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せくでざ  作者: 小田 聡
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せくでざ(1)

 木内友美の初恋は小学五年生の時だった。相手の男の子は学級委員で、テストではいつも百点を連発するいわゆるガリ勉タイプだったが、それを鼻にかけるようなことをしない好青年振りに心惹かれた。顔は中の上、笑うと両方の頬にできるえくぼがチャームポイントだった。

 ところが、体育の授業でバスケットボールをしていたときに味方からのロングパスを顔面でキャッチしてしまい、大量の鼻血を吹き出しながら大泣きをしている姿を見て一気に恋心が萎えてしまった。

 二度目の恋は中学二年の時だった。バレーボール部のエースだった彼は長身でルックスも悪くなく、他の女子生徒からも人気があった。

 しかし彼は頭が悪かった。

 ある日、彼がクラスメートに話しかけていたのを偶然友美が聞いたときのことだった。

「あのさ、駅の名前で『しぶや』ってあるじゃん。あれの〝ぶや〟って漢字でどう書くんだっけ? オレさ、〝し〟はわかるんだけどさ」

 この男は本当にバカなんだと思った。それ以上に〝し〟をどう書くのかとても知りたかった。あの時に聞いておくんだったと今でも後悔している。

 それ以来、彼女には恋心というものが湧き上がることはなかった。どんな男でも良いところと悪いところがある。それは十分理解しているつもりだが、一度欠点や短所を見つけてしまうとそれを許すことができなくなってしまう。自分自身では完璧主義者ではないと思っているし、そういう人物を見ても許容できるのに、こと恋愛ごとに関しては知らず知らずのうちに完璧を求めてしまうようだ。

 男なんて顔が良いとか頭が良いとかスポーツができるというだけで好きになるものではないとある種の悟りにもにた心境に至るにあたり、もう恋なんかしない、いやできないとあきらめかけていた。

 そんな彼女が自分に許婚がいることを知ったのは、彼女の誕生日でのことだった。

 娘の誕生日に気をよくした父親がワインを飲み過ぎてほろ酔い加減になった頃に、うっかり口を滑らせた。

「友美には子供の頃に約束した許婚がいるんだ」

 それは友美には青天の霹靂だった。

 恋をしたいとは思わないが、結婚には憧れていた。子を産み、育て、ささやかな幸せを感じながら、穏やかで睦まじい家庭を築いてみたいとは思っていた。だからその時の父の言葉は渡りに船だった。

 相手はどんな男か全くわからなくても、父が許婚と決めてくれた人物なのだから大ハズレではないと信じていた。ルックスはまったく気にしなかった。どんなハンサムな男でも性格が悪いのだけは許せなかった。

「お前はもう十八なんだから、自分の結婚は自分で決められる。自分の目で確かめて、それで良ければ結婚すればいい」

 父の言葉に彼女は即答した。

「お父さん、私まだ十七よ」

 父は泣いた。大号泣だった。娘が結婚してしまうのを悲しんでいるのではなく、許婚の存在を告げる大芝居をそれまでずっと十年以上も温めてきたというのに、一年間違えてしまうというボーンヘッドをやらかした自分自身が情けなくて泣いたのだ。

 許婚の名を『暮谷(くらしや)(むぎ)』と知らされた彼女は、その男とどんな結婚生活を送ることになるのかを夢想する日々が続いた。

 電車でお年寄りに席を譲る青年を見れば、彼もそういう人であって欲しいと思い、街中で信号無視をして道路を横断する男性を見れば、彼はあんな男でないようにと願った。

 まだ見ぬ許婚への想いを日に日に募らせた友美はついに相手の家を訪ねる決心をした。もちろんいきなり求婚するのではなく、とりあえず相手の顔を拝む程度の、ほんの軽い気持ちだった。

 暮谷家を訪れた友美は彼の妹たちと意気投合し、そのまま家に上がり込んだ。ここまでは特に問題はなかったのだが、そこでのたこ焼きパーティで波乱が起きてしまった。

 〝闇たこ焼き〟と称した色々な具材を包んだたこ焼きの中から極上ワサビたっぷりのトラップたこ焼きを友美が食べてしまい、慌てて飲んだコーラが実はコーク・ハイだったことで事態が急変した。

 突如として大虎と化した友美は、酔った勢いで「私は暮谷麦と結婚しますっ!」と本人の前で宣言したばかりか、その日から暮谷家に暮らすことまで決めてしまった。友美の両親は即座に容認し、暮谷家も諸手を挙げて彼女を歓迎した。翌日には彼女の荷物が暮谷家に到着し、それまで通っていた都内の進学校から麦達の通う地元の県立高校への編入手続きも両親の計らいでトントン拍子に進んだ。

 自ら蒔いた種に友美は半強制的に暮谷家での生活を余儀なくされたのだった。こうして彼女の新たな高校生活が始まった。

 暮谷家では両親が海外出張のため一年ほど前から兄妹三人での生活が続いていた。初めの頃は毎月振り込まれていた両親からの生活費が半年もすると全く振り込まれなくなり、生活費に困った長男・麦がたまたま締め切りが近かったというだけの理由で応募した懸賞ポルノ小説に運良く入選し、デビューを果たすことができた。

「まるで目の前で起きていることをそのまま描いたようなリアルな描写が秀逸」

 というのが選考委員からの評価だった。ガチな童貞がどうしてそんな文章が書けたのかはいずれ明らかにしたいと思うが、今のところは彼の実力としておいて欲しい。

 このことをきっかけに執筆活動に興味を持った彼は、生活のためにエロ小説家という肩書きを背負ってはいるものの、いずれは正統派の小説を書いてみたいと思うようになった。そんな彼の気持ちに感銘を受けた友美は彼の可能性を信じる一ファンとして彼を支えた。

 両親のいない家で二人のかわいい妹と同い年の許婚と暮らす麦はさぞや酒池肉林のハーレム状態かと思いきや、彼が激烈なまでの草食系男子と言うことが幸い(?)してか、妹たちと友美三人の姦しくも愉快な日々が続いていた。


 文化祭の前日、友美はお隣さん兼麦達の幼なじみ兼同じクラスの柏木千秋と一緒に暮谷家のキッチンに立っていた。

 友美たちのクラスではメイド喫茶をやることになり、この日の夕食はメイド喫茶の目玉メニューとなるオムライスの試食会を兼ねていた。

「お待ちどおさま」

 友美と千秋ができあがったオムライスを食卓に並べた。

「わぁ~、おいしそうね~!」

 麦とは三つ子の妹の佳衣(けい)結梨(ゆり)のユニゾンがリビングに響き渡った。二人は黄金色に輝く楕円形のオムライスを前にしてスプーンを片手に小躍りした。

「ホットプレートを使った方が簡単で綺麗に焼けるわね。我ながら上出来、てところかしら」

 千秋は自分で焼いた卵焼きのできばえに満足そうだった。

「具材とコンソメスープごと炊飯器で炊いちゃうなんて思いつかなかったわ。教室の中って火を使えないから、どうやってオムライスを作るんだろうって思ったけど、これなら後でケチャップを絡めれば良いだけだから楽よね」

 友美が千秋のレシピを褒め讃えた。

「味も良いけど、このイラストもカワイイよね~。食べるのがもったいないくらい」

 ウサギのイラストが描かれた卵焼きを壊さないようにと、佳衣は卵焼きをめくって中のケチャップライスだけをほじくりながら食べていた。

「ねぇ、イラストって、どのくらいレパートリーがあるの?」

 千秋がオムライスをおいしそうに頬張りながら答えた。

「人によってそれぞれだけど、ハート、星、うさぎ、ねこ……ま、細かい絵は無理だけどリクエストがあれば何でも描くことになってるの。私絵が下手だから、自信ないんだ」

 友美は麦の分のオムライスをテーブルに置くと、リビングの奥で一人ノートパソコンに向かっている麦に声をかけた。

「ねぇ、麦もちょっと一休みして一緒に食べようよ」

「……うん……」

 麦は気のない返事をしただけで、その場から動こうとはしなかった。友美ももうそれ以上は彼に声をかけることはせずに席に着いた。

「お兄様、昨日もほとんど寝てないんじゃない?」

 結梨が小声で囁いた。

「うん、そうみたいね。ずっとリビングで執筆していて、部屋に戻ってきたのはもう明け方近くだったもの」

 友美も囁き声で返した。

 今回はなかなか筆が進まずに出版社への入稿が遅れていた。もうこれ以上は遅らせることができないというところまで追い込まれ、ここ数日は寝る間を惜しんでの執筆が続いていた。

「入稿のリミットっていつ?」

「明日の昼まで」

「それじゃ、原稿が間に合わなかったら?」

「文化祭に行かずに自宅で執筆かも」

「え~っ、お兄様と一緒じゃない文化祭なんて、つまんない~~!」

「こればっかりは私たちが代わってあげるわけにもいかないし……とにかく麦に頑張ってもらうしかないわよ」

 妹たちと友美のひそひそ話を横で聞きながら千秋はちらりと麦の方を見た。しきりに頭をかく仕草を見て、彼がかなり焦っている様子だと悟った。

「ごちそうさま! 明日もお姉様の教室へおいしいオムライスを食べに行くね!」

 佳衣が最後に残った卵焼きを丸呑みし、真っ先に完食した。

「さぁ、あとはメイド服よ! 二人とも早く着替えてきて!」

 オムライスを食べている途中だった友美と千秋は妹たちに急かされるようにリビングを追い出された。

 メイド服は麦の編集担当である秋田から借りたもので、彼曰く「会社の倉庫にあったものを引っ張り出してきた」ということらしいが、あまりにも保存状態が良いのでひょっとしたら彼の私物なのではないかという疑惑が持ち上がっている。

友美の部屋で着替えを済ませた二人が再びリビングに戻ってくると、妹たちから歓声が上がった。

「ワァーオ! 素敵!」

「写メ! 写メ!」

 黒を基調としたスタンダードなセミロング丈のメイド服は、千秋にはピッタリだった。一方、長身の友美には膝上になってしまう微妙な長さのスカートがちょっと気になった。

「これってちょっと短くない?」

「いえ、ストッキングとスカートの間から見える生膝がセクシービームバチバチでグッド、グッダー、グッデストなんですぅ!」

「結梨ちゃん、それを言うならグッド、ベター、ベストね」

「千秋ちゃんにはこれが絶対お似合いよ。付けてみて!」

 そう言って佳衣はどこからゲットしてきたのか、猫耳をあしらったカチューシャを千秋に手渡した。

「こんな感じ?」

 千秋がカチューシャを着けた途端、二人の妹は卒倒した。

「やっぱり! 私達の目に狂いはなかったわ!」

「そ、そうかしら?」

「メイド服にメガネっ娘、それに猫耳まで萌え要素を足してしまったら、世の男性の六十五パーセントは千秋ちゃんにぞっこんね! ハアハア……」

 千秋の姿を見て佳衣が舌を出しながら興奮していた。その姿はまるで散歩の途中でメス犬を見つけて発情しているオス犬のようだった。

「お姉様はこの長い髪が武器よね」

 結梨は友美を椅子に座らせると彼女の髪をブラッシングしながら手際よく髪を束ねた。

「ジャーン! 今ここに史上最強のメイドが誕生しましたぁ!」

 髪をツインテールにした友美を見て二人はまたもひっくり返り、今度は全身を痙攣させた。

「これでお姉様に見向きもしない男なんてこの世に存在しないわ!」

 千秋も小さく吐息を漏らしながら、彼女の姿に見とれていた。

「やっぱり長い黒髪っていいわよね」

 くせっ毛で固い髪質の千秋には友美のさらさらと流れるようなストレートヘアが羨ましかった。

「ねぇお姉様、クルッと一回転してみて」

「こう?」

 佳衣のリクエストに応えて友美が身体を回転させた。髪が宙を舞い、スカートがふわりと開いた。

「最高~! お姉様のメロメロ光線大放出中~!」

「ダメ、おしっこ漏れちゃう~!」

 起き上がった二人はまたしてもよろよろと重なるようにして倒れた。黒い瞳の中にピンク色のハートマークが点滅していた。

「お兄様、見て! 千秋ちゃんとお姉様、とっても可愛いわよ!」

 倒れたままの佳衣が麦に声をかけると、彼は思い出したように振り向いた。

「あ……綺麗だね」

 麦はちょっとだけ驚いたような顔をして、またノートパソコンの方に向き直った。

「お兄様、リアクションが薄い~」

「あまりに可愛すぎて照れてるのよ、きっと」

 麦の顔色を見て、彼がかなり追い込まれているのを察した友美が号令をかけた。

「さぁ、明日も早いから今日はこれでおしまいにしましょ」

「はーい」

 佳衣と結梨は揃って風呂場に向かった。

「ひょっとしてあの二人、一緒にお風呂入るの?」

 テーブルの食器を片付けながら千秋が尋ねた。

「最近二人で入るのがマイブームみたい」

 友美は麦のオムライスにラップをかけた。オムライスに描いた〝ムギ〟という文字とハートマークがびろんと横に広がった。

「じゃあ、私も帰るね」

「あ、ちょっと待って。家まで送るね」

 メイド服から着替えた千秋にメイド服のままの友美が呼び止めた。

「その格好で外に出て大丈夫?」

「どうせ誰も通らないでしょ」

 千秋は友美と並んで歩きながら、ごくごく普通の住宅街の中で突然メイド服を着たツインテールの女性が表を歩いていたら誰でもビックリするだろうな、と思った。

「別にいいのに。すぐ隣なんだから」

「最近色々と物騒だから、お隣とは言え油断は禁物よ。それに……」

 友美は少しだけトーンを落とした。

「ちょっと麦のことで千秋ちゃんに相談したかったの。」

「麦君?」

「最近ちょっと元気がないみたいなの」

「確かに最近元気なさそうだけど、寝不足で疲れてるからじゃない?」

「それだけならいいんだけど……こういうとき、麦にどうやって声をかけてあげたら良いのかわからなくって」

 千秋は自分の家の前で立ち止まると、うーんと小さく唸った。

「普段通りに接してあげれば良いんじゃないかしら。変に気を遣うと、麦君もそれに気付いて逆に気疲れしちゃうかもね。彼はああ見えても意外とセンシティブなところあるから」

「さすが幼なじみね。麦君が打たれ弱いってよくわかってるわ」

「申し訳ありませんが、麦君との付き合いは友美ちゃんよりも長いんですからね」

「お見それしました、恋敵殿」

 友美は千秋に向かって最敬礼した。

「恋敵だなんて、そんな、嬉し恥ずかし……じゃなくって、えっと~」

 お隣さんだとか幼なじみという立場ならばそうはならないのに、恋愛感情を露わにした途端、急にもじもじしてしまう千秋が友美には微笑ましくも歯がゆく見えた。

(彼女が自分のことをもっとライバル視してくれれば、こっちもヒートアップするのに)

 友美が暮谷家に来たばかりの頃、千秋は麦に対していろいろと甲斐甲斐しく世話を焼き、友美に対してライバル心を露わにすることもあったが、最近ではそれもすっかりなくなっていた。

「文化祭頑張ろうね、友美ちゃん」

「うん、また明日ね」

 二人は手を振って柏木家の前で別れた。千秋が玄関に入るのを見届けてから友美はツインテールを小躍りさせながら自宅に戻っていった。

 リビングでは麦がテーブルに座ってオムライスを食べていた。

「どう? おいしい?」

「うん。おいしいよ」

 麦の口調はいつもとあまり変わらないように思えた。

「今スープ温めるね」

 うん、と言う麦の声を背中で聞きながら友美はキッチンに入った。ガスレンジの青い炎を見ながら、彼に何と声をかけようか考えていた。

 『頑張れ』はあまりにも無責任な言葉なので言いたくなかった。そんなことを言われなくても彼が頑張っているのは百も承知だ。あれこれ声をかけて彼の気が削がれてはそれこそ執筆の邪魔をしていることになってしまう。

(やっぱり、普段通りに接するのが一番良いのかな……)

