007 紀元前312年 商人テオドロス
アルカトオスが港の路地を進むと、商人テオドロスの屋敷が行く手を阻むように現れた。
テオドロスの屋敷はコの字型の家で、真ん中が中庭となっており、大きく重厚な木の門が、荷物の運び出しのために大きく開け放たれていた。
門には警護の兵がひとりいるが、外からでも中庭の様子が伺える。
「……早くしろ! 昼までには積荷の目録を完成させるんだ!」
中庭の喧騒の中、テオドロスはいつも通り、翌週の交易に向けた積み荷の指示に声を荒らげていた。
そこへ、門の方から一人の若い使用人が、顔を引きつらせて走ってきた。
「だ、旦那様! 門のところに、面会を求める客人が……」
「馬鹿者! 見ればわかるだろう、今は忙しい、誰とも会わん! 追い返せ!」
「それが……身なりは質素ですが、立ち振る舞いはまるでどこかの高貴な家の令息か、若き士官のようで……。門番の制止も聞かず、神託で旦那様がローマへの移住を計画していると聞いて来たと言っています。そんな話は無いと言っても、確認して貰えれば分かるとの一点張りで……」
テオドロスの心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ね、背中を冷たい汗が伝う。
(……ローマへの移住だと? なぜ、その事を……!)
移住の計画は、まだ息子たち2人にしか話していない。それを、門の前にいる見ず知らずの若者が、あろうことか「神託」などという不気味な言葉と共に口にしていた。
「……旦那様? 顔色が……」
使用人が怪訝そうに覗き込んでくる。
テオドロスはハッと我に返り、必死に動揺を抑え込むと、周囲の部下たちに聞こえぬよう低い声で命じた。
「……通せ。中庭の奥の私室だ。それと息子たちを呼びに行かせろ、今すぐにだ!」
テオドロスは、積み荷の目録を握りしめたまま、逃げるように私室へと向かった。
テオドロスの私室は、中庭から離れており、喧騒が嘘のように静まり返っていた。
壁には交易で得た地図や香辛料の袋が吊るされ、机の上には未整理の帳簿が山のように積まれている。
テオドロスは椅子に腰を下ろすこともできず、落ち着かない様子で部屋の中を歩き回った。
(移住の話が漏れるはずがない。……まさか息子たちが口を滑らせたのか?)
やがて、重厚な扉が開き、長男のカシオスと次男のルカが怪訝な顔をして入ってきた。
「父上、こんな忙しい時にどうしたのです。それに取り乱して……」
長男のカシオスがそう言いかけた時、彼らの後ろから、場の空気を支配するような足取りでアルカトオスが姿を現した。
テオドロスは、一歩前に出た。
「……貴様が、門で不吉な予言を口にした若造か。息子たちも揃った。さあ、聞かせてもらおう。誰に吹き込まれた? 領主アッタロス様の差し金か、それともどこかの間者か!」
カシオスとルカが訝しそうな顔で、アルカトオスのつま先から顔までを見た。
アルカトオスは、カシオスとルカの刺すような視線を受け流し、不敵な笑みを浮かべた。
「我が主人が神託を受けた。だがそれはあまりに我らに都合のよすぎる神託だった。ゆえに先に確認させて貰おう。……テオドロス殿、貴公はローマに移住する計画があり、それを迷っているのか?」
その直球の問いに、室内は水を打ったような静寂に包まれた。
テオドロスは、心臓の鼓動が耳元で鳴り響くのを感じた。
息子たちと相談中の極秘計画。それを、初対面の若者が「我らに都合がよいから」という理由で、淡々と確認しに来たのだ。
長男カシオスが反射的に腰の短剣に手をかけようとしたが、テオドロスがそれを手で制止した。
「……それが事実だとしたら、貴様らはどう動くつもりだ」
テオドロスの声は、絞り出すように低かった。アルカトオスは頷き、さらに踏み込む。
「もし事実ならば、我が主の名を明かし、その計画に乗らせて貰う。だが、主の名を聞けば退く事は許さない」
アルカトオスは一拍置き、テオドロスの瞳の奥を覗き込むように続けた。
「それと、神は貴公にも神託を告げている。……『恩を返す時が来た。かつて嵐で全てを失ったお前に、船を返し、再起の翼を授けた恩人の孫が、今、お前の船を必要としている』。これが真実かどうか、そなたの口から聞かせて欲しい」
