愛しているから、結婚して
目の前にある端正な顔に向けて、刃物を向けた。
悲鳴にもならない呻き声が響く。呻き声が獣の唸り声にも似ている。当然だ。私が差し向けた刃物が彼の顔を抉るようにして斬りつけたのだから。悶絶しそうになる彼の体を半ば強引に押さえつける。傷を負わせたとはいえ、彼は男で、私は女だ。本気で振りほどこうとすれば、敵わないに決まっている。そうしないのは、彼が呻き声を発する最中でさえ、私を見ているからに他ならない。
「ーー何を仰るかと思えば、」
押し倒した先にいる彼は、目を見開き、私を見上げている。いつも彼が私を押し倒しているのに、場違いだと分かっていながら、新鮮な気持ちになった。
「『愛しているから、結婚してくれ』なんて、随分な仰っしゃりようですこと」
ふわりと笑う。彼が好きだと言ってくれた微笑みを。
目の前にいる彼にはどう映っているだろうか。
私は彼の愛人である。いや、正確には『愛人』ですらないかもしれない。公爵家の跡取りとして生まれた彼には同い年の婚約者がいた。身分が釣り合う、血統書付きの令嬢である。対する私はどうか。歴史こそあれど、名門とは言い難い。それどころか、没落寸前の子爵家である。公爵家の子息と、子爵令嬢など、あまりにも身分の差がありすぎて、接点があるわけもなく。にもかかわらず、こうして、対面しているのは他でもない彼の要望によるものだった。
『私の妻の代わりに、子を産んでほしい』
彼が結婚した『夫人』は子を成せない体だと言う。
彼自身は問題なく、結婚した後で発覚した事実だった。
万が一、子を宿せたとしても、母体が危険に晒される可能性があり、ひいては子も危うくなるとか。ならば、離縁して、新しい妻を娶ればいいのではと言う人間もいるだろうが、この国では離縁を認められていない。神の前で夫婦になる誓いを立てていながら、その誓いを破るなど、神に対する叛心であり、神の怒りを買うと信じられているからだ。
養子を取るのも一つの手だが。本家の血筋を残したいと考える当主は、決して少なくない。だからこそ、この手段がもう一つあり、この国ではそれが主流になっている。
その方法とは、跡取りを産む母体を見つけ出すことだ。
他国では眉を寄せられるが、この国では認知され、貴族間では暗黙の了解として受け入れられている。母体の身分は貴族であれば上々、母体となる相手の要求をある程度受け入れる必要がある。
金銭であれ、なんであれ。
子を産んだ相手をそのまま『養う』貴族もいるとか。女性が爵位を得て、婿を迎え、同様の問題が生じた場合も男を引き入れる必要がある。が、娼婦や男娼の類は対象に含まない。どんな病を持っているか知れたものではない上、子が本物なのかさえ分からないからだ。平民の女も論外だ。他国の常識は知らないが、この国において、平民との子など血が穢れると、貴族が忌み嫌っている為、貴族の子として育てるには不向きだからだ。ならば、どんな女ーーあるいは男ーーが適任か。
貴族の子息や令嬢、あるいは未亡人。
後を継ぐ嫡女嫡男ではなく、その下で生を受けた相手。囲ったとしても、家同士に不利益を被ることはないと断じる相手。病気が持たないーー娼婦や男娼を愛でていないーー相手に限定される。平民が労働力を必要として、多くの子をもうけるように。
貴族は家の為にと、多くの子を必要とする。跡継ぎが万が一があった時の為に。だからこそ、家にとって不必要な子は生まれ、家を出る必要がある。男ならば自力で生きていく術を得ようと勉学と剣を振るい、女であれば家の為の婚姻を結ぼうとする。
そんな相手に契約を持ちかけるのが、子を望めない貴族の夫婦である。男には種をもらい、女には腹を借りて、子を得ようとする。無論、これは双方利益があってこそ生まれる契約だ。子を成す代わりに、相手の望む『援助』をするのだから。
『この手を取ってくれるのなら、君の家族を救うと誓おう』
眼前の彼は子を生んでくれば、私の家を援助すると言ってくれた。私の家は父が事業に失敗した結果、没落寸前であり、領地どころか爵位さえ手放さなければならないかもしれなかった。私は嫡女であるが、継ぐ爵位がなければ、『嫡女』の意味はなく。下には弟妹達がいて。父母の嘆きを間近に見てきたからこそ。
私は彼の手を取ったのだ。
「あの時、私は本当に感謝したのですよ」
神に、彼に。