 温まったコンソメスープを運ぶと、麦はすでにノートパソコンに向かっていた。パソコンの側には食べかけのオムライスがまだ半分ほど残ったままだった。

「もう食べないの?」

「……うん。また後で食べるよ」

 テーブルの上の携帯電話がブルブルと震えた。麦がもそもそと取り上げ、耳に当てた。

「もしもし……はい……あ、まだもうちょっと……はい、わかりました。何とか間に合わせます……すいません」

 電話の相手は秋田だった。明日の朝までに入稿できないと印刷に間に合わなくなるという忠告の電話だった。

 電話を切ってから、友美の視線に気付いた麦はぼそっと言った。

「取り敢えず、今時点できあがっているところまでメールで送ってくれって」

「そう」

 友美は作り笑いを見せた。

 しばらくして、風呂場の方からはしゃぎ声が聞こえてきた。どうやら二人が風呂から出てきたらしい。

「麦、お風呂は?」

「後で入る。友美ちゃん先に入って良いよ」

 パジャマに着替えた二人がリビングにやってきた。

「あぁ~良いお湯だったぁ! お姉様、お兄様、お風呂どうぞ!」

 佳衣は冷蔵庫から牛乳パックを取り出すと、そのまま口を付けてグビグビと喉を鳴らして飲んだ。

「どっちが先に入るのかな? あ、そっか。二人一緒に入るのかぁ」

 結梨がいやらしそうな顔で含み笑いをした。

「麦はまだ手が空かないみたいだから、先に入ろうかな」

「ということは、後でお兄様が私達乙女のエキスがたっぷり入ったお湯をがぶ飲みするってわけね」

 ノートパソコンの液晶画面を見つめたままの麦が表情を変えずに言った。

「そんなことしないよ」

「それじゃ、おやすみなさい」

 友美が二人の背中に向かって声をかけた。黙ったままポリポリと頭を掻く彼の背中を見遣りながら友美は風呂場に向かった。

 バスタブに浸かりながら、明日の文化祭のことをぼんやりと想像した。

 クラスメートの女子が全員メイド服を着て明るく振る舞い、男子もウェイター姿で照れくさそうに接客して賑やかな教室。用意した席は少しはにかんだり若干引き気味のお客で全て埋め尽くされ、慣れない調理や接客に戸惑いながらも楽しい時間が過ぎていく。ちょっとしたハプニングなんかが起きても、それはそれで面白いのかもしれない。

「そう言えば」

 オムライスやドリンクを提供するときに必ず決めゼリフを言わなければいけないルールがあったことを思い出した。

「たしか……『パピルマパピルマドリミンパ、おいしいオムライスになぁーれ』だったっけかな?」

 そう言いながら手でハートマークを作る決めポーズを取った。今頃クラスメートの女子達が自分と同じようにこの決めポーズを繰り返し練習しているのかと思うと、なんだかおかしくなった。

「まだ麦には見せてなかったっけ」

 風呂から上がったら麦の前で披露してみようと思った。彼はいったいどんな反応をするだろうか。無言で苦笑するだけだろうか。それともとんでもないものを見たような目で文字通りドン引きしてしまうのだろうか。今の彼なら真顔でスルーしてしまうという一番つまらない反応で終わってしまう可能性の方が大きかった。スルーされてしまうのは馬鹿にされるよりも何倍もきつい反応だ。

「それでも、やらぬ後悔よりやる後悔よね」

 友美は自分に言い聞かせるように呟いてから立ち上がった。

 パジャマに着替えるとリビングに向かった。ところがそこに麦の姿はなかった。

「トイレにでも行ったのかな?」

 肩すかしを食らった友美はリビングチェアーに腰掛け、麦が現れるのを待った。しばらく待っても一向に戻ってくる様子はなかった。

 気になってトイレのドアをノックしてみた。灯りの消えた扉の向こうからは当然ながら何も返ってこなかった。

 ひょっとして仮眠でもしているのかと思って二階の部屋を覗いた、が、ここにも麦の姿はなかった。

 あり得ないとは思ったが、念のため佳衣と結梨の部屋にも行ってみた。

「寝てるところごめんね。麦こっちに来てないかしら?」

「う、ん……来てないよ……」

 真っ暗な部屋の中から結梨の眠そうな声が返ってきた。

「ありがとう。ごめんね」

 友美は音を立てないようにそっとドアを閉めた。

「どこに行っちゃったんだろう?」

 もう一度リビングに向かおうと階段を下りた。その時、玄関のドアがガチャッと音を立てて開いた。

「」

そこには幽霊のようにゆらゆらと揺れながら立つ麦の姿があった。

「どうしたの」

「急に眠気が襲ってきたから、夜風に当たってたんだけど……やっぱり眠いや」

 彼の目は半分閉じた状態で、立っているのもやっとのようだった。

「すぐコーヒー淹れるわね。いつもより濃いめでいい?」

「いつもと同じでいいよ」

 友美は足早にキッチンに向かうと、二人分のお湯を沸かした。そして慣れた手つきでスプーン二杯分のコーヒーと砂糖一杯を彼のマグカップに入れ、それにお湯と冷たいミルクを二対一の割合で注ぐと、猫舌の麦専用のカフェオレができあがった。

「はい、どうぞ」

「ありがとう……友美ちゃんもカフェオレにしたんだ」

 テーブルに戻った麦はまだ眠そうに目を閉じたままカフェオレを口にした。

 冷たいミルクのせいで一口目からすでにぬるいカフェオレは普段ブラック派の友美には物足りなかったが、この時は何となく麦と同じものを飲んでみたかった。

「友美ちゃんが作るカフェオレはおいしいね」

「あら、どこでそんなお世辞を覚えたのかしら?」

「いつもそう思ってるよ。佳衣たちがいると冷やかされるから言えなかったんだ」

 麦が少し照れたように、はにかみながら友美を見た。

「さてと、なんとしても今日中に仕上げなくっちゃ」

 うーん、と麦は大きく伸びをしてから再びパソコンに向き直った。さっきまでと違って少しリラックスしたように見えた彼の表情に友美は少し安心した。

「ねぇ、私ここにいてもいい? 麦の邪魔はしないから」

「うん。いいよ」

 友美は頬杖を突きながら、パソコンに向かう麦の姿を黙って見ていた。カチャカチャというタイプ音が彼女の耳にはとても心地良く響いていた。

 麦と出会ったばかりの頃、彼がエロ小説を書いているということ自体がにわかに信じられなかった。半年近く暮谷家で生活した今でもまだ本当に彼が人気エロ小説家なのかと疑ってしまうことがある。

 今もまさにそんな感覚に陥っていた。

 目の前の麦はどう見ても全身草食系のごく普通の男子高校生だった。そんな彼がとても卑猥な表現で読者を魅了するような人物には見えなかった。

 麦のために四杯目のカフェオレを作った頃、時計の針は二時を回っていた。頬杖にも疲れた友美はテーブルの上で腕枕をして麦の顔を見ていた。

 麦の顔を見ながら、以前彼が「エロ小説ではなくちゃんとした小説を書いてみたい」と真剣な顔で話していたのを思い出した。

「できあがったらまず最初に友美ちゃんに読んで欲しいんだ」

 そう言っていた彼の横顔が友美の脳裏に蘇った。

(麦、頑張って。応援してるわ……)

 ほんの一瞬のまばたきのつもりで目を閉じた。が、その目は開くことなく、気付いたときにはもう朝になっていた。

 ハッとなって目を覚ました。斜め前の席にいたはずの麦の姿はなく、開いたままのパソコンがぽつんと置いてあるだけだった。

「麦?」

 思わず名前を呼んだ。起き上がった拍子に肩から毛布がはらりと落ちた。スマホで時間を確かめた。うっかり居眠りしてしまったことを後悔した。

 友美が慌ててリビングを見回すと、麦はソファーベッドの影でうずくまりながら寝ていた。

「麦、麦」

 ぐっすり寝入っている彼の身体を二度三度と揺すった。

「小説はできたの?」

「……ん……さっきメールで送った……」

 よかった、と友美は胸をなで下ろすと自分の毛布を麦に掛けた。

「学校行く時間になったら起こしてあげるから、それまでゆっくり休んでて」

 友美が言い終わらないうちに麦は再びスースーと寝息を立てた。友美は部屋の電気を消した。今からだとあと二時間くらいは眠れそうだ。

 しばらくして佳衣たちが二階から下りてきた。

「おはようございます、お姉様!」

 朝から元気な妹たちがリビングに顔を出した。

「シーッ」

 友美が人差し指を立てて二人を睨んだ。佳衣と結梨もすぐに察して口をつぐんだ。

 三人はできるだけ大きな音を立てないように気を遣いながら、会話もほとんどないまま静かに朝食を取った。

 急に佳衣がクスクスと笑いはじめた。

「どうしたの?」

 友美がひそひそ声で尋ねた。

「だって、なんだか異様な空気なんだもん」

 佳衣の肩がプルプルと震えていた。いつもは賑やかな食卓がまるでお通夜のような、いやむしろお通夜よりも静かな空気に包まれているのがなぜか佳衣のツボにはまったらしい。

「ダメだよ、笑ったりしちゃ……フフフ」

 結梨もつられるように笑った。

「こらっ、二人とも」

 二人が必死に笑いをかみ殺しているのがおかしくて、友美もつい、ぷっと吹き出してしまった。すると三人はもう我慢できずにとうとうアハハ、と声に出して笑った。

 半分寝たままの状態の麦を三人がかりで着替えさせ、両脇を妹たちが抱えながら、引きずるようにして学校へ連れていった。

「図書室で寝てるから、文化祭が終わる頃に起こしに来て」

 学校に着くなり麦は友美にそう言い残すと、教室にも行かずに図書室へ向かった。

 友美が結梨に髪をツインテールにセットしてもらって教室に戻ってくると、男子生徒達の視線は彼女に釘付けとなった。

 友美ら女子達は空き教室に移動し、それぞれ用意してきたメイド服に着替えた。ほとんどが量販店のパーティグッズで購入したメイド服だったが、中には器用に手作りしてきた女子もいた。

 メイドが大挙して廊下を颯爽と歩く姿はそれだけで宣伝効果バッチリだった。噂が噂を呼び、開始早々からたくさんの客が押しかけた。

 女性向けに男子生徒もウェイター姿で接客をしていたものの圧倒的に男性客が多いために、自然と男子は裏方に回された。

 オムライス担当が自宅から持参してきた五台の炊飯器はあっという間に空になり、用意した卵やケチャップも予想以上に消費が激しく、何度も男子生徒を買い出しに走らせた。

「おいしいオムライスになぁ~れ!」

 最初はみんな乗り気ではなかった呪文もいつの間にか板につき、ケチャップのイラストも次第に上達していた。客足は途絶えることがなく、教室のあちこちでメイド達の呪文が聞こえていた。

「キリがないから、適当に休憩入っちゃって」

 学級委員の石川純が友美の肩を叩いた。

「ありがとう。それじゃ、よろしくね」

 図書館で爆睡する麦が気がかりですぐにでも彼のところへ行きたかったが、その前に佳衣と結梨との約束を果たすために二人のクラスへ向かった。

「あっ、お姉様ぁ!」

 ピンク色のウィッグを着け、アニメキャラのような格好をして呼び込みをしていた結梨が廊下で大きく手を振った。

「? 結梨ちゃん?」

「はーい。今日はコスプレイヤーですよ~!」

「とってもカワイイわよ!」

「いやいや、お姉様のメイドさんにはかなわないですぅ! やっぱりツインテールの破壊力は抜群ね!」

 結梨のクラスではトリックアートを展示していた。教室に所狭しと飾られている絵は全て生徒達が描いた物だった。

 直線が歪んで見えるシンプルなものから、建物の上から流れ落ちた水が水路を通ってまた建物の上に繋がったり、額から動物が飛び出しているといったもの、後ろ姿の少女がよく見るとお婆さんだったりといった、ちょっと凝ったものまで様々な絵が展示されていた。教室の床にはわざと歪ませた線が引かれていて、思わず平衡感覚を失って足がすくんでしまいそうになった。

 一通り見終わった友美はまだ足許がおぼつかない様子でフラフラとて教室を出た。

 佳衣のクラスでは『マッスルチャレンジ』と銘打って、一般参加型体力測定という出し物をしていた。握力、肺活量、垂直跳び、背筋力といったごくありふれたものではあったが、年齢別にその順位を掲示板に貼り出すため、体力自慢のチャレンジャーが後を絶たなかった。

 教室の一角には、腕立て伏せ、腹筋、スクワットを三分間で何回できるのかを競う『チャレンジコーナー』が設置され、こちらも盛況だった。

 友美が教室を覗くと、それまで運動部の生徒が上位を独占していたところへ一般参加の男性が驚異的な数字をたたき出して一躍トップとなり、大歓声が上がったところだった。

「お姉様もやっていって~!」

 タンクトップにショートパンツ姿の佳衣が友美の手を引っ張った。こちらも結梨に負けず劣らず露出度が高かった。

 友美のチャレンジ結果はどれも平均並みで、とくに垂直跳びではメイド服が気になって全力で跳ぶことはできなかったために本人は不満だったが、周囲の男子生徒たちはツインテールのメイドがスカートをひらりと浮き上がらせながら垂直跳びをする瞬間を拝むことができて十分満足した様子だった。

 しきりにチャレンジコーナーへの出場を勧める佳衣を振り切り、中庭へと向かった。

 中庭ではB級グルメ対決と称した模擬店が軒を連ね、さながらフードコートのようだった。お客からの投票で我が校のB級グルメナンバーワンが決まることになるとあって、どのお店も熱心に呼び込みをしていた。

 定番の焼きそばやお好み焼き、汁物といったものはもちろん、ローメンやゼリーフライのような名前からは想像もできない食べ物も出品され、ついつい目移りしてしまうほどだ。

 その中から文字通り真っ黒な球体が見るからに怪しげな黒たこ焼きと、豚肉の代わりにホルモンが入ったホルそばという名の焼きそばを買い、自販機で自分の分と麦の分のお茶を買い足してから図書室に向かった。

 生徒達のいる校舎から渡り廊下を抜けると、校内の賑やかさが嘘のように辺りは静けさに包まれていた。

 図書室は一般客の休憩用に開放されていて、友美が図書室に入ったときにも椅子に座って休んでいたり本棚の前で静かに立ち読みをする一般客が何人かいた。

 そんな中で、窓際の自習机に突っ伏して眠り込んでいる麦の姿を見つけた。

友美は黙って近付き、彼の目の前にたこ焼きと焼きそばのパックを置いた。麦の隣に座りながら、彼がソースの匂いに気が付いて目を覚ます様を一人想像し、そうなることを密かに期待しながら、しばらくその寝顔を見ていた。しかし彼はいつまで経っても目を開けるどころかピクリとも動かずに熟睡したままだった。

(ここのところほとんど徹夜状態だったから、仕方ないか……)

 手持ち無沙汰の友美がペットボトルのお茶を一口飲もうとキャップを開けたところで、カウンターの中にいた司書教諭が大きく咳払いをした。

「図書室内では飲食禁止よ」

「あ、すいません」

 友美は慌ててペットボトルのフタを閉めた。

「その食べ物はここで食べるつもり?」

「あ、いえ……あのう、彼の分のお茶だけでもここに置いといていいですか?」

 司書教諭は少し間を開けてから、

「今日だけは特別よ」

 と言ってOKしてくれた。

「ありがとうございます」

 友美はカウンターに置いてある油性マジックを借りると、麦のペットボトルに〝Drink Me.〟と書いて彼の側に置いた。

 口を付けていないたこ焼きと焼きそばを手にして友美は一人図書室を出た。

「これからどうしようかな」

 休憩時間はまだ十分残っていた。だが、たこ焼きと焼きそばを持ったままでは出し物を見るのに邪魔だし、かと言ってこのまま真っ直ぐ教室に戻る気にもなれなかった。

 ぼんやりと見上げたそこには友美の心境などお構いなしとばかりに鮮やかなスカイブルーの空が広がっていた。

 ふぅ、と溜息をついた。

 青空が恨めしかった。さっきまで賑やかに感じていた喧噪がただの騒がしい雑音にしか聞こえなくなった。

 突然、言いようのない孤独感が襲い、思わず言葉が漏れた。

「なんだか、つまんないな……」

 友美は唇を真一文字に固く結んだ。


 パシャ。


 シャッター音に気付いて振り向くと、そこにはカメラを握りしめた男子生徒が立っていた。

「あ、ごめん。つい……」

 少し慌てたようにカメラを引っ込めた彼の制服は同じ学校のものだったが、彼の顔には見覚えがなかった。

「綺麗なメイドさんが焼きそばとたこ焼きを持ったまま空を見上げてたそがれているのがなんだか不思議で……それに」

 必死に言い訳をしているその男を友美は表情を変えずに黙って見つめた。

「少し泣いているように見えたから」

 友美は言い返そうとはしなかった。

「あ、わかった。そのパックを持ち歩くのが不便で、どうしようか悩んでたんだね。なら、これから僕達の教室に来るといい。ビニール袋くらいなら確かあったはずだ。教室はここから近いんだ」

