをした。未生はそっと会釈をする。

「いやあ、たまげたなあ。ここの店もこんな美人雇うんだね」

「もうつねちゃんたら失礼なんだから。今までだってみんな美人だったでしょう?」

「名前は? 何て言うの?」

 未生は一旦鞄をソファの上に置いた。

「未生、です」

「未生ちゃんか、ほとんど化粧もしないんだね。夜の世界に入るとね、不思議とみんな化粧が濃くなるんだ。見られることを意識するようになるからね」

「じゃあわたしも濃くならないと駄目ですか?」

「いや、それは、個性だから、まあいいんじゃないの?」

 ママは未生の挑戦的な目つきを見逃さなかった。

「わたし、生まれてから今までファンデーションを一度も塗ったことがないんです。においを嗅ぐだけで吐き気がしそうで。毛穴がつまるように思って、想像しただけで耐えられないんです」

「そうか、だから肌がそんなにきれいなんだ」

「お世辞ならいりませんよ、つねちゃんさん」

 未生は鞄を持ち直すとドアの前まで歩いて行って、店の中を振り返り、深々とお辞儀をした。

「明日から、お世話になります」

 颯爽と店を出て行った未生はまるで真夏の夕立のようだった。ありゃあ大物になるぞ、とつねちゃんこと榊恒夫がビールをあおりながら言った。随分予言めいた台詞だった。


 次の日から未生は毎晩八時に出勤して来た。相変わらすの薄化粧、OLかと見間違うかのような、ブラウスに膝丈の白いスカートという格好、この子は完全にこれで勝負しようとしている、とママは思った。

「あれ、新しい女の子だね、随分べっぴんさんだな。俺も久々に来たからな。こんな子がいるならもっと早くに来ればよかった」

「未生と申します」

「まだ若いのに、どうして夜の仕事なんて始めたの?」

「どうしてだと思いますか?」

「わかったぞ。昼の仕事を始めたものの、思いの外給料が少なかった。未生ちゃんみたいに若い子だったら、遊びたい盛りでしょう。欲しいものもいっぱいあるだろうしね」

「昼の仕事って、何やってると思いますか?」

「うーん、看護師かなあ」

「男の人は女にはみんな看護師になってほしいんですね」

「だってなあ、ナース服姿はねえ、やっぱりいいよなあ」

 三人連れの中年男の一人がそう言って、灰皿を下げようとした未生の手の甲に掌を重ねた。

「そうだなあ、もし私がナースだったら、お触りする患者さんの点滴に毒でも混ぜようかしら」

「おいおい、勘弁してくれよ……」

 男は苦笑いしながら、そっと左手を引っ込めた。

 カランコロン、とドアが鳴る。

「あら、つねちゃんじゃない。随分ハンサムなお連れさん連れて」

 榊恒夫が見慣れない男を一人連れて来た。齢は三十後半といったところだろうか。

「おお、未生ちゃんじゃないの」

 榊はまるで熊のような風貌で、人に警戒心を抱かせない。下世話な話もぜす、いつもニコニコ柔和な笑みを浮かべている。ボトルを何本も持つ上客だが、無闇やたらと連絡をしてくることもない。未生が唯一心を許している常連客だった。

「つねちゃん、私のど渇いちゃった」

「ようし、何が欲しいの?」

「カシスウーロンがいい」

「よし、じゃあそれと生で乾杯しようか」

「お連れさんは?」

 未生が尋ねると、榊の横に座った男は、いかにも夜の店に慣れてなさそうに目を泳がせながら、じゃあ、僕もおんなじカシスウーロンで、と言った。

「この男はね、下戸なんだよ」

 榊が言うと、男は申し訳なさそうに頬を紅潮させた。

「いいと思います。私はあんまりお酒を飲まない人の方が好きだな。お酒が入らないと想いを伝えられないとか、冗談言えないとか、そういうの格好悪いもの」

「相変わらず毒舌だなあ、未生ちゃんは」

 榊が大口を開けて笑う。

「ところで、何てお名前なんですか?」

「小林です」

 小林というその男性は相変わらずかしこまったまま、相好を崩さない。昨今では珍しいでしょう? こういう朴訥としたやつなんですよ、と榊が小林の肩をぽんと叩いた。

「でもね未生ちゃん、これでもね、この男は社長なんですよ。取引先の広告会社の取締役。仕事はできるし、男前でしょ。でもこんな性格だから、こっちはさっぱり」

 そう言って榊は左手の小指をひらひらと泳がせた。

「でも小林さんみたいな方なら、向こうから声がかかるんじゃないですか?」

 未生が言うと小林は、いやいや、と首を横に振った。

「小林さんは趣味はお有りですか?」

「僕は、絵が好きです。仕事と関係なくもないですから。だから休日はよく、美術館なんかに行ったりもして」

「誰がお好きなんですか、画家は」

「もちろん欧米の画家も好きなんですが、僕はどちらかというと日本の画家の方が好みで……黒田清輝、藤田嗣治、岸田劉生、だとか」

「私も好きです。そんなに絵の知識がある訳じゃないんですけれど。岸田劉生の麗子像を初めて見たときには、ぞっとしました」

 小林はやっと固まった表情を崩し、本当ですか、と目を輝かせた。

「未生さんみたいなお若い人が、中々そういう日本の絵に興味があるだなんて、思いも寄らなかったなあ」

 榊が横で、僕にはわからない高尚なお話だ、とおどけていた。


 紅茶のお代わりでももらいますか、と原に尋ねられて、琴子は現実に戻った。話を聞きながら琴子は、自分の生活してきた世界と未生の居た世界に大きな隔たりがあることを思った。それでも原の話に聞き入りながら、未生と同じ目線に立って風景を眺めている自分もいる。

「小林という男は、僕の目の前ではっきり言いました。僕の初恋は未生さんだ、と。中学や高校の、あれは今思えば恋愛なんかじゃなかった、と。正直驚きました。未生さんは男に淡い初恋まで与えてしまえる人なんだと思うと、おそろしいぐらいです」

「じゃあ、初恋の人が逮捕なんてされて、小林は……」

「ええ、相当ショックみたいでした。僕のせいだったらどうしよう、とも」

「小林のせい?」

「以前未生さんに付き纏い、ストーカー一歩手前までいってしまったと、本人は自覚してるみたいなんです。そういうのが重なって、彼女を追い詰めたとしたら、僕にも責任があるって」

 ふと大きな窓の外を見やると、山の稜線が淡い夕焼け色に染め上げられている。

「琴子さん、時間は大丈夫ですか」

「ええ、わたしは別に、大丈夫です」

「じゃあ今日は、小林の話までしたら解散にしましょうか」


 それから小林は、二日に一度は必ず店を訪れるようになった。榊と連れ立って来る訳ではなく、一人でふらりとやって来る。正真正銘の下戸であるにも関わらず、店で一番高価なボトルをキープし、いつも未生に、何が食べたい、何が飲みたい、と尋ね、未生が答えたものを全て注文した。

 店では、連絡先の交換は禁止されていない。むしろ暗黙のうちに推奨されていた。いや、推奨というとまだ生ぬるい。おそらく多くの店がそうであるのと同じように、連絡先を教えざるを得ないのだ。

 あるとき未生に小林からメールが来た。土曜日、展覧会のチケットが二枚あるから、行きませんか。そのあと銀座か神楽坂か、そのあたりでご飯でも食べに行けませんか。

 これが所謂同伴というやつなのか、と未生はまだそのシステムをいまいち分かっていないまま、返事をした。

「いいですね。でも、夜はいつも通り出勤です」

「ご飯を食べたら、一緒にお店に帰りましょう。ママさんには未生さんの同伴をさせてもらうとちゃんと伝えておきます」

「わかりました」

「では、土曜日三時に上野駅の公園側の改札でどうでしょう。交通費はちゃんと、来てくれた時に出します」

 未生は不思議に思った。スナックに来る客の多くは、あの掌を重ねてきた男のように、下世話で性欲が目に見えるようで、容姿は冴えない。そしてたまに榊のような、キャラクターじみた中性的なおじさんが、単に世間話をしたくてやって来る。

 小林のような、見た目も悪くなく、社長職についているような男性が、どうして高いお金を出して旨くもない酒を飲みに来るのだろう。

 もし自分が、いかにも夜の世界に慣れていそうな、しゃがれ声で明るい茶髪の女だったら、小林は店の常連になっただろうか。榊に一度連れられて来ただけで、それ以降もう二度と店に足を踏み入れようとなど、しなかったのではないだろうか。


 黒田清輝の描く女性は好きだ。色っぽさの中に悲嘆や狂気が見え隠れする。

「これはパリ万博で銀賞をとったやつだな」

 三人の裸婦が並ぶ大きな絵を目の前に、小林が呟いた。さすがは絵に詳しいだけある。

 土曜日、未生は予定通り上野駅で小林と待ち合わせ、東京都美術館にやって来た。会ってすぐ、はい、と渡された封筒は、交通費にしては分厚すぎる気がした。

「僕が画家だったら、きっと未生さんを描くのになあ。生憎僕は広告屋どまりだからな」

「モデルになるなんて、恥ずかしい。じっとしていられるかしら」

「未生さんは顔も手も足も真っ白できれいだ。絶対に映える絵になる」

 美術館を後にすると、駅近くの道路でタクシーをつかまえ、そのまま神楽坂へと向かった。路地を一本入ったところにある料亭を、小林は予約していた。

 二人はカウンターに隣り合って座った。橙色のほんのりとした照明の下に、上品な皿にのった旬の食材が運ばれてくる。

「やっぱり、店の外で会う方がいいな。恥ずかしながら、やっぱり僕はああいう店が慣れなくてね」

「私もカウンターの中に立ちながら、未だに苦手なんです」

「あんな店は、未生さんには、似つかわしくないよ」

「でも、仕方ないの。働いて、生きていかなきゃいけないんだもん」

「そりゃあ、そうだけど……でも、妙な客に絡まれることもあるでしょう?」

「あります、毎日のように」

「夜はいつもタクシーで帰ってるの?」

「終電に間に合えば電車、あとバスが遅くまであるんです。歩けないこともないんですけどね」

「危ないよ。これから僕が毎晩送ろうか」

 気付けば小林の手が未生の手のすぐ傍にあった。目と目が合う。

「お店、戻らないといけないよね?」

 小林の質問の意味を未生はすぐに理解した。特に抵抗はなかった。そのぐらいの覚悟がないと、こんな仕事で食ってなんかいけない。未生はママに電話を入れた。小林と同伴したあと、体調を崩してどうしても行けそうにない、と。ママは、ゆっくりしなさい、と優しい声で言っただけで、何も尋ねなかった。


 関係を持った翌日から、小林は閉店間際になると必ず店にやって来て、ウーロン茶を一杯だけ飲むと未生を車で送って帰るようになった。それだけならまだよかった。仕事の時間以外にもしょっちゅうのように「今何してるの?」とメールが届くようになった。初めのうちは律儀に返していたが、段々面倒になって放っておくと、電話がかかって来るようになった。

 未生はさすがに怖くなって、ママに相談した。

「ああいうタイプはね、初めは良い客に見えて、一番面倒なことになりやすいのよ」

「ごめんなさい、私、もうちょっとわきまえてたら、よかったんですけど……」

「彼ハンサムだから、あんたも嫌じゃないのかと思って、あたしも黙ってたのよ。つねちゃんからも、よくよく言っといてもらうように連絡しとくわ」

 それから数日の間、小林は店に姿を見せなかった。メールもぷつりと来なくなった。榊がいつものようにやって来て、すまなかったねえ、と未生に向かって申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「そんな、とんでもないです。つねちゃんのせいじゃないから」

「まったくなあ。悪いやつじゃないんだけどもなあ……」

 

その日の夜のことだった。マンションの前に人影がうろついている。背格好からすぐに小林だと分かった。未生は電信柱の影に隠れると、ママの番号に電話をかけた。

「ママ、ごめんなさい、家の前に小林が居るんです」

「十分もしないうちに人をそっちにやるから、何とか時間稼いで、部屋には入られないようにしなさい」

 深夜十二時を回った住宅街は、しんと静まり返っている。最大限に声をひそめて話したつもりだったのに、気配を感じ取られたのか、足音がゆっくりと未生の方に近づいてきた。辺りには隠れられそうな場所もない。まさかいきなりナイフを振りかざされるようなこともないだろう。未生は観念して、自分から出て行った。

「未生さん、どうして隠れてたの?」

「隠れてないよ、ちょっと急に電話がかかってきて、出てただけ」

「誰から?」

「ママ。私お店に携帯の充電器忘れちゃったみたいで……」

「ねえ未生さん、僕に悪いところがあったら言ってよ、嫌なところがあったら言ってよ。直すから、努力して直すから」

「そんなの、特にないですよ。今日は遅いから、お帰りになって。私ももう眠りたい」

 玄関口に回ろうとすると、小林が横をついてくる。

「泊まっちゃだめかな?」

「ママに怒られるから……」

「バレなかったら、大丈夫だよね?」

 遠くから、住宅街には似つかわしくない、一際荒っぽいエンジン音が響くのが聞こえた。音はどんどん近づいてきて、マンションの前で止まり、ヘッドライトが玄関口の二人を照らした。黒いベンツの運転席と助手席からそれぞれがたいの良い男が降りて来て、二人して小林の両肩をひょいっと担ぎ上げると、そのまま後部座席に放り込んだ。突然の事態に小林は放心状態で、目を丸くし、声さえ出ないといった様子だった。車はそのまま走り去り、それから未生は二度と小林に会うことはなかった。


 クズね、と琴子は言い放った。窓の外の風景は夜景に変わり始めている。青く染まった雲が幻想的だった。

「この世の中には、不快なことがたくさんですね。私たちはただ生きようとしているだけなのに」

 琴子は、職場である相談所の入り口にへばりつくように立ち、琴子の方をじっと見ながら開館を待つ男の姿を思い浮かべた。

「しかも、小林は当時結婚していました。別居はしていたみたいですけど。榊さえ知らなかったみたいです。今ではもう、完全に離婚が成立しています」

「結婚してて、初恋の人が未生だなんて、どういう神経なの」

「でも初恋だといった彼の顔は、真剣そのものでしたよ」

 さあ、そろそろ行きましょうか、と原が椅子を引いた。

「長い時間、疲れませんでしたか」

「大丈夫です。でもまだ色々と整理できていません。明日また、面会に行ってみます」

「そうしてください。裁判まであと二週間もありませんから」

 会計を済ませながら、原は料理の感想のついでに、といった感じで店員に話を持ちかけた。

「7月25日の午後、この女性がひとりで、この店に来ませんでしたか?」

 原は携帯画面の中の写真を店員に見せた。店員は、ああ、と思い当たる節があるかのような反応を示した。

「25日だか午後だか、そんなのは忘れましたけど、この人がいらしたのは覚えていますよ。一際きれいな方でしたし、あんなにお綺麗でお若い方がひとりでいらして、窓際で。いろんな種類の紅茶を何杯もお代わりされて」

「何か変わった様子はありましたか?」

「いえ、それどころか、とても幸せそうでしたよ。お会計の時にも、美味しかったです、と声をかけてくださったように思います。喜んでいただけてよかったと、私はただそう思っただけです」


 未生は今日は髪を高い位置でひとつに結び、ポニーテールを作っていた。元々血色の良い唇が、いつも通りほのかに色づいている。

「今日こそ恋愛の話をしましょう。琴子は今の彼氏と、どこでどう知り合ったの?」

「大学時代に、キャンパス内のカフェでバイトしてたんだ。そのときにお客さんとして来たのが今の彼氏。彼はそのとき建築学科の学生で、脇の下に大きな模造紙を抱えてたの。私はあまりに気になって、それ何ですかって尋ねたのよ。そうしたら彼がそれを広げて見せてくれた。設計図だった。私にはまるで絵画みたいに見えた」

「素敵。やっぱり本当の出会いっていつもそんな風に偶然なのね。じゃあ彼は今、そういう関係の仕事をしてるの?」

「うん、設計事務所で働いてる。まだ見習いみたいなもんだと思うけど、新しく建つマンションの設計図なんか書いてるのを見ると、すごいなって思う」

「やっぱり琴子は才能のある人を好きになるのね。中学のときもそうだった」

 え、と琴子は思わず未生に聞き返す。未生は悪戯っぽく笑った。

「琴子、理科の先生が好きだったでしょう。バレバレだった」

 やっぱり悟られていたのか。もう十年も前のことなのに、今更気恥ずかしくなって頬が熱を帯びる。

「やっぱり、知ってたんだ……」

「もちろんね。あの先生も確か、教師やりながら化学の論文書いて賞獲ったとか言ってなかったっけ。ああ、いいなあ、ちゃんとした才能がある人はうらやましい。それだけでひとつ心に余裕が生まれるもの」

 未生も他人のことを羨ましがったりするものなのか、と琴子は新鮮に思った。小学生から中学生にかけてのあの時期も、未生はいつも他人から羨ましがられる側の人間だった。

「そういう未生はどうなのよ。私鈍感だから、あの頃も未生に好きな人がいるかどうかなんて、全然わからなかった」

「好きな人……」

 無意識の癖なのか、未生はまた指先の皮をむしり始めた。考え込むように、というよりは何かを思い出そうと努めるかのように、瞳は斜め下を向いたままじっと動かない。

「あの、未生、別に無理して何か思い出そうとすることなんてないのよ」

「……甘い香り、そう、あれは多分石けんの香り。私の好きだった人のにおい」

 あと一分です、と刑務官の声が響く。

「その人は、どんな人だったの?」

「誠実で、とても不器用で、こんな世界には向いてないぐらい不器用で、大きくて、あたたかくて……」

 未生の目から一筋、涙がつうと頬を伝った。ごめんなさい、と言って未生は俯いた。面会終了です、と告げて立ち上がった刑務官に背を押され、未生は手の甲で目元を拭いながら、背を向けたまま面会室を後にした。


 その夜、琴子は原にメールを一通送った。

「今日は未生と恋愛の話をしました。ひとつ分かったのは、未生には以前とても好きな人がいたということです。そしておそらく、今は何らかの事情で会うことができない。ここからはあくまで私の推測ですが、それは未生のたった一度の恋だったのだと思います。未生の頭の中にはずっとその人がいて、その人以外に恋心を抱いたことなんてない。女の勘です。曲がりなりにも以前未生の親友だった私の勘です。その人が誰だか分かれば、何か分かることがあるかもしれないと思います」


 朝職場で、あの男の姿を見かけない日はほっとする。琴子ちゃん、という名前を聞くだけでも悪寒が走る。でもここは職業相談所で、琴子たちはあくまで公務員だ。度の過ぎた言動は慎んでもらうことができる。でも未生のいた夜の世界は違っただろう。あれもこれも、仕事のうち、と要求され応じねばならなかったのだろう。

 朝一番に相談予約が入っていたのは、三十代の女性だった。産休明けに会社に戻ると、知らぬ間に第一線から外されており、倉庫での業務を命じられたという。聞いていた話と全く違っていたため、納得できず上に相談すると、何とか改善してもらえることにはなったが、会社自体にすっかり失望してしまって、自ら退職願を出したそうだ。

 この国では、女性がキャリアを保ち続けていくことは至難の業と言ってもいい。女性を大切にする会社だと謳っていても、実際重要なポジションには全て男性が就いているというケースも、往々にしてある。

「わがままなのは本当に分かってるんですけど、子どもが居ても、何とか時短勤務とかで、雇ってくださるようなところはないかな、と思いまして……」

 女性は申し訳なさそうな苦笑いを浮かべながら言った。琴子は思案を巡らせる。この前求人が来たあの食品の会社は、確か社長が女性で、個性的な職場だった覚えがある。琴子は、あいおえお順に求人票を挟んである共用のファイルを棚から取り出し、その中の一ページを開いて女性の方に向けた。

「ここ、ついこの前届いた求人なんですけど、食品会社なんですよ。インスタントのわかめスープとかあるじゃないですか。ああいうのを全部自社で開発して卸してるんですよ。そこの企画事務職の募集なんです。さっき、前の会社で企画のご経験があるっておっしゃってたので、有りなんじゃないかと思います。社長が女性で、時短勤務とか育休とかも推奨されてるみたいなんですよ」

 本当ですか、と女性は食い入るように求人票を見た。一度電話してみましょうか、と琴子が言うと、はい、と縋り付くように答えた。早速電話をかけてみると、まずは履歴書を、とのことだった。