「我が身を差し出せば、子さえ産めば、私の家族を助けられるのだと」
彼の手を取った後、私は別宅を連れてこられた。使用人は本宅の『夫人』の為にあり、決して多くはなかったが。彼に身を任せてしまうのだから、かえってそれでよかったのかもしれない。何より、彼は私を粗雑に扱う真似はせず、大切に大切に扱ってくれた。
彼らの子を生む為の母体だからと言う割には、過剰と言う程に。食事には気遣われ、体調不良を訴えれば、無体を働く真似はせず。見舞いの品だと言って、花を贈ってくれるような男を、どうして愛さずにはいられるだろうか。
そんな折、子を妊娠した。
『ありがとう』
体調不良を訴え、彼が呼んでくれた医者が懐妊していると言えば、彼は私の手を取って喜んでくれた。
直後、私は絶望の淵に立たされた。
どれ程彼が優しくしようが気遣おうが、所詮私は彼と彼の妻の為に子を生む母体に過ぎない。愛人ですらない。いっそ、愛人の方が幸せなのかもしれない。正妻になれずとも、彼の愛を一時でも独占できると浸れる可能性があるのだから。
そんな当たり前を突きつけられた気がして。
顔色を悪くする私を気遣う彼が、妊娠が分かった途端、今まで以上に優しくしてくれる彼が、
いっそ憎いとすら思う。
ーー『私の妻の代わりに、子を産んでほしい』
優しくされればされる程、彼が妻の為にと心砕いているのだと思い知らされるようで。
「あなたの子を身籠った時は、本当にどうしようかと思いました。これで役目が終わったのかと。ーー私は用済みになるのだと」
「ーー、」
彼が何かを言いたそうに、こちらを見つめている。その眼は酷く切実な何かを訴えている。けれど、言葉が音になる前に、苦痛に歪む。私が与えた痛みのせいだ。
「あなたが何を仰っしゃりたいのかは知っています。先程話してくださいましたから」
子を身籠った直後の私は酷く不安定だった。
用済みだと捨てられるぐらいなら、いっそ子を堕ろしてしまおうか。そんな考えを持ってしまう自分が恐ろしくて、喜ぶ彼の顔を曇らせるのはと迷いが生じ、子を堕ろす機会を見失い。そもそも、彼は私を捨てるなどと言っていない、これはお互いの利益あっての契約だと思い直して。負の感情に囚われては、罪悪感と憎悪に押し潰されてしまいそうで。そんな中で、子を産んだ。
可愛かった。
彼と家族の為に産んだ子は、この世の何より愛おしいと思えた。同時に、こんな母親の元に生まれて可哀想にと憐れんだ。生まれて、幾日も経たないうちに、公爵家に引き取られていくあの子の姿を見て、いっそ安堵すら芽生えた。生まれてもいない我が子を殺そうかと考える母親よりも、誕生を望まれた夫婦に育てられることこそ、幸福だ。
『ゆっくり休むといい』
そのまま、追い出されるかと思えば、しばらく安静にするよう言われ、変わらず彼に気遣われる日々。
「子を産めば用済みである筈の私を、気遣ってくださるから。なんて優しくて憎たらしい人だろうと思ったのですよ、あの頃は」
寝台のシーツが彼の血に染まっていく。耐え難い程の苦痛に襲われているに違いないのに。今なお、苦痛を与える私の言葉に聞き入っている。あるいは、聞くしかできないと思っているのか。
「本当に優しい人ですね、あなたは」
皮肉を込めて、微笑んだ。
「そんなあなたが『次』を望んだ時は、本当に驚いたのですよ」
一瞬、彼の視線が彷徨った。
私は変わらず彼を見続けていた。
ーーそう。私が回復したと、医者に知らされた後。子をよろしくお願いしますと頼み、家に帰り、身の振り方を考えようと思った時。
彼が二人目を望んだのだ。
私が産んだ子は、『嫡男』である。夫人の子ではなく、私の子であるから、『庶子』と言う見方の方が正しいのかもしれない。ただし、法的には彼らの『実子』扱いなのだから、法と戸籍で照らし合わせれば、間違いなく、あの子は『嫡男』なのだ。公爵家の跡継ぎが生まれたら、私は用済みではないのか。契約は終わるのではないのか。
『君も知っていると思うが、たった一人だけしか子がいない家など、危ういだけだ』
その通りかもしれない。万が一がない場合に備えて、『保険』を儲けるのが貴族である。彼の言葉は正しく、私は彼に身を任せた。まだ彼の側にいられる幸福よりも、彼を忘れられない絶望が勝る。
一体、彼がどれだけ子を望んでいるのか。聞けばよかったかもしれない。『嫡男』も含めて二人目を望んでいるのか。
