妖怪のせいなのね、そうなのね
ふがふがきろろ~ きろろきろ~ ひょっとこほにゃほにゃ ろんろんぴ~
ふがふがきろろ~ きろろきろ~ ひょっとこほにゃほにゃ ろんろんぴ~
おじいさんはハンドルを回し続ける。みかん箱のような木の箱が震えて組み込まれた板の隙間から変な音が響いてくる。
「おねがいだから、やめてください」
あずは耳を両手でふさいで言った。
「どうしてかな、私にはとっても心地よい音楽なのに」
「おじいさんは、知ってたんですね。町の人たちがおかしくなったのはこのオルガンのせいだってことを。この音楽のせいだってことを――」
「このオルガンに初めて出会ったのは、私がまだ子供の頃だった」おじいさんは遠い目をして静かな声で語り始めた。「あーちゃんよりもまだ小さかったなあ。うちはとても貧しくね、父親は人にだまされて大きな借金を負って失踪した。私は母とふたりで長屋のようなところで暮らしていた。
そこに、物売りのおじさんが訪ねてきたんだ。行商人っていうのだろうね、大きな行李を背負ってね、あちこち行商して回ってるようだった。しかし母はどうせ押し売りだと思ったのか、まあ余分なお金もなかったしね、その人を追い返してしまった。
ところがあくる日、空き地でその人が休んでいるのを見かけてね、私はちょっとした好奇心から近づいて行ったら向こうもそれに気づいて声をかけられた。気さくないいおじさんだったよ。
なんでも体のどこかが悪くて兵隊にはなれず、でも家は空襲で焼け出されて、しょうがないからこういうことをやって食いつないでいるのだと言っていた。家は大きな商店だったらしい。今思うと、本当かどうかはわからない話だったけど。
それでね、その人が行李の中を開けて見せてくれた。包丁とか、ハサミとか、石鹸とか、そういうもののほかに、なぜかこの手回しオルガンがあった。こんなものを買う人がいるのか、ふしぎに思ってそう尋ねると、これは売り物ではないと言った。
そのおじさんの父親が大切にしていたものらしい。命よりも大切にしていた、大げさではないよ、本当にそのおじさんの父親は空襲の時、このオルガンを持ち出そうとして燃えさかる家の中に飛び込み、命を落としたそうだ。父親は全身のひどいやけどで亡くなったが、おかげでこのオルガンは焼けなかった。
行商のおじさんはそれ以来、このオルガンを肌身離さず持ち歩いている。
このオルガンを動かせば、世界を変えることができる。おじさんはそう言った。
世界を変えるって、どういうこと? 私がそう尋ねると、おじさんは、にやりと笑った。その笑い方がなんともぶきみでね、背筋がぞっとしたよ。何かとてもいけない質問をしてしまったような気がした。
今の世界が正しいと思うかい?
おじさんは私の質問に答えようとしたのか、そんなことを言った。だけど私はまだ幼かったからね、おじさんが話す内容は難しくてよくわからなかった。おじさんはそれでもおかまいなしに、いろいろなことを話してくれた。人間というもののふしぎ、この世界というもののふしぎ、ずいぶん哲学的な話だったなあ。それでちょっとだけその手回しオルガンを鳴らしてくれたんだ。こうやってハンドルを回してね、まるで手品みたいだった、箱の中からなんともふしぎな音楽が聞こえてきたんだ。そう、こんなふうに――。
私はびっくりしたね。それまで聞いたことのない音だった。そしてそれまでに感じたことのないような奇妙な気持ちになった。私の表情が変るのを見て取ったおじさんは、ふいにハンドルを回すのをやめた。そしてこう言ったんだ。
あぶない、あぶない、これ以上聴いてると、なにもかもが、さかしまになっちゃうよ」
「さかしま?」
「おそらく、さかさまのことだろうね」
「世界が、さかさまになるってこと? あ、そうだ、今のこの町がそうだ。きれいはきたない、きたないはきれい」
「ほう、『マクベス』だね。あーちゃんはシェイクスピアを読むのかい?」
「いえ、ちょっと、そのセリフだけ覚えてて」
「行商人のおじさんは演奏をやめるとオルガンを行李の中に片付けて、またそいつを背負ってどこかへ出かけていった。それっきりだ。翌日も、その翌日も同じ空き地に行ってみたけど、おじさんはもう二度と現れなかった。でも、そのオルガンのことは、ずっと頭の隅に残ってた」
「これが、そのオルガン……」
あずはもう一度オルガンに目をやる。
