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せくでざ  作者: 小田 聡
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せくでざ(2)

誕生日に許婚の存在を知らされ、そのまま彼の家に居候することになった木内友美は文化祭の日に写真部の加藤と出会う。二人の男性の間で揺れる彼女が最後に決断したのは……みたいなラブストーリーです。

 気が付けば、もう上着がないと寒くて外を出歩けないような時期になっていた。

 進路相談も始まり、いよいよ本格的に自分の進路を決めなくてはいけないが、麦と友美はまだ進学か就職か悩んでいた。

 二人は進学したいという気持ちと、就職しないといけないという気持ちの狭間で揺れ動いていた。

 麦は、キャンパスライフというものに強い憧れを抱いていた。また、それは同時に、大学生活を体験してみないと大学生を扱った小説が書けないのではないかという、半分強迫観念にも似た感覚に陥っていた。

 担任からは「選り好みをせず、どこでもいいのなら」という条件でなら、大学進学の道もあるとは言われたものの、学業と仕事を両立させる自信がなかった。現に今も赤点を免れるのが精一杯の状況だった。

 一方、友美は進学については全く問題ないと担任から太鼓判を押されてはいるが、彼女には彼女なりの悩みもあった。

 進学の費用は援助すると友美の両親は言ってくれてはいるが、暮谷家に居候している身としては、少しでも暮谷家の家計を助けたいと思っていた。

 麦の稼ぎは決して安定しているとは言えない。今ある連載が打ち切られてしまったら、収入はゼロになってしまうのだ。佳衣も結梨もそれぞれ専門学校と短大へ進学を希望していることは知っていた。だから余計に自分が稼いだほうがいいのではないかとも思った。

 実は、友美が暮谷家に暮らすようになってから、両親からいくらかの仕送りを受けてはいるが、そのお金はもしもの時のために残している。

 麦に相談したら「進学した方がいい」と言われるだろう。しかしそれで麦の負担が重くなるのは心苦しかった。

 二人とも結論を出せぬまま、ずるずると冬を迎えた。

「ヤッホー! メリークリスマース!」

 そんな気の重い日々が続く中でも暮谷家では毎年恒例のクリスマスパーティーが催された。

 手作りのクリスマスケーキを千秋が持参し、佳衣と結梨が唐揚げを山のように皿に盛り付けた。友美もオードブルやバーニャカウダを作って食卓に彩りを添えた。

「残念ながら今年はアルコールなしでーす」

「今まではアルコールありだったの」

 佳衣の発言に友美は目を丸くした。

「シャンパンはアルコール入りのじゃないとおいしくないけど、お姉様がまたご乱心になっちゃうからね~」

 結梨が意地悪そうに言った。友美の脳裏にまた酒乱になった自分の醜態がよぎった。

「う~っ。未成年はお酒飲んじゃダメなの!」

 パーティーの途中でプレゼント交換がおこなわれた。各自がみんなに内緒でプレゼントを用意し、それぞれ交換しあった。

「私のプレゼントは、お姉様にでーす!」

 佳衣から友美へのプレゼントは枕だった。

「枕?」

「ノンノン。ただの枕じゃないわよ。かの有名な『YES/NOまくら』です!」

 よく見ると、枕の片面はハートマークに〝YES〟と書かれていて、裏面はバツ印に〝NO〟と書かれてあった。

「お兄様が夜這いしたときには、これで意思表示すれば夫婦円満!」

「麦は夜這いなんかしないわよっ!」

 結梨が麦に渡したのはフィギュアだった。

「ただのフィギュアじゃないわよ。この世に一つしかない『木内友美メイドコスフィギュア』でーす!」

 文化祭の時のツインテール友美を知り合いに頼んで3Dプリンタで作ってもらったという代物は、かなり精巧にできていた。

「へぇ、よくできてるね」

「ちゃんとスカートの中のパンツもリアルに再現してますっ!」

「え、そうなんだ?」

 スカートの中を覗き込もうとする麦の目を友美の手が塞いだ。

「そんなとこまでリアルに再現しなくてもいいの!」

「あのう……二人のコアなプレゼントの後で、ちょっと渡しづらいけど……」

 と言いながら、千秋がこっそり出したプレゼントは手袋だった。

「本当は手作りにしたかったんだけど、間に合わなそうだったから市販のにしちゃったの」

 千秋が一人一人に手袋を手渡した。すると、

「あ、僕も同じようなプレゼントだ」

 と言って麦が紙袋を取り出した。

「僕のは靴下なんだけど」

 麦が袋から取り出したのはモコモコとして暖かそうな部屋履き用の靴下だった。

「リビングにいると足許が寒くて……これならいいかなって」

「お兄様にしてはずいぶんお洒落な柄よね」

「うん。実は、買う時に友美ちゃんに見てもらったんだ」

 友美は麦と千秋のプレゼントが似通っていたことに、幼なじみとしてのシンパシーをヒシヒシと感じた。

「さぁ、大トリはお姉様ね」

 佳衣の言葉に友美は封筒を取り出した。そして一つずつ確かめながら封筒をみんなに手渡した。

「現金? この厚みだと十万円くらいかな?」

「本当はちゃんとしたプレゼントにしたかったんだけど、思いつかなくて……それで、手紙にしてみました」

「なるほど。ということは、千秋ちゃんへの手紙は果たし状という訳ね」

「そんなんじゃないわよ」

「ねぇ、お姉様、今読んでもいい?」

「えぇ。でも恥ずかしいから声に出して読まないでね」

 佳衣と結梨は封を開け、手紙を取り出すと食い入るように読み耽った。

 千秋も封筒を開けた。水色の便せんに一文字一文字丁寧に書かれていたのは、今まで麦のことで相談に乗ってくれたことへのお礼に始まり、自分の麦に対する想いが書き綴られ、これからも仲良くして欲しいという言葉で結ばれていた。