あるいは、二人以上産めばいいのか。
尋ねれば、指針が見つかる。終わりが分かる。同時に終わりに見えない方が、この幸福に浸っていられるのではないか。そんな馬鹿な考えが過ぎる。
もう一度子を授かれば、私は彼から離れられなくなる。
予感とも絶望とも取れる感情が、私を支配した。
「あの時、私がどれだけあなたを考えていたか。あなたは決して分からないでしょうね」
「ーー」
彼の瞳の奥が揺らぐ。困惑とも恐怖とも違う。その感情を、私は身をもって知っている。
ーー馬鹿な人だ。あなたも私も。
「中々、二人目を授かれなくなかった時、あなたを優しくしてくれて、とても嬉しかったのですよ?」
幸か不幸か、私は彼に身を任せるばかりで、二人目を宿すことができずにいた。焦りとも安堵とも取れない感情に駆られる。正妻であれば、周囲からまだかと言われる頃かもしれない。実際、彼の妻はどうであろうかと考える時があった。
婚姻を結んだ直後、子ができないと発覚した夫人。彼の両親から、親戚から後ろ指を差されただろうか。罵倒されただろうか。子が儲けられない。それだけで、女は役立たずだと言われ、男は種なしだと嘲笑を受ける。
子を産めない我が身を呪いながら、夫が家の為にと、別宅に赴き、『嫡男』が生まれたと言って、預けられた『我が子』に、乳母を用意して教育を与える。男女関係なくこれは大変な屈辱ではないだろうか。顔も知らない夫人の姿を思い浮かべる度、嗤いそうになってしまう。
ーーいい気味だ、なんて。
こんな浅ましい女であったのかと、自分に絶望する。違う違うと、否定する。子を儲けるのは、彼らの為であって、優越感に浸る為ではなかった筈だ。
『気に病まないでくれ。子は授かりものだから』
自己嫌悪で打ちひしがれる自分にそうとは知らず、彼は変わらず優しくしてくれるから、ますます彼に溺れてしまう。彼は二人目を望んでいる。なら、私が子を授かれなければ、彼は別の女を別宅に引き入れるのだろうか。契約は打ち切りだと、私に宣告する姿が脳裏を掠めて、ーー嫌だと思った。彼の妻になれないのならば、せめて彼の子供はすべて私が産んでしまいたい。
いつの間にか、彼なしに物事を考えることが、困難になっていた。
もっとも、子爵家から、公爵家の別宅に住まいを移して以降、関わる人間が殆どおらず、彼だけしかいないような状況が常であったから、そうなってしまうのも無理からぬことであったが。それに気付くのは、二人目を授かった後だ。焦っていた私をよそに、医者は「早い方だ」と言われた。
むしろ、次々に子を身籠っていては、母体が危険であると指摘を受けた。くれぐれも無理はされないようにと、医者は念押しを受けて、私はようやく一人目を産んでから、そこまで年月が経っていないと気が付いた。
『軽い気鬱に悩まされていたのでしょう』
呆然とする私に、医者は言う。出産後、気分が滅入ってしまう女性は少なくないのだと説明を受けた後、気分転換をした方がいいとも言われた。
『屋敷に籠もられてばかりでは、子にも悪いかと』
助言を受けて以降、私は別宅の外に赴くことが多くなった。無論、妊婦である為、別宅の庭園を散策しているに過ぎないが。その際は決まって付き人が二人程後ろに控えている。
『無理しないでくれ。大事な体なのだから』
彼は私が散策したいと言った際、難色を示した。子を宿す身で何かあればと心配してくるのだ。医者の忠告もあるが、妊娠も二度目で、悪阻も酷くないと理由をつけて、散策する場合は彼もしくは付き人をつけることを条件に、散策を許可された。当初、彼を心配性だとしか思わなかった。別宅に赴く彼は、私に優しくしてくれるものの、あくまでそれは子を得る為の手段に過ぎないのだとしか思わなかった。
違和感を覚えたのはいつ頃だったのか。
あるいは見ないふりをしていたのか。
「おかしいと思ったのは、別宅と本家が隣接していると気付いた時でした」
私に住まう別宅は、公爵夫妻が暮らす本宅が目と鼻の先にある。足を伸ばせば、本宅の扉に手が届く。
「正直なところ、未だに何がという問われると分かりませんの」
子を得る為の『相手』を当主の側に置くなど、貴族階級ではよく聞く話だろうに。違和感が拭えなかったのは、
「私は別宅であなたと過ごしてきました」
痛みに苦しむ男に、私は言った。
「私はあなたの人柄を知っているつもりです。ですから、おかしくて仕方がなかった」