「それでは来週末あたりまでに、履歴書は用意できそうでしょうか?」

「はい、必ず用意します! こんなに早く希望と合うものが見つかるだなんて、思いもよらなくて……本当にありがとうございます」

 十も年上の女性に深々と頭を下げられ、琴子は恐縮してしまう。


 琴子は別に、この仕事を目指して大学に入った訳でも勉強した訳でもない。元々広く浅くを卒なくこなす、といったタイプで、特に自分の適性や才能を感じたこともない。だから大学の学部を選ぶときにも、これ、といった希望がなかった。自分が文系だということぐらいは自覚して、幅広くいろんな科目が学べそうな「人間科学部」とやらを選んだ。心理学、日本文学、映画批評、琴子の希望通りいろんな知識に触れられた。でもその一方で、やっぱり羨ましかったのだ。省吾のような、初恋の相手だった理科の教師のような、たったひとつの圧倒的な才能を持った人間が。

 そんな調子で大学生らしいのんびりとした生活を送っていたものだから、いざ就職活動の時期になると困ってしまった。友達の誘いで合同説明会に行ってみたりはしたものの、企業理念とやらがどうも頭に入ってこない。口のうまい人事担当者の話を聞いて、学生たちが必死にメモに書き留めている光景にも違和感を覚えた。そのときふと、自分のようにどうしても、就職という波に乗り切れない人もたくさんいるように思った。こんなとき誰かが自分の話をゆっくりと聞いてくれたら、自分の中でもう少し整理できれば、一歩を踏み出せるかもしれないのに。そこで初めて、職業相談のアドバイザーという仕事が頭に浮かんだ。人の話を聞くのは嫌いじゃない。

 琴子は早速、何度か前を通ったことのある、大学近くの職業相談所に行ってみた。求職の相談ですか、と声をかけられ、いいえ、実は今大学生で、こういうところに就職したくて、見学に来たんです、と言うと、温和そうなおじさんが笑って、どうすればここで働けるか優しく説明してくれた。大げさかもしれないですけど、人の人生に関われる仕事ですからね、というおじさんの言葉が、企業説明会で聞いたどんな言葉よりも琴子の頭に残った。


 お昼休み、たまにはご飯でも食べに行かない、と上司の佐倉さんに誘われて、靖国通り沿いのビル二階にあるタイ料理店に入った。お腹空いたからなあ、と言いながら佐倉さんは、グリーンカレーライス大盛で、と威勢よく注文する。

「最近、大丈夫?」

 料理が来るのを待つ間、佐倉さんにそう尋ねられ、一瞬未生のことが頭を過ぎった。いや、そんなこと佐倉さんが知っているはずはない。職場の人に話して、余計な心配をかけるつもりはない。原にも仕事場にだけは来ないでと頼んでいる。それもあって、例の男のことか、と理解するまでに少々時間がかかってしまった。

「大丈夫ですよ。面倒ですけど、そんな悪い人じゃないし」

「あのねえ、世の中の大抵の人は悪い人じゃないわよ。でも、他人との関係性の中でいくらでも変容してしまう。嫌だ、と感じたら、あなたにとってその相手はもう“悪い人”なのよ」

 琴子は原から聞いた小林の話を思い出した。話で聞いただけだが、もし何も知らず小林と仕事か何かで接することがあっても、朴訥として礼儀正しい人、だとしか思わないかもしれない。人は人との関係性の中でいくらでも変容する、確かに佐倉さんの言っていることは正しい。

「とにかく、困ったことがあったら即相談ね」

「じゃあ、別に困ったこととかじゃないんですけど、佐倉さんに質問してもいいですか?」

「なあに? 恋の話かしら?」

 そう言って冗談っぽく笑う佐倉さんの頬に笑窪ができて、ただでさえ若く見えるのに、まるで少女のようだ。

「いや、佐倉さんがこの仕事に就く前に、ホテルで働いてたっていうのは知ってるんですけど、どうしてホテルの仕事から今の職場に転職しようって思ったんですか? 全然、分野も違うじゃないですか」

「うーん、そうねえ。琴子ちゃんは、ホテルは好き?」

 琴子はこの前原と行った、外資系ホテルのロビーを思い出した。頭の中であの光景を焼き直すだけで、夢心地になる。

「好きです。別に、どこか遠くへ旅行した訳でもなんでもないのに、その空間に入っただけで非日常が味わえる」

「そう、まさにそうなのよ。だから私もホテルが人一倍好きだった。学生時代なんて、良いホテルに泊まるお金はないじゃない? だからね、休みの日にホテルの吹き抜けのラウンジでコーヒー一杯だけ頼んで、いつまでもぼうっとしてたわ。コーヒーだって千円するし、千円もあれば外のファミレスで定食が食べられるのも分かってるのよ。でもお腹がぎゅうっと鳴ったって、いつまでもラウンジのソファから動かなかった。夢を与えてくれる場所だった。だから絶対わたしはホテルで働いて、一流のホテルウーマンになるんだ、今度は自分が人に夢を与えるんだって、思ってた。でも、ここからはよくある話。いざ働き始めて裏側を知っちゃうと、何もかも冷めちゃった。コックは職人気質でプライドが高いし、料飲部長はセクハラ疑惑。フロントの男の子とベルの女の子が休憩室でそういうことしちゃったとか、本当につまらないことばっかりよ。でもね、夢が醒めちゃってからの方が、逆に冷静になって仕事はテキパキできるようになってね。周りも私を頼ってくれたのか、いろんな相談事や愚痴を聞くようになったの。自分は接客よりも裏方の総務の方が向いてると思うだとか、結婚するんだけど辞めようか迷ってるだとかね。そうすると段々、こっちを本業にした方がいいんじゃないかって思えてきてね。それで一年勉強して、公務員試験受けて、今の新宿区の相談所と縁があったって訳」

「すごい、全然知らなかった……」

「でもね、ホテルの仕事やめたらまたホテルが好きになったの。凝りないでしょう? だから今も休日は、やってることは学生時代とおんなじ。まあ、学生のときほどお金に困ってないから、コーヒーにプラスサンドイッチぐらいは、頼めるようにはなったかな」

 窓の外に、歌舞伎町一番街のアーチが見える。外国人観光客がその前で写真を撮っていた。デザートのマンゴープリンを食べ終わると、さあお仕事お仕事、と佐倉さんが伸びをする。琴子もつられて、両の腕を上にながく伸ばした。


 自分もたまにはコーヒー一杯で、ホテルに居座ってみるのもいいかもしれない、と琴子は思った。行き交う人や景色を好奇心いっぱいに見つめる佐倉さんが、目に浮かぶようだ。

この前訪れたラウンジの店員の言葉を、ふと思い出す。いや、それどころか、とても幸せそうでしたよ――未生は本当に、幸せだったのか。自分の殺した男の死体を部屋に放置したまま、紅茶を飲みながら38階の窓から見えた景色は、一体どんな風に未生の目に映ったのか。


 仕事終わりに携帯をチェックすると、原から不在着信が入っていた。琴子はいつもの喫茶店に入ってカウンター席に座ると、電話をかけ直す。

「もしもし、西条ですけど」

「すみません、まだお仕事でしたよね」

「いえいえ、もう終わりましたから、全然大丈夫です」

「早速なんですけど、明日のお仕事終わりに、お時間ありますか?」

「ええ、大丈夫です」

「実は、大学時代に未生さんと付き合っていたという男性が分かったんです。コンタクトをとって、明日の夜に会えることになりました。後で地図を送りますが、池袋の喫茶店で待ち合わせです」

「別にいいんですが、私が居ても大丈夫なんですか?」

「ええ、むしろ、居てほしいんです。相手は琴子さんより二つ年上の男性で、僕みたいなおじさんがひとりで詰め寄るよりも、年の近い琴子さんが居てくれた方が、警戒心を解いてくれやすいと思うんです。琴子さんは未生さんの幼なじみで、ただ話を聞きたくて来た、それだけの、嘘偽りのない設定で構いませんから」

 分かりました、と答えて電話を切る。おじさんだなんて、と琴子は苦笑した。


 秋津浩一郎、というその男性は、今小さな映像製作会社でディレクターをやっているらしかった。大学時代の映画サークルの先輩が立ち上げた会社で、どこかに就職するぐらいならうちで働かないかと誘われたという。映画との関わりを断ちたくはなく、就職活動にも抵抗があった秋津には渡りに船だった。

 秋津は髭を伸ばして角ばった眼鏡をかけ、すっかり業界人といった風貌だ。ラフなTシャツとチノパンを着こなしている。スーツなんて滅多に着ないのだろう。

 そして、未生と出会ったのも、その映画サークルだったそうだ。未生が新入生としてサークルに入ったとき、秋津は三年で、サークルの副幹事長を任されていた。

「未生はそりゃあ、目をひく存在でしたよ。もちろん俗に言う美人ではあるんだけど、それだけじゃない。誰もが一度は見入ってしまうような、不思議な雰囲気があった。てっきり演者志望だと思ったら、脚本を書きたい、と本人は言う。脚本を書きたくて入ったんだ、映画に出るなんてまっぴらごめんだ、って彼女はっきりと言ったんですよ」

「彼女は小説の大好きな子でした。でも自分でも書いてるだなんて、知らなかったなあ」

 琴子がそう呟くように言って、秋津も警戒心が解けて来たのか、自らいろんなことを話してくれた。

「俺は監督ばっかりやって、本はどうも書くのが苦手なんですよ。だから、こりゃあ面白いと思って、監督もカメラも全部やるから、俺と組んで脚本を書いてくれないかと持ち掛けました。映画製作なんて泥臭い世界ですからね。そうと決まったら、毎晩のように俺の家で打ち合わせですよ。だから告白、というよりはもう、付き合おっか、っていう感じで、彼氏彼女になったのも何というか、自然の流れでした」

「じゃあ、別れたのはどうしてですか」

 原が単刀直入に聞いた。話の腰を折られたと思ったのか、秋津は一瞬戸惑ったような表情を見せたが、コーヒーを一口飲むとまたすぐに口を開いた。

「未生を振ったのは俺の方でした。よければこれからゆっくり話しますが、何というか、あまりにもいろんなことがひどくて、耐えられなかったんです。それに、やっぱりもう一度ちゃんと話がしたい、と思い直したときには、もうあいつは退学届けを出していて、音信不通でした」

「そうでしたか。ではぜひゆっくりと、お話をお聞かせ願えたらと思うのですが、その前にひとつ質問してもいいでしょうか」

 原がスラックスのポケットに忍ばせた、ボイスレコーダーのスイッチをそっと押したのが、琴子には分かった。

「どうぞ、何なりと」

「未生さんが逮捕されて、秋津さんはどう思いましたか?」

「そりゃあ、驚きましたよ。だって元カノが殺人で逮捕なんて、そんな経験する人滅多にいないでしょう? 朝はじめてニュースを見たその日はもう全然仕事が手につかなかったな。依頼されて撮ってたCMの映像もブレブレで、クライアントの反応も微妙でしたよ。でも、そんな風に驚いたは驚いたけど、よく考えると別に、意外って訳じゃない。変な話ですけど、昔の未生を思い出すと、やりかねない、と思ってしまったんですよ。もしひとつでも、何らかの歯車が違っていたら、殺されていたのは俺だったかもしれないってね」


 未生と秋津がタッグを組んで製作した第一作は、不発に終わった。学内の映画フェスティバルに出品したが、票を集められず一次予選敗退となった。アンケートには「自己満足でしかない」という厳しい意見もちらほら書かれているのが目に入った。

 一作目は秋津が大体の物語の筋を考えて、実際に書いたのが未生だ。SFの要素が入った青春モノだった。

「こうちゃん、あのね」

 未生は秋津のことをそう呼んでいた。中目黒にある秋津のマンションで、二人はほぼ同棲状態だった。中目黒駅から徒歩すぐの1LDKのマンションの5階。秋津の父親は開業医だ。

 そこのダイニングが二人の作戦会議室だった。ポテチの袋やチョコを机の上に広げ、それぞれパソコンを開く。

「この前はこうちゃんの案に沿って、私が書いたでしょう? もしいいなら、一から私が考えて書いてみたいの」

 それは俺のアイデアが悪いということか、と秋津は思わざるを得なかったが、未生が一から書いたものを見てみたい気持ちもあった。

「いいよ、俺も未生がはじめっから考えたやつが見てみたい」

 それから五日間ほど、未生は秋津の家を訪れなかった。秋津が電話をかけると出るには出るけれども、忙しいから後にして、と素っ気ない調子だった。

 そして六日目の朝に、髪を無造作にひとつに結んだ未生が、パソコンを小脇に抱えて秋津の部屋にやって来た。特に何の説明もなく、いいから見て、と息せき切って言うもんだから、秋津はすぐにデスクトップのファイルを開いた。「甘い罰」というタイトルがつけられていた。

 読み進めていくうちに秋津は、思わず物語の中に入り込んで夢中になっている自分が居ることに気付いた。主人公は虚言癖を持つ女の子で、何か目的がある訳でもないのに、次々と男性を翻弄していく話だ。

「すごいなこれ、面白いよ……」

 秋津の本心からの感想だった。未生は椅子に座って足を組み、満足げな表情を浮かべていた。

「早速撮ろう、役者を募らないと」

「ネットか何かで募集しましょう」

「手間がかかりそうだな。サークルのやつ使っちゃだめなのか?」

「サークルの? 話にならないわ」

 そう言い放った未生の声に、温度は一切感じ取れなかった。氷のような冷たさに、どんな言葉もはね返されそうに思って秋津は口をつぐんだ。

「男性陣とその他の脇役は、全てネットの掲示板で募ってみましょう。主役の女性は、私が大学の構内でスカウトする」

「スカウトって、ずぶの素人かもしれない子をか?」

「そう。だからこそいいの」

「未生がやったらいいんじゃないか?」

「冗談じゃない」


 未生は本当に、キャンパス内のベンチにぼうっと座っていた女の子に声をかけて連れて来た。そしてその子が見事カメラを通して化けた。思わず出てしまう嘘の言葉、男性の前での姿態、全てがリアリティを帯びて生々しかった。初めはサークルの映写室でこっそりと上映していたが、人が人を呼び、毎日のように上映は満員御礼となった。それもあって、学内で一番大きなスクリーンを備えた講堂を貸し切り、大々的に上映を行った。評判が回るのは早い。二百席近い席が、ほとんど観客で埋まっていた。

 舞台袖からその様子を見た秋津は、夢みたいだ、と思わずそう呟いた。そう、ずっとこんな風に、熱気に満ち溢れた中で、自分が監督した作品を上映してみたかった――


 「甘い罰」は東京都の学生映画祭で最優秀賞を獲った。主演を飾った例の女の子は、芸能プロダクションから声がかかった。ついこの前まで、普通の大学生だった女の子だ。秋津は改めて、未生の人を見る目の鋭さに驚嘆した。

 ある日の夜、同じ布団にくるまっているときに、秋津は未生に尋ねた。

「未生はどうして、あの子をスカウトしようと思ったの?」

「こうちゃんはどうしてだと思う?」

「まあ、かわいい子だよな」

「じゃあわたしとどっちが可愛い?」

 未生がそう悪戯っぽく聞くので、秋津は未生の頬をつまんで、まあそりゃあ未生かな、と答えた。

「それは冗談として、そう、つまり、美人なんてこの世の中に掃いて捨てるほど居るのよ。それだけじゃあ人は三日で飽きる。次の目新しい美人が現れたらもうお終い。あの子はベンチで、誰かを待っているみたいだった。その様子を私はしばらく眺めてたんだけど、でも誰もやって来ない。彼女は携帯を取り出して、誰かにメールを打った。打ち終わると、不適な笑みを浮かべた。目は笑ってなんかなかった。そのとき、この子だ、って直感した」

「それだけで、か?」

「それだけで充分だった。そして私の予想通り、あの子には演技なんてする必要もなかったんだから」

「どういうことだ?」

「全部素でやってたってこと」

 秋津は思わず全身をぶるっと震わせた。真偽のほどは分からないが、あの子が全くの素であんな役をこなしていたのだとしたら、そしてそれを初めの一瞬の表情から見抜いていた未生。秋津は女という存在をますます計り知れないものに思った。


 次の作品も、未生が一から本を書いた。仲の良かった大学生の男女グループが徐々に崩壊していく様を描いた、演劇調の会話劇だ。この度はさすがに予算が厳しい、ということで、仕方なく役者はサークルのメンバーを起用した。

 だが、未生はその役者たちに随分強く当たった。教室を貸し切って撮影していたときのことだ。横で撮影の様子を見ていた未生が、耐え切れなくなったとでもいう風に、ストップ、と声をかけ、カメラを止めさせた。

「趣味でやってるなら、出て行ってください」

 その未生の言葉にカチンと来たのか、未生より一学年上の女性部員が、立ち上がって声を荒げた。

「一回賞獲ったからって、プロ気取り? 演者に気も遣えずに調子にのってんじゃないわよ」

 場は緊迫した。秋津と音声の男性が、まあまあ、と止めに入った。しかしその甲斐も空しく、未生は一層攻撃的な目になって、冷たい口調で言葉を返した。

「いつまでも親のすねかじって、単位落としたって笑って、その合間にお遊びで映画やってますだなんて、笑わせるじゃないの。よっぽど我慢しようと思ったけど、もう見てられない。何かに本気で悩んだり泣いたり怒ったりしたこともないあなたたちに、演技なんてできる訳がないのよ」

 役者の女性が、無言で椅子を蹴って出て行った。それに続いて役者たちは全員、教室から出て行った。ああ馬鹿馬鹿しい、と捨て台詞を吐いていく者もいた。秋津は思わず未生の頬を平手で打った。未生は打たれた頬を手で押さえ、目に濃い非難の色を浮かべていた。

「よせよ。でも確かにあれは言い過ぎだ、もう誰も戻ってきてくれないよ」

 音声の男性が、諦めたようにそう言った。未生は何も言わずに荷物を持って、その場を後にした。秋津は心中穏やかではなかった。親のすねをかじって、授業にもろくに出ずに、その合間にお遊びで映画……まるで自分のことを言われているような気がした。でも俺は別に遊びでやっている訳じゃない、いたって本気だ。それ故に、秋津は自分が侮辱されたように思った。


 一週間ぐらい、未生と秋津はどちらからともなく連絡を絶っていた。でも秋津は未生の脚本を読み返す度、やっぱり面白い、と思わずにはいられなかった。これがボツになってしまうのは、あまりにも勿体無い。どうお願いしても、元の役者に戻って来てはもらえないだろう。知り合いの伝で、演劇サークルから誰かスカウトして来ようか。それから一番台詞が多い主役ポジションの女を、未生にやらせたらどうか。未生にだって、製作に関わったスタッフ全員の時間と労力を無駄にした責任がある。そのぐらいは償って当然のことだ。

 秋津から電話をかけてみると、電話口の未生はあっさりとした調子で、いつもとさして変わらなかった。秋津がその提案を持ちかけると、やっぱり躊躇いはあったのか一瞬間が空いたが、未生は自らが演じる側に回ることを了承した。今まであれだけ役者をやるのを嫌がっていたのだから、未生にも罪悪感があったに違いない。

 未生は与えられた役を完璧にこなした。もし芝居が下手くそだったら嫌味のひとつでも言ってやろうと秋津は思っていたが、文句をたれる余地もなかった。

 撮影も終盤を迎え、残すカットはラストシーンと「濡れ場」のみだった。何を隠そう未生が本の中に書き入れた濡れ場だ。登場人物同士の関係性を暗示する重要な場面で、なくす訳にはいかない。未生もまさか、自分で書いた濡れ場を自分が演じるなどとは、夢にも思わなかった。

「ねえこうちゃん、あのシーンだけ、誰か、そういうのに慣れた、役者さんに代わってもらえないかしら」

 未生はいつになく気弱な調子で、キッチンでラーメンをゆがく秋津にそう相談を持ちかけた。

「替え玉を使うなら、顔を一切見せないってことになる。そんなのおかしいだろう。リアリティにこだわるのはいつも未生の方なのに」

「それは、そうだけど」

 そう言われると、未生は何も言い返せなかった。

「濡れ場っていっても、学生映画だからさ。脱ぐのは上だけでいいし、下着だけになったら照明もかなり落とすよ。キスはしている振りでいいし、そこから先は編集でぼかしてどうとでもするから、ただベッドに横になっててくれてればいいんだ」