 手紙を読み終えると千秋は、うーむ、と唸った。

「これは、読みようによっては確かに挑戦状とも受け取れるわね」

 と真顔で呟いたのを見て、友美は慌てて否定した。

「ふふふ、冗談よ。これからもよろしくね、友美ちゃん」

 千秋の笑顔を見てほっとしたのか、思わず友美は泣きそうになった。

「あ、ごめんね! 友美ちゃん! 本当に冗談なんだからね!」

 取り乱す千秋に泣き笑いする友美を見て、妹達も一緒に笑った。

「お兄様は読まないの?」

「うん。後で一人になったときにこっそり読むよ」

「そうよね。麦君が生まれて初めてもらったラブレターだもんね」

 と茶化す千秋にまたみんなが笑った。

『♪楽しいときは二人分~♪』

『♪悲しいときは半分こ~♪』

 佳衣と結梨が突然歌い出した。友美はその歌に聞き覚えがあった。

「ねぇ、それって何の歌かしら? どこかで聞いたことがあるんだけど」

「これは暮谷家のオリジナルソングです~」

「我が家では楽しいときや悲しいときにこの歌を唄うんですよ」

「ふうん、そうなの」

「ときどき唄ってるから、それを覚えていたのかも知れないね」

 麦の言葉に取り敢えず友美も納得した。

 楽しかったクリスマスが終わり、あっという間に正月がやってきた。

 正月は近くの神社に参拝した後、暮谷兄妹は友美とともに木内家を訪れた。

 友美の両親を前に緊張しっぱなしの麦にずっと友美が寄り添っていた。

 久し振りに娘が家に帰ってきたのと、お酒を飲んですっかり上機嫌の父がしきりに「泊まって行きなさい」とみんなを引き留めるのを友美が無理矢理家から連れ出した。

「ごめんね。パパったら、お酒が入るとずいぶんとお喋りになっちゃうから。ずっと聞いてるの大変だったでしょ」

 駅に向かうタクシーの中で、申し訳なさそうに友美が言った。

「佳衣ちゃんと結梨ちゃんもありがとう。パパ達の話相手になってくれて」

「全然。お父様って、とっても面白い方ね! お母様も優しくて可愛かったよ!」

「お父様の全身から娘ラブが伝わってきたわ!」

「そう言えば、お姉さんの姿が見えなかったみたいだったけど」

 助手席に座る麦が半分だけ顔を友美の方に向けて言った。美有希は麦達が来る少し前に買い物に出掛けたきり、そのまま夜まで帰っては来なかった。

「お姉さんにも挨拶したかったんだけど……」

 恐らく友美や麦が両親と和気藹々としているのが気に入らなくて、わざと顔を合わせないようにしていたのかも知れなかった。美有希の性格なら考えられることだった。

「姉にはいつでも挨拶できるわよ。気にしないで」

「そう? ならいいんだけど」

 そう言って麦は前に向き直った。

「ねぇ、友美ちゃん」

 麦が前を向いたまま言った。

「僕、大学に行くよ」

「そう」

「今からだともう間に合わないかもしれないけど、どこでもいいから入れそうな大学を探してみるよ」

「うん」

 ようやく自分の進路を決断したことは素直に嬉しかった。

「一芸入試っていうのがあるんだ。それで受検してみようと思うんだ」

 麦の学力では三流大学の最低ラインでも難しかったが、一芸入試ならばプロ小説家という肩書きでひょっとすると受かるかも知れない。友美の中に希望の光が見えた。

「私も麦と同じ大学に行きたい」

 友美は思わず身を乗り出していた。


 二人はそれから毎日受験勉強に明け暮れた。二人とも完全に出遅れてはいるが、少しでも遅れを取り戻そうと必死だった。

 友美は志望校の過去問をひたすら解いた。問題と答えを丸暗記するくらいの勢いで同じ問題を何度も解いた。麦もいつもよりも倍のペースで原稿を書き終え、少しでも受験勉強の時間を作ろうと頑張っていた。

 試験を翌日に控えたこの日も、友美はリビングで過去問を解いていた。

「うーん」

 隣にいた麦が小さく唸った。

「どうしたの?」

 友美は顔を上げて麦を見た。彼は渋面で参考書をにらみつけていた。

「小論文って、小説とは全く別物だね」

 一芸入試では書類選考と面接の他に小論文が試験科目となっていた。麦は小論文の対策用参考書の模範解答と自分の文章を見比べて溜息をついた。

「大丈夫よ。麦の試験日はあと一週間後だから、まだ間に合うわ」

 一般入試と一芸入試では受験日が異なるため、麦にはまだ猶予はあるが、彼自身まだ納得のいく小論文が書けずにいた。

「ちょっと一服する? カフェオレ淹れようか」

 友美が立ち上がると、スマホに着信が入った。スマホの液晶画面には父の名前が浮かんでいた。

「もしもし、パパ?」

「おう。友美、元気か?」

「どうしたの?」

「いや、何となく友美の声を聞きたくなって……親が娘の声を聞きたくなったら悪いのか?」

 友美はスマホを耳に当てながら電子ケトルに水を注ぎ、スイッチを入れた。

「別に悪いとは言ってないけど……パパ、飲んでるの?」

「あぁ。出張で大阪に来てるんだ。飯食って、今ホテルに戻ってきたところだ。一人だと酒飲むくらいしか楽しみがなくてなぁ。友美は何してた?」

「明日入試だから、勉強していたとこだったんだけど」

「おぉ、そうだったか。すまんすまん、じゃあ手短に……友美は豚まん好きだったよな?」

「なによいきなり。うん好きよ」

「お土産に買って送るよ。麦君達の分もあるから、二十個くらいあれば間に合うかな?」

「そんなには要らないわよ」

「まあ、多くて困ることはないだろう。楽しみに待っていなさい」

「ところで、パパ」

 父から麦という言葉を聞いて、友美はあることを思い出した。

「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 友美は麦の方をチラッと見てからリビングを出た。そして少しだけトーンを落として父に尋ねた。それは今まで友美が密かに思っていた疑問についてだった。

「パパと麦のお父さんは知り合いなんでしょ。麦を私の許婚に決めたってことは、以前から麦のことを知っていたってことよね? いつ、どこで知り合ったの?」

 電話の向こうで、ハッハッハと笑い声がした。

「なんだ、そんなことか」

「そんなことじゃないわ。私にとってはとっても大切なことよ」

「よしわかった。恐らく麦君も知らないだろうから、結納の時に二人に話してあげよう」

「パパはいつもそうやってもったいぶるんだから」

「その方が真実を知ったときの感動が何倍にもなるだろう」

「そうかしら」

 電話を切ってリビングに戻ると、麦がカフェオレを作っているところだった。

「ごめんね、麦」

「ううん。お義父さんから?」

「うん。大阪土産に豚まん送るって」

「へぇ、豚まんか。あれっておいしいよね。僕好きなんだ」

「偶然ね」

「豚まんにはカラシが必須だよね」

「カラシ? ありえないわ。そのまま食べた方が絶対おいしいわよ」

「そうかなぁ。カラシを付けた方が絶対おいしいと思うんだけど」

 麦と豚まんの話題で盛り上がっていることが意外でもあり新鮮でもあったことがなんだか嬉しかった。

 麦の顔を見ながら、自分の幼少時代に彼によく似た顔の少年や、彼のようなおっとりとした少年に出会ったかどうか記憶を引っ張り出そうとしていたが、該当するような人物は全く思い浮かばなかった。