子を得る為に、抱く女さえ気遣う彼を見ていたせいだろうか。違和感はまるで閃きのように輝いて見えた。
「我が子を得られない妻を気遣うことなく、妻の為だとは言いながら、抱く女を見せつけるように側に置くなど」
そもそも、彼の妻は婚姻まで産めぬ体を秘密にしていたのだ。家の為か、彼を慕うが故の嘘か。どんな理由があるにせよ、そんな女にとって他の女を抱く夫を見せつけられるなど、耐え難い程の屈辱に違いない。
「あなたは妻の為と言いながら、妻に対する配慮が微塵も感じられなかった。何故でしょうか?」
問いながら、答えは既に知っている。
「そもそも、妻などいなかった。それが答えだったなんて」
笑いが込み上げてくる。
「あなたの嘘に騙されていた私はさぞかし滑稽だったでしょうね」
ーーああ、そうだ。思い出した。何故この矛盾に気づかなかったのか。
契約を交わした直後、彼が言っていたからだ。
『本宅には近づかないでほしい。……妻がいるから』
言われた直後、私は何を思っただろうか。とりあえず、『分かりました』と答えた気がする。別宅と本宅が隣同士だと気付いていたとしても、見て見ぬふりをしていた。本妻の存在など、どうでもよかった。ただ、契約が反故になれば、家族に迷惑をかけてしまう。その一心で、あの頃の私はこの男との契約に殉じようとしていた。当時の私ならば、本宅に近づきもしなかった。
二人目を身籠った私は何を思ったのか。顔も知らぬ彼の妻が住む本宅の扉を開けようなどと。家族の姿が脳裏を過ぎらなかったと言えば嘘になる。ただ、二人目を妊娠した後、散策する度にどうしようもない違和感が拭えなかった。彼の矛盾に気付いたからではない。別宅の窓から見える本宅の景色は、使用人の行き来はあったとしても、身分の高い貴婦人らしき影は見たことがなかった。散策している際も、それらしき影はなく。
思えば、彼は別宅に出入りして、見送ることはあったとしても、本宅に入っていく姿は殆ど見たことがない。
見ていないだけだと言われたら、それまでの話だが。
膨れ上がる疑念が、彼に対する恋慕よりも上周り、溢れかえるのは時間の問題だった。嫌われたくないだとか、彼を信じたいだとか、ありふれた言葉で片付けれない。
この感情をどう表現すれば、伝えられるだろうか。
「怒っていますか? あなたとの契約を反故にした私のことを」
苦痛に歪む顔がこちらを見返してくる。
微笑んで、それに答えた。
「けれど、疑念を抱かせたあなたにも問題があると思うの」
彼がどう思っているのか。尋ねながらも、話を続ける。
どうでもよかったからだ。
話し合う段階など、とうの昔に過ぎている。
「本宅に出入りするのは存外簡単でした。あなたが仕事で家を空けていて、あなたとの約束を反故にするだけでよかったのですから」
本宅に近づくな。散策に行く場合は付き人を。
彼との契約と約束を守らず、別宅には使用人が少なかったからこそ、驚く程あっさりと、別宅から出ていけた。
そして、本宅の扉に手をかけた。
「使用人達は皆驚いていましたし、それに、」
一様に頭を垂れて、執事長らしき年配の男が私を見て言ったのだ。
「私を『奥様』と呼んだのです」
「ーー」
「驚きました。私はあなたの『愛人』であって、『奥様』ではない筈なのに」
子を得る為の『道具』なのだから、『愛人』というには語弊があるかもしれないが。どちらにしろ、本宅に仕える使用人達が私を警戒こそすれば、必要以上に敬う必要はないだろう。ましてや、女主人と呼ぶことさえも。
「少し混乱したけれど、聞きたいことは決まっていたから、きちんと話せてよかったと思っているの」
『公爵夫人はどちらにいらっしゃるの?』
尋ねると、執事は困惑した様子で、答えてくれたのだ。
「公爵夫人は私だと聞かされた時の私の気持ち、あなたに分かる?」
「ーー」
「あなたにとっては計画通りだったとしても、私は想定外のことばかり」
引き抜く刃物で、また激痛が走ったのか。彼は反射的に顔を押さえる。寝台は彼の血で染まっていくばかり。
「おかげで、私の子は流れてしまった」
無意識に腹を押さえる。すると、彼の目がこちらを捉える。痛ましいと言われているかのようで、私は笑う。
「同情されているのですか? それとも、嘆かれているのですか? あなたの種を失った私が逃げてしまうのではないかと」
