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リンは現在も修行中(仮)  作者: 大久保ハウキ
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「……この時期の女の子は、もう少し成長するものだと僕は思っていたけどね……」

 久し振りに会った太郎の第一声は、日本語をほとんど喋ることのできないリンには難しい言葉だった。

 太郎が札幌で両親から譲り受けた病院の院長室での再会である。

 この医師免許すら持たない闇医者は、その言葉通り裏の世界では有名な腕の良い医者に成長していた。

 太郎の両親と呼ばれた夫婦は、この五年の間に亡くなっている。

 後にも先にも、太郎が本気でキレたと表現できたのはこの時だけだったのだが、生憎その場にいなかったリンはそのことをまだ知らない。

 リンやシルヴィスと別れた後、太郎は一人で英国に向かい、その後帰国している。

 学園長と理事長への報告を終え、バックパッカーから学生に戻った太郎の元にその報告が届いたのは、偶然にも彼の十九才の誕生日だった。

 太郎の両親は熱心な海外派遣医師であったのだが、滞在先難民キャンプで起きた政府軍による誤爆に巻き込まれ、その生涯を突然終えたのである。

 両親を招いた側である政府軍の誤爆という理由に憤慨し、怒り心頭の太郎を止めたのは、シルヴィスの実の妹であるかなみと、現在院長室にお茶を運んできたコロンという少女だった。

「太郎くぅんっ! お兄ちゃんが帰ってきたってぇ!? !!!!っ。なにっ!? このカワイイの!!?」

 簡単ではあるが、実に聞き取り難い日本語を発しながら、シルヴィスの妹が院長室に押し掛けて来た。年齢はシルヴィスの十歳下なので、現在高校二年生の十七歳の筈なのだが、喋り方は小学生以下に聞こえる元気少女である。

 太郎がその名を紹介する前に、かなみはリンの顔をじっくり眺め、更に上から下までじっくり眺め、いきなりリンとコロンの手を取って院長室から走り出していた。

「かなみ? どこに行くんだよ?」

 太郎が声をかけたが、かなみには聞こえなかったようだ。病院の廊下奥から、コロンの声が遠く聞こえた。

「お風呂に入るそうでーす! きゃあっ!! ちょっと! かなみ! こんなところで脱がさないでよ! 私は自分で脱げるからっ!! リンちゃんがドンびきじゃないっ!?」

「……我が妹ながら、相変わらずフリーダム路線まっしぐらだな……まあ、それでこそ札幌に帰って来たと実感できるというものだがな……」

 兄と妹という立場上、妹の性格を熟知しているシルヴィスは、苦笑いしながらも楽しそうにしていた。こんな表情のシルヴィスを見られるのはこの病院内だけだろう。

 先にも触れたが、シルヴィスは老兵シルヴィスから名を貰い、日本名を捨てた男なので妹の名前はそのまま日本語だ。ただ、太郎と同居しているので、外では苗字を『西区』或いは『鷹刃氏』と名乗る。これはシルヴィスの本名がバレない為の工夫だそうだ。ちなみに、鷹刃氏は太郎とシルヴィスの会話に出てくる六郎の苗字である。

「流石に来年高三だからね……もう少し落ち着いて欲しいとは思うんだけど、あのテンションを保っていないと、君の妹は調子が出ないからねぇ……まあ、まずは傷の手当てをしておこうか?」

 院長室のソファに座り、右足を行儀悪く応接テーブルに乗せているシルヴィスだが、その脹脛の辺りの裾が無残に破れており、どう見ても怪我をしていた。

「ああ、ことの顛末は手当てされながらでも話せるからな……」

 そう応え、シルヴィスはリンの五年間を話し始めた。

 リンはこの五年間、ヰガルの元で異世界の生物と戦う訓練に明け暮れていたのだが、やっている訓練が基本的に対人間用軍事訓練であることに疑問を感じていた。リンがどれだけ頑張って格闘訓練をしても、シルヴィスのように体にオーラのようなものをまとわなかったからだ。

 この院長室での再会を遡ることひと月、リンと再会したシルヴィスは、彼女の隠れた才能をヰガルがあまり伸ばしていないことに気付いた。

 ヰガルが真剣に教えていなかったという訳ではない。ただ、戦闘力という意味でリンはまるで伸びていなかった。ヰガルが教えたのは基本的な異世界生物との戦闘方法、そして知識である。リンの頭の中には、出会ったこともない異世界の生物の情報が満載されている。

