悪徳の八 薬物汚染
魔王。
魔物たちの王にして、人類の敵。
数百年に及ぶ戦いの果てに、勇者とその仲間たちによって討伐された。
魔王について辞書で調べれば、おそらくそんな事が書いてあるだろう。
しかし、そこには記載されていない秘密が、魔王にはあった。
「若、お客様がいらっしゃっていますが……」
「客? 今日そんな予定あったっけか」
「いえ、本日はもう来客の予定はありませんでした。ですが、店の前で若の名を呼んでいるとのことで……」
ローガンが言葉を濁すという、非常に珍しい光景にリーニは戦慄した。
この男、少なくとも自分の仕事に関してははっきりと言葉を述べる。それができないということは、彼では判断できない問題がこの来客にはあるということだ。
「――帰ってもらうとか、だめかな」
「おそらく、それは難しいかと」
「だよねぇ」
リーニは諦念と共に客人を連れてくるように命じた。
そして五分後、それを後悔した。
「ご無沙汰しております。リーニ様」
「お前かよ!!」
ズバァンと机の天板を叩き、リーニは頭を抱えた。
客人は女性だった。
黒の髪と同色の瞳、そして透き通るような肌を持つ、人間離れした美貌の持ち主だ。
それもそのはずで、彼女は人間ではない。
「魔王の娘がなんでここにいるんだよ!! いや、別に罪人とかじゃないからいてもおかしくないんだけどさ。身の危険とかあるでしょ!!」
「私の身を心配してくださるのですね。やはり、あなたは魔族の庇護者に相応しき御方……」
「ヤメロッ! 今そのセリフは洒落にならん!」
「はぁ、再会できる今日という日を、一日千秋の思いで待っておりました」
悲鳴を上げるリーニと、頬を染めて遠くを見る魔王の娘。
混沌とした場の中で取り残されていたローガンは、なんとか口を開くことに成功した。
「若、こちらの方はご友人ですか?」
「いえ、妻です」
「さらっと嘘答弁してんじゃないよ君は!!」
リーニは天を仰いだり床を睨んだりしながら、
「魔王が一子、ディルテと申します。リーニ様には色々と良くして頂いております」
「はぁ、ウェイランド商会の番頭、ローガンと申します。今日は遅いですし、お部屋をご用意させていただきます」
「まあ、ありがとう。やはりリーニ様の使用人だけあって、良く気が付くようですね」
「ありがとうございます」
懊悩するリーニを置き去りにして来客と使用人の間で話が進んでいく。
「――ねえ、俺の話聞いてる?」
「私がリーニ様のお言葉を聞き逃したことなど一度もありませんわ」
「いっそ聞こえてないほうがよかったよ!」
本心からの悲鳴だった。
魔王亡き後、人類と魔族の間には平和協定が結ばれた。
魔族たちは統率者である魔王を失っていたし、人類側は戦力的にも経済的にも限界に達していた。特に魔王を討ったことで、人類側の足並みは乱れに乱れ、切り札の勇者さえ各国のパワーゲームの材料とされる始末。
これ以上戦いが続けば、人類側は内部崩壊を起こすか、戦後に人類同士の争いになることは疑いようもなかった。そして人類の同盟が瓦解すれば、魔族側が一気に反撃に出るだろう。
そうなった場合、戦いの落とし所を見つけるのは非常に難しくなり、どちらかが滅びるまで戦いは続くかもしれない。
両陣営はそれを悟り、一応は人類側を勝利者としたものの、魔族の面目にも最大限配慮する形での条約締結となった。
「それを主導してくださったのが、リーニ様だったのです。臣下さえもわたくしを利用して魔族を統べることしか考えていなかったとき、人類がの使者として事前協議にきてくれたリーニ様がどれほど頼もしく見えたか……」
ディルテは当たり前のように、ソファでリーニの隣に座っていた。
リーニの腕を掴み、身を寄せている。リーニは諦めきった表情で、ディルテの好きなようにさせていた。なにを言ったところで、ディルテは自分の都合のいいようにしか解釈しないからだ。
「若が勇者の仲間として、交渉の場に参加していたことは知っていましたが、そのようなことがあったのですね」
「はい。そのときわたくしは、リーニ様にすべてを捧げる誓いを立てたのです」
「そっちが勝手に言ってただけだろうが。交渉使節が相手から利益を受け取るなんてことはできないって断ったはずだぞ」
リーニの記憶では、ディルテがそう申し出たとき、間違いなく断ったはずだった。
しかしディルテは「使節である間はディルテの気持ちに応えられない」と解釈し、今もそう信じている。
「あの勇者がリーニ様を連れ去ったりしなければ、こんな風に引き裂かれることもなかったというのに……」
顔を覆うディルテ。
普通ならば演技なのだが、彼女の場合は本気で泣いている。
そのためリーニは懐からハンカチを取り出すと、それをディルテに押し付けた。
「リーニ様っ!」
それに感激したらしいディルテに抱き付かれても、リーニは渋い顔だ。
ただ、そんな表情でさえもディルテには精悍と映るのだからどうにもならない。
「そろそろ本題を話せ」
相手をすればディルテの思うつぼだと黙っていたリーニだが、それでも勝手に盛り上がられてしまうのならば相手をするしかない。
魔族の姫がここにいると知られたら、父のことも含めてどんな勘違いを受けるかわかったものではないのだ。
「はい、リーニ様。実は最近、人間たちが我々の土地で妙なことをしているのです。山の中の土地を借りて畑を作り、お薬を作って人間の土地に運んでいるようなのですが……」