 男は一気に言うと、友美を教室へ誘導した。友美は黙って彼の後についていった。

 彼が連れてきた教室の入り口には模造紙に手書きで『テクニックからアートへの昇華』と大きく書かれていた。その脇に『ようこそ写真部へ!』と付け加えられていた。

「写真部?」

 入口近くの〝受付〟と書かれた席に座っていた男子生徒が彼に気付いて顔を上げた。

「部長、おかえりなさい」

 男子生徒は彼のすぐ後ろにいる友美を見て、大きく目を見開いた。

「メイドさんだ……」

「レジ袋みたいのって、どこかなかったっけ?」

「今朝コンビニで買い物したので、あったと思います」

 後輩と思しき男子生徒は椅子から立ち上がり、そそくさと教室の奥へと消えたかと思うと、すぐに早足で戻ってきた。

「こんなので良ければ」

「ありがとう。上等だ」

 彼はレジ袋をそのまま友美に渡した。

「どうも」

 友美は後輩からの熱い視線をヒシヒシと感じながらビニール袋にたこ焼きと焼きそばを詰め込んだ。

「せっかくだから、見学していかないか」

 彼が指差す教室内には何枚ものパネルが整然と並んでいた。

「我々写真部が魂を込めて撮ったものばかりなんだ」

「『魂を込めて』なんて大袈裟ですよ」

 後輩はチラチラと友美の方に目を泳がせながら苦笑いした。

「写真は奥が深いんだ。ただピントを合わせて撮れば良いだけじゃない。しぼりや露出やホワイトバランス、シャッター速度、光の向きなんかを常に考えてその中からベストなものを瞬間的にチョイスしなくてはならない。もちろん構図も重要だ」

 ふうん、と言いながら友美は飾られた写真を順番に見て歩いた。

「今やカメラは子供からお年寄りまで誰でも手軽に扱えて便利な道具だ。だが、アーティストの域に達するためにはセンスが必要になる。それは経験である程度は培われるが、根本的には当人の持って生まれた才能による。そういうセンスの持ち主なんてほんのひと握り、いやほんのひとつまみしかいないのさ」

 まるで付き人のように彼女の後を付いて歩き、一枚一枚写真を解説していく彼の言葉を半分聞き流しながら写真を眺めた。彼女にはどれも単なる風景や人物にしか見えなかった。

「私にはよくわからなかったけど、どれも良い写真ね。どうもありがとう」

 一通り見終えて社交辞令的に挨拶をして教室を出ようとする友美を彼が引き留めた。

「ちょっと待って。実は、君にお願いしたいことがあるんだ」

 彼の突然の申し出に友美はキョトンとした。

「十一月に『全国高校映像コンクール』というのがあって、それに我が写真部も応募しようと思っている」

 彼の言葉を聞いて、なぜか後輩が驚いた顔をした。

「へえ、そうなの」

「それに君も出演して欲しいんだ」

「ちょい役とかなら、別に出てもいいわよ」

「いや、君には主役をお願いしたい」

「えっ?」

「この役は君にしかできない。僕は君を初めて見たときからそう思ったんだ」

 彼の目は真剣そのものだった。

「初めて見たときって、ついさっきじゃない」

「こういうのはインスピレーションが大事なんだ」

 いつの間に持っていたのか、一冊の小冊子を友美の前に差し出した。それはパソコンから印刷したものをホチキス留めしたシンプルなものだった。彼の顔が少し強張っているのが友美の目にも明らかにわかった。

「今回作ろうとしている映画のシナリオなんだ」

 友美はシナリオの表紙に書かれたタイトルを読んだ。

『星空からの伝言』

「とにかくこれを読んで欲しい。出演を断るのはそれからでも遅くはないだろう?」

「ぜひ、出演してください。お願いします!」

 後輩が友美のところへすっ飛んで来て頭を下げた。

 取り敢えず返事を先送りにして、友美は写真部の教室を出た。

「ねぇ、麦君どうだった?」

 ケチャップの匂いで充満した教室に戻ってきた友美に千秋が声をかけた。

「ずっと泥のように寝てたわ」

「そうなんだ」

「千秋ちゃんも後で様子見に行ってきたら? きっと真夏の動物園でライオンを見ているよりも退屈かもしれないけど」

 そう言った後で友美はすぐに後悔した。

(ひょっとして私、ふて腐れてるの?)

 自分の頭をコツンと叩いた。

(麦は仕事のために頑張ったんじゃないの。自分の気持ちばかりじゃなくって彼の気持ちも考えてあげないと)

 気を取り直して持ち場に戻ろうとする友美の脳裏にふと、さっきの男子生徒の言葉が思い出された。

『泣いてるように見えたから』

 あっ、と友美は声を漏らした。

(まだ彼の名前を聞いていなかったわ)

「あぁ~、文化祭楽しかったね!」

 文化祭も終わって家に着いた途端、佳衣はリビングのイスにどっかと腰を下ろした。

「でも疲れたなぁ。夕飯作りたくない……」

 結梨もテーブルに突っ伏して動かなくなった。

「何か作ろうか」

 建前でそう言ってみた友美本人も、その実はこのまま横になりたいというのが本音だった。

 持ち帰った炊飯器にはチキンライスが多少残ってはいたが、今日はもうケチャップの匂いを嗅ぎたくはなかった。これ以上ケチャップの匂いを嗅いだらケチャップが嫌いになりそうだった。

「一番元気なのはお兄様だけど、お兄様は料理できないしなぁ……」

「ははは……コーヒーでも淹れようか?」

「あ、大丈夫。やっぱり何か作るわね」

 そう言って友美が椅子から立ち上がると、玄関の方で物音がした。やってきたのは、大きなお皿を抱えた千秋だった。

「お稲荷さん、たくさん作り過ぎちゃったからお裾分け」

 佳衣と結梨が揃ってバンザイをした。

「お稲荷さん最高!」

「千秋ちゃんは我が家の救世主だわ!」

「お稲荷さんなら日本茶でいいかしら」

 友美はお湯を沸かしながら、お茶の支度を始めた。

「麦、お願い。みんなの分の小皿とお箸持っていって」

 うん、と返事をして麦がキッチンに入った。

 食器棚に手を伸ばしながら麦が言った。

「さっき佳衣達に写真送ってもらったんだ。友美ちゃんのメイド服姿とっても似合ってたよ。本当は今日学校でも見たかったんだけど、どうしても眠気には勝てなくって」

「ありがとう」

「また友美ちゃんのメイド服姿見たいな。髪もツインテールで」

「あら、麦ってツインテール属性もあったの? それともメイド萌え? メガネギャップ萌えだけじゃなかったのね」

 つまらないなどと言って身勝手に落ち込んでいた自分が恥ずかしくなった。

「またメイド服持ってきてくれたら、いつでもメイドさんになってあげるわよ。呪文も唱えてあげる」

「呪文?」

 麦が首を傾げた。

「パピルマパピルマドリミンパ、おいしいオムライスになぁーれ!」

 両手で作ったハートマークを見て、麦の目が丸くなった。ポカンとしたその顔がおかしくて、友美は声を出して笑った。

「どうしたの? 何かあったの?」

 リビングから千秋の声が聞こえた。

「ううん、何でもない。ねぇ、千秋ちゃんも一緒に食べていこうよ!」

「うん。そのつもりで少し多めに持ってきたんだ。私も何か手伝おうか?」

 すっかり指定席となったお誕生日席にちょこんと鎮座していた千秋が腰を浮かせた。

「大丈夫。佳衣ちゃんと結梨ちゃんの相手してあげて」

「ねえねえ、千秋ちゃん、今日撮った写真交換しようよ! あたしのコスプレ写真と千秋ちゃんのメイドさん!」

「あ、そうそう」

 友美は思い出したように昼間に買ったたこ焼きと焼きそばをバッグの中から取り出して大皿の隣に並べた。

「今日中庭で買ったの。おいしいかどうかは保証できないけど」

「ふうん。いかにもB級グルメって感じよね」

「大皿とたこ焼きって、何か思い出しちゃうね」

「うんうん! あの時お姉様が……」

「あーっ、その話はなしっ!」

 友美が慌てて話を遮った。

「その話をされると今でも顔から火が出るくらい恥ずかしいわ」

「でもさ、それがあったから、今お姉様がここにいるんだもんね」

「そうそう。災い転じてなんとやらだよね~」

 友美が初めて暮谷家に来たときのエピソード話をおかずに楽しい夕食が続いた。

 夕食後、麦が風呂に入っている間、写真部の生徒から受け取ったシナリオに目を通した。

 『星空からの伝言』というタイトルを見て、最初はSFファンタジーものかと思った。表紙をめくった二ページ目に書かれていた配役を見て、そんな壮大でスペクタクルな雰囲気が一気にしばんだ。

 この物語には登場人物が三人しか出てこない。主人公の男子生徒と二人の女子生徒だけだ。それも二人の女子生徒には「二役」と書かれていた。つまり、実質二人しか登場しない映画ということになる。

 不安と興味がまぜこぜになった感覚の中、友美はさらにページをめくった。


 放課後、主人公・タカキが教室で居眠りをするヨーコに一目惚れするシーンから始まる。

 物静かなヨーコの透明感と、どことなく漂うミステリアスな雰囲気に惹かれたタカキは真っ直ぐに自分の想いを伝える。彼女も彼の素直な想いを受け止め、二人の交際が始まる。そして何度かデートを重ねていきながら少しずつ互いの愛を募らせていく。

 ヨーコは絵を描くのが得意だった。時間があれば絵を描いていた。タカキも絵を描いているときの生き生きとしたヨーコが好きだった。

 偶然にもタカキとヨーコは同じ誕生日だった。誕生日にデートの約束をした二人は思い思いのプレゼントを胸に待ち合わせ場所に向かった。

 タカキはヨーコが欲しいと言っていた画材セットを手に待ち合わせ場所で待っていた。

 ところが約束の時間が過ぎても彼女は現れなかった。どんどんと約束の時間が過ぎていっても彼女は現れない。タカキが何度も電話をかけても、繋がらない。結局その日、彼女からの連絡もないまま一日が過ぎてしまった。

 翌日、学校で彼女が死んだという事実を知らされて、タカキは愕然とする。

 ヨーコはその日タカキにプレゼントするはずだった絵を徹夜で描き上げ、そのままうたた寝をしてしまう。そして待ち合わせの時間に遅れた彼女は焦りからか警報器の鳴っている踏切に立ち入り、運悪く電車に轢かれてしまった。

 ヨーコがタカキにプレゼントしようとしていたのは、タカキのポートレートだった。

 ボロボロになってしまった絵を抱きながらタカキはいつまでも泣いた。泣いて、泣いて、泣き続けてもう涙が出なくなるまで泣いた。そして彼の顔から笑顔が消えた。

「もう誰も愛さない」

 もう一生笑わなくてもいいと思った。生きていくことが無意味にさえ思った。

 空虚な日々が何日か過ぎたある日、彼はふと思った。

「死のう」

 彼は死に場所を探すために街中をさまよった。そして自分の死に場所を、彼女が轢かれた踏切にしようと決めた。

 警報器の鳴る踏切の遮断機をくぐり線路内に入るタカキを、通りかかった一人の人物が引き留めた。

 彼の腕を引っ張り、踏切の外に連れ出したのは、キョーコという女性だった。

 彼女はタカキを叱咤する。と、同時に彼が抱えている苦悩を知る。

 彼女には触れただけで相手の気持ちがわかってしまうという特殊な能力があった。

 初めはタカキのことが気がかりで会っていたが、そのうちに会いたいという気持ちの方が強くなっていった。

 初めは同情から始まった相手への想いが次第に愛情へと変化していく。

 キョーコの献身的な愛に気付いたタカキも、少しずつ彼女に心を開きはじめる。

 しかし、もう人を好きにならないと決めていたタカキはキョーコの想いを受け止めることができずにいた。

「あなたはいつまでそうやって死んだように生きているつもり? 彼女は死にたくて死んだんじゃないのよ。あなたに会いたかったのに死んじゃったの。彼女だってあなたにはもっと生きて欲しいと願っているはずだわ」

「僕がこの世界で生きている理由なんかないのさ。彼女のいない世界なんて、もうどうでもいいんだ」

 キョーコは自分の愛を伝えるためにタカキをあの踏切へ連れて行く。そして警報器の鳴る踏切を渡る。

 足がすくんで動けないタカキ。

 踏切の向こうでキョーコが自分の想いを吐露する。

 列車が彼女を遮り、声をかき消す。彼女の声が聞こえないはずなのにタカキの耳には彼女の声が届いていた。

「私は絶対に死なない。あなたを悲しませるようなことはしない。私はあなたが好きだから」

 やがて警報器が止み、遮断機がゆっくりと上がる。

 キョーコは一直線にタカキの許へ駆け寄り、彼の胸に飛び込む。そして彼に想いの全てをぶつけるように熱いキスをする――。


 風呂から上がった麦は友美の背中に向かって声をかけたが、彼女は返事をしなかった。何かを一心に読み耽っているようだった。

 彼女の手許を覗き込む麦にようやく気付いて、友美は手にしていたシナリオを見せた。

「写真部の人から映画に出ないか、って誘われたの」

 友美は冊子を麦に手渡した。

「ねぇ、写真部の部長って誰だか知ってる?」

 麦は首をひねった。

「それで、映画に出ることにしたの?」

「うーん、どうしようかな」

 友美は席を立った。

「これ読んでもいいかな?」

「ええ、どうぞ」

 麦は目を輝かせながらシナリオに目を落とした。

 友美は湯船に浸かりながら、映画に出演しようかどうか悩んでいた。台詞を覚えることは苦痛ではないが、小学校の学芸会以来の演技には全くと言っていいほど自信がなかった。

(しかも二役をこなすなんて、私にできるのかしら?)

 シナリオの各シーンや登場人物の台詞を思い出した。キョーコのように真っ直ぐに自分の想いを伝えられたらいいな、とキョーコのイメージを自分に重ねてみた。

(私、麦にちゃんと気持ちを伝えているのかな)

 この映画に出てみたい、キョーコという役を演じてみたい、という思いが次第に強くなった。

「演技力なんて、何とかなるか」

 そう気軽に考えることにして、映画への出演を決心したその時だった。

「あっ!」

 突然、ある事に気付いて思わず声を上げてしまった。

 この作品のラストがキスシーンだったことを思い出した。

 風呂から上がり、パジャマに着替えてまたリビングに戻ると、麦はまだシナリオを読んでいた。

「これ面白いね。何度も読み返しちゃったよ。これに友美ちゃんが出演するんだね」

 麦の声が心なしか弾んでいた。

「これって最後にキスシーンがあるじゃない」

 麦は映画出演に反対すると思った。というよりも反対して欲しいと心のどこかで願った。そうすれば出演を断る言い訳ができる。

「ここで二人がキスをするのは必然なんじゃないかな」

 麦は否定しなかった。

「私がこの映画に出るってことは、私がキスシーンをするってことなのよ? 麦は私が他の男とキスしてもいいの?」

「……」

 麦は答えなかった。彼は黙ったままパラパラとシナリオをめくった。

 とにかく映画の出演は断るつもりだった。彼の名前もクラスもわからなかったので、放課後になってから部室へ行ってみることにした。

 放課後真っ先に写真部室へ向かった友美は部室の入り口で背後から男子生徒に声をかけられた。

「あ、あのときの」

 声をかけたのは文化祭で受付を担当していた男子だった。彼は友美の顔を見て目を輝かせた。

「やっぱり映画に出てくれるんですね!」

 喜々とする彼に申し訳なさそうに答えた。

「いえ、ごめんなさい。私そのつもりはないの」

「でも、部室へ来てくれるってことは全く脈がないわけじゃないんですよね?」

 彼は簡単には引き下がろうとしなかった。

「私、部長さんの名前もクラスも知らないから、部室まで来ただけなの」

「この映画は部長の悲願なんです。僕も部長の夢を叶えてあげたいんです。ま、立ち話も何ですから、どうぞ中へ」

 彼の熱意に押される形で友美は渋々部室に入った。壁に掛けられたパネルがまだ先日の文化祭の余韻を残していた。部室と言っても、もともと普通教室だったところを間借りしているだけなので特別な機材もなく、机が四つ向かい合わせに並べられているのと教室の片隅にパソコンとカラープリンターがぽつんと置いてあるだけだった。

 部室ではすでに女子生徒が一人座っていて、明らかによそ者を見るように友美の姿を上目遣いで見た。

「こんにちは」

「どうも」

 彼女は小さくお辞儀をすると目を伏せた。

「杉木さん、部長は?」

 男子生徒が尋ねると彼女は顔を上げずに答えた。

「まだ来てないです」

 友美は部長が来るまでの間、壁に掛けられたパネルを見て時間を潰すことにした。

 青い空に入道雲が浮かんでいるだけのものや、樹液に群がる昆虫たち、放課後の何気ないワンシーンを切り取ったモノトーン調の写真、街の夜景を幻想的に撮ったものなどが貼られていた。前に見た時にはそれほどには思わなかった写真が、今こうして改めてみるとなかなか芸術的に見えた。