「それがこの子の持つ最大の能力なのだよ、シルヴィスくん。この子は指揮官能力が特化しているのだ。詰め込んだ知識を自分のものにし、最大効力を発揮する魔物退治方法を模索できる人間だ。君の妹さんと似た能力でもあると私は思ったのだが……」

 この会話で、リンはシルヴィスにかなみという妹がいることを知ったのだが、その後もシルヴィスはリンに妹の話をあまりしなかった。世界中の言葉を自在に操るシルヴィスだが、妹に関して正確に説明する自信がなかったのだ。それくらいかなみという存在は稀有なのである。

 更に正確には、シルヴィスがリンに自分の身の上話をできないくらい切迫した状況が生まれたからだ。これは表の話になる。

 それは、ヰガルの住むジャングルの奥に存在する反政府組織総本山の位置が、政府軍に知られたことによる。いつの時代もそうかも知れないが、王或いは玉を獲れば、戦は終わるのだ。

 この情報を得た政府軍が、ヰガルを放っておく理由はひとつもなかった。

 それでもヰガルは、冷静にこの事態に対処したと言える。

 総本山攻撃二日前に、シルヴィスと彼が率いる傭兵部隊を総本山に招いていたのだ。

 情報のなかったシルヴィスは怒ったが、既に政府軍の包囲網が狭まり、脱出不能に陥っていた。そして、ヰガルの覚悟を知ったのだ。

「私は表の世界では、反政府ゲリラを率いて二十年戦って負けただけの存在になり、後世に名も残せないが、裏の世界では五百以上の魔物を駆逐し、更に後継者を『二人』残したと称えられる存在になれたと自負できる。そして、その二人をシルヴィス・ウィンザールに引き渡した男として、語られることになるのだろう……君は私の最後の依頼を果たす責任を負った。私の命が代償として支払われる……悪くない取り引きだろう?」

 政府軍の奇襲を受け、私室で銃撃されたヰガルが、息も絶え絶えにシルヴィスに言った言葉は彼をかなり怒らせたが、もうその後の言葉をヰガルは聞ける状態ではなかった。

 シルヴィスは、友人の最期の言葉を守らないような男ではない。ヰガルはそこまで計算して彼を総本山に呼んだのだ。そして彼はヰガルの遺言を守り、リンとコウを無傷で脱出させた。

「……コウが能力者であることに、俺は気付かなかった……いや、まあ、俺はその方面の能力は持っていないんだけどよ。ヰガルはリンの能力に気付き、更にコウにも眠る能力があることに気付き、育てていた。伊達に東南アジア最強と言われただけの能力者だとは思う……しかしよ。それならもっと早く知らせて欲しかったって気もするんだよな」

「大体のあらましはメールで読ませてもらったけど、ヰガルさんは気付いていたんだと思うよ?」

「? なににだ?」

 ボロボロになった軍服の裾をハサミで器用に切りながら、太郎はシルヴィスにない感覚を披露した。

「……引退の仕方だよ。僕は君に名前を譲った老兵シルヴィスさんの死に方にも納得できない部分が多くあったと思っているんだ。長年、妖怪だか魔物だかと対峙している特殊能力者が後継者を見つけて、その能力を見極めた時点で死んでいるのを僕はおかしいと思っていた。世界中にいる特殊能力者で、長老格と呼ばれる三人は別としてね。皆さん……後継者選定後に亡くなられているんだろ? それは偶然じゃなく、皆さんそろって同じ答えに辿り着いたとしか思えないんだよ」

「……なるほど……引退イコール死ということか……」

 シルヴィスはかなりの深手を足におっていたが、痛みを感じないのか、太郎の話に素直に感心し、腕組みを解いてポケットからタバコを取り出す。

「僕の聞いた範囲での話だけど、地域担当能力者はどうもその傾向があるように思えるんだよね。学園理事長も後継者を指名してから、すっかり心臓の弱いお婆さんになってしまったし」

「後継者はかなみの二つ上の先輩だと聞いた覚えがあるな……」

「うん。中等部、高等部、大学部の生徒総代を歴任した才女だね。僕でさえ中等部の生徒総代選で、六郎の奴に負けたのにさ……あ、六郎には今の言わないでよ?」

「ああ、あいつにはなにも言わんよ……その才女殿とは何度か地域担当が不在の時に絡んだことがあるが、理事長クラスに育つ逸材には思えなかったけどな……まあ、確かに引退を口にして、後継者が決まっている人間はお前の言う通りに弱っている傾向にある……」