 暮谷家に来たばかりの時はそれほど気にしていなかったことが、麦のことを好きになればなるほど彼と自分との最初の接点が一体どこにあったのか日増しに気になっていた。

 正月に実家へ帰ったときに聞こうと思っていたが、何かとバタバタしていて聞きそびれてしまったことを今さらながら後悔した。

 底冷えのする朝、千秋からもらった手袋をはめ、暮谷兄妹に見送られながら友美は家を出た。電車に乗っている間、佳衣と結梨の手作り合格祈願お守りをコートのポケットの中でずっと握りしめていた。

 試験会場に入ると父からショートメールが送られてきた。そこには、

「雪!→白星!→合格間違いなし!」

 と書かれた短いメッセージに、たった今撮ったと思われる写真が添付されていた。

 うっすらと雪景色に覆われた街並みだった。恐らくホテルの窓から撮影したものだろう。友美は「応援ありがとう」と返信してからスマホの電源を切った。

 試験対策は十分とは言えなかったが、とにかく全力を尽くそうと思った。そして、朝歩いてきたキャンパスを今度は麦と二人で歩きたいと強く願った。

 試験会場は空調が弱めに設定されていて、とても寒かった。コートを膝掛け代わりにして試験に臨んだ。

 午前中の試験は比較的順調にペンが走った。過去問での傾向対策からヤマを張った勉強が功を奏しているようだった。

 昼休みになり、友美は自分の席で大きく息をつくと佳衣と結梨が作ってくれた合格祈願弁当を取り出し、スマホの電源を入れた。

 スマホが起動した途端、その異様な光景に友美は目を見張った。

「何これ?」

 友美が目にしたのは無数の着信履歴だった。発信元はほとんどが母からだった。麦の携帯や自宅からも履歴が残っていた。そしてその中に美有希の履歴もあった。

「お姉ちゃん?」

 友美は言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。

 突然、電話がかかってきた。液晶に浮かぶ文字を見て、慌てて電話に出た。

「もしもし?」

「あんた、何してるのよ」

 いつもと変わらない美有希の高圧的な声がした。

「今日試験なの。今お昼休み」

「今すぐ出てらっしゃい」

「え?」

「今すぐよ。正門の前で待ってるから、早く」

 そう言って電話は切れた。友美はすぐに折り返し美有希に電話をかけた。

「グズグズしてないで早く来なさい。タクシー待たせてあるんだから。詳しい話は後よ」

 美有希は友美が話そうとするのを遮り、自分の要件だけを告げると電話を切ってしまった。

 友美の胸騒ぎは次第に大きくなり、言い知れぬ不安へと変わっていった。そわそわと机の上のものをしまうと急ぎ足で試験会場を出た。

 正門のところでエンジンをかけたままのタクシーが横付けされていた。開いたドアから中を覗き込むと怖い顔をした美有希が乗っているのが見えた。

「早く乗って。こうしている間にもタクシー代が上がっちゃうのよ」

 友美は言われるがままに後部座席へ乗り込んだ。

「お願いします」

 美有希の声に従うようにタクシーが走り出した。

「一体どこへ行くの? 私試験が」

「試験なんてどうでもいいわ」

「そんなわけにはいかないわよ」

 友美は声を荒げた。

「パパが、事故に遭ったのよ」

「えっ?」

 一瞬、空耳かと思った。すぐに父からのメールを思い出した。

「だって、パパ、朝私にメールくれたわ」

 美有希が突然運転手に声をかけた。

「すいません。ラジオのボリューム上げてもらえますか?」

 運転手がラジオの音量を上げると、アナウンサーがニュースを読み上げる声が聞こえた。

『……繰り返します。今日八時頃、阪神高速道路で起きた玉突き事故について、その後新たに二人の死亡が確認されました。これにより、今回の事故での死者は四名、重軽傷者は七名となっています……』

 友美の胸許にざわざわと不快な感覚が襲った。

「パパの乗ったタクシーがこの事故に巻き込まれたみたいなのよ」

「パパは無事なの?」

 美有希はすぐには答えなかった。

「……わからない。けど、警察からママに電話があったみたい。ママは先に大阪に向かっているわ。最悪の事態は覚悟しておいた方がいいかもしれないわね」

「そんな……」

 友美の左手が小刻みに震えていた。それを押さえようとした右手も同じように震えていた。

「あんた、ちっとも電話に出ないから、暮谷の方に電話しちゃったじゃないの」

「麦達はこのこと知ってるの?」

「彼らには何も話してないわ。私が聞いたのは試験会場のことだけよ」

 その言葉を聞いて友美は少しだけ安心した。試験直前の麦の耳に余計な心配事を入れたくなかった。

「大阪は天気が悪いみたいだから新幹線で行くわよ。飛行機が飛ばないかも知れないから」

 車は新幹線の最寄り駅へと向かっていた。それからの友美の記憶はとても曖昧になっていた。

 気が付いたら病院に着いていた。どうやって新幹線に乗って、どこで降りて、どうやって病院まで来たのかをはっきりと思い出すことができなかった。

 診察待ちの人達でごった返すロビーを抜け、建物の奥へと進んでいき、物寂しい廊下を歩いているときも、友美はまだ父の事故が信じられずにいた。

 エレベーターを降り、ナースステーションで美有希が「木内です」と告げると、中にいた看護師が奥の部屋を指差した。友美はただ美有希の背中を見てその後を着いていくだけだった。

 目の前に「ICU」と書かれた大きな扉を前にしたときもまだ映画のワンシーンを見ているような気がしてなんだか現実感がなかった。

 しかし、廊下にある長椅子に座っている母を見たとき、ようやく現実に引き戻されたような感覚に陥った。

「ママ」

 友美が声をかけると生気のない母の横顔が、こちらを向いた。母は娘達の姿に気付くとよろよろと立ち上がった。

「パパの容体はどうなの?」

 大きな扉を見る美有希に母は黙って首を振った。

「私が病院に来たときにはもう集中治療室に入っていて……」

 こんなに狼狽している母を見るのは初めてだった。

 友美はじっと白い扉を見つめていた。そしてその扉の向こうにいる父に向かって、どうか助かりますようにと何度も何度も繰り返し祈った。

「友美、座ってなさいよ」

 美有希はコートのポケットに手を突っ込んだまま足を組み直した。

「そんなところに突っ立ってたってどうにもならないわ」

「でも……」

 友美は悠長に座ってなどいられなかった。できることなら治療室の中に入って父に声をかけてあげたかった。

「あんたが祈ろうが祈るまいが、死ぬ時は死ぬのよ」

「そんな……ひどい……」

「だから、今からパパが死ぬ覚悟を決めておくのよ。死なないと思っているから死んだときに辛くなるのよ。死んだと思って助かったら、逆に嬉しいでしょ」

 友美には美有希の考え方が理解できなかった。

「パパが死んでもいいの?」

「死んで良いわけがないじゃない!」

 美有希は友美を睨みつけた。

 モーター音とともに扉が開くと、三人は一斉に扉の方を向いた。

「木内さんのご家族ですか?」

 マスクをした看護師が声をかけた。三人は同時にうなずいた。

「どうぞ中へ」

 友美の心臓は張り裂けそうになった。どくんどくんという鼓動に周りの音がかき消されていた。

 治療室の中央に父が横たわる手術台があった。ベッドの周辺にある機械はどれも電源がオフになっていた。

白い布から顔を出す父の横顔が見えた。

「パパ!」

 その横顔は友美の声には反応しなかった。

「パパ」

 もう一度声をかけた。が、やはり父は目を閉じたままだった。

 主治医と思われる男性医師が三人の側に近付いた。

「こちらに運ばれてきたときからほとんど意識はありませんでした。わずかですが心音がありましたので、我々もできる限りの処置を施しましたが……つい先ほど死亡を確認しました」