「うん、まあ……」

「もうちょっとで完成なんだからさ。頼むよ。未生はカメラ映えもするんだしさ」


 未生は了承したようだった。しかし撮影当日、未生と相手役の男性がベッドインしたところで、急に未生がぐずり出した。やっぱり無理、帰る、と布団から出ようとし、相手役の男性がひきとめようと手を伸ばすと、未生はその手を邪険に振り払って、振り払った手が男性の耳元に当たった。男性は怒って枕を床に放り投げ、周りは二人を止めに入ろうとして、映像が乱れた。そんなトラブルが相次ぎ、結局取り直しの進んでいたその作品はお蔵入りしてしまった。

 未生のわがままに耐え切れなくなった秋津は、別れの話を持ち出した。未生は、そうね、とだけ言って、秋津の部屋にあった自分の荷物を全てトランクに詰め、その日のうちに出て行った。それからは一切連絡を取り合わなかった。

 一ヶ月ほど経って秋津は、同じ学部なのに授業でもキャンパス内でも一切未生の姿を見かけなくなったことに気付き、不意に気がかりになって、サークルのメンバーに尋ねてみたが、誰も彼女の動向を知らなかった。電話をかけても、この電話は現在使用されておりません、という機械的なアナウンスが流れるだけだった。携帯も変えてしまったのだろうか。そこで秋津はふと、未生がよく、あの人はすごい、と話していた教授が居たことを思い出した。現役の作家で創作を教えており、未生もよく書いたものを見てもらっていると言っていた。その先生に聞けば、きっと何か分かるだろう。そう考えて、秋津は教授の研究室を訪れた。

 包み隠しても仕方ない、と思い、秋津は単刀直入に尋ねた。

「未生さんとは以前同じサークルで、付き合っていたこともあります。でも恥ずかしながら、最近の彼女の動向が全く分からないんです。別れはしたんですけど、あんまりにもキャンパス内で顔を見かけないから、心配になって……先生なら、何かご存知かと」

「彼女なら、退学しましたよ」

 秋津は思わず、え、と目を丸くして聞き返してしまった。

「退学?」

「ええ、つい先日、退学届けを出したとのことでした。大変残念なことです」

「まさか、学校を辞めてるとは、思わなかったな」

「僕はこの世の中は、基本的にとても不公平だと思っています」

 秋津はその教授の言葉の意味をよく理解しないまま、呆然として研究室を後にした。


 全て話し終わると、秋津はカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。琴子は胸の中に、何とも言えないひっかかりが残るのを感じた。「ちょっと、聞いてもいいですか?」

 琴子が言うと、どうぞどうぞ、と秋津はカップをソーサーの上に置いた。

「まあ、一般的には、というだけですけど、自分の彼女や彼氏が濡れ場をやるってなったら、嫌だと思うんです。どうしてもっていうなら観念するけど、なるべくならやってほしくない、というのが普通なのかなって。本人がやりたいって言うならまだしも、秋津さんの話を聞くと、未生は嫌がってましたよね。そこまでして、未生にやらせる必要はあったんですか? というより、秋津さんは嫌じゃなかったのかなって」

 なるほど、と相槌を打ちながら、秋津はゆるいパーマを当てた髪をくしゃっと撫でた。

「もちろん、抵抗が全然ないって訳じゃないですよ。でも俺たちはものを作る人間です。あの撮影のときは、俺は未生を彼女である以前に、役者として見ていました。未生が演じた方が、絶対に良い作品になる、と確信してたんです。それに何も本当に行為におよぶ訳じゃない、キスさえするフリでいい。絶対に嫌というなら無理強いはしなかったですけど、未生はどちらかというと、初めてのことに不安がってる、という感じでした。ならばやってみよう、と」

「はあ、そんなもんなんでしょうかね……」

 まだすっきりしないといった様子の琴子の横で、こいつは随分弁の立つ男だ、と原は思った。

「それに、そんなこと言ってたら、女優や俳優なんて結婚もできないですよ」

 あくまで業界側の人間として喋ろうとする秋津に、琴子はうすら寒いものを感じた。


「あれは絶対、未生が好きだった、たったひとりの人ではないです」

 喫茶店を出て、池袋駅までの道のりをゆっくりと歩きながら、琴子は隣の原を見上げて言った。

「いや、実はそれは分かってたんです。僕はその、未生さんのたった一度の恋の相手が知りたくて、面会のとき彼女に、今までどんな人と付き合ったのか、尋ねてみたんです。すると大学時代に唯一付き合った人として、秋津の名前が挙がりました。でも彼女は秋津の話をするとき、眉を顰めていました。あの男は最低だった、とまで言い放ちました」

「じゃあ秋津の話は嘘ってことですか?」

「全部が全部、嘘ではないでしょう。明日これを持って、面会に行きます」

 原はポケットから、ボイスレコーダーを取り出した。

「未生に聞かせるんですか」

「はい、そのつもりです」

 琴子は山手線、原は地下鉄に乗るというので、たくさんの人の行き交う駅のコンコースで別れた。


 同じ東京という場所で、同じ時期に、琴子と未生は大学生活を送っていたのだ。決して交わることはなかった。まるで別の世界を生きていたかのように。


 コンクリートの壁に、秋津の声が反響する。初めはじっと真顔でそれを聞いていた未生だが、そのうちに口元を押さえ、肩を震わせ始めた。泣かせてしまったか、と原がレコーダーを止めようとすると、気付いた未生が、続けてください、と震えの混じった声で言った。大丈夫ですか、と原が尋ね返すと、未生はもう我慢ならないといった風に、思い切り笑い声をあげた。

「未生さん?」

「もう、おかしくっておかしくって、たまんない」

 未生は背をのけぞらせて笑う。刑務官が思わず立ち上がり、未生の両肩に手を置いて、静かに、と注意をした。

「ごめんなさい、だってこんなのお笑いよ、嘘ばっかり」

 未生はしばらく、くっくっと肩を小刻みに揺らして笑っていたが、やがて笑うのを止めると、今度はまた真顔に戻って、瞳の焦点が定まらないまま床に視線を落とした。

「未生さん、本当は秋津との間に何があったか、聞かせてほしいんです」

「これだから、才能のない人は嫌いなの。才能のない人には、余裕がない、自信がない。だから人を羨んだり、妬んだりする」

「そうかもしれません。どんなことでもいい、聞かせてください」

「あれは全部、こうちゃん、いや、秋津浩一郎の計画でした」

「計画、というと?」

「映画をもう一度撮り直そうと私に話を持ちかけていた時点で、秋津は全て考えていたのだと思います。私が負い目を感じているのを分かっていて、私に主役をやらせ、濡れ場を利用して私の尊厳を奪おうとしたんです」

「ベッドシーンの撮影になって、急に未生さんが愚図り始めたというのは」

「真っ赤な嘘です。私は覚悟を決めていました。良い作品を作るためには仕方がない。相手役の男が布団に入ってきたときは嫌でした。でも、ここに寝てさえいれば時間は過ぎるだろうと」

「そこで何か、予定と違うことが起こった?」

「男が布団の中で何やらもぞもぞし始めたんです。何だろう、と思ったら、チャックを下ろす音が聞こえました。まずい、と思って急いでベッドから出ようとすると、音声やカメラの男たちに押さえつけられました。私は助けを請うように秋津の方を見て、こうちゃん、と名前を呼びました。でも秋津は感情のない目で、ぼうっとこちらを眺めているだけでした。ぞっとしました」

「それで、無理やり……?」

 原は思わず話す言葉に詰まった。

「いいえ、私は男たちの腕に次々に噛み付き、着の身着のまま、何とか逃げ出しました」

「秋津はどうして……」

「私への復讐でしょう。彼はひとりでは何にもできない人間だったから……」

「別れ話というのも」

「嘘です。私は秋津がいない隙に彼の部屋から自分の荷物を全て持ち出し、携帯も変えました」

「じゃあ、秋津が教授のところを尋ねたというのは」

「それは本当です。先生から私のところに連絡があったから。でも、私を心配したとか、そういうのではないことは確かです。私があの日のことを、大学や警察に報告していないか、ふと不安にでもなったんじゃないですか」

「退学、というのは」

「それはまた、別の理由で。私そんなに、弱い人間じゃないですからね」


 原を通じて話を聞いた琴子は、愕然とした。

「それじゃあ、レイプってことですよね?」

「まあ、幸い未遂ですが」

 信じられない、と琴子は思わず呟いた。向かい合って話した秋津は、割り切った態度を見せながらも、基本的には穏やかな人物に思えた。ベッドで数人の男に覆いかぶさられている自分の彼女を、ただ冷徹なまなざしで見つめる秋津。その場に居合わせた訳でもないのに、ぞっとした。

「原さん、一体ここから、どうするつもりなんですか」

 琴子は一番気になっていた核心を、原に尋ねた。原は今まで琴子に関わってきたあらゆる人物とコンタクトをとっている。しかし、琴子が殺したのは三ツ谷聡史という46歳の男性だ。三ツ谷の話は今までほとんど出てきていない。

「未生さんが三ツ谷を殺したのは、紛れもない事実です。何より本人が認めています。検察側は、十五年程度の懲役を求刑するでしょう。弁護人である私には、その刑を少しでも軽くさせる役目があります」

「十五年……」

 十五年経てば、私も未生ももう四十だ。十五年。この世に生を受けてから中学を卒業するまでの間。そんなに途方もない年月を、未生があの塀の中で暮らすのだとしたら。あんなに太陽の光が届かない場所では、美しい花もきっとすぐに枯れてしまう。

「未生さんは自分から多くは語ってくれません。でも僕が彼女の弁護人として選ばれた際、これまでの彼女について念入りに調査しました。すると浮かび上がってきたのは、彼女を取り巻くたくさんの男たちでした。これまでに話した小林や岡田、先日会った秋津。それ以外にもまだ会うべき人物は何人も居ます。僕は未生さんの背後に、その男たちの荒い息遣いがいつも聞こえるように思うんです。三ツ谷だけが原因じゃない。粗悪なたとえかもしれませんが、三ツ谷は爆弾のスイッチに過ぎなかった。未生さんの中にはもう既に、肥大化した爆弾が搭載されていた。その証拠に未生さんは、どうして殺したのかと聞かれても答えように困ると言っています。今となっては憎しみはない、ただあの瞬間はそうしなければ、何もかもだめになると思った、と」

「つまり、未生が三ツ谷を殺したのは過失だとはさすがに言えないけれど、決して計画性のあるものではなかった。あくまで発作的に首を絞めてしまった。そしてそこまで未生を追い詰めた背景には、あんなことやこんなこともある。だから、同情の余地は充分にある。今はその、あんなことやこんなことの、証拠集めなんですね」

「さすが琴子さん、全て分かってる。その通りです」

 琴子は今までの人生の中で、これほど何かの出来事や物事に夢中になったことはなかった。何でも広く浅く、深く入り込まない生き方を選んできた。

「琴子さんはきっと、弁護士に向いていますよ」

「でも私、六法全書なんて、開く気にもならないですけどね」

「あれは分厚すぎて枕にもならないですからね。そうだ、僕は明日、当時例の撮影の場にスタッフとして居合わせていたという女性に、話を聞けることになりました」

 最近は毎日のように夜まで、原の事務所かどこかの喫茶店で、こうして二人で話している。駅の改札で原と別れて、電車を待ちながら携帯を確認する。省吾からの不在着信が入っていた。


「三十過ぎの弁護士か、さぞ魅力的でしょう」

 省吾は半分冗談でそう言って、拗ねたフリをしている。琴子はそんな省吾をからかいながら、省吾の洗ったばかりの髪をタオルで拭いてやった。

「ごめんね最近、電話もろくに出られなくて」

「別に、いいけど」

「裁判が終わるまで、あんまり連絡とらない方がいいのかな」

 省吾は琴子を振り返って、大雨に濡れた子犬のように瞳をうるませる。

「はい、冗談です。省吾いつになく弱ってるから、からかいたくなっただけ」

「琴子、ひどいよ……」

「うそうそ。でも実際省吾だって、最近かなり忙しかったんじゃないの」

「まあね。でもやってることは最早、単純作業に近いよ。おんなじような構造のマンションの部屋の設計図をいくつもいくつも書くんだ。俺の書いた設計図をもとに部屋ができて、すぐに入居者で埋まっていく」

「いいことじゃない」

「そうなのかな。でも何だかおそろしいよ。人はどこからともなく湧き上がって、こぞって快適な住処を求めて奔走し、居住する、そんな風に考えると」

「そんな言い方したらまるで虫みたいじゃない」

「さして変わりないよ」

 投げやりな調子で言うと、省吾は机の上の設計図を丸めて本棚に立てかけた。こっち、と省吾は琴子の手を引いて、ベッドまで連れて行く。いつもより少しだけ乱暴な目をしていた。どちらからともなく横になって、互いの足を絡ませる。

「ねえ省吾、ひとつ聞いていい?」

 ん、と琴子の手を押さえたまま先を促す省吾は、さっき子犬のように瞳を潤ませていた男の子と、同一人物だとはとても思えない。

「もしもね、有り得ないけどもしも、私が演劇か映画の女優をやってて、濡れ場を演じるってなったら、省吾はどう思う?」

「いやだなあ」

「そうだよね、それが普通だよね」

「相手役の男と監督を吊り橋の上に呼び出して、谷底に落とすぐらいしないと気が済まないな」

 それはやり過ぎ、と言う暇もなく、琴子は省吾に唇を塞がれる。


「止めたいけれど、止めると次は自分が標的になる。いじめを見ているしかできない子の心理と同じです」

 事務所の小部屋で原と向かい合って座った女性は、当時のことを鮮明に思い出そうとしているのか、目を細めながら言った。

「私はその時、ただの脚本チェックと荷物持ち、言ってしまえば雑用係でした。スタッフは私以外全員男性でした。だからもしかしたら、私と柏木未生さん以外はみんな、あの後何が起こるか知っていたのかもしれないと思います」

「ベッドシーンを利用して、初めから、その……未生さんを集団で襲うつもりだったと」

「そこまでは私には何とも言えませんけど……動揺したり止めたりする人は誰も居ませんでしたから」

「なるほど。でも未生さんはすんでのところで逃げ出した」

「はい。まず最初に、何するの、という未生さんの大きな声が聞こえました。どうしたんだろうと思ったら、未生さんが布団の中から飛び出して、それを周りの男の人たちが抑えつけにかかりました。私はすっかり怖くなって、その場に立ち竦んだまま動けませんでした。今思えば、外に出て誰かを呼んでくることもできたのかもしれないけど……でも未生さんは男たちの腕にかみついたんです。痛い、と彼らが声を上げている隙に、猛スピードで逃げて行きました。私は片手に脚本、片手にガムテープを持ったまま呆然としていました。すると、このことは絶対誰にも言うな、と音声の男の人にそう言われました」

「未生さんと秋津さんのことはご存知でしたか?」

「もちろんです。二人が付き合っていることは、言わずともサークルのメンバー誰もが知っている公然の事実でした。仲は良いと思っていました。喧嘩してるところも見たことがなかったし。まあ、私は二人のどちらとも、ろくに話したことはなかったんですけど。あの後すぐ私サークルもやめましたし」

「未生さんは、サークルではどんな存在でしたか?」

「良くも悪くも目立つ、目をひく存在だったと思います」

「悪くも?」

「態度はよくありませんでした。役者の扱いもひどくて、自分は脚本書いて椅子に座ってるだけ。甘い罰、でしたっけ。確かにあの作品はすごくって。でも監督はあくまで秋津さんなのに、あれは自分の作品だと言わんばかりで。一回賞獲っただけで女王様気取りでした。きれいな人で、斜に構えてるところがあったから、特に女性陣の間ではいろいろ言われてました」

「じゃあ、恨みを買うのも仕方がなかったと」

「いや、でも、だからといってあれはやっぱりひど過ぎる。人として駄目ですよ」

 女性は今、保険会社の営業職として働いているという。事務所の扉を出て行く際、原の方を振り返って不安そうな表情を浮かべた。

「私の名前とか、私がこの話をしたってことは……」

「ご心配にはおよびません。あくまでこれは、未生さんが殺人事件を起こした経緯を探るにあたって、彼女の人柄を聞いて回ってるだけなんです。あなたから聞いたお話は参考にさせてもらうだけで、お名前も決して出しません」

「お願いします……」

 女性はほっと溜め息をつくと、自分のお腹を撫でた。

「実は、お腹に赤ちゃんがいるんです」

 そうでしたか、と原は女性のお腹を触ってみる訳にもいかず、何ヶ月ですか、と尋ねた。

「この前分かったばっかりで、まだ二ヶ月なんです」

「そうとは知らず、およびたてしてしまって……」

「いえ、いいんです。今はまだ出歩いた方が気持ちも晴れるから」

 女性はエレベーターが閉まるまでずっと、頭を下げていた。

 同じ時期に同じキャンパスで授業を受け、同じサークルに属して同じ撮影場所に居合わせても、その後の運命は本当に様々だ。一寸先のことさえ誰にも分からない。


 琴子が目を覚ますと、省吾はもう居なかった。土曜だったが、仕事に行ったようだ。机の上に腕時計を忘れていた。カーテンの合間から差し込む日の光に、時計盤が反射してきらきらと眩しい。琴子は仕事を始めるまで、手首に腕時計を巻く習慣がなかった。それでもその光に、どことなく見覚えがある。セーラー服には少し不釣合いなピンクゴールドの輝き。

「その時計、きれいだね」

「これ? すごく気に入ってるの。私の宝物だから」

 未生の華奢な手首で、それはいつも光を放っていた。宝物、と確かに未生はそう言った。でも誰からもらったかは、聞かなかったように思う。

 琴子は簡単な昼ご飯を済ませると、家を出て電車に乗り、拘置所へと向かった。


 未生の手首には、あの腕時計は巻かれていない。きっと持ち込みを禁止されているのだろう。

「琴子、今日はお仕事、おやすみなの?」

「うん、土日は基本的に休み」

「彼氏とデートしなくていいの? 設計士さんの」

「あの人は土日構わず仕事。今日も朝早くに出かけてった」

「大変。じゃあなかなかデートもできないわね」

「デートねえ、確かに当分してないかも」

 こうして琴子と話す未生は、十年前と何ら変わらない。穏やかで、かわいい女の子。時々辛辣なことを言うのは今も昔も変わらないけれど、それは文学少女のご愛嬌といった程度だった。

 原や秋津の話を聞いていると、そこには琴子の知らない未生が居る。鬼のように厳しく氷のように冷たく、時折砂でできた城のように脆い。

「原先生から聞いた。こうちゃん、ううん、秋津浩一郎に会ったこと」

 以前恋人として呼んでいたのであろうあだ名が口をついて出て、素早く言い直す様には、生々しさを感じる。

「うん、会った」

「嘘ばっかり言ってたでしょう?」

「そうね……」

 返事に困って、琴子は口ごもった。

「でも思えば、私だってあいつに、嘘つきっぱなしだったわ」

「嘘? 何の?」

「私、あいつのことちっとも好きじゃなかった。でもこの口からは、思ってもないことがいくらでも出て来る。好き、会いたい、いくらでも言えた。どうしてだろう。そうやって口にしてれば、本当に好きになれる気がしたのかな」

「それは多分、嘘とは言わないよ。それに嘘にも二種類ある。人を欺く嘘と、人を傷つけないための嘘。もし未生の言うそれが嘘だとしたら、それは秋津を傷つけないための嘘だったんじゃないの?」

「秋津だけじゃない。もう随分長い間、どうやったら自然に人を好きになれるのか、分からないの。街中で腕を組んで歩くカップルを見ると、羨ましいと思う。不思議だとさえ思う。分からない、お互いに自然と恋に落ちて、付き合って。それは当たり前のようで、全然当たり前じゃない。とても幸運なことだと思う」

「未生、じゃあ、前に話してくれた、好きな人、っていうのは……」

「ああ、あれはね、完全な私の片想い」

「それは、どれぐらい前の恋だったの?」

「どれぐらい……」

「私が未生と出会った頃?」

「そうね。その頃にはもう。あれを恋と呼んでもいいなら」

「その恋は、どれぐらい続いたの?」

「とっても長い間。途方に暮れるぐらい。うん、今でも多分私は……」

「今でも、未生はその人のことが好きなのね? だから、その人以外の人を、好きになることができない、ちがう?」

 知りたいことが多すぎて、いつの間にか詰問口調になっている自分に琴子は気付いた。ごめん、と謝ると、いいの、と未生は穏やかな笑みを浮かべて首を振った。

「ちょっと思い出した。中学のとき、なぜだったか私、すごく落ち込んでた日があったの。朝から浮かない顔して学校に行って。そしたら琴子心配して、何があったか、どうして落ち込んでるのか私に尋ねてくれた。そのときの口調と表情、今とまったく一緒だったから」