本宅に赴き、『奥様』と呼ばれた直後。度重なる事実が心労になったのか。急に腹が痛み出し、意識が遠ういていき、気付けば、別宅の寝台に横たわっていた。
医者が呼ばれ、診察を受けて、
『残念ながら、』と告げられたのは、『流産』の知らせだった。義務的な労りの言葉を投げかけられ、部屋の扉を閉まる。頬が濡れていて、やっと自分が泣いていることに気が付いた。私は何を嘆いているのだろうか。
子を失ったのは、子よりも、自分の疑念を優先したのだ。自業自得である。なのに、涙が止まらない。
「だから、私を部屋に閉じ込めたのですか?」
取り乱し、打ちひしがれる私を療養と称して、部屋から出ないように使用人が命じられたと聞いた。
別宅に来て以降、こんなことは今まで一度もなかった。
「使用人達に何を聞いても、あなたの命令だからと言うばかりでした」
「ーー」
図星であろう。彼の瞳の奥が僅かに揺れた。それだけで、感情の機微が分かる程、私は彼を見てきたのだと気付かされる。
「ですが、あなたが私を閉じ込めてくださったおかげで、幾分か気持ちの整理ができました」
刃物を持つ手が握られる。痛みに苛まれる顔など気にせずに、彼は激しく首を振る。何か言おうとして、また悶え苦しむ。肉を抉るように斬りつけたのだから、当然か。
「……何か勘違いされているようですが」
声にほのかな呆れが交じる。
「自害するつもりなんてありませんよ」
彼の目が大きく見開いた。
「死ぬつもりであれば、いくらでも機会がありました。それこそ、あなたの帰りを待たずに」
刃物を握る腕を掴む力が緩む。自分の顔を抉った女が自害しないことに安心するなんて、おかしな男である。
「そもそも、閉じ込める真似までしておいて、放置するなんて何を考えているのかと考えていました」
「ーー」
「……ああ、いえ。そうでした。あなたにとって私を軟禁するなんて、大したことではありませんでしたね。何せ、ずっと私を騙し続けていたのですから」
この男は卑怯で、愚劣な男だった。
そもそも、彼に妻などいなかったのだ。いや、これだと語弊があるかもしれない。彼は成人を迎えると同時に妻を娶ったと言う。身分が釣り合う令嬢を。病気も持ってもいなければ、子を宿すのも問題一つない。
以前彼から聞いた話とは、真逆の公爵夫人の像だった。
ならば、彼の側には妻がおらず、彼は私を必要としたのか。曰く、公爵夫人には相手がいたと言う。将来を約束した恋人とやらが。もっとも、家同士の決め事とはいえ、彼と婚約を交わしているのだから、将来を約束したとて反故するのは分かりきっていた。一時の恋だ。
それに付け込んだのは、他でもない彼だった。
自分の妻がーー当時は婚約者だったがーー、他の男に現を抜かしているのを知り、彼女に取り引きを持ちかけた。彼女が恋人と逃避行に身を投じるのを手助けする代わりに、自分と結婚をした上で妻の座に居座ってほしい。
一見、矛盾した荒唐無稽な取引である。が、彼なりの理屈がきちんとあった。離縁は認められていない国だが、例外がある。どちらかが死んだ場合は再婚が認められているのだ。
更に言えば、王族含めた貴族階級はともかく、平民階級は姓を持たず、戸籍を持たない者も多く、事実婚を結婚という形で成り立たせているらしい。
この国の有様によって、彼の取引は成り立つ。
結婚した直後、妻が恋人と共に逃げ出す。そして、数年身を潜めてほしいと彼女に言った。出奔後、両家が騒ぐ中、彼は妻がいないことを内密にすることを取り次いだ。結婚した直後に公爵夫人の不在などーーましてや恋人と駆け落ちーー社交界で笑い者になるばかりか、両家に泥を塗る行為だとした。
その上で数年後、公爵夫人が亡くなったとして、別の妻を娶るとした。社交界に出入りせずに病に伏せているならば、妻の名を忘れられ、三年の月日が流れた後、子を得る為に、妻の遠縁の娘を娶ったとしても不自然なく受け入れられると説得したと言う。
だが、三年もの間、公爵家に子が直系が生まれないのは問題だとして、子を儲けてくれる相手を探さなければと言われ、
『だから、その相手に君を選んだんだ』
何故、私を選んだのか。私は覚えていなかったが、彼は私を見かけたことがあったらしい。社交界入りしたばかりの私を。しかし、下級貴族に過ぎない私が、公爵子息の彼と言葉を交わすことなく。たった一目見ただけで、彼は私を見初めたのだとか。
