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太郎の家で世話になってからひと月。太郎のスパルタとも言える日本語教育の賜物で、リンは日本語が驚くほど上達している。
「シルヴィスと電話してから、なにか難しい顔で考えごとしていたよ……」
「ふぅん……お兄ちゃんはいっつもかなみがいない時に電話してくるんだよなぁ……かなみはお喋り好きだから、時間オーバーしちゃうからかなぁ……」
太郎が使っている院長室の電話は、国内の電話会社と傭兵派遣会社独自の回線を使い分ける機能がついており、派遣会社の回線の場合は通話時間制限がある。
太郎との通話の場合、かなり無駄な話をしているようだが大半は仕事関係の話であり、冗談を挟みつつも家族の心配等の話題である。かなみの場合はそれ以外の話が多過ぎるのだ。
「あれ? 今日はコロンと一緒じゃないんだね?」
リンはさりげなく別の話題に振った。興味がない話だった訳ではなく、かなみに対する気遣いを覚えたのだ。
「ん? んー……ちょっと先輩たちと『裏』のお仕事だねぇ。コロンちゃんはもう引退しているんだけどさぁ……除霊師ってあんまり数がいないんだよ……だからぁ、結構頻繁に呼び出しされちゃうんだよねぇ」
「かなみもその手伝いをしていると聞いていたけど?」
「んー……かなみは基本的に補助能力しか持っていないんだぁ……」
かなみの持つ除霊師の補助能力はかなりレベルが高い。しかし、テンションの乱高下があるので融通の利かない能力者で、リンから見ても今日のかなみはテンションダウンの日だった。だから呼ばれなかったのだろうと判断できる。
「幽霊退治の人って一杯いるのかと思っていたよ……かなみの借りて来てくれたDVDにも結構出て来るし……」
リンは毎日かなみが登校したあとで、絵本、映画、ドラマ、お笑いDVD、マンガを必ず見たり読んだりする。太郎に日課として義務付けされていたのだ。太郎はリンに日本語教材と呼ばれるようなものはひとつも与えていない。方言まで全てマスターするには、教科書では足りないと感じているからである。
DVDのレンタル担当はかなみなのだが、ランダムに借りたつもりでも相当作品に偏りがある。
「んー……」
リンが太郎の家にきてから、かなみは少し考えて喋るようになっていた。姉としての自覚が生まれたらしい。
「まあ、あれは……映画なんだよねぇ……リンちゃんは幽霊って、人が死んで、なにかこの世に恨みとか未練とかあると成仏できなくて、化けて出てくると思っている?」
「……違うの?」
「んーとねぇ……人間は死ぬと魂が体から抜けるんだよぉ……その魂の行き場所は決まっているんだぁ……異世界に浮かぶ惑星なんだけどぉ、そこで消えるか転生するか決まってぇ……消えるとなった人はもうそれで終わりなんだよぉ。俗に言う成仏だねぇ。転生する人はすぐに転生しちゃうんだぁ……だから、普通の人が思っている悪霊とか幽霊っていうのは、地球上にはいないんだってさぁ」
「え? だって……あたしも実際に見たことはないけど、人間の姿をしているじゃない?」
ヰガルから散々この手の話を聞かされているリンは、特にこの会話に疑問を抱かない。
「あれはぁ……全部じゃないけど、死んだ人の姿を借りる真似真似妖怪とかぁ、元々肉体を持っていない精神生命体とかぁ、異世界から出てきたまでは良かったけど、地球の空気に体が慣れなくて体が滅びちゃった魔物とかが、勝手に死んだ人の姿を使っているんだよぉ……例えば生きている人間の姿を模倣することも可能だよぉ。かなみやコロンちゃんの姿が少しでも透けて見えた場合は要注意なんだぁ。異世界生物が化けている可能性があるからねぇ。そんな訳でぇ、札幌では除霊師と退魔師が別の職業なんだねぇ……体を持たないのをやっつけるのが除霊師でぇ、体があるのをやっつけるのが退魔師なんだぁ……」
「そうなんだ……体を持たない魔物を倒すのが除霊師で……肉体を持つ魔物を倒すのが退魔師だね?」
リンは繰り返し口の中で呟きながら、素早くメモする。かなみとの会話内の重要語句をまとめてメモするのも日本語の勉強になると太郎に言われ、実践しているのだ。