「写真やカメラに興味はありますか?」

 男子生徒がニコニコと笑みを浮かべながら話しかけてきた。

「あ、えっと……あなたの名前は?」

「はいっ、花岡です」

「この写真の中に花岡君の撮った写真ってあるのかしら?」

「いくつかあるんですが、その中でも自信作なのが……」

 花岡は大股で歩くと一枚のパネルの前に立った。

「これです!」

 その写真は、へそを出して居眠りをしている中年男性の股間に覆い被さるようにして猫が寝ているものだった。

「これはうちの父なんですけど、父も猫も全く無防備な状態で寝ているこの姿にこそ安心、平和、友愛と言った言葉が当てはまるんじゃないかと思うんです」

 友美には何気ない日常のスナップにしか見えなかったが、花岡の説明を聞いて何となくそれっぽく見えるような気がしてきた。

「僕は被写体がカメラを意識していない姿にこそ被写体の真実があるんじゃないかと思うんです。だから僕はいつも一眼レフみたいな大がかりなものじゃなく、コンパクトカメラを使っているんです」

 ふうん、とうなずきながら友美は隣の写真に目を向けた。今度は水滴の中に周囲の景色が映り込んでいる幻想的な写真だった。

「これ素敵ね。どうやって撮ったのかしら」

「マクロレンズを使って撮るんです」

 杉木がぼそぼそと小さな声で答えた。

「こういうのって撮るの難しいんじゃない?」

「いえ、コツさえ掴んでしまえばそれほどでも」

 杉木の声はややぶっきらぼうにも聞こえた。

 友美は全く性質の異なる二つの写真を見比べてみた。どちらもカメラで撮ったと言う事には変わりないが、その表現方法が全く違うことに写真の奥深さと面白さを感じた。

「みんな、ごくろうさま」

 颯爽と教室に入って来た彼は友美の姿を見るなり、表情を一変させた。目を見開き、口を大きく開け、心なしか鼻の穴まで広がったように見えた。

「やっぱり、来てくれたんだね! こんなに嬉しいことはないよ!」

 彼は大きく手を広げて、まるで外国人のようにオーバーなジェスチャーをした。

「いえ、あの私」

「よし、これで決まりだ! ついにこの企画をスタートするときが来た! 機は熟したぞ!」

 花岡が拍手をしている横で杉木は表情を変えずに部長の顔を見ていた。

 部長は友美の許に歩み寄るとそのまま彼女の手を取り、まるで選挙候補者のように両手で固い握手をした。

「ありがとう! 本当にありがとう」

「だから、違うんです!」

 彼の手を振りほどいた友美は彼に負けじと大きな声を上げた。

「私、映画には出ませんっ!」

「えっ?」

 彼の目が点になった。隣で拍手をしていた後輩も手が止まり、部長と同じ目をした。

「どうして? 何が気に入らなかったんだい?」

「どうしてって……この作品、最後にキスシーンがあるじゃない」

「当然さ」

 彼は平然と言った。

「作品全体を考えたとき、ラストのキスシーンがなければ成立しない。単なる興味本位でそのシーンを入れたわけじゃないんだ」

 彼の言葉と昨日麦が言った言葉が重なった。

「君が必然性がないと思ってそれを否定するのなら間違っている。キョーコの情熱を表現するとき、あのラストシーンではキスをする以外あり得ないんだ。君もそう思わなかったかい?」

 花岡が壊れた人形のように何度もうなずいた。

「それに、君がキスシーンを恥ずかしいと思っているのだとしたら、君はまだこの映画の本質を掴み切れていない。キョーコはタカキに自分の想いをストレートに伝えたいという一心なんだから、あの状況では彼女の心理状態はキスを恥ずかしいなんてこれっぽっちも思っていないはずだ。君だってそう思わなかったかい?」

「それは……」

 確かにシナリオを読んだとき、キスシーンに違和感はなかった。とても自然な流れだし、むしろ素敵なラストシーンだと思った。

「君にこの映画に出て欲しいんだ。いや、君でなければこの映画は完成しないとさえ思っている」

「そんな……」

「君が映画に出ないというのなら、残念だがこの企画はナシだ。映画は撮らない」

 パッと明るかった花岡の顔が急に陰った。

「ちょっと乱暴すぎない? 別に私じゃなくてもこの映画は」

「いや、絶対君でなければダメなんだ」

 彼は強い語気で友美の言葉を遮った。

「この映画を撮ろうと思ったのは、昨日今日思いついたことではないんだ。一年以上前からシナリオはできあがっていた。そしていつかこの映画を撮ろうと、ずっとキャスティングを考えていた。そしてとうとうイメージにぴったりの女性が現れた。それが君だった。君でなければこの映画は撮れないと感じたからこそ、僕は君に声をかけたんだ」

 昨夜お風呂の中で、キョーコと自分を重ねたときのことを思い出していた。映画に出たくないわけではない。むしろ出てみたいとさえ思っている。けれど、どうしてもキスシーンのことが引っかかってしまっているだけだ。

「……もう一日考えてみてもいいかしら」

「あぁ、何日でも待つよ」

 彼は微笑みながらうなずいた。

「そう言えば、お互い自己紹介してなかったね。僕は加藤はじめ。三年一組だ」

「私は三年三組の木内友美」

「えっ 君があの木内さんだったのか!」

「『あの』ってどういうこと?」

 友美が眉根を寄せた。

「五月に突然転校してきてすぐに中間テストで学年トップ3に輝いたという、あの木内さんだよね?」

 加藤はまるで街中で芸能人を見かけたときのような目で友美を見た。

「おかげで僕はそれまで死守していた学年トップの座を追われる羽目になったんだ」

「それって、ほとんど言いがかりですよね」

 友美が半ばあきれ顔で言った。

「木内先輩に非はありません。部長本人のせいだと思います」

 花岡が友美のフォローに回った。

 友美はとりあえず後日返事すると約束して部室を出た。

 廊下の窓から外を眺め、一つ溜息をついてから自分の教室に戻った。

 教室では暮谷兄妹と千秋の四人が紙マージャンに興じていた。

「お姉様、おかえりなさい!」

「みんな帰っちゃったのかと思ったのに」

 友美はキョトンとした顔で四人を見た。

「お姉様が戻ってくるまで待とうって、お兄様が」

「麦が?」

 友美は麦の顔を見た。

「鞄置きっぱなしで教室を空にするのも危ないし」

 麦は微笑みながら友美を見た。

「映画の話がどうなったのかも気になってたしね」


 麦と友美の二人は夜の散歩に出ていた。

「なんだか久し振りね」

「うん。一週間ぶりくらいかな。このところ締め切りに追われてたからね」

 友美が夜空を見上げるとキラキラといくつもの星が瞬いていた。彼女は散歩中に夜空の星を眺めるのが好きだった。

 以前は天気の良い夜は毎日のように散歩していたが、ある夜通り魔に襲われたことがあって以来、週に一、二度のペースに減った。散歩コースも人通りの少ない河川敷から住宅街に変えたのだが、やはり住宅街だと星が見づらいので最近はまた河川敷のコースを歩くようになった。

 二人が通り魔に襲われたとき麦は友美を守ろうと身を挺し、結果、通り魔にナイフで刺されてしまった。幸い軽傷で済んだから良かったものの、あの時麦の身体から流れ出る鮮血を目にしたときの恐怖は今でも彼女の胸に残っていた。だが、それ以上に麦の勇敢な態度が彼女の瞼の裏に鮮やかに焼き付いていた。あの時麦が通り魔に対峙したときに言ったセリフが耳にこびりついて今も離れない。

「オレの女に手を出すな」

 このセリフを思い出す度に胸がキュンとなった。今も河川敷を歩いていてまたその時のことを思い出していた。

「今日はちょっと肌寒いね」

 麦がズボンのポケットに手を突っ込んで猫背になりながら言った。

「あら、そう?」

 友美は火照った頬を手で押さえた。

「ところで、映画出演はまだ決めていないんだ?」

 麦は友美の方をチラッとだけ見て、また前に向き直った。

 うん、と答えた友美の声は夜空に吸い込まれていった。

「友美ちゃんが出演を拒んでいるのは、キスシーンがあるからだよね」

 友美は小さくうなずいた。

「僕は、気にしていないよ」

「え?」

「だって、キスシーンって言ったって、演技でのキスなんだよね。本当のキスとは違うんだよね」

「でも、実際にキスをすることには変わりないわよ」

「それは違うと思う」

 麦はずっと前を向いたままで友美の方を見ようとはしなかった。

「本当に心のこもったキスとは別物だと思う。演技の上でのキスはただ単に唇を合わせているだけの行為に過ぎないんだと思う。だから僕は友美ちゃんが映画でキスシーンがあっても気にしないよ」

「麦……」

「僕、友美ちゃんが出演する映画を観てみたいんだ。その中でキスシーンがあっても、それは演技なんだってわかってるし、その……ベッドシーンだって、必要なら演じたって構わないとさえ思ってる」

 並んで歩く彼の横顔を覗いてみる。いつになく真面目な表情だった。

 友美は麦の腕を掴んだ。彼がハッとなって彼女を見た。彼女の顔が急に近付いてきた。彼はじっとしたまま動かなかった。

 友美の柔らかい唇が麦の唇に重なった。

 麦はキスの間、ずっと息を止めていた。

 彼女の唇がそっと離れると、真っ直ぐに見つめる彼女の瞳が飛び込んできた。彼女の瞳に夜の灯りが反射してキラキラと鈍い光を放っていた。

「私のファーストキス。本当のキスは今、麦にあげたからね」

 彼女が微笑んだ。夜風に前髪が小さく揺れた。

「僕も、ファーストキスだった」

 彼女が麦の手を取って、ぎゅっと握った。彼女の手は唇と同じくらい柔らかくて温かかった。

「あら、エロ小説家なのに?」

「童貞だってエロ小説は書けるのさ」

 麦は遠くに見える橋の上の街路灯と行き交う車のライトを見ながら言った。

「何事も経験することが大事よ。特に小説家ならね」

「うん、そうだね。でもそれって女優にも言えることなんじゃないかな」

 友美はクスッと笑った。

「女優だなんて。ただの自主制作映画に出る一キャストなのよ」

「でも主役は主役じゃないか。すごいことだよ」

 二人の肩が触れる。その肩が触れ合ったまま二人は並んで歩いた。

「友美ちゃんの主演映画、観てみたいな」

「……麦がそこまで言うんじゃ、しょうがないか」

「じゃあ、出るんだね」

 急に麦のトーンが上がった。

「でも、映画に出るにはもう一つ条件があるの……」

 加藤は映画出演にあたり、キスシーンの他にもう一つ条件を出していた。それは髪をショートカットにするというものだった。ヨーコ役はロングヘアーだが、キョーコ役ではショートカットなのだという。この条件もキスシーンと同じくらいに譲れないポイントらしい。

「良いと思うよ。友美ちゃんのショートヘアも見てみたいな」

「麦は何でもいいのね」

 うん、と麦ははっきりと答えた。

「友美ちゃんなら、何でもいいよ」

 麦とこんなに喋ったのはとても久し振りのような気がしてなんだか嬉しかった。

「あ、そうそう。コンビニに行って牛乳買ってこなくっちゃ。それと佳衣ちゃん達にデザート買って来てって言われてたんだ」

 二人は河川敷の土手から下りてコンビニがある通り沿いに向かった。

 コンビニに入ると友美の手がほどけて、彼女は牛乳が置いてあるコーナーへと真っ直ぐに向かった。

 その彼女の背中を見つめながら麦はまだ手のひらに残っている彼女の温もりを名残惜しそうに握りしめた。

 翌日、一時間目の休み時間に友美は加藤のクラスを訪れた。加藤は友美の返事を聞くと人目もはばからず彼女にハグを迫り、そのまま勢いよく教室を出ていった。

 友美が教室に戻る頃、加藤の弾んだ声が教室のスピーカーから流れた。

「えー、写真部のみなさんと三年三組の木内さんにお伝えします。放課後緊急会議を開きますので、もれなく全員集合すること。遅刻バックレは厳禁です。以上!」

 放課後、写真部三名プラス友美による緊急会議が開かれ、今後の撮影スケジュールや進め方について加藤から説明があった。

 コンクールまでの期間が短いため、撮影はおよそ二週間で完了するというハードスケジュールとなった。機材は杉木家にあるビデオカメラと三脚を借用することにした。

 早速、翌日から映画の撮影が始まった。撮影初日はタカキが教室で居眠りをしているヨーコに一目惚れするという冒頭のシーンだった。

「このシーンは映画の方向性を決める大事なところだから妥協は許されない」

 と言って加藤は同じシーンを何度も撮り直した。ようやく彼からOKの声が出たときはすでに日没近くになっていた。

 この日は撮影に集中できるようにと麦達は先に帰宅していた。友美は初めて一人で学校から帰ることになった。

「ただいま」

「おかえりなさい! お姉様。いや大女優様!」

 キッチンから佳衣の声と一緒に香ばしい薫りが玄関に届いた。どうやら今夜は揚げ物のようだ。

 結梨は佳衣に背を向けて一心不乱に千切りキャベツの山を作っていた。

「その〝大女優〟っていうのはやめてよ」

「じゃあ、アカデミー主演女優がいいかな?」

「それもダメ」

 リビングでは麦がノートパソコンを広げていた。

「もう次の連載書いてるの?」

 友美が麦の肩越しに液晶モニタを覗き込んだ。

「うん。これはもう一つの方なんだけどね。ちょっといいプロットが思いついたから」

 麦の言う「もう一つ」とは、エロ小説ではなくノーマルな小説のことを指していた。納得のいく作品ができれば秋田を通じて文芸部門の担当者に紹介してもらうつもりでいた。

「へぇ、どんな小説なの?」

「内緒。と言うか、まだ教えられるほどにも達していないレベルなんだ」

「頑張ってね」

 ポンと麦の肩に手を置いた。

「ねぇ、私も夕飯作るの手伝うわ。何すればいい?」

「女優さんはお料理厳禁です!」

 佳衣が持っていた菜箸でバツを作った。

「ケガとかヤケドとかしたら大変だから、撮影が終わるまで手伝わなくていいからね」

「それじゃお言葉に甘えることにするわ」

 二階に上がり、部屋着に着替えながら昨日の散歩のことを思い出していた。

「ファーストキスで何かアイデアでも浮かんだのかな」

 麦が書き始めた新作に中身がとても気になっていた。

(まさか純愛小説なんか書くつもりなのかな……エロ小説から純愛小説への華麗な転身もそれはそれで面白そうね)

 友美は一人笑いしている自分に気付いて、ふふっと笑った。

「何事も経験、かな」

 無意識のうちに鼻歌を歌いながら軽快に階段を下りた。

 映画の撮影は放課後だけではなかった。

「生徒達がいるシーンを撮りたい」

 という加藤の意向で、休み時間や昼休みにも半ばゲリラ的に撮影はおこなわれた。

 衆人環視の中で友美は恥ずかしかったが、NGを出せばその分みんなに迷惑をかけてしまうことになると、羞恥心を捨てて撮影に臨んだ。

 土曜日はタカキとヨーコのデートシーンを撮影するため、海辺でのロケが予定されていた。

 いつもよりも早く起きた友美は、タオルケットにくるまった麦の背中を見ながら部屋を出た。

 二人は毎日同じ部屋で寝ている。友美がベッドに寝て、麦が床に布団を敷いて寝ている。幸か不幸か麦から彼女に夜這いをかけるようなことは一切なかった。最初の頃はドキドキしていたが、麦が完全草食系だとわかってからはそれもなくなった。

 キッチンではエプロン姿の佳衣と結梨が手際よくお弁当を作っていた。

「おはようございます! お姉様!」

「おはよう。ごめんね、土曜日なのに早起きさせちゃって」

「お姉様直々の命を受けてとても幸せよっ! 張り切って作っちゃってるんだから!」

 二人は朝早くからお弁当を作っていた。加藤が「デートで手作りのお弁当を食べるシーンを撮りたいから作ってきてくれ」と指示をしてきたせいだった。

 できあがった色とりどりのお弁当を見て友美は思わず声を上げた。

「すごいじゃない! こんなに素敵なお弁当、私には作れないわよ」

「お姉様が喜んでくれて私達も嬉しいですぅ!」

「お姉様のその服装も素敵よ!」

 結梨がワンピースにカーディガン姿の友美をうっとりとした目で見つめた。

「お兄様が見たらきっと泣いて喜ぶわね」

 実はこの服装を昨夜のうちに麦にも披露していた。

「とても素敵だよ」

 と少しはにかんだ彼の姿を思い出した。

 妹たちに見送られて家を出た友美は加藤の指示通りに電車を乗り継ぎ、予定の時間よりも早く集合場所の海浜公園駅に着いた。

 改札を出たところですぐに加藤の姿を見つけた。

「おはよう。ずいぶん早いのね」

 友美の声に振り返った加藤は彼女の姿を見るなり「おーっ」と唸った。

「今日は一段とお美しい」

「あら、お世辞が上手ですこと」

「女優の気分を乗せるのも映画監督の仕事だからね」

「何よそれ。やっぱりお世辞ってこと?」

 ははは、と加藤は大きく笑った。

「一応、加藤君のリクエストに近いイメージの服装にしてみたつもりだけど大丈夫だったかしら?」

 加藤は大きくうなずいた。

「ノープロブレム。まさに僕が思い描いていたとおりの服装だ。こういう清楚な感じが欲しかったんだ」

 海に近いせいか、風に乗って潮の香りがした。その香りを嗅いだ途端、急に胸元から喉にかけて何か異物がこみ上げて来るような気持ち悪さを感じた。友美はまだ朝食を取っていなかったことを思い出し、気分が悪くなったのは空腹のせいだと思った。

「ちょっとそこのコンビニで朝食買ってくるわね」

「そう言えば、例のものは用意してくれたかい?」

「安心してちょうだい。ちゃんと作ってきました。と言っても、作ったのは佳衣ちゃんと結梨ちゃんだけど」

 友美はバスケットを掲げて見せた。

「なんだ、木内さんが作ったんじゃないのか」

 加藤は露骨にガッカリした表情を見せた。

「二人が作ったお弁当は私の何倍もおいしいわよ」

 コンビニに入るとなぜか不快な気分も治まった。

(ひょっとして緊張しているせい? 私緊張している?)