 シルヴィスは咥えタバコのままで腕を組んで考え込む。

 太郎は手早く傷口にメスを充て、ピンセットを持って中から銃弾を取り出していた。

「それで思ったのさ。君は誰を後継者に指名するのかとね……リンを助けに行ったまでは良いけど、君に銃弾が当たるなんてことは考えていなかったから、これでも僕は相当驚いているんだよ?」

「まあ、確かに被弾したんだが……これは後継者を決めたとかいうのとは違うぜ?」

「そうか……僕はてっきり、リンを後継に指名したのかと思っていたよ」

「それはないな……リンは確かに能力者だが、戦闘能力において遥か彼方だ。お前にも六郎にも及ばないし、かなみやコロンよりも下だぜ?」

「じゃあ、どうしてヰガルさんは君にリンを預けたんだい?」

「ああ、あいつはアホなんだと思ったぞ……死んだ奴をアホ呼ばわりして悪いとは思うんだがな……」

 そのシルヴィスからもたらされたヰガルの遺志を聞かされた太郎は、思わず不謹慎ながらも吹き出してしまい、慎重に縫うべきシルヴィスの足をザクザクに縫ってしまった。

「そこまでウケるなよ……まがりなりにも、死んだ奴の最期の言葉だぜ?」

 シルヴィスの右足を抱えて笑いを堪える太郎は、流石に咳払いをひとつして、医者の顔に戻った。

「しかし……君は色々な人に気に入られているんだね? 傭兵派遣会社の社長に、学園理事長、札幌市長に、北海道知事、反政府組織の指導者……英国の魔法学校でも君の能力には注目していたし、単純に米国やロシアの軍事関係者にも一目置かれている。本当にスーパーマンだよ」

「ああ、あの悲しい宇宙人の映画か……ガキの頃見たが……俺は確かに孤独な地球人だよな」

「そこまで暗い話として捉えているのは君くらいだよ……それで? 君はヰガルさんの遺言を守る為にリンを札幌に連れて来たのかい?」

 そう問われたシルヴィスは、視線を天井に向けて考え込んだ。

「ああ、リンを戦闘地域に置いておくのはマズいんだよな……だから札幌に連れてきた……ここならリンの持つ特殊能力の発動も抑えられる筈なんだ……ヰガルの後継はコウで充分こなせることは確認済みなんだけどよ……リンの能力は……ちょっと信じられない能力だぜ?」

「君の能力も充分信じられないレベルだけど、その君を驚かせた能力ってのは一体なんだい?」

 語り始めたシルヴィスの話を面白く聞いていた太郎だが、核心にふれるとその顔が呆れた。

「……君の能力もばかげていると思ったけど……」

 シルヴィスの特殊能力はその巨体に似合わないスピードと、気配を消す能力がメインであり、各国軍事関連の人間が注目するのは『視認できるものは全て殴り殺すことができる』である。つまり、シルヴィスの目で見えるものは、例え幽霊にでもパンチが『絶対』当たるのだ。更にその能力の常軌を逸した部分は『飛んで来た核ミサイルでも、爆発させずに叩き落とし、その機能を殺す(停止させる)ことができる』ことである。

 世界中の言語が話せ、書け、読めるというのは、おまけみたいなものだと本人は思っている。

「なんだい? その……身代わり能力って……」

「俺の能力も単純だが、リンの持つ能力は更に単純だ。リンの味方である者は彼女を残して全滅する……その範囲に入った者は、能力者でもお構いなしでな……確かに俺はヰガルに頼まれ、体を張って守ると誓い実行したが、この足に銃弾が当たった時に確信したし見えたんだ。お前も知っての通り俺の能力は『見えるものならば、なんでも殴れる』……つまり、蹴ることも可能だ……追手が拳銃を構え、トリガーを引いたのは勿論、その銃弾の軌道も俺には見えている。だから俺は銃弾を足で蹴って叩き落とすことができる……それが、できなかった……銃弾の軌道が逸れ……いや、俺の足に蹴られる瞬間に曲がった。それもどうにも考えられない方向にな……だから正面から撃たれたのに、俺の右脹脛に銃弾は命中している。室内での兆弾ならばまだしも、ジャングルも途切れた草原でだぜ? 追手を倒してその拳銃を調べたが、普通に真っ直ぐ銃弾は飛んだ……そこでヰガルが語ったリンの能力が本当だと確信した……」