リーニは両手で顔を覆った。
いつか誰かがやると思っていたことを、誰かがやり始めたのだ。
「くそー、思ったよりも早かった。魔族は魔法薬への耐性が高いから錬金術がまともに発達してないし、それを取り締まる法もない。違法魔法薬を作るなら、そりゃ魔族領で作ると思ったよ!」
違法魔法薬とは、各国の錬金術ギルドや政府が定めた魔法薬の一種だった。
これらの魔法薬は単純に危険なだけではなく、用いることで多くの人々に被害を与えるものが多かった。中には水源に混入させることで何万人もの人間を操ることができるものまで存在しており、その製造と拡散を防ぐために各国が努力を続けていた。
そんなものが、いや、そんなものだからこそ魔族領で作られているのだ。
「若、急ぎ政府に知らせねば。我々も共犯者と見られる可能性が……」
「もう遅い! ここに魔族の姫が来たことは、どこからか漏れる。どれだけ厳重にしても、情報ってものはどこからか漏れ出るもんだ」
ディルテはリーニの様子に不安そうな表情を浮かべていた。
自分がリーニにとってなにか不都合なことをしてしまったのではないかという恐怖を抱いているのだ。それは彼女にとって、死に匹敵するほど恐ろしいことだった。
「リーニ様、申し訳ありません……」
「こうなってしまえば仕方がない。――ディルテ」
リーニは真剣な眼差しでディルテを見つめた。
ディルテの肩が震え、目が潤んでいく。
「お前の力を借りるぞ」
「はいぃ~~……」
ディルテは、自分がどんな返事をしたのかさえ覚えていなかった。
「ローガン! 金庫を開けろ! 魔族が好みそうなものを買いまくれ!」
「はっ! 直ちに!」
「魔族は即物的だ! いちいち高いものより見目を優先しろ!」
「承知しました!」
「ディルテを通して例の土地の周りを借り上げろ! いいか、連中をあの土地に閉じ込めるんだ。魔族の土地だからな、多少の無茶はしても構わない」
「すぐに手の者を送ります。政府ではなく護衛隊から警備の戦力を出しましょう」
「人間側にもいずれ気付かれる。だが、気付かれても押し切れるだけの状況を作り上げろ! 政府には人間と魔族の経済格差の緩和を図り、両陣営の緊張緩和に努めるとでも言っておけ!!」
「ははっ!」
そうしてウェイランド商会が魔族領に大規模な魔法薬工房を建設すると発表したとき、人間側は大きな驚きに包まれた。
魔族の地は様々な魔力が入り交じり、魔法薬の材料となる薬草の栽培に適していないと言われていたからだ。
しかしウェイランド商会は魔族の姫君と有力魔族の協力を取り付けて魔族領での魔法薬製造を開始。勇者とその仲間たちが魔族領で作られた魔法薬が人間領で作られたそれと遜色ないことを明言すると、魔族領製魔法薬は一気に人類社会に拡大した。
それを見て各国の錬金術ギルドなどが魔族領での魔法薬製造を行おうとしたのも当然のことだろう。魔族領で育ってこそもっとも強く薬効が発揮される薬草も存在したため、彼らにとって魔族領での魔法薬製造は錬金術と組織の発展に必要不可欠だと考えられた。
ただ、彼らの思惑は思ったようには進まなかった。
魔族側は急激な人類資本の流入を警戒し、ウェイランド商会以降の許可を出さなかったからだ。
ギルドはすぐに自国政府に仲介を依頼したものの、魔族領での経済活動の主導権は魔族側にあるため強く出ることができず、魔族側の言い分にも十分過ぎる理があったため、継続して協議するということとなった。
協議が行われている間、魔族領での魔法薬製造はウェイランド商会が一手に担うことになってしまったのである。
「おかしいな。売上が増えてるぞ? 魔族領に色々作れば、めちゃくちゃ資金が掛かるはずだったんだけど」
「魔族側の協力が得られましたし、純粋に魔法薬の売上が良いという理由もあるでしょう。魔族は税という概念が乏しいですし……」
「それにしても、もうちょっとこう、人間の作った工房なんて認めないとか、そういう反対運動的なものがね? ほら、変な連中が先に噛んでたでしょ」
「件の違法業者はこの話が持ち上がった時点で逃散していましたし、工房はディルテ様の所領にありますから、そのような問題は起きていないようです。むしろディルテ様が積極的に、魔族の魔法薬学者を紹介してくださったので、紹介独自の魔法薬製法を確立できました」
「そう……そうかぁ……」
リーニは窓を開け、遥か遠くを見る。
その方角は、魔族領だ。
(若はきっと、魔族たちに新たな生きる術を与えたかったのだ。もはや戦いだけが人と魔族の関わりではない。我らは、もっと別の道を探らなければならない)
ローガンは主人の慧眼に感じ入り、己の職務の重要さを噛み締めた。
彼はリーニが、ただただ現実逃避をしているだけだとは、微塵も思わなかったのである。
(さすがに魔族ならもっとこう、色々口出ししてくるもんだろうがよぉ! 聞き分けのいい魔族なんて魔族じゃないでしょ!)
どれほどリーニが憤慨しようとも、ウェイランド商会が魔法薬製造と流通で莫大な利益を上げるようになった事実は変わらないし、魔族領で人類領で通用する産業が興ったこともまた事実だ。
リーニの名前はさらに魔族たちの間に浸透し、その一挙手一投足は人々に注目される。本人の願いとは裏腹に、彼は善意の沼のより深いところに沈んでいくのだった。