 唇を噛みしめる友美の目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれた。母も声を殺して泣いていた。

「車が追突した衝撃で、下半身は複雑骨折でした……一応ご覧になりますか?」

 医師の言葉に母も友美も黙って首を横に振った。

「見せてください」

 美有希がはっきりとした声で言った。

 白い布をめくる美有希に、友美と母は耐えきれずに背を向けた。

 美有希の目に涙はなかった。

「痛かったよね……パパは、私達が来るまで頑張って待っててくれてたんだよね。もう我慢しなくていいんだよ。ゆっくり休んでいいからね……」

 そして父の顔をしげしげと見つめ、そっと父の髪を撫でた。

 父の葬儀はその後しめやかに営まれた。

 お通夜では会社の同僚や親戚一同のほか、多数の参列者が故人との別れを惜しんだ。その中に麦達の姿もあった。

 沈痛な顔で焼香する暮谷姉妹の姿を見て、友美はどうして三人がここにいるのだろうと思った。

 友美は父が亡くなってからは木内家に戻っていた。そして放心状態で何も手に付かない彼女に代わって母が連絡を取ってくれたのだった。

 焼香を終えた麦が帰り際に友美に声をかけた。

「友美ちゃん、この度は大変だったね」

「うん」

「僕らのことは気にしなくていいから、気が済むまでお父さんの側にいてあげてね」

「うん」

 友美と同じくらい真っ赤な目をした佳衣と結梨も彼女に何やら声をかけていた。が、よくは覚えていなかった。

 告別式を終え、初七日を過ぎてもまだ友美は木内家にいた。父が亡くなったショックから抜けきれず、魂が抜けたようになっていた。毎日何をするわけでもなく、外出もせずに家の中でダラダラと過ごしていた。

「友美、一緒にお父さんの部屋を整理するの手伝って」

 リビングのソファーで寝転がる友美に母が声をかけた。

「パパのこと思い出しちゃうからイヤ」

 それは口実に過ぎなかった。とにかく全く何もやる気が起きなかった。

「お姉ちゃんに手伝ってもらいなよ」

「美有希はとっくに自分の家に戻ったわよ。あなたもそろそろ暮谷さんちに帰ったら?」

 うん、と生返事をして寝返りを打った。なんだか麦の家に戻る気すら起きなくなっていた。

 結婚、という言葉を頭に思い浮かべること自体がいけないことのように思うようになっていた。

(パパが死んだのに、私が麦と結婚するなんて……)

「友美、夕飯よ」

 キッチンからおいしそうな匂いに乗せて母の声がしたが、友美は返事をしなかった。

 何も考えたくなかった。だからひたすら惰眠を貪った。

 ブルブル、ブルブル……

 遠くの方でスマホの振動音がした。寝ぼけながら辺りをまさぐっても見つからないスマホはソファの下に落ちていた。

 ようやくスマホを拾い上げ、待ち受け画面を見た。麦からだった。

「もしもし……」

「もしもし、友美ちゃん?」

「どうしたの?」

「うん。どうしてるかな、と思って」

 麦の声はいつもと変わらなかった。久し振りに聞いた彼の声はとても懐かしかった。

「そう言えば、試験はどうだったの?」

 電話の向こうから返事はなかった。

「麦、まさか」

「うん……試験受けなかったんだ。浪人生活っていうのも経験してみようかなって思って」

 友美には麦を責めることはできなかった。

「……ごめんね。こんなことになっちゃったせいよね」

「友美ちゃんのせいじゃないよ。試験を受けなかった僕のせいさ」

 麦は即座に答えた。

「友美ちゃん、今どこにいるの?」

「私? 家の中よ」

「今散歩に出てるんだ。そこから外見える?」

「ちょっと待って」

 友美は立ち上がってリビングの窓を開けた。彼女の全身をひんやりとした空気が突き刺した。

「月、見える?」

 真っ暗な空を見渡すと、細い上弦の月が見えた。

「うん。見えるわ」

「あの月、チェシャ猫の口みたいだよね」

「チェシャ猫? あの『不思議の国のアリス』に出てくるやつよね?」

「うん、そうだよ」

 麦にしてはずいぶんとメルヘンチックなことを言うなと思った。

「私には爪切りで切った爪に見えるわ」

「えー、そうかなぁ」

「ごめんね。あんまり可愛げがなくて」

「ううん、いいんだ……友美ちゃんの声が聞けて良かった」

「麦、今どの辺歩いてるの?」

「今ちょうど河川敷の土手を上がったところさ」

「佳衣ちゃんや結梨ちゃんも元気?」

「うん。二人とも元気だよ……でも、友美ちゃんがいないからちょっとつまらないって言ってる」

 夜空を見上げながら、暮谷家での温かくて楽しかった情景を思い浮かべた。

「あのさ、初めて詩を書いてみたんだ」

「詩? 麦が?」

「うん。後でメールするから読んでみてよ」

「うん。読みたいわ」

 麦が書いた詩というのがどんなものかとても興味が沸いた。

「それじゃ、すぐに送るね」

「うん、待ってるわ」

 友美が部屋に戻るとすぐにメールが届いた。メールの件名には『君に贈る詩』と書いてあった。


君の笑顔を想うたび 月が笑っている

君の悲しい顔を想うたび 星が泣いている

君のことを想うたび 僕の心はちぎれてしまいそうになる


どんなに月が綺麗でも

どんなに星が輝いていても

僕はちっとも嬉しくない


笑ってる君を見ていたい

怒ってる君を見ていたい

泣いている君に寄り添いたい




今すぐ 君に会いたい


 友美は思わずスマホを抱きしめていた。

(麦に会いたい!)

