108:びびってちゃ、戦えないだろって話
俺が木の根に隠れて、少々時間が過ぎる。
もしかしたら、ヒュドラは見当違いの方に進んでいるのではと、淡い希望を抱き始めた頃、地平の先から、木々をなぎ倒す音が響いてきた。
いきなり霧が濃くなって視界が悪くなる。おかげでヒュドラの姿は確認できないが、音と振動が近づいてくることで、ヤツが来ていることを確信する。
湿地の樹木が、あっという間に濃霧に沈む。
不思議なことに、神酒の周りだけ、霧が薄い。
(もしかしたら、この霧はあの八ツ首ヒュドラが原因なのか? 神酒だから魔を退けているのかもしれないな)
神酒を中心とした一角だけ、ぽっかりと霧が薄い。
そこに突然、にゅっと巨大な蛇の頭が伸びてくる。
(……でかい! 最初に出てきたときもそう思ったが、落ち着いて見るとなおさらでかさを実感するぜ!)
いつの間にか、ヒュドラが木々をなぎ倒していた爆音は消えている。
逆に、神酒の入った樽にゆっくりと近づいていくヒュドラは、その巨体でどうやってと言いたくなるほど、周りの木々を倒さず、ぬるりと姿を現わしたのだ。
八つのクビが四つずつに分かれ、仲良く二つの樽をのぞき込んでいる。
八つの舌がうねうねと樽のぎりぎり手前で揺れている。
(さっき、レイドックの視界を通して見た、兵士用の安酒を飲み散らかしている姿とはえらい違いだな)
どうも、ヒュドラの野郎、酒が良いものだとわかるらしく、よだれをだらだらと垂らしている。
どことなくイヤラシい目つきで、ねぶるように樽の周囲に集まっていた。
味わって飲もうという意思が、めっちゃ伝わってくる。
(のんべぇか!)
しばらくすると、八ツ首のうち、二つの首がゆっくりと、樽の中身に近づいていく。残りの首は「絶対に邪魔はさせん」と決意したようにキリリとあたりを警戒しはじめた。
(のんべぇか!)
それにしても、首が八つあるわけだが、どの首が飲むとかで喧嘩せんのか?
すこしばっかり期待してたんだが……。
残念ながら、ヒュドラ的には、どの首が飲んでも問題ないのだろう。きちんと役割分担している。
そしていよいよ、ヒュドラが長い舌で器用に神酒を啜る。
その巨体がぴたりと動きを止めた。
周囲を警戒していた六つの首もである。
しばし、謎の時間が過ぎ……、突然ヒュドラが吠えたのだ。
モギャアアアアァァァアァァ!!
(どんな声よ!?)
思わず声に出して突っ込みそうになるほど、気の抜ける声だった。
そして八ツ首全部が、こう、なんとも締まらない、気の抜けた表情をしてやがる……。
ああうん。美味いよなそれ……。
なんていうか、減っていく神酒に比例して、心の底からヒュドラに対する敵対心があふれてくる。
(あいつは……敵だ! 許せん! レイドックはまだか!)
ぜひともレイドックに切り刻んで欲しいところだが、この意地汚い、のんべぇの八ツ首ヒュドラがどれほどの速度でここまで来たのか、レイドックが追いついてくる様子はない。
(だが、このまま酔っ払ってくれれば、あとは待つだけ……)
俺は安心しかけて、そして内心でしまったと叫ぶ。
自らフラグを立ててどうすんだよ!?
ギャアオゥアアアアゥオオオウ!!
案の定! ヒュドラの野郎に! 気がつかれた!
舌打ちしながら、隠れ場所を飛び出す。
どうやらお楽しみタイムを邪魔され、ご立腹らしい。怒り狂ってるのが手に取るようにわかるぜ!
「……へっ! 上等! こちとら冒険者時代にゃ、実力に見合わない格上と戦いまくってたんだ! 今さら蛇ごときにびびるかよ!」
嘘です。内心びびってます。
だって、こんなにでかくて黒くて八本もあるんですよ!?
一瞬で陵辱……いや、蹂躙されるわ!
だが、口を出る言葉は正反対のこと。
「魔力はほぼ空っぽ! 攻撃魔法なんて絶対無理! 魔術師としてはまったくのゴミ状態だが……」
俺はあえて顔を上げ、ニヤリと不敵に笑ってやった。
「見せてやんよ! 錬金術師としての戦い方をな!」
俺が騒いでるのが気になったのか、しばらく動きを止めていたヒュドラだったが、俺が敵対の意思を示したのは伝わったらしく、首の一つが真っ直ぐにこちらに向かってくる。
「頭だけで一軒家くらいありそうだな! でも脳みその量はどんだけだ!?」
俺はあらかじめ予定していた、大木の裏に飛び込む。
(さあ! 思いっきり頭をぶつけやがれ!)
勢いのついたヒュドラの頭は、真っ直ぐに大木へ激突!