二行に分けて書いたとなりの空欄に、誰が除霊師で、誰が退魔師かを書き込んでみる。
「……これでみると……あたしの知り合いに除霊師はほとんどいないんだね……」
「そうだねぇ……」
「シルヴィスはどっちに入るの?」
「ん? お兄ちゃん? お兄ちゃんはどっちもできるけおどぉ……見えなければ殴れないからぁ、どちらかと言えば退魔師だねぇ……お兄ちゃんに言わせると、どちらでもないって返事が返ってくるけどねぇ……」
「だって、能力者でしょ?」
「んー……お兄ちゃんの周りにそういう人が多くいるってだけでぇ……お兄ちゃん自身は自分のことを『ちょっと普通じゃない』人間だと思っているみたいだよぉ……コロンちゃんや太郎くん、六郎くん……学園の先輩たちや理事長が特殊過ぎる能力者で、本人はちょっと変わっているくらいに思っているみたいなんだぁ……」
リンから見れば全員が特殊能力者に見える。しかし、そう思っている彼女自身も能力者である。
院長室の電話が鳴り、当然のように太郎が受話器を取る。居間は院長室のとなりだが、電話は置いていないのだ。
「かなみ。電話だよ」
「んー? 誰からぁ? コロンちゃんかな?」
「いや……六郎から」
その言葉を聞いた途端にかなみの背筋がピンと伸び、ダッシュで太郎から子機を奪い取って廊下に走り去る。
「わかりやすい反応だな……まあ、四ヵ月ぶりの電話だから、仕方ないか……リン、さっきはシルヴィスからの電話だったのに、通話時間一杯を僕が占有してしまってすまないね」
「ううん。もっとちゃんと日本語で喋れるようになってから電話したいと思っていたから、全然構わないよ? シルヴィスは仕事中だったの?」
「うん。暫くは神奈川にいたみたいだけどね。傭兵の仕事みたいだけど、彼の部隊は外されているみたいでさ、新しい特殊部隊の訓練に三週間掛かったそうだよ。なにをしに行くかまでは教えてくれなかったけど、空港ターミナルのアナウンスの言語から察するに、アフリカ大陸に渡っているね……」
言われたリンは地図を広げ、日本の神奈川県を探し、続いて世界地図でアフリカを探した。
「悪い人を殺しに行く……なんて夢想妄想は流石にしないよ? 人間の善悪は生き残った者が決めるって本で読んだし……世界の大半の人から見ると、今の段階でヰガルさまは悪人扱い。でも、あたしとコウをここまで育ててくれた恩人で、優しい養父。村の仇討ちを援護する為にシルヴィスたちを雇った人。狭い視野で見れば、善人にしか思えない。でも、視点を変えれば、政府軍兵士を何人も殺している悪人でもある……シルヴィスの仕事が、例え世界的に善人とされる人の暗殺だったとしても、あたしは驚かない。あたしはシルヴィスの正義を信じる」
「……なかなか良い言葉だね。今の言葉をノートに日本語でメモしておいて。その考え方も含めて、全ては君の財産になるはずだからさ……」
リンの考え方に太郎は内心舌を巻いていた。太郎がリンの言葉のような考え方ができるようになったのは、学園の指示で太郎がバックパッカーになってからだったので、十六歳の時だ。リンは十四歳になったばかりで、既にヰガルやシルヴィスの考えに同調できる柔軟な頭脳を獲得していた。ただ、内戦の続く国で生まれ育ったリンの考え方が、日本に住んでいて幸せかは疑問の残るところではある。
かなみとコロンも幽霊退治を通し、戦いがどういうものかを理解している。さきほどの説明から、幽霊と一般的に呼ばれるものはそのほとんどが異世界の生物であるとわかる。その全てを悪であると決めつけるのはいかがなものかという話くらいであれば、誰にでもわかりそうなものだ。
その全てが悪だと言うならば、交通事故を起こして人を轢き殺した当人は勿論、その人物に車を売った販売会社の販売員や、自動車の製造工場に勤める人間まで、間接的に殺人者となりかねない。更に言うならば、その事故現場を通り過ぎただけの通行人は被害者の救命措置を怠っているし、現場の映像を携帯電話で撮影している人間も間接的に殺人関与者となる。轢き殺した当人が飲酒しているならば、酒を飲ませた店の主人や注文に応じたアルバイトの従業員、誘った友人も同罪であろう。個人で飲んでいたにしても、当人に酒を売ったコンビニ店員、自動販売機で買ったならば、自動販売機の製造会社、商品補充に来ただけの子会社社員まで、全てが裁かれなければならない話になる。
