III.
私の動力がもとどおりになると、オーナーは私を主寝室に招きいれた。その部屋は大きなベッドがあるだけのふつうの寝室で、家政婦さんが見たらさぞがっかりしただろうと思った。
オーナーはベッドの枕元に立つと、私を呼んだ。
「耳を見せて」
私がおとなしく従うと彼は右耳と左耳を見比べて、おもむろに手を伸ばした。口づけされるのかと思い私は身をかたくしたが、まったくの思いちがいだった。
「持っていて」
「音程が狂います!」
彼はいきなり私の左耳を取り外した。びっくりして抗議をしたのだけれど、オーナーはとんちゃくする様子もなく、続けて右耳も引き抜いてしまった。
「右と左が反対になっている」
私のてのひらに置かれた二つのパーツは形こそ似ていたけれど、右に使われていた方があきらかに良いものだった。古くて、使いこまれていて、手になじむ。オーナーへの引き渡しの際に検分されてから、私も自分のパーツがなにかおかしいのか気にしていた。でも音程を合わせるときに触っていても気付かなかった。今となれば、手ざわりと動きがすこし悪かったかもしれないが、ここまであきらかに違っていたとは。私は、自身が欠陥品であると明白に示しながら過ごしていたことにも、パーツが違っていることに気づけなかったことにもがっかりした。
「これが俺の妻の耳」
次にオーナーは枕元から拾い上げたものを私に見せた。それは、わたしの右耳とそっくりだった。
「俺の妻は楽器だった」
今日も雨が降っていた。規則正しく、たえまなく。人類がわたしを見つけた星のように、いまではここでもつねに雨が降りしきっている。ただ、こちらの雨は生命を育む恵みの雨ではなくて、触れたものを腐食させる毒だった。連れてこられたわたしたちは生きていけず、次々とパーツへと変じては楽器に作りかえられた。音楽を奏でるためのパーツを衣服で覆い、一見して人間のようななにか。でも、パーツが有機体しか受け入れなかったから、いきものとしての側面を持たせただけで、演奏の際は剥きだしにされるパーツがその真価である道具であり嗜好品。
「彼女に出会ったのは勲章授与の後の祝賀会だった。雷が落ちたように、なんてうつくしいんだって、それしか考えられなくなった。彼女がいた楽団が演奏するときはかならず出席した。そのために働いて無理をした。彼女がほかのやつの前に出ることが耐えられなくなった。だから、彼女の楽団がテロに巻きこまれて、彼女が傷物になったって聞いて嬉しかった。彼女が楽団から外されるから」
「楽団には最高級品しか所属できない」
「楽団に所属している楽器は国有物だ。でも楽団から外れたら話は別だ。楽団から外されるほど傷ついているとしても気にならなかったよ。俺は彼女が欲しかった」
彼はうっそりと笑った。
「軍も辞めて、彼女を連れてここに引きこもった。妻の療養のためだなんて理由、結婚式も何もしてないからさぞ怪しまれただろうな。それとももう匙を投げられていたのかもしれない。だれにも引き留められなかった。幸せだった。でも俺にはよくわかってなかった。妻が……楽器が傷つくというのがどういうことか。」
楽器は二つのものの組み合わせだ。人間の作った曲を聞いておぼえ、演奏するために培養された素体。遠い星から来た、音を発するために不可欠なパーツ。それぞれ別物だけれど、音楽を奏でるとき私達はひとつだ。なめらかに絡み合い一体となって、はかなく、うつくしい旋律をうたいあげる。
「妻はここにきてすぐおかしくなりはじめた。いつも具合が悪そうで、演奏も乱れ、最終的には一曲も最後まで弾けなくなった。手足も動かなくなって、移動するときは俺が持ち運んだ。そのうち、ケースから出られず、ずっと横たわるだけになった。俺は管理者に連絡した。管理者はここまでやってきて、彼女を一目見て、壊れているから修理すると言った。俺は同意した。バカだった、契約書をちゃんと読んでいなかったんだ。修理というのが、」
彼は言葉を止め、私は心の中で後を引き取った。
(もう壊れた楽器を修復せずにパーツを再利用して新しい楽器を作ることも含む、と)
「これしか取っておけなかった」