「ごめんなさい、その頃から私こんな、まるで推理小説の探偵気取りで」

「ううん、懐かしいな、すごく」

 残り一分です、と刑務官の声が響く。毎度毎度、未生と向かい合って話せる時間はあまりにも短い。あと少しだけ話したい、と思うところでいつも時間切れだ。

「未生、もう少し聞いてもいい?」

「うん」

「その恋は何か、許されない恋だったの? 例えば先生とか、奥さんのいる美容師さんとか……」

「そうね、まあ、そんなところ」

「未生、私ね、私の知らなかった未生をもっとちゃんと知りたいと思うの。だから、もっとたくさん話してほしい」

「ありがとう琴子。じゃあ、恋の話は一番最後にとっときましょう。私絶対、琴子にだけは話すから」

 面会終了です――未生は琴子に背を向けて、暗い翳のさす方へと戻って行く。時間切れだ。


 文学部に進学し、創作を学んでいたのは未生らしかった。イメージ通りだ。映画の脚本だって、学生映画とは言え周囲をうならせるようなものを書いた。充分に才能はあったはずだ。いきなり小説家や脚本家には余程でない限りなれないけれど、大学を卒業したあと出版社や映画会社に入る道もあったはずだ。どうして二年で学校をやめ、夜の世界に身を投じねばならなかったのか。

 トントントン、と扉を叩く音がした。琴子ははっと我に返って考え事をやめ、どうぞ、と面接官の口調になって言った。扉の向こうから例の、産休後に会社をやめて再就職先を探している女性が入って来る。琴子の紹介した食品会社へ出した履歴書が通り、早速面接ということになり、琴子に面接練習をお願いしたいと依頼があった。

「それではまず、志望動機をお聞かせください」

「はい。御社は安定したシェアを誇り、“食を通してみんなを幸せに”という素晴らしい理念を持ち、女性が活躍していらっしゃるので、とても良い会社だと感じ、そういった点に魅力を感じました。私は以前の会社でも企画職に就いており、アイデア出しが得意なので企画には向いていると感じていますが、以前の会社は人事制度等に不透明なところがあり、男尊女卑の気風がありました。そのため私は今度は御社のような、よりクリーンで現代的な会社で勤めたいと思っています」

 言葉遣いはきれいで、理論も破綻してはいないが、ところどころ引っかかりを感じる。琴子は次の質問には進まず、一旦そこでストップをかける。

「全体的には良いと思います。言葉遣いもきれいで声もききとりやすく、印象はバッチリです。でも細かいことを言わせていただくと、まず最初のセンテンスが少し長すぎますし、書いたものを覚えて来ているように聞こえかねません。もう少しシンプルに、もしくは要素を分けて語れないでしょうか。あとは、これも難しいところなのですが、以前の会社の批判が少しストレートすぎるように思うんです。男尊女卑、という言葉の響きもかなり強いです。そういった言葉は入れずに、例えば、子どもができた今、以前の会社では自分の思うように力を発揮できないと感じ、ぐらいにぼやかしておいた方が良いと思います」

「なるほど、確かに西条さんのおっしゃる通りです」

 女性は琴子の言ったことを、つぶさにメモに書き留めていた。初めは自分よりも年上の人にアドバイスをしたり、面接練習をしたりすることに抵抗を感じていた。けれども段々に、どう伝えれば角が立たなくて済むか、身を持って分かるようになった。信頼されるされないに、年齢はきっと関係ない。

 面接練習が終わると、女性はまたいつものように深々と頭を下げた。

「本当に、西条さんには感謝感謝です。まだまだお若いのに、本当にしっかりしてらっしゃって、私も身が引き締まる思いです」

「とんでもないです。面接、きっと大丈夫だと思います。リラックスして、行って来てください」

 まだ新人の頃、上司の佐倉さんと、ロールプレイングでカウンセリングの練習をしたことがある。そのときに、琴子ちゃんあなた、この仕事向いてるわ、と言われたのが、今でも琴子の励みになっていた。

 ふと、未生が相談所を訪れて、琴子の目の前に座ったら、どんな風な話をして、どんな風な仕事を紹介すればいいのだろうかと考えた。

「未生、小説家か、新聞書く人か、それか、雑誌の編集者になったらいいよ」

 中学二年生、未生が転校する直前のことだった。夏休みに書いた読書感想文全国の部で、未生が賞を獲った。ミヒャエル・エンデの『モモ』という作品についてだったように思う。そう興奮気味に言う琴子に対して、当の本人である未生はいたって冷静だった。

「ものを書く、職業かあ……」

「うん、未生ならきっとなれる」

「ありがとう。そうだね、もしもなれたら、幸せだね」


 翌日珍しく朝早くに、原から連絡があった。

「朝早くに申し訳ない。昨晩連絡しようと思ったんですが、忙しくてタイミングを逃してしまって」

「いえいえ、全然」

「例の、撮影の場に居合わせた女性には会って、ちゃんと話を聞けました。未生さんの話は事実でしょう。まあ、だからといって別に、秋津たちをどうにかする訳でもありませんが」

「そうでしたか……」

「最近、面会での未生さんの様子はいかがですか」

「比較的、穏やかだと思います。ただ、未生の好きな人の話が聞きたくて、尋ねてみたんですけど、やっぱり今は、教えてはくれませんでした。恋の話は最後にとっとこう、きっと話すって」

「未生さんがそう言うなら、きっとそのうち琴子さんには話すつもりなのでしょう」

「原さんは、心当たりはないんですか?」

「どうだかな。まあそれも、調査中です」

 沸騰した湯が鍋からあふれ出る音が聞こえ、電話片手に慌てて火を止めに行く。ゆで卵を作っていたのをすっかり忘れていた。

「大丈夫ですか?」

「ええ、気にしないでください」

「僕が昨日面会に行ったとき、未生さんはとても質の良さそうなサマーニットを着ていました。それ素敵ですねと言うと、“神様”がまた買って来てくれたのだと」

「岡田ですね……」

「ええ、おそらくね」

「塀の中まで貢ぎ物……そうだ原さん、私、小林の話までしか聞いていませんよ。未生が中野のスナックで働いていたときの話しか」

「銀座のクラブのママさんにも、ちゃんと話は聞いてあります。ちゃんとお話しますよ。今日の夜はいかがですか? 事務所ばっかりも気詰まりだから、じゃあ新宿三丁目の喫茶店で会いましょう」

 分かりました、と答えて電話を切る。ゆで卵をラップに包むと、適当に握ったおにぎり二つと一緒にお弁当用の小さな袋の中に入れて、急いで家を出た。


 デスクに座ったまま、ふと振り返る。柱に職業相談所の名前と電話番号が入った月間カレンダーが貼ってある。未生の裁判まであと一週間を切った。日にちの並びをぼんやり眺めていると、背中に荒い息がかかるような感覚があった。

「琴子ちゃん、久しぶりだね」

 デスクの方に向き直ると、案の定そこには例の男が居た。脂ぎった顔に、にたにたと笑みを浮かべている。普段あまりテレビを点けない琴子は、皮肉なことに、この男を通じて未生のニュースを知ったのだ。

「琴子ちゃんさっき、何見てたの? カレンダー? 彼氏とデート? たまにはさあ、俺とも遊んでよ」

 どういう神経してんの、琴子の中で響いたその冷たい声は、どこか未生の声に似ている。そんな豚みたいな風体して、よくのうのうと話しかけて来られるもんね。琴子はそれが、自分の内側の声なのか、もし未生だったらこう言うに違いないという想像上の未生の台詞なのか、分からなくなる。あくまで音として外側に出してしまわないように、琴子はぐっと堪えた。

「この前求人票二つ渡しましたけど、その後どうですか?」

「だめだな。全然だめ。嘘ばっかり吐きやがって。嘘つきは泥棒の始まりってな。まったくこの世の中には泥棒がうようよ居るな」

「会社が嘘吐いてたってことですか?」

「そうそう。電話したらじゃあ履歴書持って一度来てくださいって言うから、ご丁寧に行ってやったんだよ。そしたら、やっぱり年齢的にむずかしいですかねえ、なんて言うもんだから、もう頭来てさ。そんなんだったら最初っから書いとけよ。年齢なんて分かってるんだからさあ。俺の貴重な時間無駄にしやがって。年齢不問だなんてとんだほら吹きだな」

 きっと、会社側はこの男と会って、目を見て話し、こいつは雇えないと判断した。はっきりしたことを言えるはずもなく、年齢を理由に不採用にしただけのことだ。

「すみません、私の力不足でした」

「いいってことよ、琴子ちゃんが謝るこたねえな。琴子ちゃんは若いのに本当よくやってるよ。でも毎日こんな相談所に閉じこもってるより、琴子ちゃんみたいな可愛い子は夜の商売やった方が稼げるんじゃないの。興味ないの? ねえ、もしそっちの商売やるんだったら俺毎日行って琴子ちゃん指名するよ。だってここ、給料たいしたことないでしょ」

「馬鹿にすんじゃねぇぞ」

 あ、と琴子は思わず口を塞いだ。言ってしまったと気付いた時にはもう遅かった。琴子の中の未生が不適な笑みを浮かべている。

 男はがたがたと震え始め、立ち上がったと思ったら思い切り椅子を蹴り飛ばした。順番待ちでソファに座っていた女性が悲鳴を上げ、場は一時騒然となった。所長はじめ男性数名が男を抑えにかかり、佐倉さんが警察に電話をかけた。特に処罰になった訳でもなく、男はただ厳重注意を受けただけのようだった。所長の意向で相談所には出入り禁止になった。

「ごめんなさい、私のせいで大事になってしまって」

 琴子が申し訳なさそうな表情を浮かべると、いやいや、と所長が首を横に振った。

「こっちこそ、すまない。佐倉くんから聞いてはいたんだけどね。こうなる前に、もうちょっと対処の仕様があったのにと思う。西条くんは何も悪くないよ」

 そう言って所長は溜め息をひとつ吐いた。

 その日の帰り際、荷物をまとめていると、佐倉さんに、ちょっと、と呼び止められた。

「今日ね、正直私びっくりしちゃった」

 ああ、と琴子は頭を掻いた。何のことを言われているのか、すぐに分かった。

「馬鹿にすんじゃねぇ、って、琴子ちゃんも怒ったらあんな風に言うんだなって。聞いたときは思わず耳を疑っちゃった。でも、何だか私もすっきりしたなあ。まあ、意外は意外だったけどね」

 私もです、とはさすがに言えなかった。自分が言ったに違いはないのだ。お先に失礼します、と琴子は苦笑いを浮かべたまま、職場を後にした。


「へぇ、そんなことがあったなんて」

 新宿三丁目の純喫茶で、原と琴子は向かい合って座っていた。

「馬鹿にすんじゃねぇぞ、って口に出た瞬間、その言葉を自分が言ったと思えなかったんです。まるで未生が塀の中から……」

「テレパシー、ですか?」

「そうだなあ、そう言っちゃうと胡散臭く思えるだけだけど……」

「でも、ちょっと不安だな。そうやって自分が下に見られると、すぐにプチッと切れるタイプは」

「何か仕掛けてくるってことですか?」

「まあ、一概には言えないけど。それにその男は今、野放しってことですよね?」

「そうですね、完全に野生に戻りました」

「あの、もし不安だったら、僕の事務所、寝泊りに使ってもらってもいいですよ」

 琴子がぽかんとした顔をすると、原は、いや、あの、と言ってどぎまぎとした。

「もし、もし琴子さんが泊まるっていうなら、戸締りは厳重にした上で、僕は自分の家に戻りますから。それは心配要らないです」

 琴子は思わず笑ってしまった。

「いえ、違うんです。そんなに気遣ってくれるなんて、思いもよらなかったから」

 事件の話になると、立て板に水のように饒舌な原も、男女のことにはきっと不器用なのだろう。相手ならいくらでも居そうなものを、結婚もしていなければ女性の影らしきものも見えない。

「いやいや、だって、こういうのはしっかりやっとかないと。公的な抑止力なんてほとほとあてにならないんです」

「公的な抑止力があてにならないなら、多くの人が困ることになりますね」

「ええ、だから今現在こうして実際に、多くの人が困っている訳です」


 そうして話しながら、二人ともあっという間にサンドイッチを食べ終わってしまった。琴子は手の指をお手ふきで拭うと、居住まいを正した。

「少々遅くなっても構いませんから。ゆっくりと、話が聞きたいんです」

 琴子が言うと原は、分かりました、と言って、黒い鞄の中から分厚いリングノートを取り出した。


 未生が中野のスナックで働き始めてから、店の売り上げは二倍に増えた。今までになかったことだとママは言う。未生目当てで来る客の層は幅広かった。小林のように、夜の店に通う習慣のなかった男でも、未生とまた会いたいがために、一度来れば通わずにはいられなくなる。そのため自然客層も以前よりハイグレードになった。

 かわいらしい魔女だった、とママは未生のことをそんな風に表現した。

「もちろん、未生ちゃんが居てくれて助かったわよ。売り上げは上がるし店の評判も良くなるしバンバンザイ。でもだからといって、あたしだって鬼じゃないわ。こんな仕事場に長いこと囲っておきたいだなんて思わないわよ。あたしぐらいになるとさ、もう老人会でカラオケしてるのと変わんないわよね。おばさんにお触りしてこようとする男なんて居ないんだし、気楽にやれちゃうわよ。でも若い子で、やりたくてこの仕事やってますだなんて、百人に一人いるかいないかじゃないかしら?」

「じゃあママは、いつからこのお仕事を……?」

 原の口から思わず、そんな質問がついて出た。ママはタバコを灰皿の上でもみ消して、ふっと笑った。

「大昔ねぇ。あなたそんなこと聞きたいの?」

「聞きたいです」

「あたし元々、服飾の専門学校に行っててね。家が呉服屋だったからまあ当然の流れで、和裁なんか習ったりしてね。でも人生何があるか分かんないわよ。いろいろあって、あっという間に呉服屋つぶれちゃって。母は心労がたたって入院。あたし学校なんて行ってる場合じゃなくなっちゃったのよ。今すぐにでも働き始めないとにっちもさっちもいかなくなったって訳。女が一番手っ取り早く稼げる仕事って、やっぱりこれでしょ。二十歳にもならない頃ね、何にも知らずに飛び込んだわよ」

「そうだったんですか。本当に人生って、何があるか分かんないんですね」

「そうよ、ほんとにそう。それで最初に立川のスナックに行ったんだけど、あたしとおんなじタイミングで入った女の子が居てね。年もおんなじで、意気投合したわよ。理沙子って言ってね、彼女はあたしと違って利発で、何であんなお嬢様みたいな子がこんなとこに来なくちゃならないんだろう、世の中って理不尽、ってそう思ったわよ」

「それってまるで……」

「そうよ、その通り。未生ちゃんが初めて店に来たとき、若い頃の理沙子がタイムスリップして来たのかと思ったわよ。そっくりだったんだもの」

「その理沙子さんが、銀座のクラブのママさんなんですね?」

「ええ、さすが弁護士さんね。理沙子はやり手だったわ。とろくてぼけっとしたあたしと違ってね。でもあたしだって、癒し系だねなんて言われたには言われたのよ。だからあたしには、このぐらいのちっさなスナックが合ってるの。あたしがここにお店を出すずっとずっと前に、理沙子は銀座に自分のクラブを持った。あんな一等地に自分のお店よ。裏にどんな男がいるのかなんて、怖くて聞けなかったわ。あなたも来ないか、来て店のチーママにならないか、って誘われたんだけど、あたしは断ったのよ。自分の器にはあまりにも不釣合いだからって。器に入る水の量は初めから決まってるじゃない? あふれ出たらおしまいなんだもの。でも結果理沙子のお店は大繁盛。素直によかった、と思ったわ。あたしには花を贈るぐらいしかできなかったけどね」

「じゃあ、ママはどうして、その理沙子さんに、未生さんを紹介したんです?」

「理由はほんとにいろいろあるわ。でもね、今思えば、一番の理由はやっぱり、怖かったんだと思うの」

「怖かった? 未生さんが?」

「そう。あたしじゃもう、きっとあの子の支えになったり導いたりすることはできない。いや、それも綺麗ごとね。あたしには背負いきれない、コントロールできない。だから理沙子に任せようって。若い頃のあなたとそっくりの子がいるのよ、ちょっと見てあげてくれないかしらって。まあ、はっきり言えばね、理沙子にぜんぶ押し付けたのよ」


 ある日の夜、お客さんがみんな帰って、未生がカウンターの上を布巾で拭いていたときのことだった。

「未生ちゃん、最近はもう、小林につきまとわれたりはしてない?」

「ええ、おかげ様で、あの人の影さえ目にしません。すっかり懲りたんでしょう。ご心配おかけしました」

「ならよかった。でも未生ちゃん、ほんとによくやってくれてるからね、今月末にボーナスでもあげちゃおうかなって思ってるのよ。まあ、お小遣い程度だけどね」

 ほんとですか、と未生は目をきらきらと輝かせた。

「でね、そのボーナス元手に、未生ちゃんあんた、一からやり直してみたらどうかしら。最近は景気も悪くないから、その若さならまだ、いくらでもお昼のお仕事が見つかるはずよ。まずはOLさんでも何でもいいじゃない、ね。それでお金貯めてまた大学なり専門学校なり、行くこともできるわよ」

 その言葉を聞いた未生の目の輝きは一気に失せ、今度は打って変わってどろんと濁ってしまった。

「ママは、私をクビにしたいんですね」

 ママは慌てて首を横に振った。クビにしたいだなんて、毛頭考えていない。ママはまだ若く美しい未生の将来について、本気で考えていた。いつまでもこのカウンターの内側に、立たせておく訳にはいかない。

 大学生をやりながら、お小遣い稼ぎでやっているような女の子たちは良い。こっちが気にしなくたって、就職が決まれば自然と辞めていくだろう。でも未生は違った。この世界に深く両足を突っ込んでしまえば、簡単には抜け出せないことをママは知っていた。

「違うわ。本当はいちばん手放したくないのよ。でも、だからこそ、あんたのことを大切に思って言ってるの、お願いわかって」

「ありがとうママ、でも、心配しないで。私には、やり直さなきゃいけないことなんて、何にもないんです」

 言葉の端々から、未生の強い意志を感じて、ママは何にも言い返せなかった。

「じゃあ、お先に失礼します」

「あのね未生ちゃん、さっきと言ってることが全然違うけど、もしあんたがこの世界でこれからもやっていくつもりで、覚悟を決めてるんだったら、きっとうちじゃない方が良い。あたしの古くからのお友達がね、銀座の高級クラブやってるの。あんたにもしその気があるんなら、紹介してあげるわ。あんたにはきっと、そっちの方がふさわしい」

「銀座……」

「もちろん嫌なら、無理強いする気はないのよ」

「いえ、ぜひ、紹介してください」

 未生の瞳の中に、めらめらと滾る炎が見えた気がした。やっぱりこの子は分かっている。自分の武器、そしてその武器が、銀座という土地でも充分に力を発揮することを。理沙子と同じように。


 原は初めて理沙子に会ったとき、ママの言っていたことが全てわかったような気がした。薄化粧に、リネンのシャツワンピース。言われなければ、高級クラブのママだなんて絶対に分からない。田園都市線在住のマダム。子どもの習い事の合間に、カフェでコーヒーでも飲んでいそうな専業主婦。それでも、はじめまして、と頭を下げる理沙子には、一朝一夕では手に入らない品と色気がある。

 この世界の第一線を走りながらも、決してそのけばけばしさには染まらないよう意識し続けてきたのだろう。そしてそれが、男たちの淡い夢を保ち続ける唯一の方法なのだと、心得ていた。原は不意におそろしくなった。

 クラブの裏側にある事務所に通され、理沙子が直接スリランカで調達してきたという茶葉を使った紅茶を飲んだ。普通の紅茶との違いが、原にはよくわからなかった。

「昔の私と似ている、と。確かにその通りでした。だから、事件が起こってしまったあとも、私は何だか、ただただ悲しいんです」

「悲しい?」

「ええ。人はおんなじような境遇におかれて、似た道を選択しても、その後が同じだとは限らない。私だって何かひとつ違っていたら、未生ちゃんのように誰かの首を絞めていたかもしれない。でも私には、そんなことは起こらなかった。未生ちゃんには起こってしまった」