『君以外の女性など、妻にしなくない。だから、君に私の子を産んでもらおうと思ったんだ』
両家では、妻の遠縁を彼に宛てがおうとしていたらしいが、子を身籠れる令嬢は既に嫁いだか、既に婚約者がいる立場だった。離縁は許されず、また婚約解消や破棄させるなど、何かあったのかと邪推されかねない。
こちらの命令に従順に従い、血筋は貴族のものであり、公爵家の秘密を暴こうとしない、子を生むのに適した貴族の娘。白羽の矢が立ったのが、他でもない私だった。
没落寸前の家を援助すると言えば、子を生み、後腐れなく終わる女。
『私が君を推薦した際、両家はそのように考えていたが、私は違う。君を妻にする為に、君に子を産んでもらう。そうすれば、下手に両家が妻を探すのに躍起にならないと考えていたんだ』
妻は恋人と逃げた。行き先は分からない。そのように言えば、両家は『公爵夫人』の行方を追う手を緩めた。
『公爵夫人』は良家の娘であり、平民として生きて行けるかどうか分からない。また、恋人との子を身籠っているかもしれない。どこの馬の骨とも知れぬ男の種を仕込んだ娘など、両家にとって恥でしかなく。見つけ次第、共々、切り捨てればいい。が、その為の労力を割くのは惜しく。
『私の子を産んだ女性を妻に据えると、親族に約束させた』
契約に縛られた状態で娶れば、契約を反故してまで、両家を敵に回すことはするまい。そもそも、没落寸前の貴族に何ができると言うのだろうか。
『君が子を産んでくれて、ようやく両家の許しを得られたんだ』
子を生まない女を公爵夫人にはできない。子を産めば、婚家の養女に迎えてもいい。婚家からそのような約束を取り付けていた。
『ようやく君を妻にできる』
子を得られたのならば、何故二人目を望んだのか。
『あれは君を両家に認めさせるのが目的だったんだ。二人目を望んだのは、君との子がほしいと思ったからだ』
つまり、苦悩と葛藤の中、産んだ愛しいあの子は。
あなたにとって都合のいい『道具』に過ぎなかったと。
『君以外に私の妻は考えられない』
乞うような、焦がれる声。
『愛しているから、結婚してくれ』
その言葉に、激情が決壊した。気付くと、私は彼を押し倒して、短剣でその頬を抉るようにして、刺していた。
焦がれる程に愛した男が苦悶に歪む姿は、見ていて痛快だ。気分がいい。狂っている。
「あなたの事情を聞いていましたけれど」
苦しむ姿を目に焼きつけながら、笑ってしまう。
「あなたはあなた自身の愛しか語ろうとしていない」
「ーーー、」
「あなたにとって私があなたを愛しているかどうかなんて、重要ではないのですね」
息を呑む音が耳に届く。
「そうですよね。だって、私にはもう貴族令嬢としての価値なんて欠片もないのだから」
子を得る為の手段として、貴族の血筋を持つ男女を囲うことは認められていたとしても、所詮貴族は貴族。
自身の血筋を大事するあまり、男はともかく女は純潔でなければならない。でなければ、修道院に赴くか、跡継ぎが既にいる家に後妻として娶られるしか方法がない。
一人目の子を儲けた私は、彼と別れた後は、家を弟妹に託して、修道院に身を寄せようかと考えていた。
純潔を失った貴族の娘はそれほどまでに価値が下がる。
もしくは、純潔を捧げた相手に囲われるしかない。
彼は最初から外堀を埋めていたのだ。私には何も語らず、騙し続けて、子を産ませて、挙句、謝罪の言葉は愛の一言で包んでなかったことにしようとしている。
これを最悪と呼ばずして、なんて呼べばいいのだろうか。
「私はあなたの手を取るしか方法がないから、私の愛なんて重要ではない。むしろ、どうでもいいと思っているのかしら」
あるいは、後々、手に入ればいいとでも思っているのか。
「あなたは私に愛を押しつけたいだけ」
この別宅に囲われた日々は、本当に大事にされていた。一方で、あまり私の意思はあまり通らなかった気がする。衣食住にしろ、彼の決定で生活が成り立っていた。
『君の為だ』
と言われれば、こちらも黙るしかない。それが全て、私の為でも、子の為でも、ましてや妻の為でもなければ、彼が彼の嘘を突き通す為だったら。
これ程腹立たしいことはない。
一体、あの苦悩はなんだったのか。愛おしいと思って、憎いと胸を掻きむしりたくなる衝動はなんだったのか。
私の全てを、この男は踏み躙ったのだ。
「そもそも、根本的な疑問があるのだけれど」