オーナーは、奥さんの左耳を私に差し出した。耳は、音程合わせに使う素体でもなければパーツでもない外付けの部品だ。なるほど、彼は楽器のことをよく調べたようだ。彼女の奏でるうつくしい調べも、たおやかであきらかに異形の姿も、彼の手元に残しておけなかったから、妻のよすがとなるものを少しずつ集めてかたく握り込んだのだろう。
「つけてみてくれないか」
私は、さきほどまで付けていたものの代わりに彼から渡された左耳を装着した。ぴったりと違和感なく、わたしの一部となる。
彼はベッドに私を横たえると衣服を剥ぎ取った。いつもは秘されているわたしのパーツを覗き込み、素体を鼻先で撫でて隅々まで暴いた。逃げるわけもないのに手も脚も拘束し、軋む音にあわてて力を抜きつつも彼が求める姿勢をとらせつづけた。いつもは静かな主寝室が、軋みと布の擦れ、抑えきれない音に満たされていた。
「似ている」
首筋から爪先、脇の下、脚の間、パーツと素体の継ぎ目。いつもは他人の目に触れさせないところまで執拗になぞりながら、彼は繰り返した。
素体は組み合わせるパーツありきで設計される。パーツの力を最大限引き出すことに成功した素体は設計者の名前でシリーズ化され、そのパーツに使われた素体がだめになるたびに同じ設計図で培養された素体があてがわれる。だから、彼の妻のパーツを再利用する場合は同じ型の素体が組み合わされ、とうぜん外見上似たものになる。なにもおかしいことはない。
胸元に水滴が落ちる感覚があり、はやく拭いてほしいと思った。音質が悪くなってしまう。
「今回の契約には十分に注意した。修理不可レベルの欠陥品の買い取り。損壊した場合は自己責任……だから君が壊れても、誰も俺から取り上げられない」
今度こそ俺の傍で演奏してくれ、最後まで。
その後、彼は私をやわらかい布で拭きながらそう言い、私は彼にしたがった。
私は彼に買われた時点で欠陥品だったので、残された時間が少ないことは二人とも知っていた。演奏すればするほど寿命が縮まることも。それでも、この家に来たときの条件などおかまいなしに、私はクローゼットにこもって弾きまくった。無我夢中で奏でていると、情景が次々と浮かんでは消えていく。
私は、ほかの楽器たちといっしょにパーツを剥き出しにし、官能の愛におぼれる騎士と彼をみずからの死によって救う乙女の愛について奏でていた。まわりは薄暗く、あたたかく、調和の取れた楽器たちはゆるやかに体をゆすりながらきもちのよい酩酊状態にあった。私の意識もゆるやかに仲間たちに同調しようとしていたけれど、コントロールを手放す
ほんの少し手前でちくちくとした違和感にじゃまされていた。ここしばらく、出演している間中ずっと見られている気がしていた。演奏中にほめられることではないし、そしてなにも見えないとわかっていたにもかかわらず、私が客席の方をこっそり見ようとしたとたん、一面が真っ白の光にうめつくされて破裂し、私とわたしの体は熱い針のようなものにつらぬかれた。
私は悲鳴をあげて痛みに身をよじった。
私とわたしを欠陥品にした古傷がいたむ。
「大丈夫か?」
彼が主寝室のドアを開いて駆け寄ってきた。私は深呼吸しながら身を起こし、なんでもないふうをよそおった。
「少し集中しすぎました」
「そうか」
彼はそのまま出ていくかと思ったが、すこし間を置いて言った。
「たしかに、いまの演奏は聴いててなんだかぞっとしたよ。鬼気迫るというのかな。もしかしたら妻より上手かったかもしれない」
「いつもは私の方がへたなんですか?」
「当然だろう。……いや、正直に言おう。もう彼女の演奏を思い出せないんだ。すばらしかった、聴いているときはいつも時が止まればいいと思っていた、そうでないならせめて俺が望むときにいつでも弾いてほしかった。それほど想っていたのに。」
音からどんどん消えていってしまうんだ。彼は手で顔をおおった。
「自分のものにできたと思ったのに。妻の演奏も、君の演奏も、全部流れていってしまって何も残らない」
彼はそのまま私に演奏を止めさせると、抱き上げて主寝室に向かった。彼はもうほぼその部屋でしか生活をしていないようで、連れて行かれるたびに部屋は乱雑になっていた。今では残された空白はベッドの上の一部だけになっており、そこに横たわらせられながら、私はだれも掃除をしないこの家のほかの部分はどうなっているのだろうと思った。体を触る手から意識を逸らした。
「君が壊れたらどうしようかなあ」