「お店をやめたのは?」

「ちょうど、四週間ぐらい前のことでした。あんまり前触れもなくやめたいって言うもんですから、何かあったの、って尋ねました。そしたら、何かあった訳ではないけど、でも、やりたいことと、やらなくちゃならないことができたからって。もちろん、未生ちゃんはお店の一番人気。言葉は悪いですが稼ぎ頭でした。だから私としても惜しかったけれど、あの子はこうと決めたら曲げない、言い出したら聞かない子です。無理に止めることもせず、黙ってあの子の門出を見送りました」

「未生さんが殺害した三ツ谷は、お店の客だったんでしょうか?」

「いえ、それが……あんな男性は私、一度もお見かけしたことがないんです」


 ルイ・ヴィトンの銀座並木通り店を横目に、未生は路地をぐんぐんと進んで行く。ショウウィンドウに映った自分に笑いかける。大丈夫よ、問題なし。

 お店のあるビルに辿り着くと、地下へと続く階段を下りた。まるでホテルの中の螺旋階段のように、ふかふかとしている。

「この度ご紹介にあずかりました、柏木未生と申します。どうぞよろしくお願いいたします」

「いらっしゃい、よく来てくださいましたね。オーナーの理沙子です。よろしくね」

 未生が今までお世話になっていた中野のスナックのママとは、随分雰囲気が違っていた。ママが自分をこの人の元へ送り込んだ理由が、未生には何となく分かるような気がした。

「そのままでいいわ、未生さん。ただ、ドレスだけね、この薄いピンクのはどうかしら」

 その日の夜、未生はお店のナンバーツーだというホステスの横についた。三十前後といったところか、愛想がよく明るい人で、貴重な新人よ、とお客さんたちに未生を紹介してくれた。

 客はみんな、未生を見るとなぜだか唾を一度ごくりと飲み込み、慎重に話し始める。未生の持つ雰囲気が、自然とそうさせるのかもしれなかった。未生、小説家か、新聞書く人か、それか、雑誌の編集者になったらいいよ――中学時代、未生のこれまでの人生で唯一の親友だと言える琴子が言った言葉を、何の脈絡もなく思い出した。太陽のやわらかな光に照らされた木目。木のにおいのする書斎で、何やら一生懸命原稿用紙に書きつけている自分。パラレルワールド。それは選ばなかった未来。いや、選ぶことのできなかった未来。琴子ごめんね、私、だめだった。

 ナンバーツーの得意客だという男が、未生に名刺を渡してくれた。未生でさえ知っているような、不動産会社の取締役だった。裏に書いた番号、プライベートの電話だから、と男は未生の耳元で囁いた。ぞくっとして悪寒が走る。鳥肌が立っているのを悟られないように、未生は上品な笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。嬉しい。社長さんのような方に、入りたての私が良くしていただいて」

 すっかり気をよくした社長は、頬を紅潮させて、ルイ13世、欲しい? と未生に尋ねた。未生は潤んだ瞳で、はい、と答えた。ルイ13世は一瓶三十万を超えるブランデーだ。


 数度目の出勤のあと、更衣室でドレスを脱いでいると、不意に後ろから現れたナンバーツーに声をかけられた。

「かわいい未生ちゃん、調子にのっちゃだめよ」

 未生はすっかり打ちひしがれたように、肩を落として、はい、と精気のない返事をした。ナンバーツーは満足気に口角を上げ、これからインターコンチで同伴なの、とわざと大きな声で言った。竹芝にあるインターコンチネンタルホテル東京ベイ、眺望の良いハイグレードなホテルだ。

「じゃあねぇ、お先に」

 カツカツ、というハイヒールの鋭利な音に聴覚を集中させ、完全に聞こえなくなってしまうと、未生は顔をあげて、ぶっと噴き出した。それからはしばらく、笑いが止まらなかった。ホステス同士の争い、いがみ合い、まるで漫画やドラマの中の世界だ。現実にも本当にこんなことがあるものなんだ、何て幼稚で見苦しい、おかしいったらありゃしない。そんなに幼稚な態度をとるなら、こちらも大人の気遣いは一切無用と考えましょう。


 一ヶ月と経たないうちに、未生はひとりで客を集め、彼らを満足させる応対ができるようになっていた。先輩ホステスに対する遠慮など露ほどもなかった。更衣室のロッカーに死んだカエルが入れられていたときには、思わず声をあげて笑った。


「BRの最近の動きはどうなんだ?」

「これといった情報は上がってないな、残念だが。どこまでも用心深いやつだよ」

 未生のついたソファ席で話しているのは、警視庁のお偉方と週刊誌の編集長だった。この世界に居ると、漫画のような場面にたくさん出くわすことができる。

「BRなんて、未生ちゃんは分かんないよなあ」

 編集長の手が、未生の太ももの上をさすった。

「役人さんかしら。Bから始まる名前の方なんて思い浮かばないわ」

「Bから始まる名字なんてそうないだろう、ちょっとしたお遊びを効かせてるんだよ」

 すっかり顔を紅くした警察の役人が得意そうに言った。酔った勢いにしても、あまりにも軽率な奴らだ。日本のトップ層には少なからずこういう輩が含まれていると考えると、やるせないような気持ちになる。

「どんなスキャンダル? 聞きたいわ」

「おっとそれは秘密だなあ。まあ、今晩未生ちゃんを俺にくれるって言うなら、考えてもいいけどなあ」

「やだわ、そんなの」

 男二人はげらげらと笑い声を上げた。下劣な奴らだ。

 BRなんて、この世界に居ていろんな業界の人間の話を耳にし、ニュースをチェックしてさえいれば、検討ぐらいすぐにつく。Brack River――外務省の黒川だろう。贈賄か何かか。それにしても、あまりに安易だ。

 二人が店をあとにし、未生がグラスの水を飲んで一息ついていると、入り口の辺りから嬌声が聞こえてきた。オーナーの理沙子が急いで出て行って、ご無沙汰しております、とわざわざ頭を下げた。よっぱどの得意客なのだろう。ナンバーワンが我先にとその男のところへ駆けつけ、腕に纏わりついた。

「長い間来てくれなかったから、あたし淋しかったんですよぉ」

 男はナンバーワンに付き添われ、奥の方の一等広い席へと腰かけた。未生はその席が見える斜め前の席で、常連客の相手をしていた。その間も、未生はずっとその男の視線を感じていた。そのうちきっと呼ばれるだろう、とそのとき確信した。未生はその頃もうすでに、押しも押されぬクラブのナンバーツーになっていた。他のホステスの売り上げをごぼう抜き、クラブでは異例のことだった。若さと枕で勝負、ママのお気に入り、裏ではいろんな噂を囁かれているようだった。

 しばらくすると、男は理沙子を呼んで耳元で何か囁いた。理沙子はこくりと頷くと、未生に目配せをした。ナンバーワンは拗ねたような表情をして立ち上がると、未生の方を恨みのこもった目つきで睨む。未生が相手をしていた常連の客も、ちょうど帰り支度を始めたところだった。

「未生ちゃん、あの方が、お話したいっておっしゃってるわ。会社の名前ぐらいは聞いたことあるかもしれないけれど、住宅建材を取り扱う会社の社長さんよ。うちの随分前からのお客様で、お優しくて本当に羽振りの良い方なの。気に入った女の子には使うお金を惜しまないのよ。岡田さんっていうの。ちゃんと自己紹介して、楽しくお話してらっしゃい」

 理沙子に小声でそう言われて、未生は岡田の腰かけた席まで行って挨拶をした。

「初めてお目にかかります。未生と申します。お呼びいただけまして光栄です」

「未生ちゃんだね。岡田です。まあまあ、そう堅くならずに座って」

 そう言って岡田は、自分の対面の席を勧めた。確かに理沙子の言った通り優しそうで、猥雑さは微塵も感じ取れない。そこそこ酒を飲んではいるが、そう酔っている様子もない。

「いやあ、どうも仕事が忙しくて、久しぶりに来たんだ。そしたら見慣れない子がいたもんで、思わずね。君は、こんな世界もこんな店も、ひどく似合わない子だね。何かきっと、どうしようもない理由があって始めたんだね」

「ええ、まあ……岡田さん、鋭いんですね」

「そのぐらい分かるさ。こういうところに来る男の多くは鈍感だからね。そっちに慣れちゃったんだろうけど」

 中野のスナックに居たとき、つねちゃんこと榊恒夫は、未生がほっとした気持ちになれるような数少ない客のひとりだった。岡田も同じように、こんな世界における自分の支えになってくれるのだろうか。

「お仕事が忙しかったっていうのは……」

「うん、最近は海外にも支社を増やして、マーケットを拡大してるんだ。中国だけじゃない、ベトナムやタイなんかの東南アジアも今すごく熱いマーケットなんだ。だからしばらくそこらへんを飛び回っていてね」

「いいなあ、羨ましいです。私はいつもスクリーンを通して異国の地に憧れを持つばっかり。実際に行ったことなんて一度もありません」

「スクリーンを? 映画が好きなのかい?」

「はい。アジア映画が特に大好きで」

「こりゃあ珍しいな。例えばどんなのを観るの?」

「ベトナムやタイは、さすがにあんまり手は出してないんですけど……アピチャッポンの映画なんかは、ずっと観たいと思ってるんですけどね。中国大陸だと、ロウ・イエ監督なんか大好きです。でも政府とは折り合いが悪いみたいですね。監督した映画も、大陸では発禁処分だって」

 大学時代の映画サークルでの飲み会のように、思わずべらべらと喋ってしまった自分に未生は気付いて、ごめんなさい、と思わず謝った。

「謝ることなんて何もないさ。むしろここでこんな話ができるなんて、思ってもみなかった。やっぱり未生ちゃんは、僕が思った通りの子みたいだね。もっといろんな話を聞かせて欲しいよ。外国で会食する段になっても、文化面には僕は疎いもんだから。いまいち盛り上がれないんだ」

「そんな、私でいいなら、いくらでも話します」

「そう言ってくれると嬉しいな。じゃあ早速だけど、来週の月曜、お店に来る前に同伴お願いできないかな? 買い物して、食事してから店に戻って来よう」

「大丈夫です。とっても楽しみにしてます」

「欲しいもの、考えといてね。食事は良いお寿司屋さんがあるから、そこでよければ」

 最初から最後まで、岡田は未生に指一本触れることはなかった。だからといって小林とは違い、ちゃんとこの世界の流儀をわきまえているはずだ。銀座に来なければ、こういう客には出会えないのだろう。


 約束の日、岡田は黒塗りのベンツに乗って現れた。欲しいもの……少し考えてみた。未生はプラダのバッグが欲しかった。あの上品で可愛らしいつくり。もちろん店になんて入ったこともなければ、プラダの製品を持ったこともない。だから調べてみた。バッグは安くても二十万はする。未生は今、同年代で会社勤めをしている普通の女の子たちより、随分多く稼いでいるという自覚があった。それでもそれは別に、ブランド物を買いたいがためではない。給料の半分近くは、家族に仕送っている。

 未生は右側の扉から助手席に乗り込んだ。五十前にしては若い出で立ちの岡田は、サングラスをかけてハンドルを握っている。

「さあ、どこへお買い物に行きましょうか」

 未生は少し躊躇った。いや、でも、このタイプの男は、ストレートに願望を伝えられることを、快く思う傾向にある。欲しい物や行きたい場所を何も考えていない方が、ショックを受けるはずだ。

「あのう、私、プラダのバッグが欲しくて……ずっといいなと思ってたんですけど、ご縁もなくって……」

「プラダね。未生ちゃんにぴったりだ。銀座じゃなくて、たまには青山のブティックにでも行こうか」

 岡田は何の驚きもなく当たり前のようにそう言って、車を走らせた。


 岡田とは週に一度は同伴をするようになっていった。クラブでは客は店に、同伴料というものを支払う必要がある。そしてその分、同伴をすればするほどホステスの給料も上がるという訳だ。未生は着実に給料を上げていった。

 岡田との同伴のコースは大抵決まっていた。どこかで買い物をしてから食事をして、そのままクラブへ戻る。食事はきまって赤坂の料亭か銀座の寿司屋だった。未生の部屋のクローゼットには、プラダのバッグが三つも並んだ。

 金曜の夜、いつものように同伴で、寿司屋のカウンターで食事をしているときのことだった。実は……と切り出したのは、岡田の方だった。

「大手町のホテルの部屋を、とってあるんだ」

「そんな、お店に怒られます」

「それは心配しなくていいよ。理沙子さんには俺から伝えてあるから」

 いつかこうなるときが来るかもしれないと、未生は予想ぐらいしていた。岡田は特別ハンサムでもないが、年の割には若く見えて清潔感もある。これだけ良くしてもらってもいる。だからもしそういうことになっても、自分には拒む理由もない。

 頭の中に一瞬“あの人”の顔が浮かんだ。愛しくてたまらなくて胸がきゅっと痛んだ。笑うときに眉が下がって、少し困ったような顔つきになる。触れたくて、触れられたくてたまらなかった、あの人。秋津の感触も、小林の感触も、あとになって思い出したことなど未生には一度もない。なのに、男女として触れ合うことなど決して許されなかったあの人の、欲のない体温だけを、誰かとこうなる度に思い出す。そして苦しくなる。

「未生ちゃん、どうして泣いてるの?」

 無意識のうちに、未生の頬を涙が一筋伝っていた。急いでハンカチを取り出すと、目元を拭った。

「嫌な気持ちにさせた? そんなつもりはなかったんだ」

「違うんです、全然、岡田さんのせいなんかじゃなくって。完全に自分の問題なんです」

「未生ちゃん、やっぱり君はあまりにも強く自己を抑圧しているね。俺には分かるんだ。だから俺が未生ちゃんを救ってあげよう。全ての悲しみから救い出してあげよう。俺はもう年も年だし、仕事があまりにも忙しい。実を言うと、そういう欲はもうあんまりないんだ。部屋をとってあるのは、ただ未生ちゃんを静かな場所で、ゆっくりさせてあげたかっただけなんだよ。毎日あんなガヤガヤしたところでドレスを着て、酒を注いで、君は今目に見えない紐で縛られてがんじがらめだ。エッチなことなんて何にもいらない。ゆっくり話をして、眠くなったらふかふかのベッドの上で眠ろう。朝は太陽の光で目を覚まして、窓辺でご飯を食べよう」

 思ってもみなかったことだった。未生には、岡田の後ろに光が差して見えるようだった。


 大手町のホテルのスイートルーム。キングサイズのベッドの上に未生は横たわり、岡田はその横に腰かけて、未生の髪の毛をそっと撫でていた。

「こうしていると、落ち着くでしょう」

「はい……」

「今だけは、何もかも忘れなさい」

 未生の意識が段々に遠退いていく。チリンチリン、と鈴が鳴るような音がした。

「嫌なことがあれば何でも口に出すといい。仕事の愚痴でも何でもいい」

「馬鹿な人間ばっかり……役人も社長も年増のホステスも、業界人きどりの坊ちゃんも、愚かな人たち……」

「そうだよ未生ちゃん、人間はみんな愚かな存在なんだ」

 チリンチリン……澄んだ鈴の音が、未生を心地の良い、泉のほとりのような場所へと誘う。

「未生ちゃん、いいんだよ、そのまま安心して眠りなさい」

「ねぇ、もうお仕事行っちゃうの? もうちょっと、未生と一緒にいてよ……」

 自分でも、何を言っているのかよく分からない。眠りの谷に落ちてしまう一歩手前のところで、目の前で何かが光った気がした。落雷を見たときのようだった。その次の瞬間にはもう、完全に眠ってしまっていた。


 朝、太陽の光とニュース番組のアナウンサーの声で目を覚ました。窓辺のテーブルに岡田が腰かけて、コーヒーを飲んでいる。

「起きた?」

「ごめんなさい、私、ずっと寝ちゃってたみたいで」

「いいんだよ。ゆっくりするのが目的なんだ。朝ご飯、もう運んできてもらおうか?」

「はい、じゃあ、お願いします」

 未生は起き上がって、優しい木材の香りのする洗面所で顔をばしゃばしゃと洗った。いつもより身体が軽くなっている気がした。

 

ホテルで岡田と過ごし眠る時間は、未生の安寧のときとなり、あの心地よい眠りの瞬間がまるで癖になってしまった。鈴の音が未生を、人の分け入らない神聖な地へと誘い、まぶたが光に照らされた次の瞬間には、もう無意識の眠りの中へと落ち込んでいくことができる。ああ、岡田は一体、神様か何かなのか……


 閉店十分前になります、と店員から声がかかった。原と琴子はとりあえず、カップの底に残っていたコーヒーを飲み干した。

「それって、催眠術じゃないんですか……?」

「その通りです。まさにそうなんです。実は明日、岡田の家が家宅捜索されます」

「家宅捜索? それとこれとどう関係があるんですか?」

「琴子さん、未生さんが見た、眠る前の“光”って何だと思います?」

「催眠術の一種で、ライトか、ろうそくか……」

「実は、カメラのフラッシュだったんです」

「カメラ? じゃあまさか、眠らせた未生を勝手に撮影していた、そういうことですか?」

「ええ。未生さんだけじゃない。岡田は自分の立場や金を利用して、女性と二人きりになる機会を頻繁に手に入れていた。決してそういう行為をする訳じゃないから、女性側も気を許して安心する。それで無防備に眠っている女性の顔や身体を撮影し、インターネットにアップロードした。時にはぐっすり眠った女性の服をこっそり剥ぎ取って、ほぼ裸の写真をネット上で公開していた。今回女性の一人がそれに気付き、岡田は警察に事情聴取をされることになりました。そこそこ名の知れた会社の社長だ。ちょっとしたスキャンダルになるでしょう」

「神様なんて、馬鹿みたい……穏やかな人間のお面をかぶった獣です」

「僕も、岡田と初めて会ったときには、羽振りのよさそうな、経営者然とした人物だとしか思いませんでした。今回こうして明るみに出なかったら、決して気付けなかったと思います」

「未生は、このことは……」

「全く知りません。今でも未生さんは、岡田を“神様”だと思っているでしょう。でも、僕は法廷でこの話もするつもりです。だからそのうち、ちゃんと話さないといけません。琴子さんからは、何も言わないでください」

 喫茶店をあとにすると、新宿三丁目の伊勢丹のあたりで、琴子は原と別れた。

「未生さんはいつも、琴子さんとの面会のことを本当に楽しそうに話してくれます。琴子さんの話をきっかけに、昔のことなんかも、いろいろ聞かせてくれるようになりました。本当に感謝しています」

 原はそう言うと、頭をちょこんと下げて、地下鉄へと続く階段を下りて行った。

 未生は靖国通りを歩きながら考えた。だとすれば、岡田はどうして塀の中まで何度も未生に会いに来たのか。一本四万円もする口紅を携えて。


 拘置所の最寄り駅で電車を降りると、ベンチに小柄な女性が座っていた。目鼻立ちがはっきりとして若く見えるが、年はもう五十ぐらいだろう。琴子はその顔に確かに見覚えがあった。うつろな表情をしていたかと思うと、急に肩を上下に動かししゃくりあげ始めた。琴子が未生の家に遊びに行く度に、ひょっこり顔を出して挨拶をし、甘い香りの紅茶を運んできてくれた女性。間違いない。未生のお母さんだ。

 あの人は私が幼い頃からずっと少女だった――未生は彼女のことをそう形容した。母親が少女では、未生自身が少女でいる訳にはいかなかっただろう。

 新しいハンカチをお送りしますから、ご住所を、という彼女の申し出を断ると、琴子は駅を出て、すっかり通い慣れた道を歩いた。


「さっき、そこの駅で未生のお母さんに会った。もちろんお母さんは、私のこと覚えてないみたいだったけど」

 琴子が言うと、未生はおさげに結んだ髪を手の指で梳かしながら、口にする言葉を探すかのように、瞳を忙しなく動かした。こんな所で暮らしてもなお、未生の栗色の髪は艶を保ち続けるから不思議だ。

「すごい、十年も前に会ったっきりだったのに、分かったんだね」

「すごくかわいい方だし、未生と目元が似てる」

「そうかもしれないね。お母さん、泣いてたでしょう?」

「うん、泣いてた」

「かわいそうに」

 琴子は一瞬ぞっとした。まるで他人事だ。自分が起こした事件で母が悲しんでいる、そのストレートな感覚が、未生には欠如してしまっているのだろうか。

「だって本当にかわいそう。私とまでこんなかたちで離れ離れになるなんて」

「私とまで、って、どういうこと?」

「琴子、知らないの?」

「何のこと?」

「私の家族の話。知らないのね。原先生からも聞いてない?」

 そういえば今まで、未生の家庭のことについては、聞くことも聞かされたこともなかった。これだけ未生の事件に関わっていながら、そこに疑問を抱かなかったことを、琴子は自分でもとても不思議に思った。

