ミス鉄仮面から恋バナを聞かされるとは
一時間目はいやなことに英語だった。教師はきびしいミス鉄仮面。しかも遅刻なんて最悪。
あずは誰もいない廊下をびくびくしながら教室まで歩いていく。もうとっくに授業が始まっているはずなのに、今日はやけに静かだ。
もしかして抜き打ちテスト?
ミス鉄仮面ならありえる。テストなんて最悪、英語なんてちんぷんかんぷん、遅刻した上に赤点とったら、きっと罰として補習に宿題の山。うへえ。
あずは教室の後ろの戸をおそるおそる開ける。もうこうなったら匍匐前進だ、敵陣にこっそり侵入するように腹ばいになって教室に入っていく。
先生の声は聞こえない。みょうに静かなまんま。えっ? みんな何してんの?
あずは頭をあげて、教室の中をながめる。教壇にミス鉄仮面の姿はなかった。
あれ? という顔で自分の席につくと、隣の雪乃ちゃんがにっこり微笑んだ。
「先生、まだきてないよ」
「そうなの? よかったあ」
あずはほっと胸を撫で下ろした。
「だけどミス鉄仮面が遅れてくるなんて、めずらしいね」
「だよねー、いつだって時間きっかりにくるのに」
「そうそう。一分一秒を決して無駄にしないの。サッカーみたいにロスタイムまで計ってるし。そんなにぎっちぎちにしなくてもねえ」
「プロ意識なのよ、一時間の授業をすることで先生は給料をもらってるんだから、その時間は一秒も無駄にせず教えることに徹するって言ってた」
「融通がきかない性格なんだろうねえ、日常生活だってきっとそうだよ、電車が一分遅れただけでクレームの電話かけるような人だ、きっと」
「ありえる」
あずの言葉に、雪乃は小さく笑った。
教室の前の戸がガラガラと開いて、ようやくミス鉄仮面が入ってきた。いつもの生気はなく、体調でも悪いのかどこか疲れたような顔をしている。
学級委員の雪乃ちゃんが、起立、礼、着席、の号令をかける間も、視線が宙をさまよったままだった。
いつもは背筋をピンと伸ばして教壇に立つのに、ミス鉄仮面はイスを引き寄せて座った。それからしばらくイスの上で固まったみたいに動かなかった。
「あーーーーーー」
と、長い長いため息をついた。どうしたんだろう、と生徒たちは思った。
「あー、恋がしたい」
ミス鉄仮面の口から信じられない言葉が飛び出して、あずは思わずイスから転げ落ちそうになった。髪の毛はベタっとしたロングで服は紺色のスーツ、スカート姿なんて見たこともないミス鉄仮面が、え? 今何て言ったの?
生徒たちが唖然としている中で、ミス鉄仮面はあいかわらずぼんやりしている。
「恋がしたいわー」
ミス鉄仮面は誰かに訴えかけるように、そう言った。
そんなことを教室で言われても、どうしようもない。
「あたし、なんで教師になんかなったんだろう。ほんとは、教師になんかなるつもりなかったの。デヴィッドのお嫁さんになるつもりだったのに」
ミス鉄仮面は、誰に言うでもなくそう語り始めた。
「ああ、いとしのデヴィッド。みんな知ってるよね、デヴィッド・ボウイ」
前の席の生徒たちが、顔を見合わせて首を横に振った。
「ちょっと、あんたたち、デヴィッド・ボウイを知らないの? あのスーパースター、デヴィッドを。すばらしいあの名曲モダンラヴを聞いたことないの?」
ミス鉄仮面はいつものエキサイティングな調子に戻って、目を吊り上げた。
「オー・マイ・ガー。なんてこと。今日はもう授業やめ。気分悪い、はい、教科書しまって」
ミス鉄仮面は教卓をバンと叩いて立ち上がり、手にしたチョークを振り回しながらそう言った。
「これから、デヴィッド・ボウイについて教えます。グラム・ロックって知ってますか?」
生徒たちはポカーンとしながら、首を横に振る。ミス鉄仮面の表情がまた険しくなる。
「それも知らない、あんたたち、バカ?」
ミス鉄仮面は黒板に向ってチョークでなにかを書こうとしたが、首を振ってチョークを投げ捨てた。
「もう、最悪。あたし、何をしてるんだろう。あたしはね、デヴィッドのお嫁さんになるつもりだったの。
あれは、みんなと同じ中学生の時だったわ。ラジオから『ジギー・スターダスト』が流れてきたの。それを聴いたとたん、私の中に電流が走ったの。頭をハンマーでガーンってなぐられたような衝撃だったわ。
これぞ運命だったのよ。それが私とデヴィッドとの出会い。
すぐに恋に落ちたわ。フォーリン・ラヴ。恋ってのはね、理屈じゃないの。あんたたち、お子ちゃまにはまだわからないだろうけど、カミナリに打たれたようにほんの一瞬で決まるの。ハートがめらめらと燃え上がるのよ。
それからはもうデヴィッド命だったわ。出ているレコードはすべて買った。デヴィッドの載っている雑誌ならイギリスからだって取り寄せたわ。デヴィッドが映画に出ているとなったら『地球に落ちてきた男』も『戦場のメリークリスマス』も、何十回と見た。
ステキなデヴィッド、あたしの王子様。
そうなのよ、あたしは白馬にまたがったデヴィッドと結婚するつもりでいた。英語だってそのために勉強してきたの。それなのに、デヴィッドはまだあたしを迎えに来てくれない、どうしてなの? もう何十年も待っているのに、待ちくたびれているのに……。ああ、なんてこと、うそよね、いとしのダーリンが私を置き去りにしたままお星様になってしまったなんて、そんなこと誰が信じるものですか」
ミス鉄仮面は熱に浮かれ、まるで宝塚の舞台にでもいるように、教壇の上でくるくる回った。
キツネにでも取り憑かれているみたいだった。完全に自分ひとりの世界に没入してしまっている。
それにしても、恋愛なんかに興味がないと思われていたミス鉄仮面にこんな過去があったなんて、おどろきだ。やっぱりミス鉄仮面も一応オンナだったのね。
「はああああー」と肩を落としてため息をもらした。「はああ、むなしい……。教師って、むなしい仕事だわ。生徒はバカばっかりだし、勉強を教えていい高校に合格させたところで、あたしが幸せになれるわけじゃないし。
逆なのよ、仕事をがんばればがんばるほど、男たちはあたしのことを女として見てくれなくなるの。あたしもいつしか男なんて仕事の邪魔だって態度になっちゃったの。化粧もしない、髪も染めないしパーマもあてない、タイトスカートもハイヒールもはかない。それでますます女としての魅力がなくなって、婚期を逃してしまった。いまじゃ乳もケツも垂れて、こんな小じわだらけのババア。もうなにもかも手遅れ。
知ってるのよ、あんたたちがあたしのこと、ミス鉄仮面なんてあだ名で呼んでいること。あたしだって昔は、中学生のころは、夢多き乙女だったの。可憐な乙女だったの。お花畑でちょうちょとたわむれてたの。
それがいつのまにか……。
あんたたちだっていまにそうなるのよ、時間が経つのはあっという間だわ。人生なんて夏休みより短いのよ。すぐにおばさんになっちゃうのよ。はあ、むなしい。アイ・フィール・ソウ・ミーニンレス。もう教師なんかやめたい。やめたいわ……」
ミス鉄仮面は力なくそうつぶやくと、またイスにだらしなく腰掛けて手足をだらりと伸ばし、気が遠くなるほど長い長いため息をついた。