 友美は母の姿を探した。母は父の書斎で懐かしそうにアルバムをめくっていた。

「ねえ、ママ」

 母はキョトンとした顔で友美を見た。

「私、明日麦の家に帰るわね」

「だめよ」

 母がアルバムを閉じた。

「今すぐ帰りなさい。思い立ったが吉日よ」

 まだ電車がある時間だった。友美は急いで上着を着込み、バタバタと玄関に向かった。

「ちょっと待って。今タクシーを呼ぶから」

「えっ? でもタクシーだと高く付いちゃうわ」

「フィアンセに会いに行くのに、そんなみみっちいこと言わないの。タクシー代は出してあげるから」

 母はすぐにタクシー会社に電話をかけた。

「それと、これ持っていって」

 玄関で靴を履こうとしている友美に母が声をかけた。

「これお父さんのパソコンなんだけど、麦君に見て欲しいの」

 母はノートパソコンが入ったトートバックを差し出した。

「麦に? 麦もパソコン使うけど、それほど詳しくないわよ」

「お父さんが毎晩このパソコン見ながらニヤニヤしてたの。きっといかがわしい画像とか動画とかがいっぱい入ってるんだと思うのよ。だから麦君に削除してもらって欲しいの」

「えー。ママがやればいいのに」

「いやよ、おぞましい。さぁ、いいから持っていってちょうだい」

 外でクラクションの音が響いた。友美は半ば強制的にトートバックを渡されると、そのままタクシーに乗り込んだ。

 タクシーの中で何度も麦の詩を読んだ。そして彼がこの詩を書いている姿を想像してみた。

 少し照れくさそうに書いたのだろうか。それともエロ小説を書いているときのように表情を変えずに黙々と書いたのだろうか。友美は彼が少し照れながら書いたと思いたかった。

「『今すぐ、君に会いたい』……」

 窓の外の景色を見ながら小さく呟いた。

 タクシーが見慣れた住宅街の中に入ってくると気持ちがはやった。暮谷家の遥か手前から友美は身を乗り出してヘッドライトが照らす先を凝視した。

 暮谷家の前で手を振る佳衣と結梨の姿が見えた。

「お姉様ぁ~!」

 タクシーを降りると、二人がしがみつくように抱きついてきた。

「お姉様、会いたかったわよ~ん!」

 街灯に浮かび上がる妹たちの顔を見て、以前ヨークシャー・テリアみたいだと思った自分を反省した。

(ごめんね、ヨークシャー・テリアなんて言って。ビションフリーゼたち……)