私は目を細める。
「何故、私を妻として娶れると思ったのですか?」
刃物を持たない手に胸に当てる。
「私は子爵家の嫡女であり、爵位は私に引き継がれます」
この国では嫡子であれば、男女関係なく爵位を継ぐことが許されている。家を継ぐ相手を、同様に家を継いだ当主の男は娶れる筈もない。家督や領地の相続争いに発展する可能性が考慮し、国が当主同士での婚姻を禁じている。これは家督を継ぐ予定がある者同士も同様である。
にもかかわらず、彼は言ったのだ。
「あなたは私を一目見て気に入り、妻に望んでいたと仰っていましたが、私は幼少期より爵位を継ぐと定められていました」
私の場合は、弟が成人し、爵位を継ぐに足ると判断されるまでの、謂わば『中継ぎ』に過ぎないが。だとししても、爵位を継ぐ女を、公爵位を継ぐ嫡男である彼が正妻にできるわけがない。
しかし、現に彼は私に求婚できる立場にある。
家を継ぐ立場にあった私にそれができるのは、私が彼と契約を結んでいて、家が窮地に立たされたせいだ。
「答えられないのは百も承知ですが、」
血まみれの彼の口は今話せる状態ではない。私がそうしたからだ。だからこそ、彼の目は語ってくれる。
「もしかして私の家に何かしましたか?」
彼の目は雄弁だ。
聞いただけで、答えが返ってくる。
「……そうですか」
具体的に何をしたのかとか、聞く気はない。彼が『何か』をしたと言う状況こそ重要なのだ。
「あなたは私と婚姻を結ぶ為に、我が家を危険に晒し、私を騙して、純潔を奪い、挙句の果て、『愛しているから、結婚してくれ』なんて仰るなんて、」
許されると思っているのか? 言外に含ませた意味を、彼が察したかどうか分からない。ただ、彼は静かに目を閉じた。強張った体から力が抜けていく。意図を悟れない程、愚かではない。しかし、いやだからこそ、
「……何か勘違いされているようですが」
彼は未だに私と言う女を理解していない。
「あなたを殺すつもりなんて、毛頭ありませんよ」
愛しているだの、結婚してだの言うくせに。
その女の意図すら見破れないのかと、呆れ返ってしまう。
再び目を開けた彼には、どんな女が映っているのだろうか。
「だって、そうでしょう? あなたを殺すなんて私にはいくらなんでも都合が悪すぎます」
没落寸前にまでした原因が彼にあるのだとしても、その家を援助しているのは他でもない彼だ。つまり、彼は私の家族の生殺与奪権を握っているに等しい。
「何より、あなたが私を娶る為の道具と称した私の子の行く末まで危うくなってしまう」
あの子は今どうしているだろうか。ここで彼を殺すのは簡単だが、それではあの子がどうなってしまうか。
「あなたからすれば、『なら、傷つけた理由は何故か』と思われるでしょうけど」
一瞬、考える素振りを見せた後、
「これ以上、あなたが発する言葉を聞きたくなかったからなんて、どうでしょうか?」
直後、彼は傷つけた様子で、顔を歪ませる。
痛みが走ったのか、その表情は苦痛の中に消えてしまったけれど。
「何故、傷ついた顔をされるのです? 聞きたくないと思わせたのは他でもないあなたなのに」
呆れを滲ませた声を発した。
「愛しているなんて仰るくせに、その私に対して嘘を吐き続けてきた。そんな人が語る愛の言葉なんて、あまりにも軽すぎて聞くに耐えないと思いませんか?」
色男と称される遊び人よりも、騙すことを生業とする詐欺師よりも、遥かにたちが悪い。
「そもそも、あなたが真実を語っている保証なんて、どこにもない」
「ーー、」
表情は変わらず苦痛に歪んでいるものの、彼は私を見返してくる。その視線だけで、十分伝わってくる。
「『何故』と言いたげですが、ならばあえてお尋ねしますが。あなたの先の奥方は、本当に駆け落ちなんてなさったのですか?」
貴族と平民との身分違いの恋だなんて、御伽噺に過ぎない。身分違いどころか、生まれ育った環境も価値観も違いがありすぎて、恋が生まれる状態にならないのだ。
万が一、そうだったとして、果たしてこの男は本当に妻の逃避行を支援するだろうか? 不義密通を咎めるとか、そんな話ではない。彼は言っていた。私以外の妻は娶りたくないと。ならば、一人目の妻は、彼にとって邪魔ではないだろうか。彼女がいる限り、私を迎えるどころか、何の行動もできない。
ならば、この男はどう出る? どう動く?