テオドロスは、肺の中の空気がすべて凍りついたかのような衝撃を受けた。
カシオスとルカも、父のあまりの動揺ぶりに息を呑む。
「……恩人の、孫……ではあなたの主人は……」
テオドロスの脳裏に、嵐で全てを失い、ボロボロの船と共に漂着した若き日の記憶が蘇った。
本来なら没収されるはずの船を返して貰い、総督アルタバゾスから掛けられた言葉。
『海で戦った男から、最後の船を奪うのは人の道に外れる』
テオドロスは、商館の最奥に密かに飾ってある、恩人の紋章が刻まれた盾を思いながら、震える手で机を叩いた。
「……よし。分かった。認めよう。私は、ローマへ行くつもりだ。この地では、一族の未来が枯れるのを待つだけだからな。
さあ聞かせろ。お前の『主』の名を!」
アルカトオスは、静かに、だが部屋全体に響き渡るような明瞭な声で告げた。
「我が主の名は、ヘラクレス。……アレクサンドロス大王の息子にして、貴殿が恩を受けたアルタバゾス様の正統なる孫君であらせられる」
テオドロスの膝が、ガクリと折れた。
恩人の孫。あの大王の血筋が、今、アッタロスの監視を掻い潜り、自分の船を求めている。
「……神は仰せだ。商人テオドロスのステファノス家がヘラクレス様に仕えれば、ステファノス家の一族は繁栄すると」
テオドロスは顔を覆い、肩を震わせて咽び泣いた。
それは恐怖ではなく、三十年間抱え続けてきた「恩義」という名の重荷が、最高の形で報われる瞬間の歓喜だった。
「……おお……。
あの日、アルタバゾス様に拾っていただいたこの命。……孫君をお運びすることで恩返しができるとは。これ以上の誉れがあるだろうか!」
長男カシオスと次男ルカも、父のその姿を見て、己たちがこれから運ぶ「荷」の重さを悟った。それは単なる金貨や品物ではない。自分たちは、一族の歴史と未来を運ぶのだ。
カシオスが力強く頷き、一歩前に出る。
「父上、もう迷う必要はありません。我らステファノス家、神の導きに従い、ヘラクレス様にお仕え致しましょう! 3人しか知らない筈の秘事を知っている事が、神託が本物と言う証拠です!」
テオドロスは涙を拭い、深く、深く頭を垂れた。
「……ステファノス家は、ヘラクレス様に従おう。我が家の船、三隻すべてをお預けしよう。だが移住は綿密に計画せねばなりません。……ヘラクレス様が国外へ出るということは……」
アルカトオスは静かに頷き、懐からしわくちゃの手紙を取り出した。
※紙がここまで潰れているのは、屋敷を出る際、監視の門番の検査を受けるため、靴の二重底に押し込んで運んだからだった。
「そう、逃亡だ。
だが神はすでに道筋を示されている。この手紙には──出航日、寄港地、海が荒れる日、雨の降る日……すべてが記されている」
テオドロスは目を見開いた。
「天候まで……神が教えてくださるのですか!?」
カシオスとルカも、神託の精密さに息を呑んだ。テオドロスは震える手で手紙を受け取り、目を通す。
「なるほど……三度に分けて移住すると。それで……最後の船にヘラクレス様が乗られるのですね」
「そうだ。主が最初に動けば、残る二隻が危険になる。最後に乗るのが皆が最も安全な方法だ」
テオドロスは深く頷いた。
「……分かった。ヘラクレス様が乗られる“最後の移住船”は──二か月後、6月3日としましょう。……カシオス、ルカ。聞いたな。これより我らステファノス家は、一族の命運をかけて王子にお仕えし、お運びするのだ」
息子たちは、かつてない父の決然とした表情に、迷いなく「応!」と短く、力強く応えた。
アルカトオスは、彼らの瞳に宿った覚悟を確かめると、静かに私室の窓の外……港に揺れる三隻の帆船へと目を向けた。
「では、私は一度屋敷へ戻ります。今後の連絡は、弊宅の少年ピュロスを介しましょう。……テオドロス殿、6月3日の昼、海を抜けた先で、共に見事な夕日を拝もうではありませんか」
笑いながら交わしたその言葉は、もはや単なる別れの挨拶ではなかった。
4人は神託の圧倒的な威光を前に、移住計画が必ず成功すると信じて疑わなかった。