 玄関のドアが開き、中から麦が出てきた。

「おかえり」

 友美は一直線に麦に駆け寄り、思いっきり彼を抱きしめた。よろける麦の身体を支えるように彼の身体に自分の腕を回した。

「よく私が帰ってくるのがわかったわね?」

「友美ちゃんのお母さんから電話があったんだ」

 ひょっとして自分の想いが通じたのかと内心思ったが、呆気なくタネ明かしをされてちょっとガッカリした。しかしそれでも麦に会えて嬉しいことには変わりなかった。

「麦の詩、とっても良かったわよ」

 彼の耳許で友美が囁いた。

「ありがとう」

 麦と一緒に玄関に入ると自然に「ただいま」と声が漏れた。十七年間住んできた実家よりも暮谷家の空気の方が自分の家に帰ってきたんだという気がした。

 リビングに入った友美はキッチンに立つ人影を見て一瞬ギョッとなった。

「おかえりなさい」

 キッチンに立っていたのは麦達の母だった。

「はじめまして。友美ちゃん」

「あ、はじめまして」

 慌ててお辞儀をする友美の姿を見て母はキッチンを飛び出した。

「まぁ! とっても美人さんね。麦にはもったいないくらい」

「ね、私達が言ったとおりでしょ。お姉様はとっても綺麗なんだから!」

「ちょっと酒乱だけどね。ぐふふ!」

「ダメ! その話はしないで!」

 廊下の方からジャーッと水の流れる音がして、トイレから体格の良い男性が出てきた。

「友美ちゃんが着いたのか?」

「お父様、友美ちゃんですよ!」

「おぉー、君が友美ちゃんか! ようこそ暮谷家へ!」

 痩せ型の麦よりも二回りほど大きな父が手を差し出した。反射的に握り返したその手はまだしっとりと濡れていた。

「いやあ、この度はお父さんが残念なことになってしまって……正直私も家内もまだ信じられないくらいだ」

 父はリビングチェアーにどっかと腰を下ろした。

「友美ちゃんのお父さんとは十年来の付き合いがあったんだ」

「正確には十二年ね。あ、友美ちゃん、今からココア作るけど飲む?」

「あ、ありがとうございます。お義父さん、それって本当ですか?」

「あぁ。お義父さんの訃報を聞いて、海外りょ……海外出張から慌てて戻ってきたんだ」

 父は飲みかけのウイスキーグラスに口を付けた。

「さっき成田から着いたばかりで、本当はそのままご実家へ直行しても良かったんだが、もう遅い時間だったから失礼かなと思ってね。明日にでも線香を上げに行くよ」

「父とはどういうお知り合いだったんですか?」

 麦の父ならば自分と麦が許婚になった馴れ初めを知っているはずだ。友美はこのチャンスを逃すまいとしていた。

「ねぇ、お姉様。そのノートパソコンはなあに?」

 佳衣が友美が持っていたトートバッグを指差した。

「これ? パパが使ってたパソコンなの。そうだ、麦」

 そう言いながらバッグからパソコンを取り出すと、テーブルの上に置いた。

「パパがエッチな画像や動画をこの中に一杯溜め込んでるみたいだから整理して欲しいの」

 パソコンの電源を入れると、OSが起動し、デスクトップ画面が表示した。

 麦はパソコンの前に座るとファイルを検索し始めた。

「友美ちゃん、ココアできたわよ。座ってお飲みなさい」

 友美は麦の隣に座ってココアをすすりながら、見た目が豪快そうな父と、それとは対称的に物腰が柔らかく上品そうな母を交互に見遣った。

「あ、これ!」

「うん」

「わー、すごーい!」

 どうやら麦が画像ファイルを探し当てたらしい。佳衣と結梨も目を輝かせて画面を覗いていた。

「どう? やっぱりエッチな画像があった?」

「うん。これは凄いわね」

「悩殺ものですぅ!」

 決して父が真面目人間だとは思ってはいなかったので、いやらしい画像や動画の一つはあるだろうと覚悟はしていたから驚きはなかった。

「ほう、どれどれ」

 麦の父も一緒になってパソコンを覗き込んだ。

「あぁ、これは凄いな。目の毒だ」

 麦の父も呆れるほどの画像とは一体どれだけいやらしい画像なのか、友美は怖いもの見たさで暮谷兄妹の隙間からモニタに映る画像を見た。

「え? これって?」

 麦が開いていた画像は、普通のスナップショットだった。

「友美ちゃん、これ誰だかわかるかい?」

 麦がパソコンのモニタを友美の方に向けた。

 青い空と雲、そして白い波。決して綺麗ではない濁った海をバックに手を繋ぐ水着姿の少年と少女の写真をじっと見つめた。

 少女は不機嫌そうにカメラの方を向いていた。

「これ、私よね?」

 幼い頃の自分の顔はすぐにわかった。そして自分の隣に立っているちょっとぼんやりとした柔和な顔の少年をまじまじを見つめた。

「麦!」

 友美の全身に電気が走った。と同時に、彼女の中の記憶の針が一気に巻き戻され、十二年前のある夏の日で止まった。

 そして、今まで固く閉ざされて決して開くことのなかった彼女の記憶の引き出しがその時、そっと開いた。


 その日、後部座席に座る美有希は朝から上機嫌だった。夏休みの念願だった海水浴に家族で出掛けることができた喜びとは別に、もう一つ理由があった。

「くはしちじゅうに、くくはちじゅういち! ね、ママすごいでしょ!」

「美有希、すごいわね! もうかけ算の九九暗記しちゃったんだ!」

 美有希は自慢気に白い歯を見せた。小学二年の夏休み、かけ算の九九を暗記することを自由課題として選んだ。

「まだ学校じゃ、一の段と二の段と五の段しか習ってないのよ」

「へぇ、大したもんだ」

 運転していた父が感心すると、美有希はまた二カッと笑った。

「美有希は天才かも知れないわね」

「毎日かけ算表で覚えてたんだもの」

 美有希はどや顔で友美の方を向いた。

「どう、すごいでしょ。あ、友美はまだ年長さんだから全然わからないか」

 友美は美有希が持っていた九九の書いてある下敷きを見ていた。

「あんたも試しにやってみる? ま、あんたには九九なんてまだ早いけどね」

 下敷きを受け取った友美はしばらく下敷きを眺めていた。下敷きには、かけ算の脇にふりがなが振ってあって、みんなはそれを見ながら覚えることになっていた。

「千春ちゃんはね、いつも『5×7=35(ごしちさんじゆうご)』のところでつっかえるの。信吾くんはね、まだ二の段が言えないんだ。きっと全部の段言えるの私だけよ」

「ねぇ、ママ」

「なに? 友美」

「いんいちがいち、いんにがに、いんさんがさん……」

 突然友美はかけ算を暗唱し始めた。

「さぶろくじゅうはち、さんしちにじゅういち……」

 すらすらと三の段をクリアし、その後もよどみなく続いた。やがて五の段も危なげなくクリアすると、次第に美有希の表情が変わっていった。そしてとうとう難関と思われた七の段、八の段までクリアすると車内の全員が友美の暗唱に耳を傾けた。

「くしちろくじゅうさん、くはしちじゅうに、くくはちじゅういち」

「わぁー!」

「おぉー!」

 両親が手を叩いて喜んだ。

 友美は間違えずに九九を暗唱できたことにほっと胸をなで下ろした。

「はい。お姉ちゃん。下敷きありがとう」

 友美が下敷きを美有希に返した。が、美有希はその下敷きを受け取ろうとはせず、友美を凄い形相で睨んでいた。

「ふん」

 美有希はそっぽを向いて、それから海に着くまでの間一言も喋らずに窓の外を見ていた。

 海に着いても美有希の機嫌は直らず、一人でさっさと海に入っていった。

「美有希、一人で泳いだら危ないよ」

 父が慌てて美有希の背中を追いかけた。

「ちゃんと浮き輪を持っていかないと」

「わたし、浮き輪なんてなくても泳げるんだから。こないだクロールで二十五メートル泳げたもの」

 友美には姉が急に機嫌を損ねた理由がわからなかった。

「ねぇ、私もお姉ちゃんの方に行く」

「ダメよ。危ないから、この辺で泳いでましょ」

 友美は母の胸の辺りの深さのところで浮き輪を付けて泳いでいた。かなづちの母はちょっとでも顔に波がかかると「わっ」とか「きゃっ」とか言ってしきりに顔を拭っていた。

 少し高い波が親子を襲った。母は驚いて友美から手を離し、顔を拭った。その次の瞬間、さっきよりももっと大きな波が覆い被さるように母の背中を襲った。

 友美が「あっ」と思った時には、もう友美は波に飲み込まれていた。一瞬にして浮き輪はどこかに行ってしまった。海の中で身体が二回、三回と回って完全に方向感覚を失っていた。泳げない友美は怖くて目を開けることができなかった。

 ゴボゴボゴボ……驚いた拍子に肺の中の空気を全部吐き出した友美は苦しくなって、たまらず目を開けた。キラキラとした天井のような海面が見えた。あそこまで上がれば助かる、と思った。友美は必死に手足をバタバタさせた。

「くるしいよ。ママ助けて……パパ……お姉ちゃん……」

 しかし、もう友美にはそこまで上がるだけの体力も、酸素も残っていなかった。次第に意識が遠くなっていった。身体がどんどん沈んでいくのが自分でもわかった。海水が氷水のように冷たく感じた。光る天井はもう見えなくなっていた。

「寒いよ……ママ……」

 友美は眠るときと同じように静かに目を閉じた。

 しばらくして、遠くの方でざわざわと人の声がした。その中に混じって母の声が聞こえてきた。

「友美、友美!」

(あ、ママだ)

 そう思って友美は目を開けた。

「友美!」

 母が友美に覆い被さっておいおいと泣いた。母の後ろには顔面蒼白の父が立っていた。姉の姿もあった。

 どうして母が泣いているのかも、どうして自分がここで横になっているのかもわからなかった。

「友美、パパだよ。わかるかい?」

 父の呼びかけに友美は黙ってうなずいた。

「意識が戻ったみたいですね。もう大丈夫だとは思いますが」

 全身真っ黒に日焼けしたライフセーバーが父に話しかけていた。

「本当にありがとうございました」

 深々と頭を下げる父にその男性は表情を変えずに言った。

「いや、私は応急手当をしただけです。お礼を言うならこちらの方ですよ」

 男性は隣にいた中年の男性を指差した。

「偶然、この子が溺れる瞬間を見ていたものでね。もう必死でした。いやぁ、本当に助かって良かった」

 その人物は父よりもお腹の辺りがポッコリとしていた。

「もう何とお礼を言ったらいいのか……本当に命の恩人です」

「いやいや礼には及びませんよ。私にもこの子と同じくらいの歳の子供がいるので他人ごととは思えなかったんです。助かって本当に良かった」

 笑顔で立ち去る命の恩人に向かって両親は何度も何度も頭を下げていた。

 ようやく意識もはっきりとした友美はゆっくりと起き上がった。

「友美も無事だったみたいね。ねぇパパ、また泳ぎたいわ」

 美有希が海の方へ父の手を引っ張った。父は困った顔をしてずるずると海の方に向かった。

 友美はもう海に入りたいと思わなかった。パラソルの下で膝を抱えて母と二人で寄せ返す波と無邪気にはしゃぐ海水浴客をボォーッと眺めていた。

 何もしない、何も考えない退屈な時間だけがゆっくりゆっくりと過ぎていった。友美にはほんの五分が一時間にも二時間にも感じていた。

(いつまでここにいるんだろう……もう帰りたい……)