 取り敢えずお茶と飲料ゼリーを買って店を出た。すると集合場所には花岡と杉木も到着していた。

「さすが主役のお二人は早いですね。僕らも約束の時間には余裕で間に合ってるんですけど。気合いの入り方が違いますね」

 花岡が明るく声をかけた。

「土曜日なのに学校へ行く時間よりも早起きしなくちゃ行けないなんて不条理です」

 杉木がまだ眠そうな顔をして恨めしそうに加藤を睨んだ。どうやら杉木は朝が弱いらしい。

「よし、まずはこの辺で撮影を始めるぞ。最初は二人の待ち合わせのシーンだ」

 加藤の号令で早速撮影が始まった。杉木がカメラをセットし、花岡がレフ板を持って右往左往した。

 加藤と友美はお互いにセリフと演出の最終確認をしてからそれぞれの立ち位置に移動した。

 少しは気分も良くなったが、それでもまだ胃の奥の方がムカムカとしている状態は続いていた。

 駅前での撮影を済ませると一行は海辺の公園へと向かった。

「へぇ、公園と海岸が隣接しているなんて珍しいですね」

「海で恋人同士がじゃれ合うシーンというのはベタすぎる気がしますが」

「観客は男女が浜辺で楽しそうにしているのを見て、『あぁ、このシーンは仲睦まじいところを描いているんだな』とすぐに理解して安心する。こういう演出も必要なんだ。あまりにも予定調和とかけ離れたシーンばかりだと観客の混乱と不安を煽るだけだからね」

「ふうん、そういうもんなんですね」

 花岡はしきりに感心してうなずいた。

 公園に入ると、友美のこめかみの辺りにピリピリと弱い痛みを伴うようになった。彼女の体調不良は撮影にも次第に影響が出てきた。

「ちょっと表情が固いような気がするな。もっと楽しんでいる雰囲気を出して。それとセリフもちょっとぶっきらぼうに聞こえるのが何か所かあるから気を付けて」

 NGを連発する自分が不甲斐なかった。台詞は完璧に覚えているのにそれを口に出して表現するのがこれほど難しいとは思わなかった。

「木内先輩、ちょっと緊張してますか?」

「部長がデートの相手では気分が出ないんじゃないでしょうか」

「ごめんなさい……やっぱり演じるのって難しいわね」

 友美はハンカチで額の汗を拭った。

「よし、ちょっと休憩しよう」

 友美は近くのトイレに入ると洗面所で顔を洗った。そして鏡に映った自分を見た。

(みんなが頑張ってるんだから、私も頑張らないと)

「あら、どこかで見たような顔だと思ったら」

 鏡の端に人影が映っていた。その人物を見て友美は思わず振り返った。

「お姉ちゃん」

「やっぱりあんただったんだ」

 姉の美有希が驚く友美の顔を見て不敵な笑みを浮かべた。

「嬉しいわ。まだ私のこと覚えてくれてたのね。あちらに行っちゃって、もう姉の顔なんてとうに忘れたのかと思ってたわ」

 自分の肩にかかった髪を払うと入り口の壁にもたれかかった。

「どうしてこんな所にいるの?」

「それはこっちのセリフよ。あんたこそ何でこんな所まで来てるのよ」

 美有希は腕組みをして友美を睨み返した。

「私は、映画の撮影で」

 美有希が大声で笑った。

「映画ですって AVか何かの間違いじゃないの?」

「同じ高校の写真部が映画撮ってるのよ。お姉ちゃんはどうしてここにいるの? 住んでる所ってこっちの方じゃなかったわよね?」

「彼氏の家がこの近くなの、って言ったらあんた信じる?」

 友美は勝ち誇るような姉の顔を見て黙り込んだ。

「じゃあ、さっきからあの辺でチョロチョロしていたのがあんたの彼氏なわけ?」

 美有希は公園の方を指差した。

「彼は違うわ」

「週末に婚約者をほったらかしにして、自分はお姫様気取りで他の男達と映画撮影? いいご身分だこと」

 友美は思わず顔をしかめた。急に公衆トイレの異臭が鼻をついた。相変わらず続いていた頭痛と吐き気が余計にひどくなった。

「……」

 その時トイレの外から友美を呼ぶ声がした。加藤だった。

「木内さん、大丈夫?」

 美有希の背中越しに加藤の顔が見えた。

「加藤君、大丈夫よ」

 友美は出入り口で立ち塞がる美有希の脇をすり抜けた。

「木内さん、なかなか戻ってこないから痴漢か何かに襲われてるのかと思ったよ」

 美有希が首を少し曲げて加藤の方を見た。加藤も横目でチラッと彼女を見た。

「姉よ」

「あぁ、お姉さんでしたか。ご挨拶が遅れて失礼しました。僕は木内さんと同じ高校の写真部部長をしてます加藤と言います」

 加藤が腰を曲げてお辞儀をした。美有希も腕組みをしたまま小さく会釈を返した。

「木内さんには無理を言って映画出演をお願いしたのですが、いやぁ、木内さんは素晴らしい! 素敵な女性です。カメラのファインダーからも木内さんの美貌と気品が漂っていますよ」

 ふん、と美有希は鼻で笑った。

「お姉さんにもその美貌と気品を十分感じます。どうですか、もしよかったら僕らの映画に出てもらえませんか?」

「あら、主人公の女の子をいたぶる同級生の役なら喜んで引き受けるわよ」

「いえ、通行人の役で。部員が少なくてエキストラがいないんですよ」

「」

 半笑いだった美有希の表情が怒りの形相に変わった。

「ごめんなさい。あんた達のくだらないお遊びに付き合うほど暇じゃないの」

 そう言って美有希はその場を立ち去った。駅の方に向かって歩く彼女の後ろ姿を見ながら友美が呟いた。

「ありがとう」

「何が?」

「姉の口が悪いのは前からだから気にはしないんだけど。今日は体調が良くなかったから……助かった」

 あの時、加藤が来てくれて本当に救われた思いだった。

「お役に立ててなによりさ。それよりも、体調の方は本当に大丈夫?」

 友美は大きくうなずいた。

「私のせいで撮影が遅れてるんでしょ。これからは頑張るわ」

「よし。少し巻きで行こうか」

 友美は早足で撮影現場へと向かった。

 撮影再開後しばらくは順調だった。タカキとヨーコがお弁当を食べるシーンを取り終えたところで昼食休憩となった。

 映画撮影で使用したランチボックスがそのままみんなの昼食になった。

「みんなで食べられるように多めに作ってもらったから遠慮しないでね」

 バスケット一杯に入ったお弁当にみんなのテンションが一気に上がった。

「これ、木内先輩の手作りなんですか?」

「包丁とか油とか危ないからって、料理禁止令が出ていてご飯作らせてもらえないのよ」

「そうですか。ちょっと残念だな」

 花岡が加藤と同じリアクションをした。

「この卵焼きの味付けが絶妙だ。暮谷の妹はなかなか料理が上手だな」

「でしょ? 私なんか足許にも及ばないわ」

「杉木さんは自分でお弁当とか作るんですか?」

 唐揚げを頬張りながら花岡が尋ねた。

「お弁当を作る時間があったら、その分寝ていたいです」

「それにしても暮谷の奴、毎日こんなうまいもの食べさせてもらえているのか。羨ましい限りだ」

 みんなから好評だったお弁当は早々に完食となり、すぐさま午後の撮影に入った。

「青い空、白い雲、そして寄せ返す波と潮の香り。これこそ僕が撮りたかったデートシーンにぴったりだ」

 少しずつ体調が戻ってきた友美だったが、一面に広がる海を見た途端、再び胃液が逆流するような不快感に襲われた。そして繰り返す波の音に集中力が途切れていくのを感じていた。

(どうしよう……)

 不安を抱えたまま午後の撮影が始まった。

「このシーンは、二人が膝まで海に入ってお互いに水を掛け合うという海のデートで良くある光景だから、特に何も考える必要はないよ」

 加藤に声をかけられ、友美は慌てて笑顔を返した。

「とにかく楽しもう。ま、僕が相手じゃ楽しめないかもしれないけどね」

 加藤がにこりと笑った。

「そんなことないわよ」

 彼のさりげない気遣いが嬉しかった。

(こうなったら気合いで乗り切るしかないわね)

 パンパンと軽く頬を叩いて自分に気合いを注入した。

「それじゃ、よーい、スタート!」

 加藤の声でカメラが回り始めた。ヨーコ役の友美は加藤の指示通りに波打ち際をタカキと手を繋ぎながら歩いた。

 タカキが何か呟く。ヨーコは波の音で良く聞き取れずに曖昧に笑みを返す。

 タカキがヨーコの手を取り、海の方へと誘う。ヨーコはタカキに引っ張られ、砂浜に足を取られて、その場にひざまづく――。

「カーット!」

 加藤が大声で撮影を止めた。

「木内さん、大丈夫?」

「あ、ごめんなさい……」

 転んでしまった友美は立ち上がってスカートに付いた砂を払った。頭がボォーッとした感じで足に力が入らなかった。

(本当に今日はどうしたんだろう……)

 自分のふがいなさに悔しさがこみ上げてきた。

「よーし、もう一回最初から撮り直しだ。行くぞ、よーい」

 波打ち際を歩くタカキとヨーコ。

 タカキが海に向かって走り出し、バシャバシャとヨーコに水をかける。

 ヨーコは突然の攻撃に一瞬たじろぐが、負けずに反撃に転じる。

 二回、三回と水を掛け合う二人。

 ヨーコがもう一度水をかけようと身を屈めたとき……友美は首から胸にかけて締め付けられるような感覚に陥り、急に息苦しくなった。心臓が早鐘の如くドンドンと彼女の胸を叩いた。

 膝から崩れ落ちた友美はその場に手を付いた。寄せてくる波が容赦なく彼女の服を濡らした。

 加藤はカットの声をかけるのも忘れて友美の側に駆け寄った。

「大丈夫?」

 加藤に心配されるのは今日で何度目だろうと思いながら、友美は唇を噛んだ。

(朝起きてからずっと調子は良かったはずなのに。ここに来てから急に体調が悪くなるなんて……)

 自分でも体調悪化の原因がなんなのか見当も付かなかった。

「今日の撮影はここまでにしよう。撮りたかったシーンは大体撮れたから大丈夫だろう」

「本当にごめんなさい。私のせいで」

 花岡が木陰に敷いてくれたシートに座りながら、友美は申し訳なさそうに言った。

「そんなこと言わないで下さい。撮影なんかよりも自分の身体の方が大事です」

「木内先輩、本当に顔色が悪いですよ」

 後輩が心配そうに友美の顔を覗き込んだ。杉木から濡れタオルで顔を拭うと少しは気分も良くなった。

 友美の体調が回復してから四人は帰りの電車に乗り込んだ。花岡は電車に乗り込むと空いている席に向かって猪突猛進した。

「木内先輩! ここ空いてます!」

 友美は加藤や杉木に背中を押されるようにして花岡が確保した空席に座った。

「そんなに気を遣ってもらって、心苦しいわ」

「部長、ちゃんと木内先輩を送ってあげないといけませんよ。途中で倒れたりしたら大変です」

「部長が送り狼になってしまうのも、それはそれで問題ですが」

「わかった。木内さんに襲われないように気を付けるよ」

「そうですね、って部長!」

 花岡が加藤に関西芸人ばりのツッコミを入れた。

 四人は乗り換えのターミナル駅でそれぞれの乗り場に分かれた。加藤は部員からの要請通り友美を送り届けるため彼女と同じ電車に乗った。

 加藤は優先席に座る若い男性に声をかけて席を譲ってもらうとそこに友美を座らせた。

「朝早かったから疲れたんじゃないか。駅が近付いたら起こしてあげるから少し寝ていくといい」

 加藤の言葉に甘えて友美はすぅっと目を閉じた。この頃には頭痛も吐き気もなくなっていた。

(本当に今日の体調不良は何が原因だったんだろう)

 今日の撮影のことがまず思い浮かび、美有希とばったり会ったときの記憶が再生された。

 大学に入り、家を出た美有希とは約一年ぶりに顔を合わせた。久し振りに見た姉は化粧やファッションに気を遣うようになったのか、少し垢抜けた感じがした。友美が暮谷家に住み着くようになってからは度々家に顔を出しているらしい。

 美有希は努力型の人間で、勉強でもスポーツでもとにかくできるまで頑張るタイプだった。漢字の書き取りもみんなが一つの漢字を三回ずつノートに書くところを彼女は最低五回は書いた。算数の計算も解けるまで何分でも何十分でも考えた。休み時間や放課後にずっと逆上がりの練習をして手にマメを作ってもあきらめずに練習を続けた。

 そんな努力型の美有希は、天才型でほとんど努力もせずにそれなりの結果を残す友美が許せなかった。

 小学校の時から美有希は二歳年下の友美に対して常にライバル心を燃やしていた。とにかく友美よりもテストで一点でも多く点を取らなければならなかった。体育の五〇メートル走なら〇.一秒でも速いタイムで走らなければ気が済まなかった。そこには年齢差は関係なかった。

 そんな姉の姿を目の当たりにして、友美はいつからか彼女の前では本気を出さないようになった。

 テストでわかる問題でもわざと間違えて絶対百点を取らないようにした。かけっこでも本気で走らずに三着か四着でゴールした。

 友美にとっては姉に負けることは悔しいことでも辛いことでもなかった。自分のプライドよりも姉の機嫌が悪くならないことを優先して、いつも姉の顔色をうかがいながら行動するようになっていた。