「てっきり原先生から聞いてると思ってたから……琴子、うちの家族構成は覚えてる?」

「お母さん、お父さん、それから、お兄ちゃんがひとり居たよね?」

 お父さんには会ったことはないはずだ。お兄ちゃんは数回見かけたことがある。背が高くて、未生と同じように整った顔立ちをしていたはずだ。でも、その肌はまるで、蝋人形のように青白く、こんにちは、と交わした挨拶はまるで蚊の鳴く声のように、か細かったように思う。

「お父さんはね、私が大学二年のときに亡くなったの。自殺だった。首を吊って死んだの。第一発見者は私」

 原はどうして、なぜそんなにも重要なことを私に話さなかったのだろう。

「ごめんなさい、そんなこと話させて」

「いいの、でも原さんは意地悪ね。このことに関しては、私の口から直接琴子に話させたかったのね、きっと」

「お父さんは、どうして自殺なんか……」

「つまんない理由だった。ほんとにほんとにつまんない理由。私が死んでしまいたくなるくらいにつまんない理由!」

 未生は目尻に涙を溜めて声を荒げ、指先の皮をおもいきりむしり始めた。刑務官が席を立ち、未生の真横まで詰め寄る。

「未生、ごめんね、もういいの、何も喋らなくていい」

 それからね……、としかし未生は琴子の静止など意に介さず、震える声で話すことをやめなかった。

「それから、私の兄は、発達障害なの。琴子が私の家によく来てた頃、兄はまだ高校生。寡黙で、人付き合いが嫌いなのだとしか、思ってなかった。数学と物理が大の得意で、後はめっぽうだめ。小さい頃から車が好きだったから、それで車のエンジニアになるための専門学校に行ったの。成績も悪くなかった。でもいざエンジニアになって新人研修が始まると、チームになって取り組む課題がまったくできなかった。誰かに意見を求められたり質問されたりすると、もうパニック状態。だんだんろくに座ってることもできなくなった。それで研修最終日に、気を失って病院に搬送」

 未生の口から次々に飛び出す予想外の出来事に、琴子は思わず言葉に詰まる。

「……私、全然知らなかった。お兄さんは、今は……?」

「お母さんと一緒に住んでる。働いてない。家で見てるのは車のカタログばっかり」

 あと一分です、といつもと同じように刑務官の声が響いた。

「ねぇ琴子、私三ツ谷の首を絞めたとき、思ったの。お父さんも、こんな風に苦しかったんだろうかって。あの、コードが肉に喰い込んでいく感覚。かっと開かれた目。三ツ谷のからだから、だんだんに酸素がなくなっていくのが分かった気がした。お父さん、こんな苦しい死に方しなくたってよかったのに。三ツ谷が息絶えて、だらんと筋肉の力がなくなった瞬間、あの暗い部屋に人形みたいに吊り下がってたお父さんを思い出した。だってあんまり……何もかも! ああ……!」

 ああ、ああ、と未生は苦しそうに呻いた。刑務官がもうひとり部屋に入ってきて、二人がかりで未生の両腕を後ろから抱え、引き摺るようにして部屋から出て行った。バタン、と扉が閉まったあと、未生の長く甲高い叫び声を聞いた。女の怒鳴る声がした。琴子は呆然として、しばらくその場から動くことができなかった。


 三日後に、未生の裁判が迫っていた。琴子は特別に有休をとって、朝から原の事務所に詰めることにした。

「未生から、家族の話を聞きました。おどろきました」

 事務所の中は、机の上もソファも資料で溢れている。とても客を招けるような状態ではない。

「原さん、他の依頼は大丈夫なんですか?」

「大丈夫じゃないので、この裁判が終わるまで依頼はすべて断って、知り合いの弁護士を紹介するようにしています」

 流しには、カップ焼きそばの容器が二三個積み重なって転がっている。

「未生が夜の世界に足を踏み入れる必要があった理由がわかりました。お父さんも亡くなり、お兄ちゃんは働ける状態ではなかった。でも、例えばお父さんの残したお金なんかも、あったんじゃないかと思うんですけど。そこまで急を要す状況だったんでしょうか」

「もちろんお父さんはある程度の財産を残して亡くなりました。ただ、それはすぐに回収されてしまったんです」

「回収? 借金でもしてたんですか?」

「未生さんのお父さんは、未生さんが高校を卒業する直前に、自分で会社を興しました。しかし思うようにはいかなかった。三年も経たないうちに経営は傾きました。方々へ支払うべき賠償金もあったんでしょう」

「お母さんは、働いてはいなかったんでしょうか?」

「お父さんの稼ぎが大きかったようで、ずっと専業主婦でした。それまでしっかりとした仕事の経験もなく、あの年で仕事を見つけるのは至難の業です。まあ、そのあたりは琴子さんの方が詳しいとは思いますが……」

 琴子は、職場の相談所を訪れる、中年の求職者たちを思い出す。やけに自信たっぷりの人もいれば、遠慮がちに、何度もお辞儀をしながら席に腰かける人もいる。

「そうですね。かといってスーパーのパートだけでは、とても一家を支えていける見込みはありませんもんね。でも、それにしたって……」

 それにしたって、未生がそうなる前に何か道はなかったのか。未生は中野のスナックのママに、水商売から足を洗って再起しろと言われたとき、どうしてそうしなかったのか。やり直したいことなんて、何にもない――未生は本当にそう言ったのか。


「原さん、ひとつ、とても気になることがあるんですが」

「何でしょう?」

「今まで一度も、三ツ谷の話が出てきていません。一体三ツ谷と未生は、どこで知り合ったんでしょう? 中野の店でも銀座の店でもないんですよね?」

「三ツ谷のことになると、未生さんは頑なに、喋ってくれません。でも、ひとつだけ分かったことがあります」

 どうして話さないのか。話したくないのか、それとも話さない方が良いと分かっているのか。

「銀座8丁目に、明治創業のとても古い喫茶店があるんです。未生さんの行きつけで、お店に出勤する前には、よくそこでコーヒーを飲みながら本を読んでいたそうです。店員さんが未生さんのことをよく知っていました。それで、三ツ谷もそこの常連客だったそうなんです。職場が近いから、昼休みや仕事後に、よく一服しに来ていたと」

「じゃあ、その喫茶店で出会ったっていうことですか? 客でも何でもなく。まるでドラマみたいに……」

「店員さんは、初めは三ツ谷が未生に話しかけているのを見たと言っていました。赤の他人のはずだけど、まあ、常連同士来ているうちに仲良くなったのだろうというくらいに、思っていたそうです。でもある頃から、二人一緒に店に来るようにもなったそうで。ただ、だからといって、あまり仲が良さそうには見えなかったと」

「喧嘩でもしてたんですか?」

「いや、喧嘩というよりは……例えば、店員さんが、未生さんのぼそっと放った言葉を聞いておどろいたそうです。あるとき三ツ谷に向かって、お前はコーヒーを飲むくらいしか一日の楽しみもないんだろう、とそんなことを嘲笑うように言ったそうです。一見そんなことを言うような感じに見えなかったから、意外だった、と店員さんは言っていました」

 他人たちの語る未生はやっぱりどれも、琴子の知っている未生ではない。

「原さん、これから未生のところへ一緒に行きませんか。何より本人に話が聞きたいです。いえ、聞く必要があると思います。私が絶対に、未生から三ツ谷の話を聞き出します」

 琴子の強い意思のこもった声に、原は強く頷いた。ふと外を見ると、窓が細かな雨粒で濡れている。車を出します、と原は電子レンジの近くに置いてあったキーをつかんで、ジャケットを羽織った。


 未生は紺色の、からだの線がくっきりと浮き出るタイトなワンピースを着ていた。目元には、濃い茶色のアイシャドウが光っている。

「二人で来てくれるとは、思わなかったわ」

 アクリル板越しに、琴子と原が並んで座っているのを見て、未生は穏やかな笑みを浮かべた。

「この前は、取り乱してごめんなさい」

「いいの、こっちこそ」

 琴子の隣で、原が大きく息を吸うのが分かった。

「未生さん、裁判まであとわずかとなりました。早速ですが、三ツ谷との話を聞かせてもらえますか?」

「三ツ谷とのことなら、もうほとんど話したはずです。動機、と聞かれても困る。でもあのときはそうするしかないと思った、それだけです。検察にもそれ以外とくに喋っていません」

 原は肩を落として溜め息を吐いた。それからまた何か言葉を発しようとしたので、琴子はそっとそれを制した。

「未生は最近、何の本読んだ?」

「本ねぇ、あの、最近直木賞をとったのがあったじゃない、あれ、すごく面白かった」

「あれ、私も気になってたの、読んでみようかな。そういえば、小学校や中学校のときは、未生はよく学校の図書館で本を読んでたね。今は、どんな場所で読書をするの?」

「喫茶店……家じゃあとても、集中できないから」

「それは、銀座8丁目の喫茶店?」

「琴子、知ってるのね」

「知らないわ、何にも知らない。未生も三ツ谷も、そこの喫茶店の常連だったということぐらいしか」

 未生は両手をグーのかたちに握って膝の上に置き、沈黙した。

「未生、あなたがどうして三ツ谷を殺したのか、事件の日のことについて、それは、今はもうどうでもいいの。私はただ聞きたい。あなたと三ツ谷がどんな風に出会い、どんな風に日々を過ごしたのか」

 未生は、堅く真一文字に結んでいた唇をわずかに開くと、琴子の方を真っ直ぐに見つめた。それからぼそりと、存在、と呟いた。存在――私には、あの人の、三ツ谷の存在が、耐えられなかった。憎くもない、怖くもない、ただ、耐えられなかった、その表現が一番、しっくり来るように思う……


 喫茶店の店内、近くに大きな観葉植物のある対面のソファ席が、未生のいつものお決まりの席だった。未生は大体コーヒーかカフェラテを頼んで、小腹が空いたときにはトーストやキッシュも注文していた。

 夜の六時頃、その日はいつもよりやけに店内が混み合っていた。すみません、とどこかから声がかかった。おそらく自分だ、と未生は思い、本のページに落としていた目線を上げると、目の前に男性が立っていた。

「あの、飲んだらすぐ行きますから、相席よろしいですか」

 未生は四人がけのソファ席を一人で占領している状態だった。そんなお急ぎにならなくても大丈夫です、誰も来ませんから、どうぞ、と未生は机の上のコーヒーカップを自分の方に寄せた。男性はグレーのジャケットを脱いでソファの背にかけると、座ってコーヒーを注文した。

 未生は何となく読んでいた本を閉じた。男性は五十手前といったところだろうか、目尻に皺が刻み込まれ、頬のあたりには薄茶色い染みもある。野暮ったくて、でも笑うとまるで少年のような顔になる。妻の尻に敷かれ、子どもには疎ましがられているかもしれない。それでも文句ひとつ言わず、年の割には多くない給料の中から、必死におこづかいをあげているのかもしれない。

「お仕事帰りですか?」

 男性にそう尋ねられ、未生は思わず、はい、と嘘を吐いた。仕事帰りどころか、これから仕事が始まるのだ。

「ごめんなさい、話しかけたりして。いや、あの、何度かここでお見かけしたことがあったんです。あ、でも別にそんな、だからあなたを狙って声をかけただとか、あえてここに座ったとか、そんなんじゃないんです。ただ、今日は店が混んでいて、だから……」

 随分回りくどい言い方をすると思った。未生はいらっとして、少し困らせてやりたいような気分になった。

「店が混んでいることは、見ればわかりますよ、別に」

「ああ、そうですよね、そうですよね、まったく余計でした」

 男性はコーヒーを一口飲むと、熱かったのか顔を顰めて、急いで水の入ったガラスに口をつけた。それから二回咳払いをした。

「あの、三ツ谷といいます。三ツ谷聡史、年齢はきっとあなたの倍ぐらい、現在品川区在住、不動産会社の社員です」

 はあ、と未生は困ったように、相槌を打った。

「あなたのお名前は何ですか。えっと、きれいな方だと、ずっと思っていました!」

「未生です。柏木未生」

「みおさん、みお、の漢字はどう書くんですか」

「どうしてそんなことが知りたいんですか?」

「理由はないです。でも知りたいんです」

「未定の未に生きる、です」

「どうして未定の未なんて言うんですか、未来の未じゃないですか」

 いちいち癪に障る。いい年して頬に染みなんか作って、のうのうと自分より二周りも若い女に話しかけ、その上、人の名前に講釈までたれる。一体どんな神経をしているのか、相席なんて断ってやったらよかった。

「あの、私もう行きますから、あとはご自由にどうぞ」

「ちょっと待ってください、連絡先を……」

 未生は三ツ谷を無視して、レジまですたすたと歩いて行った。お会計を済ませて扉を開けようとすると、なんと三ツ谷がすごい勢いでやって来て、待ってください、と未生を呼び止めた。

「一体、何なんですか」

「お願いです、メールアドレス、電話番号、FAX、何でも構いません。連絡先を教えてもらえませんか」

 こんなところでFAX番号を聞く奴がいるものか、未生は今度は何だかおかしくなってきて、思わず表情をゆるめた。それに、もしかしたら良い客になるかもしれないと考えた。連絡先を教えて、実はクラブで働いているのだと告げ、お店に来てもらう。金を持っていそうには見えないが、細く長い客になる可能性もある。未生の中でそんな打算が働いた。

「メアドで構いませんか?」

 未生がそう言って携帯を取り出すと、三ツ谷は目を輝かせた。

「はい、もちろんです」


 その日の夜に早速三ツ谷からメールが来た。まったくつまらない内容だった。

「家に帰るまでの道で甘いものが欲しくなって我慢できなかったから、コンビニでスイーツを買ってしまいました。これ以上肥えたら大変です。未生さんはどんな甘いものが好きですか?」

 店の客ならまだ、あの場で大金を落としてくれていることを思うと、つまらないメールのひとつぐらい返してやろうと思える。ただ三ツ谷は、カフェで居合わせたおじさんに過ぎない。返事をする義理も何もない。放っておいた。

 しかし次の日も、またその次の日も、三ツ谷は懲りずにメールを送ってきた。会いたいんだ、連絡をください、とはっきり言えばいい。つまらない天気の話や自分の日常の報告ばかり。そんなことでよく自分が受け容れられると思えるものだ。不思議だ。未生は岡田との同伴なんかで忙しく、相変わらず返信をしないままだったが、一週間後ぐらいにいよいよ、いつもの喫茶店で会えませんか、という文面が送られてきた。一度会ってビシッと言ってやらなければ、メールは永遠に来続けるだろう。未生は初めて三ツ谷に返事をした。わかりました。ではいつもの喫茶店で六時に会いましょう。


 三ツ谷は六時ぴったりに店の扉を開けて入ってきた。なんとその手には、真っ赤なバラの花束が携えられていた。店内の客はみんな、訝しげに三ツ谷を見やった。

「何ですか、それ……」

 未生が呆気にとられていると、三ツ谷は両手で未生に花束を差し出した。

「かわいい未生さんに、何でもない日、おめでとう!」

 背筋がぞくりとした。周りの目も痛い。

「いいから出ましょう」

 未生は伝票を持って立ち上がる。ええ、どうしてですか、と三ツ谷はあまりに無邪気な調子で未生のあとをついて来た。

「どうしても何も、喫茶店の中にこんな大きな花束裸で持ち込んで、おめでとう、だなんて、恥ずかしい」

「そうですか……サプライズだと思ったんだけど、残念だなあ」

「もう、どうでもいいですから、ちょっと一緒に来てください。これから私仕事なんです」

「仕事? もうお仕事終わって、その帰りなんじゃなかったんですか?」

「三ツ谷さん、私が何の仕事やってるか知ってます?」

「OLさんか何かですか?」

「清楚そうにしておけばOL、ちょっとギャルっぽく化粧をしておけば水商売、眼鏡でもかけてれば先生、見た目をちょっといじるだけで、人なんていくらでも騙せる」

「未生さん、そんな怖いこと言わないで」

「いいから黙って付いて来て」

 未生はカツカツ前のめりになりながら歩き、不安がる三ツ谷をよそに、店の前までたどりついた。

「ここ、私の職場」

 え、と三ツ谷は目を丸くして、呆然と立ち尽くす。

「私、ここの地下のクラブのホステスなの。これでもナンバーツーよ。だから私はいつも、仕事で男の人たちとお話したりメールしたりご飯にいったりしてるのそうやって生きてるの。私三ツ谷さんの思うような女じゃないの清楚で世間ずれしてないOLだなんて思われても困るの好意を寄せられても困るの。もし私と会いたいなら会って話したいなら、お店に来てもらうか、どこか別の場所で会うとすればお店で稼ぐぐらいのお金を払って。じゃないと無理。あなたがディカプリオなら、あなたがジョニーデップならタダでも何でも会うわ、でもあなたは三ツ谷聡史でしかない、分かる? ねぇ私の言ってること分かる?」

 三ツ谷は肩を落としてすっかり縮こまり、わかった、と呟くように言った。これでこの男はもう二度と、私の前には現れないだろう。未生はそう思った。しかしその次の瞬間、三ツ谷の口から出たのは、未生の予想だにしない言葉だった。

「わかった。じゃあ後者にしよう」

 未生は思わず、は、と苛立ちを含んだ声で聞き返した。

「僕はお店には行きたくない。でも未生さんと会いたいし、少しでも未生さんの幸せの力になりたい。だから僕は未生さんのためにマンションを借りる。それからクレジットカードを渡す。月十万まで使えるから好きに使えばいい。未生さんみたいな人がクラブなんかで働いて、未生さん自身の気付いてないところで未生さんはきっともうすでにぼろぼろだよ。僕は未生さんを初めて見たときから直感していた、この人はとても真っ直ぐな人だ、穢れのない人だ。だから僕が、僕が少しでも未生さんの癒しに、助けに、励ましに、なりたいんだ。守れるなら守りたい」

「あなたのどこにそんなお金があるの? そんなよれよれのスーツ着て、髪だって白髪だらけ。私を守りたい? 私の前に守らなくちゃいけない家族だっているんじゃない?」

「妻がひとり、来年中学生になる息子がひとりいる。でも僕は未生さんを、家族とはまったく別の次元に居る人として考えてるんだよ。僕は未生さんにただ惹かれている、ひとりの女性として」

「気持ち悪いこと言うな!」

 三ツ谷の発する言葉を、未生はそれ以上聞いていられなくなった。でもそんな風に大人の男性に罵声を浴びせたのは、そのときが初めてだった。

「気持ち悪いかもしれないけど、でも、でも僕は……」

「まだ言うか! 黙れ! 一言も喋るな!」

 未生はそのまま三ツ谷の方を一度も振り返らず、店へと続く階段を下りて行った。出勤時間まではまだ大分あったが、休憩室のソファに座って頭を抱えた。こんなとき煙草でもあったら気が紛れるのにと思うが、煙草は吸わないことに決めていた。冷静になるとふと、さっきの見苦しい場面を、店の客に見られてはいなかっただろうかと気になり始めた。

 その日は接客にも集中できず、客が酒をこぼしても気付かないような有り様だった。確実に売り上げに響いただろう。悔しさが募った。

 翌日、再び三ツ谷からメールが届いた。

「未生さん、気持ち悪かろうが何だろうが、僕は未生さんを後悔させない。明日いつもの喫茶店でまた六時にどうですか。見せたいもの、渡したいものがあります。安心してください、花束ではありません」

 三ツ谷にしては、ストレートな文面のメールだった。私を後悔させない、どうやって後悔させないのか、あなたと付き合ってよかったと、どう思わせてくれるのか。三ツ谷の困ったような、幸の薄い表情が脳裏に浮かぶ。未生の中で、意地悪心がむくむくと沸き上がって来る。

「六時ですね、わかりました」

 このときメールを返さずに、三ツ谷のアドレスを迷惑メールにでも設定しておけばよかったのかもしれない。そうすればこんなことにならずに済んだ。でも仕方ない。人間はY字路の片方にしか進めない。


→後書きに続く(文字数がおさまりきらないため)

三ツ谷はまず、一枚のクレジットカードを未生に渡した。それから、マンションの部屋の間取り図を数枚、机の上に広げた。そこで初めて、三ツ谷がそういえば不動産会社の社員だったと思い出す。