「この音楽を止めてください、学校や町の人たちがおかしくなったのは、このオルガンのせいですね。このオルガンが動き出した時から、この町はさかしまになった。このオルガンが奏でる音楽が、みんなの心をかき乱してさかしまにしてしまうんじゃないですか、まじめだった人が、なまけものになって、ぐうたらだったあたしが、どういうわけか活発に動き回るようになりました。なんだかおかしいと思ってました、このオルガンのせいですね、そうなんでしょ?」
おじいさんは静かにうなずいた。
「おそらくそうだろうね、さかしまのオルガンは、やっぱり存在したんだ」
「おじいさんはそれを知って、この音楽でみんなをさかしまにしてやろうと思って、ずっとこのオルガンを抱えて、音楽を奏でながら町の中を歩いていたんですね。夜に聞こえてきたこの変な音楽は、おじいさんが演奏していたんですね」
ふがふがきろろ~ きろろきろ~ ひょっとこほにゃほにゃ ろんろんぴ~
ふがふがきろろ~ きろろきろ~ ひょっとこほにゃほにゃ ろんろんぴ~
「オルガンを止めて!」あずは叫んだ。
「それはできない」
「どうしてですか」
「私はこの町を変えたいんだ。作り直したいんだ。そうしなくちゃならないんだ」
「どうして?」
「まちがっていたから、何もかもまちがっていたから。だから、すべてをさかしまにして」
「だめよ、みんなおかしくなっちゃう。このままでいいわ」
「そうはいかない。まちがっていたから、やりなおすんだ。さかしまになれば、やりなおせる。もう一度、最初からやりなおせば、妻にも会える――」
「どういうこと?」
「もう一度、妻に会いたいんだ。会って、あやまりたい。こんな町にしてしまったことを……。そしてもう一度、妻との生活をやりなおすんだ」
「だけど、奥さんはもう亡くなられて……」
「さかしまのオルガンなら、できる。なにもかも、世の中をさかしまにできるんだから、きっと……」
「まさか、死んだ奥さんが生き返るって思ってるんですか?」
おじいさんは、深くうなずいた。
「そんなこと無理よ、だって、そこまではさかしまにならないと思う」
「このオルガンは、すべてをさかしまにするんだよ。みんなの心は、さかしまになった。心だけじゃないはずだ。時計の針だって逆に回せるさ、針が一回りするごとに時間が逆戻りして、われわれは若返っていくんだよ。もうしばらくすれば、死んでいた妻はよみがえり、そしてさらに時間が経てば妻の体は元通りになる、歩いたり、話したり、笑ったり――」
「そんなことはあり得ないわ、死んだ人が生き返ったりしたらたいへん、もっともっと大騒ぎになる、この町は、いや世界中が大混乱になる、そんなことぜったいダメよ。オルガンを今すぐ止めなくちゃ」
「どうしてだね? 今のこの町がそんなにひどい? 暮らしにくい? そんなことはないと思うよ。規則なんか守らなくていい、仕事なんかしなくていい、楽しいことだけやればいい、それのどこが悪い? これこそみんなが望んだ暮らしじゃないのかな」
「たしかに、ちょっと前のあたしはそう思ってた。ぐうたらだったし、なまけものだし、でもそういう人は、何人かはいてもいいけど、全員がそうなったら困るのよ。世の中がめちゃくちゃになっちゃうの。うちの学校がそうなっちゃった。
だから、奥さんのことはかわいそうだと思うけど、生き返らせることは、やっちゃいけないわ。きれいはきたない。もしも死んだ人が生き返るなら、生きている人は死ぬかもしれない。きたないはきれい。きっとそうなると思う、さかしまのオルガン、もしも奥さんが生き返ったら、それと入れ替わりに、おじいさんは死ぬかもしれないわ」
「なるほど。そういうこともあるかも知れない」
おじいさんは眉根を寄せて、憂鬱な顔になった。
「こんなあぶないオルガンは今すぐ捨ててしまいましょう、ね?」
「だけどここまでやったんだ、もう止められない。このままどうなるか見てみたいんだ、さかしまの世界というやつを」
おじいさんがのどの奥からしぼり出した声は背筋がぞっとするほど冷たかった。ハンドルを握ったままの手をぐるぐる回す。
ふがふがきろろ~ きろろきろ~ ひょっとこほにゃほにゃ ろんろんぴ~
ふがふがきろろ~ きろろきろ~ ひょっとこほにゃほにゃ ろんろんぴ~
オルガンから出る調子っぱずれの音楽はますますでっかくなり、開いた窓から表の通りにまで鳴り響いている。たいへん、早くなんとかしなくちゃ。