 電車の振動とレール音が身体に心地良く響いた。友美はほんの数分くらい眠ったつもりだったが、気が付くともう降りる駅の手前付近まで来ていた。

 友美が慌てて顔を上げると、目の前には両肩に荷物を抱えた加藤が吊革に掴まったまま居眠りをしていた。

 つり革から半分手が外れかけ、半開きの口許から今にもよだれがこぼれ落ちそうになっていた。

「加藤君」

 友美が加藤の膝の辺りを軽く叩くと加藤は跳ねるように身を起こした。

「ぁがっ」

「そろそろ着くわ」

「そっか」

 加藤は口許を拭った。

「ごめんね。加藤君も大分疲れてたのに」

「いいや、どうってことないよ。木内さんを無事に送り届けるのは監督としての務めだからね」

「今日は本当にごめんなさい」

 改札を出る手前で友美は加藤に頭を下げた。

「全然撮影にならなかったわね」

「そんなことないよ。あれはあれなりに良い絵が撮れたと思ってる。また月曜から頑張ろう」

 うん、と友美は大きくうなずいた。

 この日でヨーコのシーンは全て撮り終え、翌週からはキョーコでの撮影が始まる。キョーコはショートヘアーで、ヨーコやタカキとは違う学校という設定になっていた。

 日曜日、佳衣たちが薦める地元のカットサロンで髪を切った友美は暮谷兄妹と千秋の前でセーラー服姿を披露した。

「お姉様! ロングヘアーも素敵だったけどショートもお似合いよ!」

「お姉様! あぁお姉様! お姉様! もう素敵すぎて、どんな褒め言葉もお姉様の前では色褪せてしまうわ!」

 佳衣と結梨から絶賛の嵐を浴びた。

「ショートボブにしたら、ちょっと大人っぽくなったわね」

 千秋からも新しい髪型は好印象のようだ。

「前に通っていた高校がセーラー服だったの。まだ捨てずにとっておいて良かったわ」

 実家から届いたセーラー服に袖を通した。つい半年ほど前まで来ていた制服なのにとても懐かしい感じがした。

「お姉様のセーラー服姿には清楚とエロスが混在してます!」

 麦は初めて見る友美のセーラー服姿をまじまじと見つめた。

「友美ちゃんのセーラー服姿って、なんかいいね」

「お姉様なら興行収入五〇億円は固いわね!」

「お姉様の演技なら間違いなく全米が泣いちゃうわ!」

「いや、これ商業映画じゃないから。全米公開の予定もないからね」

 翌日、放課後に写真部室に現れたセーラー服姿の友美を花岡達の歓声が出迎えた。

「木内先輩、ショートヘアも制服も素敵ですよ!」

「髪が短いと雰囲気変わりますね」

 遅れて部室にやってきた加藤も友美の姿を見て立ち止まり、しばし言葉を失っていた。

「髪型もいいけど……セーラー服、いいね」

 加藤の反応が妙に麦と似ていたのがなんだかおかしかった。

「加藤君もセーラー服に特別な感情を抱くタイプ?」

「いや、僕は映画監督として作中の空気感と木内さんの容姿がマッチしているな、と」

「部長、顔が赤いですよ」

 杉木の言葉に加藤が一瞬うろたえた。

「さ、撮影に入ろうか」

 四人は揃って部室を出た。

「木内先輩の台本って、みんなのよりも綺麗ですよね。やっぱり扱いが丁寧なんですか?」

 廊下を歩きながら花岡が自分の台本を見せた。

「僕なんかほとんど台詞がないチョイ役ばかりですけど、それでももうこんなにボロボロですよ」

「私、撮影現場で台本読まないからかしら」

「えぇ 読まないってどういうことですか」

「だって、台詞は全部覚えてるから」

「それマジですか?」

 杉木が驚いた顔で友美を見た。

「うん。自分の台詞だけじゃなくてシナリオを全部暗記してるの。だから、今日も持ってきてないわよ」

 花岡が口をあんぐりと開けた。

「私、小さい時から暗記は得意だったんだ」

「ふうん。だから転校していきなり学年三位になれたってわけか」

「部長はまだそのこと根に持ってるんですか。人間が小さすぎます」

 杉木の言葉にヘコむ加藤を尻目に友美たちは図書室に向かった。

「こんにちは、写真部です。今日お願いしていた件で来ました」

 カウンターに座っている司書教諭に向かって加藤が丁寧に挨拶した。

「あ、映画の撮影ね。撮影は生徒達の邪魔にならないようにお願い。それから撮影中でもできるだけ静かにね」

 司書教諭は表情を崩さなかった。

「図書の先生、僕苦手なんです。なんだか怖そうで」

 花岡がひそひそ声で言った。

「声を立てずに映画の撮影なんてできるんでしょうか」

 杉木が冷静な声で突っ込んだ。友美は無言で苦笑いを返した。

「このシーンは、タカキの学校にキョーコがこっそりやって来るというシチュエーションだ。一応セリフもあるけど、ここは雰囲気が伝わればいいからどんどんアドリブを入れてもらって構わない」

 図書室には数人の生徒が本を借りたり、自習席で勉強をしていたりしていた。加藤はその生徒達一人一人に声をかけて映画撮影への協力を呼びかけた。

「それじゃ、よーい」

 いつもよりも小さなかけ声で始まった撮影はいつもよりセリフが小声で、いつもより動きが地味だった。それでも加藤は「リアリティがある」と満足そうだった。

 撮影を終えると友美は三人と別れて自分の教室へ向かった。そして人気のない薄暗い教室で急いでセーラー服から制服に着替えると、セーラー服の入った紙袋と学生鞄を手にまた教室を出た。

 部室には灯りが点いていたが加藤や後輩達の姿はなく、奥にあるパソコンのモニターがたくさんのアイコンで埋め尽くされたデスクトップを表示していた。

 デスクトップには日付とコメントが入ったフォルダがいくつも並んでいた。どうやら撮影した動画ファイルをこのパソコンに保存しているみたいだった。

「加藤君ったら、まだこれから作業するつもりなのかしら?」

 突然、パソコンの脇にあったスマホからブーブーと振動音がした。

 何気なく覗き込んだその待ち受け画面を見て友美は驚いた。待ち受け画面の写真が自分だったからだ。

 もう一度、恐る恐る待ち受け画像を見た。

 友美そっくりの人物はパジャマ姿で病院のベッドに上半身を起こした状態でこちらを見ていた。友美は入院した記憶もなければパジャマ姿を写真に撮られた覚えもなかった。

 よく見れば別人だとわかるが、友美自身も見間違えてしまうほど画面の中の彼女はそっくりだった。

「誰?」

 もっとよく見ようとスマホに顔を近づけたとき、部室の入り口で加藤の声がした。

「木内さん?」

 慌てて上体を起こした友美が自分のスマホを見ていたことに気付いて、彼の動きが一瞬止まった。

 いつもとは違う表情の加藤を見て、友美が声をかけた。

「この女性は誰なの?」

 加藤の表情が強張り、そして唇を固く結んで黙り込んだ。なんとも言えない気まずい空気が部室内に漂った。

 加藤は少しだけ目を伏せ、口を開いた。

「僕の元カノさ」

 文化祭で初めて会ったときに彼が狼狽した理由が何だったのか、その時わかった。

「あの時、寂しそうな表情がそっくりだった……だから、つい反射的にシャッターを押したんだ」

 友美の中でさまざまな感情がグルグルと渦巻いた。その混じり合った感情が表に出たときにどうなってしまうのか自分でもわからなかった。だからできるだけ感情を押し殺して言った。

「だから声をかけたのね」

「最初は彼女の生まれ変わりか何かかと思うくらい顔が似ていた。正直、シャッターを押す指が震えたよ……でも、話しているうちにだんだん違うなと思うようになった……木内さんは明るくて元気だけど、彼女はずっと入院していた……」

「彼女って、まるでヨーコそのものね」

 加藤は小さくうなずいた。

「そうさ。この映画のシナリオは彼女をイメージしている」

「キョーコはあなたの理想ってこと?」

 加藤はうつむいて黙った。静かな部室にパソコンから聞こえるブーンという機械音だけが聞こえていた。

「……理想と言うよりも、願いかな。彼女は最後までベッドから出られなかったんだ」

 友美は黙って彼の話を聞いていた。

「彼女が……彼女が亡くなる何日か前に、『長い髪がうっとうしい』って言うから、『じゃあ、思い切ってショートにすれば』って言ったんだ。その時彼女も『うん、そうする』って言って……でも結局、彼女は髪を切る前に、死んでしまった……」

 加藤が自分のスマホをシャツの胸ポケットにしまう指が小さく震えていた。

「だから……見たかったんだ。彼女がショートヘアーになった姿を……だから木内さんにお願いしたんだ……」

 加藤は友美の短く切った髪を見つめた。その髪に触りたいという衝動に駆られていた。

 友美が真っ直ぐこちらを見ている。その瞳に彼女の瞳を重ねてみた。しかし目の前にある瞳は間違いようもなく友美のものだった。

 彼女と目が合った瞬間、胸の鼓動が高鳴った。加藤は心の奥にしまっていた言葉を口にした。

「君が好きだ」

 友美の表情は変わらなかった。加藤には彼女の瞳が微かに揺れたのがわかった。

「木内さんが彼女に似ているから好きになったんだろう、と思われても僕は否定しない。だって、きっかけは確かにそうだったから。でも今は違う。いろいろと話をしたり、映画を撮っていくうちに僕はいつからか木内友美という女性に惚れたんだ……もちろん、君が暮谷のフィアンセだということもわかってる。けど、自分の気持ちを自分の中に閉じ込めたままにしたくはなかった。木内さんには迷惑かもしれないけど、僕の正直な気持ちを伝えたかったんだ」

 友美は黙って彼の言葉を聞いていた。

 今まで恋愛ごとに関しては常に自分から相手を好きになっていた。麦の時も好きと言い出したのは友美の方だった。相手から好きだと言われたのはこの時が初めてだった。

 だから、初めて男性から告白されて、どう反応すればいいのかわからなかった。正直に自分の気持ちを伝えてくれたことは素直に嬉しかった。だが彼の気持ちに応えることは麦を裏切ることになる。かと言って簡単に彼を否定する気持ちにもなれなかった。

 イエスともノーとも言えぬ葛藤が友美の口を重くしていた。

(何か言わなくっちゃ……)

 彼を傷つけずにこの場を収めるような言葉を探した。しかし言葉を探そうとすれば探すほど頭の中は真っ白になり、彼への言葉が思い浮かばなかった。

(なんて言えばいいんだろう……)

 じっとりと汗ばんだ手に握りしめられた紙袋が目に入った。

「あのう、この制服、部室に置いていってもいい?」

「あ? あぁ、構わないけど」

 加藤がぽかんとした顔で答えた。

「助かるわ。いちいち持ち歩くの面倒だから」

「着替えるときは言ってくれれば部室に鍵をかけて立入禁止にするよ」

「ありがとう。でも、そこまでしなくても大丈夫よ」

 友美の口許にようやく笑みがこぼれた。

「こないだはみんなに迷惑かけたから、明日からの撮影も頑張るわね。演技は全然だけど」

「素人の映画なら十分合格点さ。木内さんは台詞覚えがいいからとても助かるよ」

 加藤は自分の心臓の鼓動が少しずつ落ち着いていくのがわかった。

「外も暗くなってきたから、途中まで送ってくよ」

 加藤の言葉に、小さくうなずいた。

 二人が学校出る頃にはすっかり日が落ち、空には満月が浮かんでいた。

 並んで歩きながら、加藤が電車通学だったのを思い出した。

「駅は全然逆方向だけど、大丈夫?」

「もちろん。僕はこう見えても男の子だからね。暗い夜道もへっちゃらさ」

 月明かりに加藤の顔が浮かび上がった。映画の撮影以外で彼の顔を間近で見るのは初めてだった。

「それに、木内さんと一緒に帰れるんだったら、どれだけ遠回りをしても構わないよ」

 普段なら歯の浮くようなセリフでも、その時は嫌味に聞こえなかった。むしろ彼にそう言ってもらえることがなんだか嬉しくもあった。

「加藤君のシナリオ、麦がとても褒めてたわ。ねぇ、加藤君は将来作家になるの?」

 加藤は真っ直ぐ前を向いたまま答えた。

「僕は、プロとしてデビューしたいんだ。それは小説でも写真でも何でもいい。とにかくプロと呼ばれるような人になりたいんだ」

「へえ、そうなんだ」

「だから、すでにプロデビューを果たした暮谷が羨ましいし、妬ましい」

 加藤は意識して彼女に歩調を合わせるようにいつもよりもゆっくりと歩いているつもりだったが、自然と歩く速度が上がっていった。友美も彼の歩調に合わせようといつもよりも少しだけ早足になった。

「でも、麦がデビューしたのはポルノ小説だし……」

「ポルノ小説だろうとプロデビューできたんだから、それだけで凄いことさ。何も卑下する必要はないよ」

 加藤が友美の方を向いた。

「どれだけ才能があってもプロデビューできない人はたくさんいる。僕だって何回も懸賞小説に応募してるけど、賞に引っかかったことなんか一度もない……運と実力の両方を持ち合わないとプロではやっていけないんだと悟ったよ」

 自嘲気味に笑う彼の顔を友美は黙って見ていた。

「あーあ、暮谷の奴め、小説家デビューは果たすわ、木内さんみたいな素敵は女性をゲットするわで、どこまでも俺の上を行ってるな」

 空を仰いだ加藤は視線の先に浮かぶ月をしばらくじっと見ていた。

 友美は加藤の横顔を見ながら、彼がさっき部室で私に告白したのだと改めて思った。


「君が好きだ」


 彼の言葉が耳許で鮮明に蘇った。胸の奥でフワフワとした感覚が湧き上がった。その感覚は再び彼女の頭の中を真っ白にさせた。まっさらなキャンバスにじんわりと文字が浮かび上がる。友美はその文字をうっかり口にしそうになった。

「私も……」

 振り返る彼の顔を見て我に返った。

「ううん、何でもない」

 友美は慌てて頭の中の文字をグチャグチャと黒いペンで書き潰した。

(私は麦が好きなのに……)

 いつの間にか二人は自宅のすぐ近くまで来ていた。友美にはその距離がいつもよりもとても短く感じた。

「私んち、ここ曲がってすぐだから……」

「あ,そうなんだ。じゃあまた明日」

 手を挙げる加藤につられるように友美も手を挙げた。

「送ってくれてありがとう」

 夜道を一人歩く彼の後ろ姿を見送った。ひょっとしたら彼が振り返るのではないかと心のどこかで思いながら、その場に立ち止まっていた。彼が振り返ったら、暗くてもわかるように大きく手を振るつもりでいた。

 結局、一度も振り返ることなく彼の姿は小さくなり、やがて見えなくなった。友美は名残惜しそうに家に入った。

 玄関のドアを開けると、いつも感じる優しい温もりが全身を包み込んだ。

「ただいま」

 友美の声が玄関に響く。するとリビングの方から、

「お帰りなさーい! お姉様ぁ!」

 と、いつもの明るい声が返ってきた。

 立ちこめる煙に驚いて、慌ててキッチンに走り込んだ。

「一体どうしたの」

「今日は秋サンマと栗ご飯ですよ~! ゴホゴホ……」

 煙にいぶされながら佳衣が網の上でサンマを焼いていた。

「サンマには大根おろしが必須だよね~! ゲホッゲホッ……」

 袖まくりをした結梨が自分の腕と同じくらいの太さの大根をガシガシと力一杯おろし器にこすりつけていた。

 友美は目の前の煙を手で払いながら尋ねた。

「けほっ……麦は?」

 いつもならリビングでノートパソコンに向かって執筆している麦の姿が見えなかった。

「お兄様は編集さんとミーティングですって!」

 麦がいなかったことに内心ホッとした。今こんなもやもやとした感情で麦と顔を合わせたら、きっと何か隠し事でもしているだろうと疑われるに違いなかった。その時にポーカーフェイスを貫き通す自信がなかった。

「何かお手伝いすることないかしら」

「大丈夫! お姉様の制服がサンマ臭くなる前に着替えてきて下さいな」

 佳衣の言葉に甘えて、友美は避難するように二階に上がった。

 三人が夕飯と入浴を済ませた頃になっても麦は帰ってこなかった。

「おにいはま、おそいねぇ」(訳:お兄様、遅いねぇ)

「へんひゅうはんと、はらひがはうんでるのかなぁ~?」(訳:編集さんと、話が弾んでるのかなぁ)

 リビングでテレビを見ていた友美に佳衣と結梨が歯磨きをしながら話しかけた。

「そうかもね」

 返事をしながら友美も麦のことが気になっていた。いつもなら帰りが遅くなるときには電話なりメールなりで連絡をしてくるのだが、この日はまだ何の連絡もなかった。佳衣が言うとおり、編集担当の秋田と新作の話で盛り上がっているのだと思いたかった。

「何か事故とかに遭っていなければいいんだけど」

「おねえはま、ひんぱいひふぎ。おにいはまははいひょうふ」(訳:お姉様、心配しすぎ。お兄様は大丈夫)

「もうほろほろはえってふるほほもうほ」(訳:もうそろそろ帰ってくると思うよ)

 歯磨きの泡が口からこぼれそうになるのを顔を上げてすんでのところで堪えながら、二人は早足で洗面所に向かった。

 麦にメールを送ってみた。が、いつまで経っても彼からの返信はなかった。仕方なく友美は自分の部屋に戻った。

 麦の布団を敷き、部屋の灯りを消した。いつもならそこにあるはずの麦のシルエットがないことに少しだけ違和感を抱きながらベッドに潜った。

 麦のいない部屋はいつもよりも少しひんやりとしていた。

 目を閉じ、睡魔が徐々に彼女の身体をベッドに沈めていった。すると不意に加藤の顔が浮かび上がった。

「君が好きだ」

 ハッとなって目を開けた。

(何なのよ……)

