100:自分の事しか考えないと、痛い目を見るよなって話
すでに時間の感覚も、日付の感覚も失っていた。
深い霧で、視界は常に乳白色に染まり、確認できるのはおどろおどろしい、マングローブとかいう細い根が絡まり合った植物だけだ。
この地に足を踏み入れてから、何日が経った?
それとも数時間しか過ぎていないのか?
気づけば随伴する兵士の数が半数を切っていた。
ほとんどが戦闘の最中にちりぢりになり、そのまま霧に紛れて合流出来ていない。
「ザイード様! またヒュドラです! 兵士ども! 六首だ! 全員油断するな!」
兵士長が叫ぶ。
同じ叫びを何度聞いたことだろう。
ヒュドラは強くなるほど、首の数が増えるふざけた魔物だ。
六首もあると、非常に強い。
それでも、私の兵士なら、六首ヒュドラを狩るのはそれほど難しいことではない。本来なら。
だが、非常に苦戦している。
原因はまず霧。
この牛乳で満たされたような白い視界が我らの行動を阻む。
次に足場。
湿地帯という名は伊達ではなく、とにかくどこも水浸しだ。
動きにくいことこの上ない。
最後がマングローブ林である。
敵を見つけるのも、攻撃するのも、後方に進軍するにも、とにかく邪魔になるのだが、ヒュドラはそれをものともしない。
ヒュドラを殲滅するための戦いのはずがこのざまだ。
「……カイル!」
思わず、そう言葉に漏れる。
身体が弱いという理由で、厳しい父上の叱咤もなく自由に育った分際で、辺境伯の地位を狙うだと!?
本人は否定しているが、見ろ!
功績を求めて、嘘を塗り固めているではないか!
カイルの村の冒険者は、この湿地帯を良い魔石の狩り場として利用しているだと!?
どこの世界にこんな凶悪な魔物を、こづかい稼ぎに狩りまくる冒険者集団がいるというのだ!?
一人憤慨していると、ようやく、兵士がヒュドラを撃破した。
満身創痍である。
兵士長がやってきた。
「……ザイード様。すでにポーション類はすべて使い果たしました。いかがなさいますか?」
まっすぐにこちらを見据える兵士長。
私は考える。
「仮にだ、我が町に向かって前進する方向を変えるとして、進む方角はわかるのか?」
「……いいえ。ですが、このままですと、次に敵と遭遇すれば間違いなく死者がでます」
兵士が死ぬのは問題がない。給料にはその分も含まれている。
だが、統治者として、兵士の死は、勝利の場合のみ許される。
残念ながら、すでにヒュドラの殲滅が難しい事は理解している。体勢を立て直し、兵力を増強して挑み直さねばなるまい。
私が腕を組み思考していると、兵士長が顔を上げる。
「提案があります」
「なんだ? 言ってみろ」
「まず、安全な場所探し、休憩をとったあと、一気に一点突破で突き進むのはどうでしょうか? 結果的に、湿地帯を抜けてしまったとしても、前進した結果に過ぎません」
じっとこちらを見つめる兵士長。
ふん。まあいいだろう。
撤退という言葉を使わなかったことは評価してやる。
「貴様の進言を受け入れる。さっそくそのように動け」
「はっ! 皆! まずは魔物の痕跡が薄い方向を探せ! 次に休憩できそうな場所の確保だ!」
「「「はっ!!!」」」
こうして、私たちは、こそこそと隠れるように移動をはじめたのだった。
屈辱である。
しばらくこそ泥のように、地べたを這うように移動していると、兵士長が首をかしげていた。
「どうした?」
「いえ……、どうにも様子がおかしく」
「何がだ?」
濃い霧も、水場も、うねった枝も、代わり映えしていない。
「いえ、敵とまったく遭遇しなくなったものですから……」
「そのように動いているからだろう?」
この私が、泥にまみれ動いているのだ。当たり前の結果だろう。
「はっ……いえ、その通りではあるのですが……」
はっきりとしないやつだ。
文句を言ってやろうとしたとき、別の兵士が近寄ってくる。
「ザイード様、兵士長、よろしいでしょうか?」
「……ふん。許す」