 海を見ているのにも飽きてきた。友美は膝に顔を埋めた。

「ねぇ」

 女の子の声がした。

「いっしょにあそぼ」

 友美が顔を上げると、自分と同い年くらいの女の子が二人と男の子が並んで立っていた。

「海はイヤよ」

「うん。お砂場で遊ぼ」

 一番右にいた女の子が手を出した。友美はその手を握りしめるとお尻に付いた砂を払いながら立ち上がった。

「大きいお山を作りましょ」

 四人はパラソルの前で円になり、小さな手で砂をかき集めた。水をかけながら少しずつ大きくなった砂山はやがて五十センチくらいの高さになった。

「そしたらね、今度はね、穴を掘るの」

 そう言って一人が山のふもとを掘り出した。するともう一人の女の子も続いて掘り出した。

 勢いよく掘り進める二人とは違って、男の子は砂山が崩れないように慎重に砂山に手を突っ込んでいた。

「ねぇ、お名前何て言うの?」

「きうちともみ」

「ともみちゃんって言うのね。私くらしやけい」

「くらしやゆり」

 そして最後に男の子が口を開いた。

「くらしやむぎ」

 そう言って口許を緩めた。

「ねぇ、ともみちゃんもドンドン掘ろ! どっちが一番奥まで掘れるか競争だよ!」

 争うように砂を掘る女の子二人につられるように友美も一生懸命穴を掘った。そして横穴は肘の辺りにまで達した。

「みんな、真っ直ぐ掘ってる?」

 結梨の言葉に他の三人は一様にうなずいた。

『♪楽しいときは二人分~♪』

 佳衣が鼻歌を唄い始めた。すると、それに結梨も続けて、

『♪悲しいときは半分こ~♪』

 と唄った。

 友美がキョトンとしていると、

「これはね、三人で作った歌なんだ。楽しいときとか、悲しいときに唄うんだ」

 友美は二人の歌を黙って聞いていた。そしていつの間にか友美もその歌を一緒に唄っていた。

「あ、ともみちゃんもお歌唄ってるんだね!」

『♪楽しいときは二人分~ 悲しいときは半分こ~♪』

 何気ない歌がなんだか心地良かった。友美は何度も何度も繰り返し唄った。

「もうちょっとかなぁ」

 佳衣と結梨の動きが止まった。彼女たちの様子を見て、おやっと思った瞬間、それまで湿って固かった砂から、柔らかくて温かい感触がした。

「あっ!」

「あっ!」

「あっ!」

 それは佳衣と結梨の手だった。

「おにいちゃん、まだ?」

 二人が麦の顔を見た。

「たぶん、もうちょっと……あっ」

 友美の手に、麦の手が重なった。彼女たちと同じくらい柔らかい手だった。

 四人の手が砂山の中で繋がって一つになった。

「やったー! トンネル開通!」

「大成功!」

 四人は顔を見合わせて歓声を上げた。すると佳衣と結梨はおもむろに立ち上がった。

「バンザーイ!」

 握られたままの手がうずたかくそびえ立っていた砂山を一瞬にして壊した。四方に砂が飛び散り、友美は思わず目をつぶった。

「ねぇ! ともみちゃん、見て!」

 友美が目を開けると、風下にいた麦だけがみんなよりもたくさんの砂を浴びて頭から砂だらけになっていた。

「ハハハハハ!」

 佳衣と結梨の甲高い笑い声につられて友美も笑った。

「あははは!」

 その後もずっと四人で砂遊びを続けた。やがて見覚えのある男性が三人を迎えにやってきた。その顔とポッコリとしたお腹を見て、自分を助けてくれた人だとすぐにわかった。

「おーい、そろそろ帰るぞ」

 友美にはその言葉が、楽しかったひとときの終わりを告げる言葉のように聞こえて、急に寂しい気持ちになった。

「やだ、まだ帰りたくない」

 友美がぽつりと言った。それを聞いた麦が友美の手を握った。

「もうちょっと遊びたい」

 麦が父親に向かって言った。

「じゃあ、もうちょっとだけだぞ」

 そう言って父親は笑顔で戻って行った。

「ありがとう」

 友美の顔にまた笑顔が戻った。

「またお砂遊びしよう」

 しばらくして今度は友美の父がやってきた。

「みんな楽しそうだね」

 友美は顔を上げて父を見た。

「もう帰るの?」

「もうそろそろね。あ、そうだ」

 と、父は慌てて自分達のパラソルの方に向かうと、駆け足で戻ってきた。

「せっかくだから写真を撮ってあげよう。さ、みんな並んで」

 そう言って父は四人にカメラを構えると、続けざまに写真を撮った。

 帰り道、渋滞に捕まった車はずっとのろのろ運転だった。

 隣の席では、泳ぎ疲れた美有希がいびきをかいて寝ていた。友美は沈んでいく夕陽とオレンジ色に染まる街並みを窓から見ていた。

「友美」

 運転している父が声をかけた。

「ごめんな。怖い思いをさせて」

 友美は黙って首を横に振った。溺れたことは父や母のせいではないことはわかっていた。

「海は嫌い……でも楽しかった」

 佳衣や結梨の楽しそうな顔、麦の微笑み、そして四人で手を繋いだときの柔らかな感触を思い出した。

『♪楽しいときは二人分~♪悲しいときは半分こ~♪』

 思わず口ずさんでいた。この歌を唄うとどんな淋しいことも忘れられるような気がした。

「ねぇパパ、私ね」

 運転席の父に向かって友美が声をかけた。

「結婚するならむぎみたいな人と結婚したい」

 その時の友美は何気なくその言葉を口にしたのかもしれない。しかし友美の父はその言葉を忘れずに覚えていた。

 その後、お互いの父同士は連絡を取り合い、年に何度か一緒に飲みに出掛ける間柄となっていた。そしていつしか麦と友美を許婚とすることを親同士で勝手に決め、友美の十八歳の誕生日となる三月四日に双方の親から本人に許婚の話を切り出すサプライズを計画していた。