……。
すると思っていた。
だが、その大きさに似合わず、速度も殺さずに、大木の幹をぬるりと沿うように、回避してきたのだ。
「なっ……ぐあっ!!」
全身に衝撃が走る。
視界が回転。世界が回っていた。
突っ込んできたヒュドラの首に頭突きをされたと理解したのは、地面に転がって、血反吐を吐き出した時だ。
全身の骨がイカレた。
おそらく折れた骨が内臓を突き破っている。
つーか、左足がもげて、近くに転がっていた。
(クソ痛ぇ!!)
人間というのは、強い痛みを感じると、全身の筋肉に思いっきり力が入り、硬直する。
タンスの角に足の小指をぶつけて、全身の筋肉がぎゅっと締まって動けなくなったことはあるだろ?
俺が今感じているのは、その数十倍の痛みと硬直だ。
おまけに胃から血がこみ上げてきて、呼吸もできないときてる。
普通に考えたら死ぬ。
死ぬ一歩手前だ。
生きていたのは、日頃のトレーニングの成果だろう。
(……動け! 動け!)
ヒュドラの野郎、俺が動けないと知っているのか、首をゆっくりとこちらに向けている。ただ、神酒の入った樽から離れたくないのか、動きは緩慢だ。
(それが油断なんだよ!)
気合いで、ポーション瓶に触れる。
幸い、錬金術に関係するものなら、魔力の消費はごくわずか。
ゼロ距離で割れて消滅するよう、魔力を流した。
ポーションベルトに差していた、ヒールポーションの瓶が割れて、中身が身体に振りかかる。
そして「じゅおおおおお」と蒸発するような音と、煙とともに、身体の痛みが一気に引いていく。
「……伝説品質のヒールポーション――」
一本だけでは治療しきれなかった。だが、動くには十分なほど回復している。
さらにもう一本を、今度は飲み込む!
「なめんじゃねぇぞ!!」
ヒールポーションは、ふりかけても効果があるが、飲むのがもっとも効果が高い!
一気に内臓と骨格が形成され、元通り!
ちぎれた足以外はな!
残念ながら、ヒールポーションに、欠損部分の修復能力はない。
それにはもっと上位のポーションが必要。
もちろん、伝説品質とはいえ、俺のヒールポーションもそこは変わらない。
なのだが……、俺の作る伝説品質のヒールポーションには、ちょっと凄い特徴がある。
実は、身体の部位を欠損しても、その直後で、かつ欠損部分が大まかな原型をとどめている場合、くっつけることが可能なのだ!
俺はちぎれていた左足をむんずと掴み、傷口同士を合わせる。
「……ぐっ!」
再び激痛が走ったが、無視!
三本目のヒールポーションを傷口にぶっかけると、白煙上がり、見事に足はくっついた。
念のため、血の代わりとばかりに、スタミナポーションをがぶ飲み。
「へっ!」
口を拭って立ち上がると、ヒュドラが呆れたような視線を向けていた。
俺が飛ばされた方向……その先にはマイナが隠れている。
これ以上は絶対に進ませない!
ヒュドラは神酒をほとんど飲み干しているらしいが、底に残っているわずかな量を舐めるのに忙しいらしい。
つまり、家のようにでかいヒュドラの頭が、樽を中心に、ほぼ地面の上にある。
俺は隠し持っていた糸巻きをポケットから取り出す。
作ったはいいが、特に使い道がなかった〝魔力伝達糸〟だ。
効力は微量の魔力を伝えるだけ。
テストしたときは、まともに魔力を流そうとすると、あっという間に負荷に耐えれず崩れ去ってしまったので、お蔵入りしていたのだ。
だが、今は、その微量の魔力を伝えられれば十分!
糸巻きから伸びる先は、二つの樽の底だ。
樽の下に埋めておいたもの……それはもちろん! リーファンとミスリル鉱石を掘りに行ったときに使った〝魔力爆弾〟に決まってる!!
糸を伝わり、わずかに「起爆」の魔力だけが伝わる。
これは魔力爆弾が錬金術でできたものだからこそ、俺が必要な魔力が少量ですんでいるから実現できた起爆方法である。
大量に埋まった、全ての魔力爆弾に起爆の命令が伝わった。
大 爆 発 !!
まるで樽を中心に、火山が噴火したかのような爆音と、大量の土砂が天まで吹き上がった。
穴を掘って、爆発のエネルギーが真上に全部抜けるようにしておいたからだ。
穿孔発破という仕組みを考えてくれたリーファンに、内心で感謝する。
ギョグワゴアアアアアアアァァァア!!
ピンポイント。
大量の魔力爆弾に、ヒュドラをどうやって近づけるかが勝負だった。
ヒュドラが神酒を飲むことに全てを賭けたんだよ!
「俺の勝ちだぜ!」
爆発は、すさまじかった。
一瞬のあいだに砂煙で周囲が包まれる。
「げほっ!」
目を細め、ヒュドラのいた方向をにらむ。
すぐに砂煙は収まっていく。
そして。
「まぁ……そうだろうな」
俺は壮絶な笑みで睨みつけてやった。
六ツ首になったヒュドラ野郎を。