「……つまり、リンは誰かと一緒にいる限り、絶対銃弾には当たらず、周囲にいる人間に当たってしまうってこと? でも、僕たちが初めてリンを見つけた時、リンは銃弾を右肩に受けていたじゃないか?」

「リンから聞きだした話によると、あの時リンが先に撃たれたそうだが、横で撃ち殺された少年はどう考えてもリンよりも戦闘力の低い子供だった。つまり、盾になってもリンを守れない存在だった。既に能力発動は始まっていたんだとヰガルは分析している……ヰガル邸からの脱出の際も、何度も危ないシーンがあったんだが、そこになぜか盾になるヰガル親衛隊のメイド娘がいたり、わざわざ銃座から身を乗り出して銃弾を受ける反乱軍兵士がいたり……当たり前のようにいるんだぜ? そして、俺もその能力に右足を巻き込まれた……」

「それで、銃弾の飛び交わない日本に連れてくることを考えたんだ?」

「ああ、紛争地帯にリンを置いておくと、あいつの味方は皆死んでしまう……気丈に振る舞ってはいるが、目の前で人間が死ぬという光景はかなりの精神付加を与えてしまうからな」

「……でも、それって日本でも危険だよね? 例えば、僕と一緒に散歩しに外に出て、交差点でトラックが突っ込んで来て、リンが絶体絶命ってなった場合……リンの能力が発動すると、轢かれるのは僕じゃないかい? しかもその能力って、君の口振りだと無意識発動だよね?」

「ああ、それは俺も考えたさ……そしてお前の言う通り、リンは無意識に能力を発動している」

「……今現在かなみとコロンと一緒にお風呂に入っているリンが、万が一溺れそうになったら、代わりにかなみかコロンが溺れるのかい?」

「……実際ヰガル邸に住んでいた頃、メイドが二人溺れたという記録がある。まあ、死ななかったらしいがな」

「それにしたって! 危ないじゃないか!?」

 そう言って立ち上がろうとする太郎をシルヴィスは制した。

「太郎……診察の時以外かなみの裸を見ることは許可できん……ノゾキはいかん」

「いや、だって! 緊急事態になるかもしれないじゃないか?」

「それも考えてリンをここに連れてきたって……お前も知っているだろ? 表の世界では絶対秘密の……俺の妹の特殊能力をよ? かなみに任せておけば問題ないって……多分」

 そう言われた太郎は浮かせた腰を椅子に戻した。

「そうか……これは単純に……君たち兄妹という稀な能力者の中に、リンという稀な能力者が加わっただけなんだね?」

「ああ、だからリンを見張る必要はない……かなみの能力は信頼できるだろ? お前の『大事』なコロンも、勿論無事だ」

 大事を強調して言ったシルヴィスに、太郎は口を尖らせて抗議した。

「そ、それはその……成り行きというか……君が道外にいる時の出来事だし……」

 口の中でもごもご言った言い訳だが、シルヴィスにはちゃんと伝わっている。

「別に改名前のコロンが、俺のことを想っていたから遠慮しろなどとは言わんぞ? それにあの時のコロンの俺を見る視線は恋愛感情というより、優しい父親を求める目だったからな。あの厳しい親父さんに幼少時から鍛えられていたコロンはちょっと優しい人間に出会うと心を許す弱点があった……」

「まあ、そりゃそうだけど……シルヴィスはコロンのこと、どう思っていたんだい?」

「俺にそういう感情が欠落しているのはお前が一番知っているんじゃないのか? 俺が救った時のコロンは能力を無駄に放出してどんどん弱くなっている除霊師だ。あのまま死なすには惜しい人物と判断したから助けた。かなみの良い友達にもなってくれたので、そこには感謝しているが、直結で恋愛感情が湧くような人間じゃねぇよ……お前に恋愛感情が向いてからのコロンはかなり落ち着いたし、良い具合に鞘に収まった感もある。そこにお前の両親の死が絡んだのは遺憾としか言いようがねぇがな……」

 その言葉にどう言い返そうかと考えている太郎の耳に、廊下を走ってくる複数の足音が届いた。

「……太郎、暫く目を瞑れ……」

 シルヴィスはそう言って太郎の顔の前にその巨大な掌をかざす。シルヴィスも目を瞑った。

「お兄ちゃん! リンちゃんめっちゃんくっちゃんカワイイっ!! かなみの妹にして良いよねっ!?」

 院長室のドアを蹴破る勢いで開けたかなみは、風呂から直行してきたらしくなにも着ていなかった。シルヴィスは廊下を走る足音が裸足での音であったのと、かなみの性格を考えて太郎に目を瞑らせたのだ。後ろから走ってきたコロンがかなみにバスタオルを巻き付けるまで、太郎の眼前からシルヴィスの手が避けられることはなかった。