「どれか、好きなのを選んだらいい」

「高ければ高いほどいい。心に余裕が生まれるから」

「なら、これはどうかな」

 三ツ谷が指差したのは、横浜にあるマンションの、13階の部屋だった。

「いい。それで。他に別にこだわりないから」

「じゃあ、ここの契約をしよう」

「お金は一体どっから出るの?」

「未生さんが気にすることじゃない」

「三ツ谷さんも来るの? ここに。来るよねそりゃあ。カード渡して部屋借りてあげてそれで一度も来ないだなんて、哀れだもんね」

「時々は、様子を見に行きたい。でもまあ、長居はしないよ」

「様子を見る? それじゃあ私何だか犬みたい。今にも死にそうなひ弱なチワワ」

「そんなつもりで言ったんじゃない」

「はいはい、分かってますよ」

 未生は早速、それまで住んでいた部屋を引き払って、横浜市の13階のマンションに越した。横浜……中学のときに父の転勤で越し、それから長い間定住していた街だ。よりによって。奇遇なこともあるものだ。

 引っ越し代もすべて三ツ谷が出してくれた。家賃が浮くのは実際ありがたいことだった。夜の稼ぎも順調に増え、仕送りを差し引いても、自分で貯金をする余裕ができそうだった。三ツ谷はどうして自分にここまでするのだろう、と考えると何だかおそろしくなる。そのおそろしさを紛らわそうとしてなのか、実際その存在に言いようのない苛立ちを感じていたからなのかは分からない。未生の三ツ谷に対する態度は、第三者から見ると目も当てられないようなものだった。


 あるとき三ツ谷がファミレスで、ハンバーグを美味しい美味しいと言いながら食べた。未生は馬鹿にしたように笑って、苛立ちの末にフォークを床に投げつけた。

「冷凍のやつだよ、それ。美味い美味いって動物みたいに食い散らかしやがって。安くついて羨ましいわ」

「でも、でも本当に美味しいよ。こうやって、未生さんと一緒に食べたら余計美味しい。倍美味しい」

「私は五十のおっさんの顔見ながら食べたって何にも美味くねぇんだよ」

 三ツ谷は悲しそうな表情をして、オレンジジュースを啜った。

「奥さんの作る料理、美味しいの?」

「美味しい。彼女は料理の腕はピカイチだから」

「じゃあ勿体ないじゃん。奥さんの料理食べるチャンスを一回失って、ファミレスで冷凍ハンバーグとオレンジジュースだよ。残念だね」

「それとこれとは別だよ……」

「つべこべ言うなよ」

 食事が終わると二人で、横浜のマンションへと戻った。玄関で三ツ谷が靴を脱いだとき、ひどい臭いがした。

「生ゴミかよ」

 未生が言うと、三ツ谷はごめんと謝って、自分の靴をドアの外に出した。それからソファに横たわると、疲れていたのか三ツ谷はすぐに眠りに落ちてしまった。断続的ないびきが耳につく。

 何も盗む気などなかった。盗まなくとも彼はすべてを未生に与えてくれていた。だからただの興味本位で、未生は三ツ谷の鞄の中を漁った。携帯の待ち受け画面は、奥さんと子どもらしき親子連れが、二人で原っぱの上を歩いている後ろ姿の画像だった。内ポケットに入っていた、二つ折りの定期入れも開いてみると、運動会のときだろうか、子どもがはち巻を巻いて立っている写真が入れられていた。

 未生はそれらを元に戻すと、ふらふらと廊下を歩いてトイレのドアを開け、便器におもいきり嘔吐した。

 朝目を覚ますと、今しがたシャワーを浴びてきたのだろう三ツ谷が、未生のすぐ横に腰掛けていた。

「未生さん、してあげようか」

「いい、要らない」

「せっかくだから、気持ちよくなって」

 未生は三ツ谷に下着を脱がされる。なぜだろう。顔を見るのも声を聞くのも嫌なのに、その優しい指使いにからだが自然と火照り、濡れてしまう。未生の頭の中は真っ白になり、ただ、気持ちいい、という感覚だけが全身を支配する。だんだん息遣いが荒くなり、無意識のうちに声が漏れ出る。

「あっ、いく」

 未生がからだをびくんびくんと震わせると、三ツ谷は満足そうな笑みを浮かべる。まるで珍しい昆虫をとってきた少年のように。


 大体そうやって、土日のどちらかに夕食を食べたあと泊まり、他にお互いの都合が合う日があれば、いつもの喫茶店で向かい合って話をするという日々が続いた。三ツ谷はよく、仕事の愚痴を未生に話した。

「せっかく育てた若い人が一年や二年で辞めていく、これは大きな損失だと僕は思うんだ」

「そう? 会社にとっての損失はむしろ、仕事もできないのに居座り続ける年増の社員の方じゃない?」

「それは、僕みたいな……?」

「あなただなんて言ってない。まあ五十の平社員なんて扱いづらいだけだろうだけど」

「でも、僕だってそれなりに自分の仕事に誇りを持ってるし、やっててよかったって思うこともあるし、ありがとうって言葉を聞くと嬉しくて」

「じゃあいいじゃん、なら文句なんて言わないで黙ってなよ」

 お互い忙しくて中々会わないときには、三ツ谷はなんとマンションの住所宛に未生に手紙を書いて送って来た。三ツ谷は女性のように細々とした、豆粒のような文字を書く。

「愛しの未生さんへ

未生さん、妙な天候だけど体調崩してないかな。夜のお仕事あんまりがんばり過ぎないでね。未生さんが何かお昼のお仕事を見つけられたらいいのにと思うんだ。そしたら平日でも、お互い仕事が終わったらその足で、水族館や映画館に遊びに行けるね。そんな日々を想像すると何と幸せだろう! と思いますよ。まあ今だって充分に幸せだけど!

                                   三ツ谷聡史」

 誰が好き好んでお前と水族館なんか。そんなの子どもを連れて行ってやればいい。息子さんが不憫だ。虫唾が走る。未生は便箋をびりびりに破って、13階のベランダから散らした。夜空に白い紙切れがちらちらと舞う。まるで雪のようだ。雪……そっちから思い切り転がしてごらん、とその人は言う。私が重くて雪だまを転がせないでいると、その人は私の手のすぐ横に手を添えて、よいしょ、と転がしてくれる。すごい、と私は弾んだ声で言う。とても大きな手。幼いわたしの手はまるでつくりもののようだった。


 五ヶ月ほど、三ツ谷とのそんな日々が続いた。ブランド物は岡田にたくさん買ってもらい、間に合っていた。そのため三ツ谷からもらったクレジットカードは、普段の外食や、ネットショッピングでちょっとした小物を買うときに使っていた。

 未生は店の一番の稼ぎ頭、実質ナンバーワンになっていた。仕送りをしながらも、有り余る貯金があった。元々アジアの映画が好きだった未生は、新宿の小さな映画館で、台湾映画特集をやっていると耳にして、出勤前に観に行った。ノスタルジーと新しさが混在する台湾の風景に、どうしようもなく惹かれた。

 今まで家族のために、必死にがんばって来たのだ。やりたくもないことをたくさんやった。作り笑いもすっかり身についた。一年ぐらい見知らぬ土地で自由に暮らしてみても、罰は当たらないだろう。

 小説を書きたいというかつての夢も、大学のことも、映画サークルのことも、秋津のことも、店で出会った下劣な客たちのことも、小林のことも、岡田のことも、そして三ツ谷のこともぜんぶぜんぶ忘れて、新しい土地での生活を始める。

 やり直したいことなんて自分にはない。後悔も一切していない。ただ、このままここに居続け、これまでと同じような生活を送っていると、いつか壊れてしまいそうな気がする。自分の今立っている場所が、足元からがらがらと崩れていって、底のない空洞の中を永遠に落下する、そんな身の毛もよだつような想像が頭から離れない。

 未生が辞表を出すと、理沙子さんは初めきょとんとした顔をした。ちょうど働き始めて一年、そしてその一年でナンバーワンへの階段を駆け上がった。まさか今辞めるだなんて、思わなかったのだろう。

「すごく残念だわ……どうしてかしら」

「良くしてもらってたのに、ごめんなさい。でも私、やりたいこととやらなくちゃいけないことが、あるように思うんです。それは何かって言われたら、うまく言えないんですけど」

「それなら仕方ないわね。じゃあ、ナンバーワンの送別会をやりましょうか」

「いえ、いいんです、そういうのは。飛ぶ鳥跡を濁さず。静かに居なくなりたいんです」

 

未生が海外移住の話をすると、三ツ谷はうろたえた。

「そんな……別に向こうに住まなくたって、しょっちゅう旅行に行ったらいいじゃないか。旅行代だって、可能な限り僕が負担を……」

「ちがう、ぜんぜんちがう。それじゃあ意味がない。私は“生活”がしたい、見知らぬ土地で、私のことなんて誰も知らない場所で、起きて街を歩いて仕事をして、ご飯を食べたい」

 嫌だ嫌だ嫌だ、と三ツ谷はまるで子どものように駄々をこねた。

「うるさい! いい年して、そんな姿子どもに見せられるか?」

「だって、だって……」

「それに、そんなに私のことが好きなら私の門出を祝ってよ。そうよ、人間なんて誰かを好きだとか大切だとか言いながら、結局その本質は束縛や執着ばっかり。マンションは解約してくれていいから。私は無事夜の仕事から足を洗って海外へ高飛び。 何が悪い? 今まで私がんばってきたんだから。私に文句言える人なんてこの世のどこにもいないわ」

「それは、それはよくわかる。でも未生さん、今のまま海外へ行ったって、未生さんはきっとまたおんなじことを繰り返す。台湾に行ったって、向こうの歓楽街でナンバーワン日本人ホステスだよ」

「私を何だと思ってるの!」

 未生は三ツ谷の胸ぐらを掴んだ。

「なあ! 馬鹿にしてんのか! お前謙遜しながらいつも私のこと下に見てんだろ、ああ? 世界中どこに行ってもお前はホステスしかできないだって? 余計なお世話だよ!」

 未生がこんなにも激昂したのは、実際に三ツ谷が言ったようなことを、想像しなかった訳ではなかったからだ。それどころか、夢にまで見た。語学がそれほどできる訳でもなく、大学も中退してしまっている。海外に行ったところで、現地の給料の良い企業で働くなんて、今の未生にはハードルが高すぎる。やがて貯金がなくなれば、自分の足は自然と歓楽街の方へ向くだろう。一度味をしめたらもう抜け出せない。美味しい餌にありついた動物が、餌の置いてあった場所を覚え再び訪れるように。本能がきっとネオンを感知する。一体どうすればいい。

「ちがう、馬鹿にしてなんかない、とにかく、僕は反対だ」

 三ツ谷から、ぷんと酸っぱい汗のにおいが漂う。やり場のない苛立ちが募った。未生は、ああ! とおもいきり叫んで三ツ谷の髪の毛を引っ張った。

「やめてよ、痛いよ、未生さんやめて、お願い」

「どうして、どうしてなの……」

 手のひらが三ツ谷の髪の油でべたついた。未生は急に馬鹿らしくなって、手を放し、床に座り込んだ。未生の両目から涙が溢れた。三ツ谷は未生を両腕で強く抱きしめた。未生にはそのときもう、三ツ谷を振り払うような気力もなかった。

「未生さん、僕はもう、未生さんになら何をどうされてもいい。髪をひっぱられようがぶたれようが、内臓を引き裂かれようが……だから、行かないで、お願いだよ」

「放して……」

「僕が未生さんのこの世で唯一の希望になるんだ」

 ちがう、私の唯一の希望は、あなたじゃない。私の唯一の希望、それは紛れもなく、あの人だった。でもあの人はもう、この世には居ない。私の大きな希望だったあの人は、その存在の欠落によって、底知れない絶望へと変わった。

 だから、あなたじゃない。あなたじゃない。そう言おうとしても、声が出なかった。未生は諦めて、心を無にしてしまうと、三ツ谷に体重を預けるように寄りかかった。


 翌日から、未生は荷物の整理にとりかかった。未生の意思はまったく変わらなかった。面倒なことにならないように、置き手紙とクレジットカードだけを残して、三ツ谷に内緒で台湾へ飛び立ってしまうつもりだった。

 本屋に立ち寄り、「地球の歩き方」と「かんたん入門中国語会話」を買った。CDを聞きながら、見よう見まねで発音してみる。

你好(こんにちは)

「我从日本来的(わたしは日本から来ました)」

「台北车站再哪里?(台北駅はどこですか?)」

 テキストを買ってから、台湾は大陸とは違って、繁体字という、より複雑な漢字が使われていることを知った。そんな基本知識も知らずに行くのはやっぱり不安もあったが、とにかく行ってみればどうにかなるだろう、と楽観的な気持ちの方が勝っていた。


 数日が経った日の夜、水回りの掃除をしていると、ピンポン、とインターフォンが鳴った。モニターを点けてみると、両手に荷物を持った三ツ谷が立っている。電話もメールも無視していたから、きっと業を煮やしたのだろう。さすがにここで居留守を使うのも不自然だ。未生は急いでキャリーケースをクローゼットの中に隠すと、ロックを解除した。

 扉を開けて入ってきた三ツ谷は、随分上機嫌だった。

「よかった。もし未生さんがもう居なくなったりしてたら、どうしようかと思ったなあ」

 未生はぎくりとした。飛行機のチケットまでもう既にとってある。いつもと様子が違うと悟られないよう、平生を装った。

「それにしても、何、その箱?」

「まあまあまあ」

 三ツ谷は机の上に四角い箱を置くと、ジャジャーンと自分の声で効果音をつけながら、箱の中からホールのケーキを取り出した。白い生クリームにイチゴがのった、オーソドックスなケーキだった。

「実は今日は僕、三ツ谷聡史の、第46回目の誕生日でーす! はい拍手!」

 三ツ谷は自らパチパチと拍手をする。

「誕生日を未生さんと過ごせるなんて、僕はこの世で一番の幸せ者だよ。はい、じゃあ歌ってくださーい! ハッピーバースデー三ツ谷、ハッピーバースデー三ツ谷、ハッピーバースデー三ツ谷聡史! ハッピーバースデー三ツ谷ー、パチパチパチ!」

 三ツ谷はひとりで歌を歌い終わって拍手をすると、ケーキを切りもせず、真ん中からフォークで突き刺した。その瞬間、未生の中で何かが、プチッと切れた。あ、もうだめだ。限界だ。


ここでぜんぶを止めてしまわないと、私何もかもだめになる――


 机の上に、さっきまで使っていたパソコンのコードが見えた。咄嗟に、あれだ、と思った。そこからはもう、無我夢中だった。気付けば未生は、三ツ谷の汗ばんだ首にコードを巻きつけていた。彼は最期に何を言おうとしたのだろう。三ツ谷がわずかに口を開けて、何か言葉を発しようとしたその瞬間、未生は両の手に力を込めて、コードを思う存分、絞め上げた。

傍聴席に座った琴子の手は汗ばんでいた。琴子は、未生と三ツ谷の不思議なつながりを、しっかりとのみ込んで理解できた訳ではない。きっとこれからも、何年経っても、理解することはできないだろう。

 三ツ谷は不運だったのだ、と琴子は思った。未生と出会ったのが、彼の運のツキだった。不適切かもしれない、でもそうとしか言いようがない。そうでもないと琴子は、一体誰が悪者なのか、考えても考えても分からず、頭を抱え込んでしまう。


「検察官は、起訴状を読み上げてください」

 裁判官の声が、法廷に響く。傍聴席の後ろには、報道陣らしき一団が、メモを膝の上に置いて座っている。若く美しい女が愛人を殺したあと、その場でケーキを食べて、それから数日高級ホテルを泊まり歩いた。確かにマスコミが好みそうな、ショッキングな事件だ。その上数日前に、岡田の記事が週刊誌にのった。大手住宅建材商社社長、夜な夜な女性を催眠術にかけ、無断で猥褻な写真を撮影――未生もその被害者のひとりだったことが、注目を集めていた。法廷は人で満員のはずなのに、誰も居ない森の中のように静まり返っている。


「被告人は、横浜市のマンションの一室で、会社員三ツ谷聡史さんの首をパソコンのコードで絞めて殺害した。同人は窒息により死亡。遺体がすぐ横にあったにも関わらず、被告人はその場で軽食をとって隣の寝室で翌日朝まで眠った。その後三日間に渡り都内の高級ホテルを転々とし、ブランド品も多々購入している点から、自らの犯した事の重大さを認識していないと言える。三ツ谷さんには妻と子どもが一人居り、一家の大黒柱だった。三ツ谷さんを失った家族は悲嘆にくれており、被告人の犯した行為は後先を省みない非常に残忍なものである」


 琴子の斜め前に、痩せ細った女性がひとり座っている。右手に握ったハンカチを、目元に当てた。よく見ると、きれいに揃えた両の足が、がくがくと震えているのが分かる。三ツ谷の奥さんに違いない。

 いくら未生に辛い過去があったとしても、未生のやったことは決して許されるものではない。

 検察官の述べた起訴状の内容に間違いはありませんか、と裁判官が未生に尋ねた。

「一点だけ、誤りがあります。私は事の重大さを認識していなかった訳ではありません。充分に認識していました。重い刑を受けることになるだろうとすぐに分かりました。だからこそ、いつも通りの日常を過ごし、そして最後にきれいな景色を見ておきたかったんです」

 検察官が立ち上がった。

「事態の深刻さを認識していれば、すぐに警察に連絡して、自首するはずです。人を一人殺害しておいて、きれいな景色を見ておきたいだなんて、そのようなことが許されると考えていること自体が、あなたが軽薄であった証拠なんです。そうじゃないですか」

「そう思われても仕方がありませんが、私自身も、このようなことになるとは思っていませんでした。まさか自分が人を殺してしまうだなんて、考えもしませんでした。三ツ谷さんと、そのご家族にはいくら謝っても足りません。私はこれから長い年月をかけて罪をつぐなっていくのだと考えたとき、怖くなったのです」

「ではなぜ、三日目に竹芝の某ホテルに宿泊した際、偽名を使ったのですか。それが、あなたが逃げようとした証拠なのではないですか?」

「逃げようとした訳ではありません。もしも捜査が始まっていたら、本名を名乗ればホテルに泊めてもらえず、何より大事になって、ホテルの方にも迷惑がかかると思いました」

「柏木さん、それが“逃げる”ということなのですよ」

 誘導尋問だ、と原が手を上げて立ち上がった。裁判官が、検察官は話の筋を元に戻してください、と注意を入れた。検察官は疎ましげな表情を浮かべる。

「では、殺害の話に戻りましょう。柏木さんは、殺そうとなんて思っていなかったと言っていますね。ただ、柏木さんの三ツ谷さんに対する態度がひどいものだったという話を、たくさんの人から聞いているんですよ。喫茶店の店員の方、近所のスーパーの清掃の方、ファミリーレストランの店長さん、どうですか、心当たりがあるはずですよ。使えない平社員、気持ち悪い、馬鹿にしてんのか、うるさい、黙れ、つべこべ言うな。普段からこんな言動ばかり、三ツ谷さんに浴びせていたそうですね。証言してくれた方たちは皆口をそろえて、見ていられなかった、と言っています。柏木さんあなた、ずっと以前から三ツ谷さんに恨みがあったのではないですか」

 待ってください、と原がまた立ち上がる。弁護人の意見をどうぞ、と裁判官が原の方を指し示した。

「その程度の言い草なら、喧嘩をした男女の間に交わされることが珍しいとは言えません。その言葉だけで殺人を想起させると言うなら、例えば会社で上司は部下をろくに叱ることもできません。その証言が、殺人における計画性の証拠につながるとは到底考えられません」

「上司と部下の例は、典型的な話のすり替えです。女性が、愛人関係にある二回りも上の男性に、日頃から件のような言葉を浴びせていたとすると、それは少し正常の範囲から抜け出ていると思いますが」