 海で溺れたショックで海に対する恐怖心が友美の中に無意識のうちに根付いてしまっていた。映画撮影の時、海辺で急に体調を崩したのはそのせいだった。

 忌まわしい海の記憶と一緒に麦達との記憶も閉ざしてしまっていた。

 自分と麦の二つの点と点が繋がって一つの線となった瞬間だった。


 雨の中、花岡と杉木が教会にやってきた。

「せっかくの結婚式だって言うのに雨だなんて。映画撮影の時も最後は雨だったし、木内先輩は雨女なのかなぁ」

「一年の三分の一は雨が降るんですから、そんなのは偶然です」

 二人は式の模様を撮影するカメラマンの大役を任されていた。

「もう中に入っても大丈夫なのかな?」

 花岡が入り口の扉をそっと開けた。

「杉木さん、中の方が温かいよ」

 教会の中は灯りが落ちていたが、窓から差し込む自然光が白い壁に反射して、思ったほど暗くはなかった。木製の長椅子と中央に敷かれた赤い絨毯、そして正面の祭壇が教会の独特の雰囲気を醸し出していた。

「やっぱり、何か緊張するね」

 花岡の声がしんとした空気の中で反響した。

 祭壇脇のドアが開いて、加藤と麦が現れた。

「やぁ、二人とも早いね」

 二人は神父の格好をした加藤を見て思わず目を疑った。

「部長、どうしたんですか?」

「え? 何が?」

 加藤がきょとんとした。

「新しいコスプレですか?」

「いや、今日のための正装だよ。だって俺神父だから」

 驚いている二人の後ろで、また入り口の扉が開いた。

「わぁ~! お兄様!」

「スーツ姿が凜々しいわ~!」

 制服姿の佳衣と結梨が麦を見て、歓声を上げた。その隣には千秋の姿もあった。

 キャッキャとはしゃぐ声が教会中に響き渡った。

「あれぇ? 加藤君ってば、今日はいつもと格好が違うね。神父さんみたい」

「だから、俺神父なの」

「じゃあ、ここって加藤君ちの教会なの?」

「ひいじいちゃんの代から続いているんだ」

 佳衣の顔が急ににやついた。

「ということは、ちゃんと割礼も済ませちゃってるって訳ね。ぐふふふふ……!」

 杉木が首を傾げた。

「カツレイ、て何ですか?」

「おちんちんの皮を剥いちゃうことだよ!」

「!」

 杉木は顔を真っ赤にして、下を向いた。

「あれっ、お父さん達は?」

 麦が尋ねた。

「お姉様のドレッシングルームに行ってるって。私も見たかったけど、本番まで我慢することにしたの」

「その方が感激も倍増だもんね!」

 加藤と並んで立っている麦を見て、この人が木内先輩の花婿なのかと杉木は思った。なんだか頼りなさそうでつかみ所のないこんな男が彼女の好みだったことが彼女には意外だった。この男ならまだ加藤の方がしっかりしているように見えた。

「人ってわからないものね」

 三月の雨の日、麦と友美は結婚式を挙げた。

 麦と友美はそれぞれレンタル品のスーツとウェディングドレスに身を包み、麦の収入と友美が密かに貯めていた貯金で買った結婚指輪を交換した。

 加藤が誓いの言葉を読み上げると、二人は契りのキスを交わした。

 千秋は心から二人を祝福していた。が、まだ心の片隅には麦への想いが残っていることも事実だった。三歳の時に引っ越してきて以来、麦とは兄妹のように仲良くしていた。一緒に遊び、一緒に食事をし、時にはお互いの家にお泊まりしたこともあった。子供心に、ひょっとしたらこのまま何となく彼と結婚してしまうのかと思う時期もあった。だから、二人の誓いのキスを少しだけ複雑な気持ちで見ていた。

 と同時に、祭壇に立つ二人の真ん中で、自分と同じ表情をしている加藤の顔を見逃さなかった。


 式から数日後、四人が向かい合わせで座る急行列車は一路海へと向かっていた。

「……と言うわけで、夜は卓球、トランプ、マージャンのトライアスロンゲーム大会だからね!」

 佳衣と結梨が提案したホテルでのゲーム大会の説明に友美が水を差した。

「私、マージャン知らないわよ」

「大丈夫、お姉様には夕食が終わるまでにこれで覚えてもらいます」

 そう言って結梨は一冊の本を差し出した。

「『初めてのマージャン入門』?」

「優勝者には最下位の人から熱いチューがもらえます!」

「私、優勝でも最下位でもどっちでもいいなぁ!」

 そう言ってはしゃぐ二人を見て、友美はまんまと二人の策略に引っかかったのではないかと思った。

「お兄様が優勝したときは、三人からキスね!」

「それで、お兄様がビリの時は三人にチューだからね!」

 えー、と困った顔をする麦を見て友美は吹き出した。

『♪楽しいときは二人分~♪』

『♪悲しいときは半分こ~♪』

 佳衣が歌い出すと結梨も続いた。友美も麦も唄った。

『♪楽しいときは四人分~♪』

『♪悲しいときは四分の一~♪』

 佳衣と結梨が急に歌詞が変えたので、麦と友美がつっかえた。それを見て妹たちは楽しそうに笑った。

「それにしても、本当にお二人さんのハネムーンに一緒について来て良かったのかなぁ?」

「いいの。佳衣ちゃんと結梨ちゃんがいないとダメなの」

 友美が嬉しそうに言った。

「またあの海に行って、四人で砂の山を作って遊ぶの。穴掘って、トンネルの中で手を繋いで」

「部屋は一緒だけど私達は目隠しと耳栓して存在消してるから、どうぞ気になさらずに」

「? 何のこと?」

「ハネムーンの初夜と言えば、お二人さん! ……ぐふふぇふぇふぇ……!」

 結梨がいやらしそうに笑った。

「あ、そ。じゃあ遠慮なく二人で楽しませてもらうわ。ねぇ、麦」

 そう言って友美は麦の顔を見た。麦はちょっとびっくりした顔で彼女を見返した。

「あ、海!」

 佳衣が窓の外を指差した。防風林の向こうから水平線が顔を覗かせたかと思うと、やがてコバルトブルーの海が窓一面に大きく広がった。

 友美は身を乗り出して海を見た。寄せ返す波が何本も白い線を描き、太陽の光をキラキラと反射させて眩しかった。

「綺麗……」

 友美は自分の身体が海に吸い込まれそうな感覚に陥った。呼吸が乱れ、強い動悸と言いようのない恐怖心が彼女を襲った。

 思わず麦の手をぎゅっと握った。

 麦も彼女の手をキュッと握り返した。


 大丈夫。


 友美は静かに笑っている麦の横顔を見た。

 いつの間にか彼女の髪は肩まで伸びていた。



ー了ー


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