「はっ! この先なのですが、森の様子がかなりおかしく……」
兵士長は眉根を寄せる。
「ばかもの。はっきりと報告せんか!」
それは私がお前に言いたいところだが、とりあえず、話くらいは聞いてやろう。
「それが、その一角だけ霧が薄く、植物が異様で……」
「なんだと?」
兵士長は腕を組み、考え込む。
「わかった。その場所は避けて通る。迂回ルートを……」
「まて。そこに行くぞ!」
「はっ!? ザイード様!?」
なぜ避けるなどという発想になるのか。
「変化があるなら、調べるべきだろうが」
「余力があればそういたします! ですが!」
「ええい! 決めたことだ! 従え! そもそも霧を抜ける秘密があるかもしれんだろうが!」
「それは……」
私は兵士長の言葉を待たずに、兵士に案内させる。
兵士の後ろをついて行くと、次第に霧が薄くなっていく。
他の兵士たちも少しばかり、表情が明るくなっているようだ。
ふん。やはり私の選択に間違いはないな。
視界がひらけていくが……現れた光景は異常なものであった。
「なんだ……これは?」
黒かった。
そこに生えるマングローブも、草も、花も、すべてが黒かったのだ。
私たちは、ゆっくりと漆黒の湿地帯を見て回る。
「形だけは、湿地帯の植物のようですね」
兵士長が険しい顔で、植物を手に取る。
呪われそうな色をしているが、触った程度では問題なさそうだ。
「見てください! あそこの巨大なマングローブの根元を! 大きな岩が絡んでいるらしく、水に浸っておりません!」
「なに!?」
兵士長が慌てて駆け寄り、巨大な黒いマングローブの根をのぞき込む。外からはわかりにくいが、中に大きな空洞があるらしい。
「ザイード様! ここなら休憩可能です! キャンプの許可を!」
こんな得体の知れない植物の根に潜り込むのは不快だが、いいかげんずっと水に浸かっていたくはない。
「許す」
「ありがとうございます! 全員! 外から魔物に見つからないよう、偽装を始めよ!」
「はっ!」
息を吹き返したように、兵士たちが生き生きと、設営を進めていく。
私は先に中に入り、濡れたズボンを乾かし始める。
魔法を使える兵士の一人が、魔法でお湯を用意し、お茶を用意する。
私はそれを口にすると、身体中に熱が戻ってきたことを実感した。
どうやら、想像以上に身体が冷えていたらしい。
偽装を終えた兵士たちが根の空間に潜り込んでくる。
狭くて不快だが、許してやろう。私は寛大だからな。
兵士たちは鎧を外し、濡れた服を絞りながら震えていた。
「どうした? お前らも茶を飲むくらい許してやるぞ?」
私が寛大な処置を下すも、兵士長が首を横に振る。
「いえ、もう魔力が残っておりませんので」
「ならば火を焚けばいいだろう」
「それでは偽装した意味がなくなります」
「そうか。ならば我慢しろ」
「はっ」
兵士たちは、身を縮めてうずくまり、うとうとと頭をゆらし始めていた。
ふん。私の為にゆっくりと休んでおけ。
気がつくと、私も眠りに落ちていた。
どの程度時間が経過したのかはわからないが、ゆっくりと意識が覚醒していく。
なぜか、背中に寒気を感じたからだ。
冷えとは全く別の、本能が悲鳴を上げるような寒気である。
眠っていた兵士長も、目を覚ます。
不寝番に声を掛けようとしたが、そいつは寝ていた。
「兵士長、こいつはあとで減給処分だ」
「……はっ!」
「それよりも、様子がおかしい」
「はい。なにか嫌な予感がいたします」
「うむ」
私は根の隙間から、外の様子を窺う。
相変わらず霧があたりを覆っている。
この気味の悪い黒い植物の一帯は、少し霧が薄いが、それでも見通しは最悪だ。
それでも、本能の命じるまま、嫌な予感がする方向を凝視すると、白い霧の向こうで、巨大な何かがゆっくりと蠢いているのがわかる。
それは、山だった。
巨大な、山だった。
それは、見上げねばならぬ、山のような、巨大な、ヒュドラだった。
記念すべき100話を掻っ攫うザイード