あずの足元から、ふーっという唸り声がした。見るとドンキチがオルガンをにらみ、背中の毛を逆立てて身構えている。あっと思った瞬間だった、ドンキチが床を駆け、机に置かれているオルガンめがけてぴょんと跳躍した。オルガンに飛びついて前足のつめを立てる。板が張られている側面を爪できききーっと引っかいた。おじいさんは驚いてハンドルから手を離した。オルガンはドンキチの重みで大きく左に傾いた。そのままオルガンはしがみついているドンキチもろとも机から落っこちた。ぐわっしゃーん、ドンキチは体をひゅるりとひねって足から着地するとさっと飛びのいた。オルガンはどたんばたんと転がった。木の箱の一部が壊れてはがれる。するとそのすきまから黒い小さな得体の知れない何かがひゅうっと飛び出した。
そいつには翼があって、生き物のようにバタバタと羽ばたき、部屋の中をぐるりと旋回して張り付くように天井に止まった。
「あいつは、"モニャレンマ"じゃ」とムギじいが言った。
「なにそれ?」
「だから、モニャレンマじゃよ」
「だから何なのよ。わかるように説明してよ」
「この手回しオルガンに宿っていたモノノケじゃよ。ずっと長い間おとなしく眠っていたのにハンドルが回されてオルガンが動き出したせいで目覚めてしまったのじゃ。いいかね、このオルガンが出していた変な音の正体はこいつの鳴き声だ」
「まあ、そうだったの。だからブックという楽譜を使わなくても音が出ていたのね」
「さらにドンキチに襲われそうになって、びっくりしてオルガンから飛び出したのじゃ」
「モノノケって、ムギじいの仲間みたいなもの?」
そいつは小さく細い二本の足で天井の梁につかまりぶら下がっている。
「まあ、コウモリみたいにさかさまにぶら下がっているわ」
「さかしまの鳥じゃ」
「どうしてモニャレンマっていうのかしら」
「それはじゃな、江戸時代に大きな火事があったのじゃ、本郷と小石川と麹町の三ヶ所から火の手が上がってな、まあ昔のことじゃから燃えやすい木の家ばかりで見る間にあたり一面火の海となって、それはもう悲惨じゃった。その火事の原因というのがじゃな、お江戸・麻布の遠州屋という裕福な質屋に梅乃という娘がおっての、その娘がある日――」
「ねえ、そのお話ってまだまだ続く?」
「そうじゃな」
「とりあえずその話題はもういいから、モニャレンマって、もしかしてあぶない?」
「わしは性格がいいから誰にも危害は加えないが、こいつはちがうぞ。あまのじゃくなやつでのう、世の中のなにもかもを、さかしまにしてしまうのだ。こいつの鳴き声はあぶないぞ、それを耳にした人間は、頭で信じていることと反対の行動をとってしまうようになるのじゃ」
モニャレンマは天井にさかさまにぶら下がったまま、またあの鳴き声、というか口からあの音楽を奏でている。ふがふがきろろ~ きろろきろ~、これが人間をさかしまにする鳴き声なのか。もうオルガンは必要なくなったのだ、こいつはその正体を現して自分の意思で鳴き声を発するようになった。この鳴き声がどんどん拡散されたら、ますますおおぜいの人たちがおかしくなってしまう。なんとか止めなくちゃ。
にゃーご! と吠えてドンキチがもう一度ジャンプした。しかし天井までは届かない。ドンキチは無念そうにモニャレンマの姿を見上げながら床をぐるぐると歩き回る。
「ここはドンキチに加勢して、やつをやっつけるしかあるまい」
「そうね」
あずは部屋の中を見回した。「ごめんなさい、ほうきを借ります」そう言って隅にあったほうきを手に取り、モニャレンマを叩き落そうと振り上げた。モニャレンマは羽ばたき、逃げる。ドンキチがそれを追う。あずもほうきをぶんぶん振り回しながらモニャレンマを打ち落とそうとする。おじいさんにはモニャレンマの姿は見えていない。だからあずと猫が突然部屋の中で暴れだしたようにしか思っていないはずだ。ああ、しかしもう、そんなことはどうでもいいわ、とにかくこの悪さをするモノノケを捕まえないことには町が元に戻らない。
しかし、あずがほうきをぶんぶん振り回すもののモニャレンマは巧妙にそれをすり抜ける。そのうちに開いていた窓から表に飛び出してしまった。
「たいへん! 鳴き声が町中に響いてしまう」
「すぐに追いかけるのじゃ!」
ムギじいが言った。ドンキチが窓を飛び越えた。あずは玄関に走って急いで靴を履いてそれから少し遅れてモニャレンマを追いかけた。