「裁判官、今の検察官の発言には、検察官の私的な価値観が含まれていると感じました。年下の女性は年上の男性には従順であるはずだと、言い換えるとそうも聞こえます」

「それは曲解だ!」

「検察官は静かに。弁護人の意見を認めましょう。弁護人は弁論を続けてください」

 検察官は不服そうに、腰を下ろして足を組んだ。

「被告人がずっと前から三ツ谷さんに恨みがあった、と先ほど検察官はおっしゃいました。しかし、そもそも初めにコンタクトをとったのは、三ツ谷さんの方でした。二人は同じ銀座8丁目の喫茶店の常連でした。そのお店のスタッフの方の証言ですが、二人はもともと別々にお店を訪れていたが、あるとき三ツ谷さんの方から被告人に声をかけているのを見た、ということだそうです。被告人は初めはどちらかというと、一歩引いているような状態だったと。また、喫茶店の中で三ツ谷さんがいきなり被告人に花束を渡し、被告人が困っている様子だったのが印象的だった、と当時店内に居合わせた客が証言しています。また、マンションの警備員の話によると、三ツ谷はマンションの玄関でインターフォン越しに話す際、随分甘えたような声で被告人の名前を何度も繰り返し大声で呼ぶものだから、要注意人物として少し警戒していたそうです。つまり、被告人は三ツ谷に精神的に日々少しずつ追い詰められており、その結果の苛立ちとして、少々攻撃的な発言も飛び出すこととなった。事件当日は、三ツ谷の46歳の誕生日でした。被告人はその頃海外への移住を考えており、マンションから退去すべく部屋の片づけを始めていたところでした。三ツ谷さんには反対されており、内緒で進めていました。そこへ思いもよらず三ツ谷さんがやって来た。その証拠に、被告人が急いでクローゼットの中に入れたゴミ袋やキャリーケースが今もそのままになっています。殺人を犯そうと決めている人間がやる行為ではありません。そして三ツ谷さんは自身でバースデーケーキを買って来て、被告人に祝ってもらおうとしました。大きな拍手の音が聞こえたと、隣の住人が証言しています。決して計画的ではない。その証拠に事前に調達した武器も何ひとつ見つかってはいません。パソコンのコードなんて普通は凶器として考えない。しかし三ツ谷さんの態度に耐え切れなくなった被告人は、衝動的に、自分でもコントロールできないうちに、視界に入ったコードを掴んで三ツ谷さんの首を絞めてしまった」


 もうやめて、と傍聴席から涙交じりの震えた叫び声が上がった。三ツ谷の妻だった。お願いもうやめて、どうして、聡史くんどうしてこんなことに……

 傍聴席は静粛に、と裁判官の厳粛な声が響く。三ツ谷の妻は付き添いらしい女性に支えられながら、よろける足で法廷から出て行った。琴子はすぐ傍でその様子を見ていて呆然とした。聡史くん、と三ツ谷の妻は確かにそう言った。きっと恋人時代に、そう呼んでいたのではないか。琴子はもう、何を信じ誰を支持すればいいのか、分からなくなっていく。


 法廷の扉が閉まると、今度は検察官に発言権が移った。

「横浜市のマンションは三ツ谷さんが借りていた。そして三ツ谷さんが被告人に預けていたクレジットカードの明細を見ると、毎月限度額ぎりぎりまで使われていた。三ツ谷さんの給料は、同年代の男性と比べても、決して多いとは言えませんでした。その中でなんと彼は、貯金を切り崩しながら被告人を支援しようとしていました。確かにその態度や振る舞いには、被告人を不快にさせるような点はあったかもしれない。しかし三ツ谷さんは、暴力等被告人を危険な目に合わせるようなことは一度もしていないと分かっています。それは被告人も認めているはずです。三ツ谷さんは被告人に対して善意のカタマリのようだった。それなのに被告人は善意を受け取るどころか気持ち悪いと罵り、挙句には衝動的とは言え、コードで首を絞めるという極めて残忍なやり方で三ツ谷さんを殺害した。三ツ谷さんに守るべき家族が居ることは被告人も知っていたはずだ。被害者とその家族の未来を奪った罪は重い。しかも殺害後三日間も街をうろつくという常識と良心の欠如も見られる。よって、懲役十三年を求刑する」

 十三年。塀の中から出て来るときには、未生も琴子も三十半ばを過ぎている。そんなに先のことは、想像しようとしてもできない。

では弁護人は、最終弁論を行ってください――この最終弁論が、最も重要な鍵だ。琴子は手を合わせた。未生にはしっかりと罪を償ってほしい。でも、知ってほしい。ここに居る人たちに知ってほしい。未生が送った日々のことを。未生が辿らざるを得なかった運命のことを。

立ち上がった原と目が合う。琴子が頷くと、彼もはっきりと頷いてみせた。

「被告人、いえ、柏木未生は、幼い頃、父親の仕事の関係で引っ越しを繰り返していました。そのため、友達はあまりできなかった。唯一の友人は本でした。しかし、小学校六年生のときに、初めて親友と呼べるような存在ができた。私はその、柏木未生の親友からたくさんの話を聞きました。柏木未生はとても穏やかで、読書好きの、少しませた、未来ある少女だったと。しかし柏木未生はまた転校をしました。それからはしばらく横浜で暮らし、高校に入った頃から小説を書き始めました。そして小さな賞を獲り、物書きを志すようになります。相変わらず友達と呼べるような存在は居ませんでしたが、柏木未生の内面はとても充実していました。柏木未生は、文学部の創作学科に入学し、映画サークルで脚本を担当するようになりました。そこで恋人ができました。恋人が監督、柏木未生が脚本を担当した映画は学生映画祭で賞を獲るほどでした。しかし柏木未生は、信頼していたその恋人に裏切られました。柏木未生が役者をやることになった作品で、濡れ場シーンの撮影がありました。恋人はそのシーンを利用し、柏木未生を集団でレイプさせるように仕向けました。柏木未生はすんでのところで逃げ出しましたが、そのときもカメラは回り続けていました。証拠となるテープは今私の手元にあります。人生で初めての恋人に裏切られてしまった柏木未生は、その直後さらなる悲しみに襲われることとなります。最大の理解者だった父親の死です。父親は会社勤めをやめ、自ら会社を興しましたが、経営に失敗し資金繰りがうまくいかなくなり、首を吊って死にました。自殺です。授業が早く終わり、たまたま久しぶりに実家へ帰った柏木未生が第一の発見者となりました。母も兄もちょうど出かけていたそうです。父親が死に、その遺産は方々への賠償金ですぐに水の泡と消えてなくなり、一家はいきなり経済的に困窮することとなりました。柏木未生は大学をやめ、水商売を始めて家族のため稼ぐことに決めました。柏木未生の兄は発達障害を持っており、一般的な職場で働くことが難しい状態でした。母のパート代だけでは首が回りませんでした。柏木未生は夜の世界で、たくさんの男たちにぺたぺたとからだを触られ、下劣な言葉を投げかけられる毎日を過ごしました。柏木未生は耐えました。仕事ですから。柏木未生は大好きだった小説を書くことをやめました。やめたんじゃない、書けなくなってしまったのです。中野のスナックで勤めていた頃、ストーカー被害にあったこともあります。銀座のクラブに移ってからは、皆さんももうご存知でしょうが、毎週のように、あの某住宅建材会社社長の催眠術にかけられ、本人も知らないうちに裸の写真を撮影されていました。この件については既に警察が立証しています。どこか見知らぬ土地に移って新しい生活を送ることも考えました。しかし柏木未生には学歴もありません、夜の世界を抜けてしまうと安定した経済基盤もありません。どうしていいか分かりませんでした。そこに現れたのが三ツ谷さんでした。もちろん三ツ谷さんを殺したことは事実であり本人もこの通り認めています。決して許されるものではありません。しかしそこに到るまでに、あまりにたくさんの要素が柏木未生を追い詰め、あと一歩で落ちるという崖っぷちまで、この小さなからだを押しやっていたのです。私は彼女の弁護人として、情状酌量の余地があるとご判断いただけるよう、お願い申し上げたい次第です。以上です」


 一瞬、法廷がしんと静まり返った。凪いだ海のようだった。しかし次の瞬間大きな白波が立った。

「事件に関係のない話ばかりだ! 根拠のないでたらめに過ぎない! それなら辛い過去さえあれば、その果てに人を殺しても許されると言うのか? そんな馬鹿な」

 検察官が顔を真っ赤にして憤慨している。

「静粛に。最後に被告人、何か言いたいことはありませんか」

 裁判官の問いに、未生はゆっくりと口を開いた。

「検察の方にひとつ質問があります。あなたは先ほど、三ツ谷は善意のカタマリだと言いました。それでは、検察官さんあなたの考える“善意”とは何かですか。教えてください」


 未生に下された判決は、懲役十年。求刑よりも三年短くなった。三年も、と言うべきなのか、三年しか、と言うべきなのかは、分からない。

 未生はその判決を受け入れ、不服は一切申し立てなかったため、控訴は行わなかった。原も、これが自分のできる精一杯だと判断した。

 琴子はまた、元通りの日々に戻った。平日は毎日8時半から17時まで相談所で働き、そのあとは大学時代の友達とご飯に行ったり、ヨガの体験レッスンに行ってみたりした。休みの日は、省吾と過ごす。月島の方に、省吾が設計に関わったタワーマンションが建ったというので、一緒に見に行った。再開発が進み、家賃が高騰しているエリアだ。反対の声も多く上がっているという。

 真下に立ってそのマンションを見上げても、太陽の光が眩しくて、その天辺がよく見えない。

「もう、部屋はほとんど予約で埋まってるんだよ」

 省吾が、陽の光に目を細めながら言った。

「この世の中には、想像もできないようなお金持ちがいっぱいいるんだね」

「そうだな、でもこんなの、まるで悪魔の城さ。建設に関わった人間たちの気配が完全に消されてる。俺はいつも、自分の本当に設計したくて設計した建物が建つことを夢に見て、これでも何とかやり続けてるんだ」

 琴子は省吾のからだに寄り添い、その手をぎゅっと強く握った。


 判決から二週間が過ぎた頃のことだった。原から連絡があり、未生から事務所に琴子宛の封筒が届いているとのことだった。封筒の裏にでかでかと、原先生は開けないで、とマジックペンで書いてあると、原は電話口で笑いながら言った。

 久しぶりに訪れた事務所は、一時期よりは少し片付いていた。貰い物なんですけど、と原が珍しい茶葉の紅茶を入れてくれた。

「僕は未生さんに、よくよく言われました」

「未生に? 何をですか?」

「琴子はとても魅力的だと思いますが、手を出しちゃだめですよ。琴子には素敵な設計士さんの恋人がいますからね、って何度も」

 そんなことを、と琴子は思わず笑った。

「だから僕は、その未生さんの忠告を、しっかり守らなければなりません」

「原さん、本当にありがとうございました。弁護人が原さんで、未生は本当に救われたと思います」

「いえ、僕にどれだけのことができたのかは、判決が下った今でもまだ分かりません」

 琴子は原と強い握手を交わすと、事務所をあとにした。


 原から受け取った未生の手紙を、一体どこで読むのが相応しいか。家でひとりで便箋を開く気にもなれなかった。琴子はふと思い当たって、電車に乗ると西東京市の方まで向かった。琴子と未生が通っていた中学校。中学校では珍しく、併設の図書館が大きいのが売りだった。土日は一般の人も利用できるようになっている。琴子はよくそこで、未生と隣り合って座り、本を読んだ。人が誰もいないときには、机の上に模造紙を広げ、図書委員会で発表する本の紹介を二人で作ったりもした。

 図書館は十年前と、何ひとつ変わっていなかった。琴子は当時図書館に来る度ここだと決めていた、一番奥の窓際の席が空いているのを見ると、そこに座った。古い本のかおりが懐かしい。封筒から便箋を取り出す。わずかに開いた窓の隙間から風が入ってきて、カーテンにふくらみを持たせる。すぐ横に、あの頃と同じように未生が座っている気がした。

「琴子へ


 恋の話は最後にとっておこうと、以前そう約束しましたね。約束通り私は、この手紙を通じて、琴子だけに、私の最初で最後の恋の話をしようと思います。


 窓の外を、霧のような雨が降っていました。庭に生えた植物の葉の上を、雨粒が伝って落ちていきました。ああ、何てきれいな光景だろう、と私はソファに横になって眺めていました。一方で背中はあたたかい、熱に包まれていました。この瞬間が永遠に続けばいい、と私はそのとき思いました。父が同じようにソファの上に寝転がって、後ろからまだ幼い私を抱きしめていたのでした。それはどの家庭でも見られるような、仲の良い親子の光景かもしれません。でもそれが、私が父を男性として認識した初めての瞬間だったのです。

 父のことは昔から好きでした。格好良くて、頼りがいがあって、物知りで優しかった。たまの参観日に父が来ると、クラスメイトのお母さん連中が、そわそわとしていた記憶があります。でもあるときから、父が母に親しみをこもった視線を投げかけるのが、耐え切れなくなっていきました。夜に二人で寝室に入っていくのを見ると、胸がきゅうと痛みました。いっそ母がどこかへ居なくなってしまえばいいとまで思いました。そしてこんなことを思う自分は、どうかしているのではないかと悩み苦しみました。

 父は貿易会社に勤めていました。毎日仕事は忙しく、家で一緒に過ごしていても、そろそろ行くよ、とスーツのジャケットを羽織るたび、寂しい哀しい気持ちになりました。いかないで、とシャツの裾を掴むと、父は困ったように眉を下げて、未生は仕方ないな、と私の頭を撫でてくれました。そんな風にされると、私は全身が火照りました。

 中学に上がっても、朝は父を玄関まで見送り、夜父が帰ってくるとその背について回りました。少女のように純真な私の母は、私を父親孝行の娘だとしか思っておらず、そんな光景をただ微笑ましいもののように見ていました。その母の鈍感さに、私はある意味助かっていたのだと思います。

 クラスの女の子たちが、父親のことを、臭い、うざい、と罵っていたのには驚きました。私はそれどころか、父にばれないように、父のクローゼットを開けて、彼のシャツに顔を押し当てるようにして嗅いだことも何度かあります。それはいつも、お花畑のような、夢のように良い香りがしました。

 ある日の夜、母は友達のところへ、兄は塾へ出かけていて、家の中に私と父の二人しか居なかったことがありました。父はお風呂に入っていました。私はトントン、と浴室のガラス戸をノックして開けると、一緒に入ってもいいか、と父に尋ねました。父は困惑したような顔をして、目を泳がせました。えっと……と逡巡していたものの、だめだ、とは言われませんでした。だから私は服を脱いで、父と同じ浴槽の中に浸かりました。父は目のやり場に困っているようでした。中学生の女のからだは大抵もう充分に成熟しています。私は父の顔めがけて、ピュッとお湯をかけました。父はその子どもじみた遊びに安堵したのか、こら、と冗談交じりに言ってやり返して来ました。その馴れ合いは幼い頃と何ら変わりません。私と父は二人でけらけら笑いました。

 うすうす自覚はしていたものの、クラスの女の子たちがこそこそ“好きな人”の話をしているのを耳にするたび、やっぱり自分はおかしいのだと思いました。そしてこの気持ちを恋だとすると、これは絶対に許されないものなのだと。あの頃琴子とは、あうんの呼吸で通じ合える親友だったと私は思っていました。でもこの話だけは、さすがに琴子にでもする勇気はありませんでした。きれいな腕時計だ、と琴子は、私がいつもつけていたピンクゴールドの時計をそう褒めてくれましたね。あれは私の誕生日に父がくれた、私の宝物でした。ずっとずっと宝物でしたが、拘置所に入る前に没収されてしまいました。


 私が転校してしまってすぐ、あなたと連絡を絶ったのは、琴子あなたは誰とでも打ち解けられ、ごく普通の幸せな道を歩んでいける女性だと思ったからです。私が遊びに誘ったとき、クラスの友人との先約があると琴子は言いました。私はこれ以上、あなたに介入する訳にはいかない、あなたの健やかな生活を邪魔する訳にはいかないと思ったのです。

 実は、男の人と付き合ったのは、秋津が初めてではありません。高校生のときに、隣のクラスだった男の子に告白されて付き合いました。私は別にその人のことが好きではありませんでした。でも好きになろうと努力しました。そうすることで、私も“普通”になれる。“異常”から抜け出せる。父へのおもいを絶ち切れると思いました。

 彼はとても穏やかで誠実な青年でした。一緒にいると心が落ち着きました。でも、初めて彼の家に行き、今日は両親が居ないからとベッドに押し倒され、キスをされたとき、ああ違う、と思いました。それでも私は抵抗はしませんでした。でもその日をきっかけに、私と彼は別れることとなりました。どうしてかというと、行為の最中に、私は口に出してしまったのです、お父さん、と。

 とても苦しかった。琴子もよく知ってくれている、私のこの世で一番好きな小説、川端康成の、たんぽぽ。あれは初め父の書斎で見つけたのです。父も読書家でした。琴子も一度読んだと言っていたので分かると思いますが、あの主人公の女の子は、人体欠視症という奇病を患ってしまいます。愛するものが見えなくなる、恋人のからだが見えなくなってしまう訳です。その声ははっきりと聞こえるのに。私もいっそ、父が見えなくなってしまったらいいのにと思いました。父の姿が視界に入らなければ、どれだけ気が楽だろう。

 しかし、本当に父のからだを目にすることができなくなるだなんて、私は夢にも思っていませんでした。会社を興すと意気込んだ父のいきいきとした顔を見て、私は彼を心から応援していました。私は大学生になり、ひとり暮らしを始めていたので、父の会社が今どんな状況に追い込まれているのか、詳しくは知らないままでした。秋津と付き合い始め、床をともにするようになっても、何を間違っても決して、お父さん、となど口に出さないように細心の注意を払っていました。

 私は映画サークルのことで非常に落ち込んでいました。ケーキでも買って、久しぶりに実家を訪れようと思いました。でも久しぶりに帰った実家の玄関は開けっ放しで、家全体がやけに静まり返っていました。見知らぬ無人の家のようで気味が悪かった。誰も居ないの、と声をかけても返事がありません。そして父の書斎に辿り着いて目にしたのは、四肢の力を失って人形のように吊り下がった、私の大好きだった男性の変わり果てた姿でした。


 父の葬式が終わり、私は母に告げられました。お兄ちゃんはパニックになったら困るから、あなただけに言う。お父さんは、本当のあなたたちのお父さんじゃない。本当のお父さんはどうしようもない甲斐性なしで、あなたたちを産んですぐに別れてしまった。そのあと、友達のつてで偶然に出会ったのがお父さんだった。お父さんはあなたたちを、本当の子ども同然に可愛がった、と。

 私は呆然としました。何だ、本当のお父さんじゃなかった。どうしてもっと早くに知らせてくれなかったのだ。私は異常なんかじゃなかった。あの人は赤の他人の男性だったのだ。恋に落ちてもおかしくなどなかったのだ。でもかといって、恋が成就する訳でもない。彼は自分の母の夫だ。そして永遠に母の夫として、死んでいった。


それからは、私は自分のからだも心も、明け渡してしまったように思います。そのためたくさんの人が、土足で私の内部に侵入をし、私にはそれを拒む権利はありませんでした。何がきっかけで何が直接的の原因だったのか、最早今の私には分かりませんが、いつからか私の中に非常に冷徹で暴力的なもうひとりの自分が顔を出し、私はその見知らぬ隣人を制御することができませんでした。三ツ谷はこの隣人を水に注ぐ油のように刺激し、三ツ谷は隣人の恰好の餌食とならざるを得ませんでした。

この世の中には、まだたくさんの柏木未生と三ツ谷聡史がいるのではないかと私は思っています。


これから10年という歳月を、私は塀の中で暮らすことになっています。でも恐れや不安はありません。今はとても平穏な気持ちです。三ツ谷の家族には本当に謝っても謝っても足りません。わたしがここで二十代のすべてを過ごすのはきっとさだめなのだろうと思います。不思議なのは、今こうして琴子に伝えたい手紙の文面が、すらすらと頭に浮かんで来るということです。まるで高校や大学のときのように、ペンを走らせることが楽しくてなりません。楽しい、というとまた語弊があるでしょうか。私はこれから毎日この鉄の格子の中で、小説を書きつづろうと思っています。とても長い物語を思う存分書くことができるでしょう。それは私のずっとやりたかったことです。

高級ホテルのスイートルームも、ブランド物のバッグも、私は見飽きてしまいました。そんなものたちは、もう私には必要ありません。


琴子、私は誰よりも、あなたの幸せを願っています。あなたが平穏に、健やかに、日々を送ることを祈っています。好きなひとを簡単に手放してはいけません。

こうしてまた琴子と出会えたことに感謝しています。どうかお元気で。

                                     未生」


もう帰ろうか、とすぐそばで声が聞こえたような気がした。

ふと窓の外を見ると、セーラー服を着た少女が二人連れ立って歩いている。琴子の居る場所からは随分離れているのに、二人の会話がはっきりと耳に届く。

「つまんなかったね、さっきの国語の授業」

「うん、だって先生、教科書読むだけだもん」

「本屋寄って帰ろうか」

「賛成! それからアイスも買って帰ろうよ」

「何のアイスにしようか? せーの、で言おう」

「せーの、スーパーカップバニラ!」

「やっぱそうだよね! ほら、そうと決まったら早く行こ!」


今日は日曜日だ。


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