 リンは一応下着をつけていたが、恥ずかしそうに俯いて、耳まで赤くなっている。体の成長はイマイチだが、リンにも一応女の子としての自覚は芽生えていた。

「すみません、シルヴィスさん。かなみがはしゃいじゃって……」

「ああ、まあ、いつものことだからな……俺は気にせんよ。かなみ、リンを妹にするのは構わんが、お前ももう十七歳なんだから、少しは恥じらいをだな……」

 『構わんが』くらいでかなみは既にシルヴィスの言葉を聞いておらず、またもやダッシュでリンを連れ去る。

「……最後まで聞けよ……」

「かなみっ! ちょっと待ちなさいよ! うわっ!?」

 追いかけようとして振り向いたコロンの目の前に、かなみが戻って来ていた。

 しかし、流石はシルヴィスの妹と言えば良いのか、かなみはコロンと衝突する前に体を捻ってかわし、院長室に再度入っていた。当然太郎の眼前にはシルヴィスの掌がまた戻って目隠しされる。

「お兄ちゃんが怪我してるっ!? 天変地異の前触れ!?」

 応接テーブルの上に乗ったままだった兄の足に今更気付いたようだ。そして、天変地異だけはまともな発音だった。

「いや……多分それはない……」

「そっか……じゃあ、痛いの痛いの飛んでけーっ! かける三くらいでなおるねぇっ! さ、リンちゃんに服選ばなきゃっ!」

「なおらねぇよ……」

 そう抗議するシルヴィスの言葉は耳に届いていないのか、かなみはダッシュで院長室を後にした。

「リンは新しい着せ替え人形かなにかなのか?」

「……いや、今の口振りだと、ちゃんとリンを妹だと認めているよ……コロンの言う通りで、かなみは妹ができてはしゃいでいるんだね。リンは理解の域を越えているかも知れないけどさ」

「あれで全国模試トップだっていうんだから、必死に勉強に励んでいる学生さんに申し訳ないくらいです……それでは私はあの暴走を止めに行きますので、失礼します!」

 走り去るコロンを見送り、シルヴィスは太郎の眼前にあった手を自分の顎に充てて考え込む。

「……かなみが全国模試でトップ? マジでか?」

「先週の模試でね……メールで知らせたんだけど、君はその頃ジャングルの中だったから、届かなかったんじゃないかな……誰がかなみの診察と家庭教師をしていると思っているんだい? それに、かなみはバカじゃないよ? 普通に海外名門大学留学レベルは保っているさ。ただ、テンションが乱高下だから、札幌からは出せないけどね」

「ああ、それはわかっているんだがな……俺に学がないからよ……ちょっと不思議に思えた」

 シルヴィスは高校三年生の時に学園を自主退学し、傭兵になったので扱いは中学卒業である。

「君だってちゃんと学生をやっていれば、大学院まで余裕で卒業できたでしょ? 中学生の僕に勉強を教えていたのは君だよ?」

「まあ、そうなんだが……ところで、俺はこのまま仕事に戻るんだが、リンを預けていくのは問題ないか?」

「それは問題ないけど、仕事復帰は足が治ってからにしたらどうだい? 僕はリンの国の言葉が喋れるけど、英語とフランス語とドイツ語以外の言葉は、流石にかなみもコロンも喋れないよ? コロンが最近中国語を覚えたけど……」

 それだけの外国語が喋れれば充分に思えるが、リンの出身国はそのどれも介さない言語形態の国であった。

「いや、それはリンにも言い含めてあるんだが、リンは日本語を本気で覚えたがっているからな、俺がいるとどうしても母国語で話してしまうので、あえて俺は去ることにする。心配ごとと言えば、かなみの喋り方で日本語を覚えないかということと、あのテンションが二人にならないかということくらいか……まあ、コロンがお前とばかり喋るリンを見て、ヤキモチを焼く可能性は否定できんな……リンは異性にも同性にも、妙に好かれる子だからなぁ……その分、敵も作っちまうんだ……」