シルヴィスが人を殺して生計を立て、その稼いだ金で暮らしている家族たちは、それなりに自覚を持って生きているということだ。シルヴィスは強過ぎるが、快楽殺人者ではない。家族がそう信じている限り、シルヴィスは仕事を続ける。
「アフリカは大きいね。どの辺りにいるんだろう?」
「多分北の方だと出発前に言っていたから、その通りだと思うよ」
「……テレビニュースできな臭い話があるって言っていたから、その辺り?」
「まあ、そうだろうね……それこそテレビにシルヴィスが映ることはないだろうけど……まあ、映るようになれば、彼も潮時だと悟ると思うね……その時が来たなら、家族皆で話し合おう」
「うん。それまでにあたしも日本でできることを見つけなきゃ……」
そう言いながらリンは辞書を片手に読書に戻る。
太郎はその熱心さに感心しながら、階下にある書庫に向かい、ヰガルの日記で読めない部分の言語と思われる辞書を数冊持ってまた院長室に戻った。
その頃にはかなみが久し振りの電話を終え、子機を持って上機嫌になって居間に戻る。
「いやぁ~。六郎くん元気そうで良かったぁ……」
「ロクローはどこにいるの? あたしがここにきてから会ったことがないけど……」
「んー……この前、地域担当者の息子って人を連れてきたよね?」
「ああ、あたしと同い年なのに、シルヴィスと互角に殴り合えるとかいう……一見、タローよりもひ弱そうな男の子だね?」
「うん、その子と一緒にきた女の子は、神奈川辺りの担当者の娘さんなんだぁ。そんでぇ、リンちゃんも知っていると思うけどぉ……日本には異世界と繋がるトンネルが二十二本あるよねぇ?」
「地球全体では二百五十六本だとヰガルさまに教えてもらったよ?」
「そうそう! そんでねぇ、日本の大きいトンネルは四か所なんだぁ。地名で言うとぉ……札幌、茅ヶ崎、松江、鹿児島なんだよ」
リンはまたもや地図帳を広げて位置を確認した。
「そんでぇ、その四か所の近くを担当する能力者がぁ、四家と呼ばれる裏仕事の元締めさんなんだよねぇ……」
ここまででその四家の家名をかなみもリンもひとつも出していないが、それは発言してはいけない四つの家名だからだ。かなみの偽名である鷹刃氏がそのひとつだが、発音としては高橋なので、一般人は誰も気にしないのが現状である。しかし、能力者が発音すると少々意味合いが変わるので、能力者は極力その苗字を言わない。
「……その四家の分家がロクローの実家だと聞いているけど?」
「そうなんだよぉ……でもねぇ、神奈川近辺の担当者は今不在なんだよぉ。だから代わりに六郎くんが修行も兼ねて代理担当者をしているんだぁ」
「? 神奈川の地区担当の娘さんは札幌になにをしにきているの?」
「んー……あんまり言っちゃいけないだけどぉ、まあ、リンちゃんならオッケーだねぇ……簡単に言うとねぇ……基礎から退魔師のお勉強しにきているんだよぉ。札幌には例の人がいるからぁ、その娘も息子も小さい頃から修行しているじゃん? でもねぇ、その家は八歳にならないと修行が始まらない家なんだぁ……そんでぇ、その担当者だったご両親はぁ、飛行機事故で死んじゃったんだよぉ。あの子が八歳になる直前だねぇ……もう六年……そろそろ七年前かな……それでねぇ……四家はいっつも後継者不足なんだよぉ。だから分家の六郎くんも駆り出されているんだねぇ……」
どのような優れた能力者でも、不死の体を持っている訳ではない。飛行機事故でなくとも、交通事故で死ぬ能力者も世の中には存在する。
「……なるほど……ロクローがそれで札幌にいないのは理解したよ……でも、そういう担当者不在の場合は、シルヴィスが代理を務めるんじゃなかったっけ?」
かなみの言葉を頭で整理しながら、リンは質問を継ぐ。
「んー……お兄ちゃんは世界中飛び回っているからねぇ……日本の地区担当代理はできないんだと思うよぉ……お兄ちゃんは世界担当だから……でもねでもね! 六郎くんはお兄ちゃんほどじゃないけどぉ、メッチャ強いんだよぉ。分家なのにねぇ……」