 友美は真っ平らな布団の影を見つめた。

(ひょっとして私、加藤君を意識してる)

 急に目が冴えてしまったところへ、部屋のドアが静かに開いた。黒い影は言葉もなく部屋の中へ滑り込んだ。

「おかえりなさい」

 友美は黒い影に向かって声をかけた。

「ただいま」

「遅かったのね」

 うん、と小さく答えると麦はパジャマに着替えずにそのまま布団に潜った。

「今日、秋田さんと会ったんでしょ? どうだったの?」

 新作の企画が無事に通ったのか気になって、麦に話しかけた。けれども麦は友美に背中を向けたまま黙り込んでいた。

「ごめんなさい。疲れてるのに……おやすみなさい」

 友美は、そっと目を閉じた。

「……ダメだったよ」

 麦がぼそっと呟いた。

「えっ?」

 友美は思わず顔を起こした。

「『売れてるうちはエロ小説を書け』だって……新作の企画はボツになったよ」

 友美は身じろぎもしない麦の影をじっと見つめた。

「……そう……また今度頑張ろうよ」

 麦は答えなかった。

 今までは秋田の要望に応えた内容の小説を書いてきた。今回自分が書きたいと思った小説を秋田に初めて訴えたが、その希望は通らなかった。

「……僕は、才能がないのかもしれないな……」

 麦の言葉が冷たいナイフのように友美の胸に突き刺さった。また加藤の言葉が脳裏をよぎった。

「麦は、プロデビューできてるんだから、才能がないわけないじゃない」

 麦の影が、遠く小さく見えた。

 翌朝、友美が目を覚ますと、麦の姿が見えなかった。

「麦?」

 ベッドを出てパジャマ姿のまま階段を下りた。

「お姉様、おはようございます!」

「ねぇ、見て! 科学者みたいでしょ!」

 ロング丈の白衣を着た佳衣が友美の前でクルリと一回転した。

「どうしたの?」

「今度の小説は養護教諭と女生徒とのレズものなんだ」

「この服、編集さんから借りてきたんだって!」

「編集さんって、絶対制服フェチか変態だよね~!」

 いつもと変わらない彼の表情に、友美は少しだけ安心した。


 映画の撮影も後半に入った。

 放課後、写真部の三人と友美は学校前のバス停に立っていた。この日の撮影現場に向かうためである。

「これまではヨーコとタカキの仲睦まじい雰囲気を撮ってきたけど、キョーコとはシリアスなシーンが続く。ここからが佳境だ。より気合いを入れて、いい映画にしよう」

 バスを待ちながら加藤がみんなにハッパをかけた。

「それにしても部長はいろいろなロケ地を知ってますよね。あちこち歩き回ったんですか?」

「ひたすら地図検索ソフトのストリートビューを見まくった」

「そうやって脳内で妄想デートをしていたわけですね。変質者極まりないです」

「いや妄想デートではない。シミュレーションと呼んで欲しい」

「呼び方が変わっても変態は変態です」

「? 木内さん、どうしました?」

 加藤と杉木の会話を聞いてクスクスと笑う友美に花岡が声をかけた。

「ううん、何でもない」

 友美は慌てて口許を押さえた。

(どうやら私の周りには変態がたくさんいるみたい)

 それぞれ個性の違った三人が繰り出す会話は下手なコントを見ているよりも軽妙で面白かった。友美は写真部の三人と一緒にいるのが楽しかった。

 加藤の横顔が、昨日月夜の中で見た彼の真剣な表情とダブった。この人に告白されたんだと昨日の出来事を思い出してまた頬が赤らんだ。

 撮影は踏切で二人が出会うシーンから始まった。

 加藤はそれまでの柔和な表情から一変して、暗い表情のタカキになった。友美も気丈で快活なキョーコの顔になった。

 警報器が鳴り響く中、茫然自失の状態で立ち尽くすタカキ。その場から動かないタカキの腕をを無理矢理引っ張り踏切の外へ連れ出すキョーコ。一歩間違えば大事故にもなりかねない状況の中で、それまで見せたことのないほどの迫真の演技だった。

「二人とも今日は気合いが入ってるなぁ」

 腕を組んで感心する花岡に杉木もうなずいた。

「なんだか、昨日までとは別人みたいですね」

 笑顔を失くしたタカキに同情から愛情へと気持ちが変化するキョーコ。彼女の気持ちに気付いたタカキは少しずつ笑顔を取り戻していくようになる。お互いの感情の変化はそのままキョーコとタカキの演技にも影響を与えているようだった。

 連日行われた撮影は順調に進み、いよいよラストに向けたクライマックスシーンを残すのみとなった。

 このシーンは、ヨーコが亡くなった踏切でキョーコがタカキへ愛の告白をし、そして熱いキスを交わすというこの映画の一番重要なシーンである。

「このシーンの出来栄え次第でこの映画が成功するか否かが決まると言っても過言ではない。それくらい大事な撮影になる。明日も全力で頑張ろう」

 加藤の口調はいつもと変わらなかったが、彼の意気込みはヒシヒシと感じた。

(私も明日は万全で臨まないと)

 ロケ先の駅で四人はそれぞれの帰り道へと散らばった。

「木内さん」

 友美の背中に加藤が声をかけた。

「? 何?」

 友美がくるりと振り返ると、真面目な顔をした加藤が立っていた。

「明日は頑張ろう」

「そうね。頑張りましょう」

 加藤は優しく微笑むと、彼女に背を向けた。友美は彼の背中が見えなくなってから自分の乗る電車のホームへと向かった。

 階段を上がり、ホームに出ると、線路を挟んだ向こう側のホームに立つ加藤を見つけた。

「加藤君」

 友美の声に気付いた加藤はちょっとだけ驚いた顔をしてから、手を振った。

 間もなく、加藤のいるホームに電車が入線してきた。何人もの人が電車から降り、ホームにいた人達が電車に乗り込んでいく中で加藤の姿を追いかけていた。彼は友美に一番近いドア付近に立った。

 友美が手を振る。

 加藤も手を振る。

 やがて電車が出発し、目の前から加藤の姿がなくなったのを見た友美の中にほんの少しだけ、センチメンタルな感情が引っかかるように残った。

 鞄の中から台本を取り出し、明日撮影するシーンの部分に目を通した。


キョーコ「私はヨーコじゃないわ!」

警報器の鳴る踏切に入るキョーコ。

踏切の向こうでキョーコがタカキに向かって叫んでいる。

キョーコ「ヨーコみたいに踏切で死んだりしない。私はあなたを悲しませるようなことはしない。だって私はあなたを愛しているから」

二人を電車が遮る。

やがて電車が通り過ぎ、遮断機が上がる。

立ち尽くすタカキへ一直線に駆け込むキョーコ。

タカキの胸に飛び込み、キスをするキョーコ。


 時間通りに到着した電車が友美の前髪を揺らした。顔に当たる風に気付いて彼女は顔を上げた。

 家に帰ると、いつもと何ら変わらない日常生活がそこにあった。佳衣と結梨が夕飯の支度をし、麦はノートパソコンに向かってキーボードを叩いている。

 二人が作ったおいしい料理を四人でワイワイ言いながら食べ終え、代わりばんこにお風呂に入る。

 佳衣と結梨がお風呂に入っている間、友美はカウンター越しに麦の姿を眺めながら食器を洗う。

 ときどき麦のためにカフェオレを淹れてあげるときもあれば、その日あった出来事を麦とつれづれに話したりすることもあった。別に話すことがなければ、お互いに黙って静かなひとときを過ごすこともあった。

 毎日同じような生活の繰り返しでも、それが退屈だとかつまらないとか、もっと違う生活を送りたいとか、そんな気持ちにはならなかった。この時間、この空間が友美にはとても心地良かった。いつまでも、ずっと、今の生活が続くことを願った。

「あ~良いお湯だったぁ!」

 お風呂から上がった佳衣がパジャマ姿でキッチンに現れた。彼女は冷蔵庫から牛乳パックを取り出すとそのままゴクゴクと喉を鳴らしながら飲んだ。

「いやぁ~、風呂上がりの牛乳は最高! 普段の三倍増しでおいしいわ!」

「こらっ、佳衣ちゃん、お行儀が悪いわよ」

「えへへ」

 佳衣が上唇に白い線を付けながら笑った。

「そう言えば、みんなの分のアイス買ってあったんだっけ」

 結梨が冷凍庫の中を覗き込んだ。

「お姉様は何味にする? アーモンドチョコ、ブルーベリーチーズ、抹茶、マンゴーってあるけど」

「うーん、何でもいいわ。お風呂出てから食べるわね」

 洗い物を終えた友美は着替えを手にバスルームへ向かった。

 風呂場に入るなり、浴槽の様子がいつもと違うことにすぐ気付いた。

「あ、お姉様、今日は特製バブルバスになってるからね~」

「シャボンの泡でハリウッド女優の気分を味わってくださいませ~」

 お湯が見えないほどモクモクと湧き立つ泡に一瞬戸惑いながら浴槽に足を入れた。

 身体中に絡みつく泡のすべすべ感と、ほのかなラベンダーの香りにすっかり泡風呂が気に入った友美はいつもよりも長く入浴を楽しんだ。

 生まれて初めてショートカットにしてから一週間経った髪を洗いながら、時間と手間がかからないショートカットも悪くないと思った。首筋がスースーするのも最初は違和感があったが、すっかり慣れた。

(でも、これから寒くなるからやっぱり髪伸ばそうかな……)

 少しぬるくなった泡風呂にもう一度浸かってから浴槽を出た。


 気が付くと朝になっていた。

 夕べからなかなか寝付けず、何度も寝返りを打った。目をつぶってしばらくすると彼女の姿が脳裏に浮かんでは消えた。彼女の幻影を繰り返し見る度に目が冴えた。

 枕元に置いたスマホからアラーム音が鳴った。結局一睡もできぬままベッドから起きた。

「雨か……」

 窓の外を恨めしそうに見た。大事なシーンが雨のシチュエーションになることは想定していなかった。歯を磨きながら前のシーンとのつながりをどうしようか考えた。

 映画の撮影が始まってから毎日続けていた入念な歯磨きも、もう必要ないのだと思い出して、手を止めた。鏡に映る自分の顔に向かって自嘲した。

 手早く身支度を済ませると、家を出た。寝ていない割には身体は軽かった。頭もなぜかスッキリとしていた。

 待ち合わせ場所の駅には一番最初に到着した。多くの路線を乗り入れている大きなターミナル駅は土曜の朝にも関わらずたくさんの乗客が右往左往していた。

 目の前の溢れかえるような人の波に彼女がいたとしても自分は一瞬で見つけられる自信があった。あちこちから聞こえる駅のアナウンスや反響する喧噪の中でも彼女の声を聞き分ける自信があった。

 一秒でも早く彼女に会って一秒でも長く彼女と一緒にいたいと毎日思っていた。それは叶わぬ願いであることだとわかっていても、そう思いたかった。だが、それも今日で終わってしまう。

 やがて大きな荷物を抱えた花岡と杉木が人混みを縫うようにしてこちらに近付いてきた。今日の撮影のためにもう一セットカメラ機材を調達してきたらしい。

 二人と雑談を交わしながら、僕は常に人混みの中で彼女を探していた。なかなか彼女は現れなかった。

 待ち合わせの時間を十分以上過ぎた頃、小走りでこちらに向かってくる人影を見つけた。すぐに彼女だとわかった。

「遅れてごめんなさい」

 息を弾ませながら頬を紅潮させる彼女はいつもよりも綺麗に見えた。

 おはよう、と微笑む彼女の唇を見て、僕は〝自分の中の決意〟を固めた。

 電車に乗っている間、僕はいつもよりも口数が少なかったかもしれない。花岡達も気を遣っていたのか、僕と彼女へはあまり話しかけてはこなかった。

 目的地に着くと、撮影の段取りについて説明をした。

「まず、空模様を撮ってから、撮影場所の踏切へ向かう。八時半から九時にかけて一番電車の往来が多くなるから、その時間帯を狙って撮影する。やり直しは可能だけど、できれば一発で決めたい」

 三人とも真剣な表情で食い入るように説明に耳を傾けていた。

「それと」

 そう言ってから、大きく深呼吸した。

「踏切を渡ってきたキョーコはタカキの胸に飛び込んで顔を埋める。それをタカキが抱きしめるところでカメラを止める。キスシーンはナシだ」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 花岡の声が上ずった。

「あれほどこだわっていたキスシーンじゃないんですか?」

 僕は黙ってうなずいた。

「キスシーンだからこそインパクトのあるシーンだったんじゃないんですか?」

 これまで台本については文句を言わなかった杉木もこの時だけは食いついた。

「雨の中を抱き合う二人という演出でも十分インパクトがある」

 彼女は、何も言わず唇を真一文字に結んでいた。

「じゃあ、いいね。撮影を始めよう」

 レインコート姿の杉木は三脚を立て、カメラを固定し、雨に濡れないようにビニールシートをかぶせていた。花岡はしきりに時刻表とにらめっこをして電車が通る時間を予測していた。