「……ヰガルさんに頼まれただけにしては、よく観察しているね?」

「そりゃあ、俺はリンの保護者だからな……俺と身重の母を捨てた状態だった親父のようにはなりたくねぇってだけかも知れん……あの子には平和ボケしているくらいの札幌を見せてやってくれ……ヰガルの邸宅には大抵のものはあったんだが、テレビ放送とか見たことねぇし、ビデオだのDVDだのは、戦争資料ばっかりだったしよ……パソコンはスタンドアローンで、麻雀ゲームひとつ入ってねぇ。暫くはギャップに苦しむかも知れないが、それもあいつは覚悟の上で俺についてきたからな……」

「……まあ、札幌も裏世界的には安全な街とは言い難いんだけど、リンの住んでいた所に比べると平和かもね……少なくとも、自衛隊が村を襲うことはないだろうし、生き残った子供たちが街で銃器を買える街でもないからね……」

「少々、怪獣だの魔物だの、神と称する変人だのは存在するが、この国は基本的に平和だからな。リンはそっち方面の知識だけはヰガルに叩き込まれているから問題ないだろうよ。ああ、そう言えば……」

 そう言いながらシルヴィスはポケットから一冊の本を取り出した。体が大きいので当然ポケットも大きく、百科事典みたいな厚さの本でもすっぽり収まっていたらしい。

「お前なら半分は意味がわかるだろう……ヰガルの日記だ。あいつは日本に留学経験もあるから、あの国と日本の違いみたいな記述も書かれているので、参考にすると良いだろう」

 太郎は両手でその本を受け取る。重さは電話帳レベルだ。

 パラパラとめくり、眉間に皺を寄せた。

「……毎日違う言語で書かれているじゃないか?」

「ヰガルは勤勉だからな……万が一外国のスパイに盗まれても、解読に時間の掛かる方法を選んでいたようだぜ? まあ、俺やお前の手に渡った場合はそんな努力はなんの意味もないがな」

「ちょっと待ってよ……これは何語だい? 僕の知らない言語も含まれているよ……」

「そうか? まあ、ゆっくり解読しろよ。案外面白いことも書いてあるしな……ちなみにリンの持っているバッグにあと四冊入っている。俺は一冊借りて、暇つぶしに小樽までの船の中で読ませてもらった」

「……君は傭兵なんて辞めて、言語学者にでもなれば良いのに……」

「お前は俺の通帳管理しているんだから、俺の日給くらい計算したことがあるだろ? あれ以下の稼ぎで、俺の思う家族全員を養っていくのは不可能だからな……」

 シルヴィスという名を継いでからの彼は普通の傭兵の十倍は日給を貰っており、その給料のほとんど全てを、彼が仲間と思う者の為に注ぎ込んでいる。

 傭兵の日給にはその現場で使う拳銃の弾代も含まれている場合が多く、無駄弾を使う傭兵は貧乏だと表現されるのだが、彼はその弾代を削る優等生だ。ジョンソンなどに語らせれば、シルヴィスはケチの帝王と呼ばれることになる。

「まあ、確かに今の生活レベルから落としての生活は僕にもかなみにも考えられないか……でも、いつまでも続けられる商売でもないでしょ? 将来のこととか考えないのかい?」

「まあな……流石に今回、ヰガルを守れなかったことと、リンの盾になって銃弾を受けたことで、俺の能力も無敵でないことはわかったが、まだ他の商売が思い付かないんでな……あと五年くらいは続けることになりそうだ……その頃なら最年少のリンでも十九か二十歳だからな、その時に皆で話し合うということにしておいてくれ」

 そう言うとシルヴィスは机の上にあげたままだった足をおろし、なにごともなかったように立ち上がった。

「迎えが来たようなので、俺は行かねばならん……」

「ジョンソンなら入ってもらえば良いじゃない? お茶くらいなら出すよ?」

「いや、あいつは正式に米軍に雇われたから、傭兵ではなくなった……あいつとも長い付き合いだが、あれほど巧みに俺の傍にいる奴は珍しい……疑えばきりがないんだが、数年前に傭兵として活躍し、俺の傍から離れなかった英国の魔法使いがスパイって例もあるんでな……」

 そう言われて太郎は少し驚いたが、意外なところに敵がいるという一例を彼も知っていた。

「ああ、あのお陰で僕が調停役に任命され、英国の魔法学校に派遣されたんだっけね……」

「そうだ。俺の部下であっても、百パーセントの信頼は禁物だぜ……ジョンソンの疑いが晴れれば、俺が奴を招待するさ……それまでは単独での接触は避けろよ?」

「わかったよ……ところで次の任務はどれくらいかかるの?」

「……そうだな……任務内容はまだ聞いていないが、行き帰り含めて四カ月くらいだろう。帰還前にメールで知らせる」


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