「……シルヴィスは……所謂『瞬間移動』が使えないけど、緊急の場合、飛行機とかで間に合うの?」
「あー……んー……担当者代理は世界に十六人いるからぁ……近いところの人が派遣されるんだけどねぇ……本当に緊急の場合はぁ、その瞬間移動能力を持つ人のところに行くか、依頼して来てもらうのが普通かなぁ……まあ、そういう場合は滅多にないんだけどねぇ……例えばぁ、異世界の住人が戦争を仕掛けて来てもぉ、異世界の総意で攻めてくる訳じゃないからぁ、大抵地球に理解のある能力者が助力してくれるんだよぉ……かなみも何人かその協力者って異世界人には会ったことがあるよぉ」
その話はリンにも聞き覚えがあったし、ヰガル邸からの脱出の際、シルヴィスに協力してくれた人物が人間ではないと語ったのを思い出していた。その異世界の王と名乗る男は、シルヴィスよりも俊敏に動き、ピンチだったシルヴィスを救っている。
「あの人……本当に異世界人だったんだ……」
「ん? ああ、多分かなみの知っている人も同じ人だよぉ。お兄ちゃんは地球では一番だけどねぇ。異世界にはお兄ちゃん以上の能力者が一杯いるんだよぉ」
「……そんな能力者が地球に味方する理由はなんで?」
「んー……」
かなみは顎に手を充てて考え込んだ。答えを知っているが忘れているという風情だ。
「かなみも同じことを誰かに訊いたんだよねぇ……確かぁ……地球みたいな『狭い』惑星を攻め滅ぼす理由が思い付かない。ついでに、地球を狙う異世界人の王の一人が大嫌い……だったと思うよ」
「……王は何人もいるのね?」
「うん。かなみが知っている人で三人……名前だけ聞いたことのある人が四人かなぁ……大抵トンネルを通って地球に攻めてくるのは後者の中の二人の部下だと聞いた覚えがあるなぁ……王様本人が出てくるとぉ、地球征服じゃなくて、地球破壊になっちゃうからだって聞いたなぁ。味方してくれる人たちも王だけどぉ、その人たちはかなり力を抑えて地球にきているとかも言っていたかなぁ……」
「……その、地球を狙う王たちはなんで地球を狙うの?」
「んー……確か……地球人の魂とか肉体を『食べる』とぉ……能力が増すからじゃなかったかなぁ……でもぉ、それは異世界の迷信でぇ、本当は食べても能力は増さないとかも言っていたなぁ……四家の長クラスの人とかぁ、世界三大能力者とかぁ、お兄ちゃんとか食べれば増すかもって言っていたけどねぇ……」
リンは頭をフル回転させ、今の話をノートに書き留めた。あとで太郎に添削してもらう為だ。
「……それで? 結局ロクローはかなみのなんなの?」
「? 旦那さんになる人だよ?」
何を今更という表情のかなみだが、リンは初耳だった。
「婚約者ってこと?」
「んー……約束しているから……婚約者かな? かなみは知らないんだけどねぇ……」
「は? 知らない? シルヴィスが勝手に決めたってこと?」
「んー……ちょっと違うかなぁ……かなみと結婚したいって言い出したのは六郎くんなんだよ。お兄ちゃんはその時十歳だったんだけどねぇ……認めたのは死んじゃったお母さんとぉ……太郎くんのお父さんお母さんかなぁ……かなみのお父さんは格闘家でねぇ、山籠りしていたからその場にはいなかったらしいよぉ……」
「シルヴィスが十歳ってことは……かなみが生まれたばかりで、ロクローやタローは五歳?」
「んー……そうなるねぇ……かなみは生まれて十五分で嫁ぎ先が決まったって、お兄ちゃんが言っていたなぁ……」
リンの生まれた村でも、そういう許嫁のような制度はあったが、生まれたばかりの女の子が五歳の幼児の発言で婚約者になるとは考え難かった。
院長室にかなみの手を引っ張って連れて行き、真意を確かめる。
「ああ、六郎はそういう奴なんだよ。シルヴィスも子供の頃は暑苦しいオッサンみたいな性格だったけど、六郎はもっと酷かったんだね……」
太郎は簡単に答えたあと、ちょっと手を挙げてリンの質問を制した。
「ちょっと待ってね……ここを訳してから……」
ヰガル日記の訳の途中だったらしい。切りの良いところまで終えた太郎が眼鏡を外しながら向き直る。