 僕と彼女は道端で傘を差して撮影が始まるのを待っていた。朝、駅で挨拶した以外は二人とも言葉を交わしていなかったのを思い出した。

 彼女はずっと黙ったまま、数メートル先の地面をじっと見つめていた。撮影に向けて集中力を高めているようだった。

「部長、撮影準備できました!」

「そろそろ電車が来ます!」

 二人の声を合図に僕と彼女は傘を畳んだ。踏切の前に立つ二人はすでにその時点で全身びしょ濡れになっていた。

 カンカンカンカン……。

 甲高い警報音が鳴り出す。

 彼女が僕に向き直り、セリフをしゃべり出す。

 彼女の表情が険しくなる。

 そして僕を突き飛ばすと、下りた遮断機をくぐって踏切の向こう側へ走り去る。

 振り向いた彼女が大声で何かを叫んでいる。

 その声に僕は、ハッとする。

 彼女が何と叫んでいるのかは良く聞き取れないが、唇の動きから台本にはないセリフを言っているのだとわかった。

 上りの電車が一瞬にして彼女の姿を消してしまう。

 上りの電車にかぶせるように下りの電車が左から右へと流れる。

 轟音と警報音が彼女のセリフをかき消して全く聞こえない。

 なかなか彼女の姿が見えないことへの苛立ちが自分の中で増幅していく。

 電車が通り過ぎた後、遮断機の向こうで真っ直ぐに僕を見つめる彼女が立っている。

 当然、電車にはねられているはずもないのに、それでも彼女の姿を見たとき、心の底から安堵した。

 遮断機が上がる。彼女が何か呟いたように見えた。

 彼女が一直線にこちらに向かってくる。

 僕は彼女の身体を全身で、全力で受け止めることだけを考えていた。


 私は大事な撮影最終日に寝坊をした。タイマーをセットしていたはずだったのに、目覚ましは鳴らなかった。

 麦の布団は綺麗に畳まれていた。麦の姿が見えないのが気になったが、とにかく待ち合わせ場所に向かうことを優先した。

 家から駅までを全力疾走し、電車を降りて待ち合わせ場所まで息を切らしながら走った。

 待ち合わせ場所に花岡君と杉木さんの姿が見えた。彼はこちらに背中を向けて立っていた。

「遅れてごめんなさい」

 私は彼の背中を叩いた。そして振り返った彼の顔を見て私は息を呑んだ。

 振り返ったのは麦だった。

 私は頭が真っ白になった。そして麦に尋ねた。

「加藤君は?」

「加藤なら家にいるよ」

 いつものおっとりとした口調は間違いなく麦だった。

「えっ」

「彼の才能と友美ちゃんを取り替えっこしたんだ。そうしないと友美ちゃんのために、良い小説が書けないからね」

「どういうこと?」

「これからは友美ちゃんのために僕は良い小説をいっぱい書くよ。その代わり友美ちゃんは加藤と一緒に暮らしてあげて欲しいんだ。彼とはそう約束してしまったんだ」

 麦はいつものように静かに笑っていた。私は麦の言っていることが理解できなかった。

「いやよ。麦に才能がなくたって構わない。小説が売れなかったら、私が働いてお金を稼いでくるわ。それで麦は今まで通り好きな小説を書けば良いじゃない」

「それじゃダメなんだよ」

「何がダメなの? 麦のためなら私はどんなに苦労しても構わない。お願い、麦と一緒にいたいの」

 麦の顔からは表情が消えていた。

「それじゃ、ダメなんだ……」

 麦の姿が次第に幽霊のようにすぅっと消えていった。

「……さようなら……」

 弾けるように目を開いた。目から涙がこぼれていた。夢だと気付いたのはその時だった。

 私はすぐに麦の布団を見た。そこには麦の姿はなく、無造作にめくれた掛け布団があった。

 確かめるようにゆっくりと階段を下りた。そしてキッチンに立つ麦を見たとき、私はホッとして、また泣きそうになった。

「あ、おはよう」

 私に気付いて、麦が声をかけた。電子ケトルに水を入れようとしていたところだった。私は思わず麦に抱きついていた。

 麦は少しびっくりした様子で、電子ケトルを持ったまま黙ってその場に立っていた。

「麦、やけに早起きね」

 麦の背中に顔を埋めながら言った。

「うん。なんだか眠れなくってね。早起きしちゃった」

 いつもの麦だった。

「カフェオレ、淹れるわね」

 食器棚から二人のマグカップを取り出すと、いつもの分量のコーヒーをスプーンですくった。

 電子ケトルからゆらゆらと湯気が立ち上り、コォーッと低い音がしてきた。電子ケトルをじっと見つめる麦の横顔を私は何も考えずにただ見ていた。

 麦がお湯を注いだ二つのマグカップに私が牛乳を加えた。

 いつもの席に二人並んで座ってカフェオレを飲む。最初はそれほどおいしいとは思わなかったぬるいカフェオレにもすっかり慣れていた。

「いよいよ今日だね」

 麦はこちらを見ずに目の前の壁を見たまま言った。

「緊張してる?」

「ううん」

 寝癖のついた麦の髪を見ながら私は答えた。

「映画、楽しみにしてるんだ」

「本当?」

「大きな画面に友美ちゃんが映ったら、きっとテンション上がるんだろうなって」

 麦はちょっと照れたようにに笑うと、カフェオレをチビチビと口に運んだ。

「演技はまるっきりダイコンよ」

「いいんだ。演技している友美ちゃんが見られれば、それだけでいいよ」

 私は時計を見てから、残りのカフェオレを一気に飲み干した。麦のマグカップにはまだたっぷりとカフェオレが残っていた。

 家を出るとき、まだリビングにいる麦に声をかけた。

「じゃあ、いってくるね」

 麦は振り返り、うん、とだけ言った。私よりも麦の方が緊張しているみたいだった。

 雨は思ったよりも強く、冷たかった。もう一枚上着を羽織った方が良かったかもしれないと少し後悔しながら駅に向かった。

 私の乗った電車は途中、車両点検のためしばらく停車してしまった。しきりにアナウンスが状況を伝えているのをぼんやりと聞きながら、動かない景色を見ていた。雨は一向に止む気配がなかった。

 結局、電車は十五分ほど遅れて目的の駅に着いた。電車を降りると待ち合わせ場所まで小走りで向かった。

(これじゃ、まるで夢と一緒じゃない)

 モヤモヤとした感覚が、ふと湧き上がった。走りながら私は心の中で「落ち着け、落ち着け」と何度も自分に言い聞かせた。

 待ち合わせ場所となっているモニュメントの前にはたくさんの人が集まっていた。群がる人の中からすぐに三人を見つけた。

 まず最初に彼の横顔が麦でないことを確認すると、私は速度を落として息を整えた。

「遅れてごめんなさい」

「あ、おはようございまーす!」

「おはようございます」

「おはよう」

 少しだけ口角を上げて笑みを作る彼の顔が少し強張っているように見えた。

 麦と彼の緊張が伝染したわけではないが、電車の中では私も自然と無口になっていた。

 四人が降りた駅は新興住宅地で、駅前には立派な商業施設が建ち並んでおり、駅前から少し離れるとすぐに静かな住宅街になっていた。

 撮影現場に到着すると、彼は台本の変更をみんなに伝えた。

「……キスシーンはナシだ」

 すぐに花岡君と杉木さんが反論した。が、彼は二人の意見を退けた。

「じゃあ、いいね。撮影を始めよう」

 二人が撮影の準備をしている間、私と彼は踏切から少し離れた場所で傘を差して立っていた。

 傘を弾くバチバチという雨音を聞きながら、花岡君と杉木さんがカメラをセットしているのを黙って見ていた。

 警報音が鳴り響き、道路を挟んだ向こう側にある踏切を見た。そして、その向こう側にある建物の隙間から見える病院の看板に目が留まった。

(あ、そうか……)

 その時私はあることに気付いた。

 あの病院は彼の元カノが入院していた病院で、彼はお見舞いに行くときにいつもこの踏切を行き来していたのだろう。彼は思い出の場所を映画の撮影場所に選んだのだと思った。

 久し振りに訪れて、急に彼女のことを思い出してしまったのかもしれない。だからキスシーンを撮ることに引け目を感じてしまってシナリオを変更したのではないか。そう考えれば、いつもと違う彼の態度にも納得できる。

 私の推理はかなり飛躍しているとも思ったが、でも何となくそんな気がした。

 撮影準備が完了したと二人から声がかかり、いよいよ最後の撮影が始まった。私の中でキョーコへの切り替えスイッチが入った。

 雨に濡れることに躊躇はなかった。私はあらかじめ決められた位置に立った。そして彼からのアイコンタクトをきっかけに演技を始めた。

「わたしはヨーコじゃないわ!」

 彼を突き飛ばし、遮断機の下りた踏切に入る。

 踏切を渡りきると、振り返って彼を見る。そして彼に向かって、彼に聞こえるように大きな声で叫んだ。

「わたし、あの時、加藤君から」

 猛スピードで走る電車に遮られて彼が見えなくなった。それでも私は言葉を続けた。

「……好きと言われて、素直に嬉しかった。あなたと付き合いたいなって、思った……でも、あなたの気持ちには応えられない……私は麦が好き。大好きなの。一緒に生きていくって決めたの。だから……ごめんなさい……」

 電車が通り過ぎ、踏切の向こうに彼の姿を見つけた。私は早く彼のところへ行きたかった。

 私は唇だけを動かし、声に出さずに心の中で呟いた。

「好きよ」

 ゆっくりと上がる遮断機がもどかしかった。私は遮断機をくぐり、踏切に入った。私の目には彼しか見えなかった。

 彼の胸に飛び込み、思いっきり抱きしめた。

 顔を上げると、驚いたようにこちらを見る彼の顔がそこにあった。

 私はちょっとだけ背伸びをして、自分の唇を彼の唇に押し付けた。


 彼女の唇はとても柔らかく、とても冷たかった。

 そうじゃない、僕が望んでいたことはこんなことじゃない。

 心の中でもう一人の自分がそう言っていた。

 彼女を抱き留めていた両腕の力が抜けるのと同時に彼女の唇が僕から離れた。

 そっと目を伏せる彼女を見て、全てが終わったんだとその時に思い知った。

 映画の撮影も、彼女への恋も。

 このキスは彼女からの惜別のキスなんだ。

 胸の奥から大きな塊のようなものがこみ上げてきた。そしてそれは僕の胸を突き破り、感情となって吐き出された。

 僕はうめき声を上げながら膝から崩れ落ちた。

「う、う……あぁ……」

 喉の奥から声が漏れる。止めどなく流れ出る涙が彼女の輪郭をぼかしていった。

「ん……くっ……」

 目一杯の力で奥歯を噛みしめた。自分の中から湧き出てくる激情を抑えることができなかった。

「わぁーっ!」

 人目もはばからず声を上げて泣いた。

「あっ、うぁーー!」

 拳で何度も何度も地面を叩いた。

 この恋が叶わぬ恋だということは初めから覚悟していた。覚悟しているつもりだった。しかしそう思っていたのはうわべの自分だけで、その奥にいる本当の自分はまだ彼女をあきらめ切れていなかった。

 今まで生きてきてこれほど泣いたことはないだろうと思うほど泣いた。ヨーコが死んだときでさえ、僕はこんなには泣かなかったはずだ。

 どのくらい泣き続けていただろうか。五分か、十分か。それとも一時間以上も泣いていただろうか。もう時間の感覚も麻痺していた。

 自分の中にあった無粋な感情や独りよがりな欲を全て吐き出し、ようやく涙も涸れた頃、ぼんやりとしていた周囲の景色が少しずつ明るさと輪郭を取り戻していった。

 僕の目の前に、白い手が見えた。

「加藤君」

 彼女が身を屈めて僕の名前を呼んだ。見上げると、雨の中で優しく微笑む彼女の顔があった。

 雨に濡れて額に貼り付いた彼女の前髪を、払ってあげたいと思った。


 彼が泣き崩れて嗚咽する姿を、私は何もできずにただ見ていることしかできなかった。

 彼の叫び声、あふれ出る涙、爪が食い込むほど握りしめた拳。それはタカキではなく加藤はじめの感情が発露されたものだとわかっていた。だから私はそれを逃げずに全て受け止めてあげなければいけないと思った。

 きっと以前の自分ならば、私の足許でうずくまる彼をみっともないとか女々しいとか思ったに違いない。でも、今はそうは思わなかった。

 全身を震わせて、声を出しながら泣いている彼の姿は、とても愛おしかった。できることならすぐにでもこの場で彼を抱擁してあげたかった。

 いつまでも、何時間でも彼を見守るつもりだった。いつか彼が起き上がって顔を上げたとき、私は純粋な気持ちで彼に微笑んであげたかった。

 麦のことは思い浮かばなかった。今はただ彼が顔を上げてくれることだけを願っていた。

「加藤君」

 無意識に彼の名前を呼んでいた。

 そっと彼が顔を上げた。真っ赤に充血した目を見て、胸の奥にチクリと刺すような痛みが走った。


 撮影を終えた四人はずぶ濡れのまま逃げ込むようにショッピングモールへ入った。

「ここで買ったものは部費から落とすようにするから、領収証は全部こちらに回してくれ」

「それって、下着もオーケーですよね。木内先輩、下着までビショ濡れなんですよ」

 はにかんで言い出せなかった友美に代わって杉木が加藤に談判した。

「あぁ、もちろん構わない」

「バスタオル買ってきました」

 花岡が水色とピンクのバスタオルを手に戻ってきた。

「ごくろうさん。さ、これで髪を拭いて」

 友美は加藤から受け取ったバスタオルで髪を乾かしてから、杉木と二人で買い物に出掛けた。濡れた服を着替えるため取り敢えず適当に服を見繕うとトイレで着替えた。

 四人は凍えた身体を温めようと、まだ人気の少ないフードコートで食事を取った。

 友美と杉木はうどんのコーナーに並び、加藤と花岡は中華のコーナーに並んだ。

「やっぱり身体を温めるのは、激辛フードですよね!」

 そう言いながら加藤と花岡が持ってきたのは担々麺と麻婆豆腐だった。

「麻婆豆腐はみんなで食べよう」

 加藤がマーボー豆腐の皿と取り皿をテーブルの中央に置いた。

 うどんをすすると、芯まで冷え切っていた身体の中から徐々に温まってくるのを実感した。みんなの顔にも次第に赤みが戻ってきていた。

「山椒が効いていて、本格的な激辛麻婆豆腐ですよ。木内先輩達も食べてみてください!」

 花岡に勧められて友美は恐る恐る口にした。その途端、山椒のビリビリとした感覚が唇を襲った。

「私には辛すぎるみたい」

「あれっ、ちょっと山椒を入れすぎたかな?」

 杉木も同様に、一口舐めただけで皿を置くとがぶがぶと水を飲んだ。

「あんまり辛いものばかり食べてると、本当にバカになりますよ」

 よっぽど辛かったのか、花岡たちに向かって憎々しげに捨てゼリフを吐いた。

「それにしても、今日の撮影は素晴らしかったなぁ。最後は完全にアドリブですよね? 僕は遠くから見てただけですけど、ものすごく感動しました! 魂が揺さぶられました!」

 花岡の言葉に加藤と友美の手が一瞬止まった。

「それで、というわけではありませんが、木内先輩」

 花岡が友美の方に向き直った。

「? 何?」

「木内先輩は部長のことどう思いますか?」

 加藤は思わず口にしていた麺を吹き出しそうになった。

「ど、どういう意味だ」

 加藤が慌てて丼から顔を離した。チラッと横目で見た友美の顔にも動揺の色が窺えた。

「いやあ、芸能界でもよくあるじゃないですか。ドラマとか映画で共演しているうちにお互いのことが好きになったりするのって」

「花岡先輩はゲスいです。木内先輩みたいに聡明な人が、部長みたいにいい加減な男性を好きになるわけがないじゃないですか。それにそういう質問って、セクハラです。不愉快です」

 返答に困っていた友美にとって彼女が質問を却下してくれたことはありがたかった。

 帰りの電車で加藤と花岡は杉木の機材を両肩に担いでいた。いや、彼女から命じられて担がされたといった方が正しい。

「いいんです。木内先輩へのセクハラ発言に対する謝罪です」

「僕は何も言ってないんだけどな」

 加藤が口を尖らせた。

「連帯責任です。部員の非礼は部長のしつけがなってないからです」

 手ぶらで吊革に掴まりながら杉木が言った。まだ怒りが収まらない様子の彼女に友美が声をかけた。

「杉木さん、撮影ご苦労さま。いつも重い機材を担いで大変だったでしょ?」

 友美に話しかけられて杉木は少しだけ表情を崩した。

「あ、いえ。いつも写真を撮りにいくときはあのくらいの荷物は当たり前なので、慣れてますから」

 杉木は照れくさそうに友美を見た。

「木内先輩こそ、部長の道楽に付き合わせてしまって申し訳ありませんでした。最後には本当にキスまでさせられて」

 友美は大きく首を振った。

「ううん。映画に出させてもらって良かったと思ってるわ。いい経験にもなったし、杉木さんや花岡君や加藤君とも仲良くなれたし、とっても楽しかった」

「本当ですか?」

 杉木が疑わしそうに訊いた。友美は大きくうなずいた。

 窓の外を見ながらしばらく黙っていた杉木が、再び口を開いた。

「あのう……」

「何?」

 友美が杉木の方を見た。

「これからも写真部に遊びに来てくれませんか。入部して欲しいだなんてわがままは言いませんけど、写真部は女子が私しかいないので…………木内先輩が来てくれると嬉しいです」

「えぇ、もちろん喜んで。今度、写真の上手な撮り方とか教えて欲しいの」

 杉木の顔がぱぁっと明るくなった。

「ありがとうございます。あの二人は頼りにならないので、私が木内先輩にレクチャーします」

 杉木は嬉しそうに小さく頭を下げた。

 三人と別れた友美は一人電車の中で映画撮影での出来事を思い出していた。あちこちロケに出掛けたことも、偶然姉と遭遇したことも、電車の轟音も、踏切の警報音も、キスシーンも、加藤の嗚咽も、何もかもがなんだか遠い記憶の出来事だったような気がしていた。

 それでも、二週間続いた映画撮影が終わり、明日からはもう写真部の三人とあちこち出掛けたりすることもなくなるのかと思うと、ちょっと寂しかった。

 この日、暮谷家の夕飯はおでんだった。大きな鍋を囲んで、みんなで箸を突っついた。大好きなネタを奪い合ったり、カラシを付けすぎてヒーヒー言いながら悶絶する佳衣に水を持って行ったり、鍋底にこっそり隠しておいた牛すじをいつの間にか麦が食べてしまい悲しみに打ちひしがれた結梨を慰めたりと、いつもと変わらない賑やかな夕飯は楽しくておいしかった。

 撮影を終えてから加藤を中心に編集作業がおこなわれ、ようやく完成したのはコンクールの応募締め切り三日前だった。

 写真部顧問の計らいで、視聴覚室で試写会をすることになった。試写会には写真部と友美の他、暮谷兄妹が招待された。

 誰もいないはずの教室にヨーコが居眠りをしているシーンから始まるこの映画は、一人教室で居眠りをしている加藤の前に制服姿のキョーコが現れるというラストシーンで終わった。

 バラバラに撮影をしていたものがこうやって一つの作品にまとまったのを見て、友美は新たな感動を覚えた。

 キスシーンの場面では佳衣と結梨が「うわっ!」「ひゃっ!」っと驚きの声を上げていた。

 友美は隣に座る麦の顔をこっそりとのぞき見た。彼はいつものように表情を変えずに淡々と画面に見入っていた。

 コンクールで賞が取れるほどの出来かどうかは自信はないが、一つの作品が完成したことで、写真部のみんなも友美も十分に満足していた。

 しかし、応募前日になって、顧問から「警報器が鳴っている踏切に立ち入るのは鉄道営業法違反に当たるのではないか」との指摘があった。

「踏切のシーンを再編集しないとコンクールへの応募はできない」

 と顧問に言われた加藤は、

「あのシーンがなければ、この映画は成立しない」

 と断言し、この作品をお蔵入りにすることを決めた。



(つづく)

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