私以外の妻を娶りたくないと言うのならば、私以外の妻を娶った事実をなかったことにしようとするのではないか。未だに見つかっていない公爵夫人の行方が、彼が何をしたのか物語っているかのようで。
こんなものは想像の域を出ない。聞いたところで、彼の口は塞いだ同然の状態なのだから、答えられる筈もない。
ただ、目の奥に動揺が走ったのが見て取れた。
それだけで十分だった。
「愛していると言いながら、あなたは私に嘘を吐くのですね」
我ながら、冷めた声が出るものだと思う。瞬間、下敷きにしている彼の体がビクリと跳ねた。目に怯えにも似た感情が宿るのを見た。
「あなたにとって愛とは嘘すら内包されたものかもしれませんが」
刃物を握る手に力が籠る。
「私はこれ以上あなたに嘘を吐かれたくない」
ですからと、私は彼を見下ろしながら、言った。
「何より、愛している人に嘘を吐き続ける唇なんて必要、ないでしょう?」
傷口をなぞるように、刃物を向ける。
傷に障るのか、また彼は悶え苦しんだ。
「これで、あなたは私に嘘を吐けなくなりましたね」
仮に傷口が塞がったとしても、彼は終生、口を開くことは困難を極めるだろう。上々な成果だ。
「私を騙すことができなくなった今、お尋ねしますが、」
小首を傾げて、問いかける。
「あなたは本当に私と結婚したいとお思いで?」
意図が読めなかったのか、あるいは激痛で苦しむあまり聞き取れなかったのか。問うような眼差しを向けられる。
「私と夫婦になりたいと考えていらっしゃるのですかと尋ねたのです」
「ーー、」
「『何故?』と言いたげですが、私はあなたの軽口を聞くのが嫌になったからお口を引き裂いたのであって、別にあなたとの結婚が嫌とは言っていないのですよ」
彼の目がこれ以上ない程、見開いた。
「あなたとの結婚が嫌だと言うのでしたら、私の首を引き裂く方が早いではありませんか」
先程も言った通り、彼を殺すのも道連れにするのも、都合が悪すぎる。であれば、自分自身を処分する方がいくらかマシと言えるだろう。どのみち、彼以外との縁が望めない今、貴族令嬢としての価値はないに等しい娘が自害したとて、家には泥を塗る以外の不都合は何もない筈だ。
それをしない理由なんて、初めから分かりきっている。
「自分を騙し続ける相手に嫁ぐなんて、考えただけでどうにかなってしまいそうです」
事実、彼の口を引き裂いているのだ。もっとも、彼に出会わなければ、こんな激情を持つこともなかっただろうけど。
「あなたの口を裂くことで、初めて私に嘘を吐けなくなった」
ある意味、対等になったと言えるだろう。彼の全てを知ることはできないにしても、少なくとも彼の本心の一端を、その目で見ることはできるのだ。それだけで十分である。
「再度お聞きしますが、」
彼に覆い被さった状態で、私は彼に問うた。
「あなたの口を裂いた私を妻に娶りたいと思いますか?」
直後、腕を強い力で握られる。
彼は私を凝視しながら、何度も首を縦を振る。
「……正気ですか?」
意図に理解しているものの、私は聞き返してしまう。
「別に断ったとしても、殺すつもりなんてありませんよ。あなたの目の前で死のうと思っているだけで」
更に強い力で握られ、痛みが走る。それが顔に出ていたのか、握る力が緩められる。だとしても、なおも握る手は変わらない。
「何より、私を妻にしながら、子ができなくなったとしても、他の女を抱けなくなりますよ」
彼に妻がいると思っていた時点で、どうしようもない激情に悩まされていたのだ。娶られた後、彼が他の女を囲えば、今後こそ私は一線を越えてしまうだろう。
「あなたの代で家を途絶えさせてしまうかもしれないのに、私を妻に迎えようとお考えに?」
「ーーア、」
何度も頷くと同時に彼は口を開く。それで激痛に苛まれるだろうに、構うことなく何度も声を出そうと試みる。
「ア、ア、」
激痛に悶え苦しみながら、声を発する姿は大半の人間は目を逸すどころか、逃げ出してしまいそうだ。それ程までに凄惨な状態だった。だけど、私は彼の言葉を聞く。血に塗れた状態で、痛みに耐えながらも、なんとか発した言葉は聞きたくなくて、軽いとすら思っていたものだった。
ーー愛している。
けれど、痛みを伴った言葉は不思議と耳に心地よく。
「ーーあなたの気持ちは分かりました」
自然と笑みを浮かべてしまう。
「でしたら、改めて、私から言わせてください」
痛みに耐える彼の傷をなぞるように触れる。
少しの緊張を伴って、私はその言葉を口にした。
「愛しているから、結婚して」
それに対する彼の答えはーー語るまでもないだろう。
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