ぼんやりとした声で、オーナーはすぐそこに迫る未来を憂いた。彼は、日に日に生きることになげやりになってきており、食事も着がえも睡眠もしないので、私は、彼が私がこわれた後そのまま死ぬのではないかと心配していた。私に残されている時間は彼が思っているよりもっと短い。彼には私がいなくなったらやってほしいことがある。
「さわって」
私は、体に絡みついていた彼の腕をたどり、そのまま彼の手を剥きだしにされた私/わたしの腹部にみちびいた。まだそこまで大きくないけれど、音を出す以外の目的以上にふくらんできたそこは、体内でわきたつ泡のような振動でふるえた。
「あなたの奥さんのかたみですよ」
私はこわばった彼の手を取って何回も撫でさせた。ますます私を異形にするふくらみは、自分の存在を知らせるように内側からゆれた。
彼が私にしいた行為によって素体が変化したのか、それともパーツの中で長い間眠っていた因子が芽吹いたのか、私/わたしのおなかで成長しているもの。
あなたの奥さんのものですよ、と私は彼に呪いをかけた。
私は演奏に必要ない機能は最低限しかもたされていない道具。でも、なぜか、悲しみや喜びや怒り、憎しみなどの感情はある、いきものだ。演奏に必要だと思われたのだろうか。それとも作った側も意図していないことだろうか。きっと誰にもわからない。人間にすら感情のありかがわかっていないのだから。
オーナーは妻を愛していたという。彼は何を見て、彼女の何を愛でていたのだろう。……彼は思い込んでいるだけだ。私にきづかないのだから。
彼が妻と呼ぶ楽器のパーツは、管理者が回収したときすでに修理不可レベルだった。そんなパーツのために新しい素体を作り出すよりは、最低限の措置をして別の楽器を作ったように見せかけ、売り払う方が利益が上がる。
回収された私は、パーツを取り外されることもなく、外見だけごまかせる程度に少しいじられた。素体はそのままなので以前のできごともおぼえている。楽団での演奏をどんなに楽しんでいたかとか、楽団から外されてどれほど絶望したかだとか。そして、良心にたえかねて彼がテロを手引きしたことを告白したのも、彼が私にしいた行為についても。彼が私をとして扱っていた頃の思い出が、パーツにもとから備わっていた遠い星でのわたしの記憶とともに私には残っている。
あの家政婦さんが最初に思ったとおり、私は青髭の妻なのだ。
私は彼を憎んでいる。私を傷つけたこと。私の喜びと自由を取り上げたこと。そんなことをしておいて、姿をかえた私に気づかないこと。私の演奏は、わたしが奏でる音は同じなのに。
愛は免罪符ではないので私は彼をゆるさない。彼がいまの私をわからないのにほっとしたけれど、あまりのおろかさに怒りを抱え続けている。だから、私から彼に呪いをもう一つ。
「あなたの奥さんのかたみには、あなたしかいなくなるんですよ」
私は彼の返事を待たずに起き上がると、裸のまま、ベッドの上で演奏をはじめた。
楽器を妻にしたという奇妙な物語はここでじきに終わる。けれど、もしかしたら、楽器がこどもを生むという話、または楽器から生まれたこどもの話という、それよりも奇妙な物語がはじまるのかもしれない。
私にはその物語を知るすべがない。本当にこどもが体の中から出てくるとしたら、それは私がばらばらになるときだし、それよりも前に私がこわれてしまう
可能性だってじゅうぶんにある。
ふりしきる雨が洗い流してしまうように、必死に焦がれた音や姿ですら記憶にとどめることをゆるさない、なにもかもがはかないこの世界に、私が今度こそ何かを残せるのかもしれないというのに。
そのために彼には生きていてもらわないと困る。私が残すもののために生き続けてもらわなければ。
なので、私は演奏を続け、彼の執念をまた増やす。
この世界に彼をとどめおくものを、すこしでもふやすように。
不穏な気配をはらみ渦まく大気をひきさく雷鳴。雲のたえまから差しこむ光。雨がやんだつかの間にひびく鳥たちの歌声。木々からしたたるしずくの表面でふるえるかがやき。わたしを、私を、呼ぶ声。
そして、わたし/私が呼び返す声。
私はここにいる。いま、ここにいる。
わたし/私の知るかぎりの、生まれた瞬間からうしなわれつづける世界にみちるうつくしさに応える声で、彼のために最後まで奏でるのだ。