II.
私は新しい暮らしにすぐなじんだ。めざめると隣のウォークインクローゼットに移動し、準備をして、決められた時間を演奏して過ごした。リクエストがなかったため、その日の私の気分によって、勝手にその日のテーマを決めて延々と演奏したり、超難曲に挑戦したりした。超難曲では何回か失敗したので文句が出ないかとひやひやしながら耳をすましたが、演奏の質にかかわらず主寝室からはずっとしずかな呼吸の音しか聞こえてこなかった。
最初に言われていたようにオーナーに会わない日が続いた。次に私が口を開いたのもオーナー以外の人間に対してだった。
「うわっ!」
まぶしいと思う間もなく悲鳴があがって、私はある日暴力的な勢いで目覚めた。決められた時間でなくても、緊急時対応としてケースが急に開けられれば、自動的に起きるようになっているのだ。ただし、起きた後の稼働時間は制限される。
ケースを開けたのは女性だった。声から、オーナーよりずっと年上だとわかった。彼女は私をまじまじと眺めたうえで家政婦だと自己紹介し、よければ台所でお茶でも飲まないかというので、私は小柄な彼女の後について久しぶりに一階に行った。
人の気配がない静かな家だと思っていたけれど、家政婦さんがいるときの台所は明るく、お湯がわかされていて空気があたたかかった。わたしはある程度のあたたかさと湿度は好きだ。家政婦さんがばたばたと動きまわり、扉を開けたり閉めたりして発散しているエネルギーも、数日前にオーナーに連れてこられたときと違う原因だと思った。私はすすめられるままに椅子に座ったが、飲み物はことわった。
あのオーナーがここで物を食べたり飲んだりする様子を想像しようとしたけれど、むずかしかった。
家政婦さんは活発な雰囲気のままに、自由にしゃべった。清掃や炊事のために、月に一度通ってきているのだそうだ。見たこともない巨大な箱があったので、ほこりを払っておこうと開けたら私が横たわっており、急に跳ね上がるように動いたので悲鳴を上げてしまったのだという。オーナーの連絡不足は以前からだが、今回はとくにひどいと彼女は憤慨しきりだった。
「それでアンタは一体なんなの?」
「私は、楽器です」
私も自己紹介したが、それだけだと家政婦さんにはわからなかったようだ。自分自身のことだからすぐに忘れてしまうけれど、楽器はふつうの人にとっては生きている間
に見ることも聞くこともない存在なのだ。私はもっと丁寧に説明することにした。
むかし、この星に降る雨がすべてを腐らせる毒になるずっと前、文明がもっと発展していて人間がやりたいことを支える資源が豊かにあったころ、人間はここから遠く離れた星で奇妙ないきものを見つけた。
かれらは、雨のふりしきる森の中に生息していて、体の形を変えることによってうつくしい音を奏でることができた。人間はかれらを採集して、この星に持ち帰った。かれらにたくさんの曲をおぼえさせ、演奏させた。
そしてかれらの寿命が終わりそうになるたびに、パーツを取り外して大切に保存した。もうかれらの星に行く船は作れなかったから。
一度手に入れたうつくしい音を手元に置き続けるために、人間はパーツと共生する素体の作製を試みた。素体が必要な生命活動を行い、パーツは演奏する。素体とパーツの組み合わせの成功例、それが楽器だ。
私もそのひとつだ。
「じゃあ、あんたは、その、人間じゃないの?」
私にはわからない。楽器の見かけは、程度こそあれ素体に応じる。パーツは換えがきかないものなので素体より丁重に扱われるが、度重なる使用によって摩耗するし壊れてゆくので、わたしというパーツに接続されたいくつめかの素体である私は、最初の楽器と比べるとかなり素体の比率が高い「人間らしい」外見の楽器になっているはずだ。私のゆったりした衣服に覆われていない部分は、ほぼ人間のかたちだし、ある程度は自分で思うように動くことはできる。耳は聞こえるし口もきける。しかし、機能の有無は演奏にいるかいらないかで決められている。視力と嗅覚はほぼない。ほとんどの時間はケースの中に収納され、眠ったような状態で生命活動に必要な栄養等を送りこまれている。目覚めていられる時間は短く、音楽を奏でるために当てられる。
私はあいまいに首をふった。縦のようにも、横のようにも見えただろう。
「へえ」と家政婦さんは素直におどろいていた。
「よくわかんないけど、あんたみたいなものに会うなんてびっくりだ。でも、あんたの入ってたあの箱ね、あれはもっとびっくりしたよ。変な管がたくさんついてるけど、ちょうど人がひとり入るくらいの、棺桶みたいな箱が突然置いてあるからさ、いけないかもしれないとは思ったけど開けちゃってね。そしたらほんとに、あんたが入ってるじゃないか。ついに青髭の奥さんを見つけちゃったって思ったら、突然死体かと思ってたやつが動くから」
「あおひげ?」
「しまった、言っちゃったよ。ご主人のあだな。あの人は前はえらい軍人さんだったらしいんだけど、奥さんが病気になったからって急に辞めて引っ越してきたんだ。でもだれも奥さんを見たことがない。病気って言うわりにはお医者さんも来ない。あたしももうここに通って結構たつけどぜんぜん見かけない。寝室にはずっと鍵がかかってて音もしないし。鍵穴からのぞいて見たけど、なんも見えない」
あんたは会った? と聞かれて、今度は明確に首を横に振った。家政婦さんはしゃべり続けていたが、私にはせっぱつまった問題があった。緊急に起こされたため、起きていられる時間がいつもより短く、そろそろ終わってしまうのだ。
「すみません。そろそろ私とまります」
強制的に閉じようとする目と口をいっしょうけんめいに動かした。うごかなくなりますけど、ここにおいておいてくださいね。むりにうごかそうとしないでくださいね。
家政婦さんがあわててなにか言っていたように思う。その後、ドアが押し開かれるような音、人間が言い争う音、なにかが破裂したような音。そんな一連が聞こえたような気もするが、私はもう目を開かず、意識がたゆたうままにまかせた。
次に気がついたのは、オーナーが、私を抱き上げてケースに入れたときだった。動力がすこしずつ戻ってきて、手の先がしびれる。時間はわからなかったが、体のこわばりからかなり長い間ケースの外にいたのだろうと思った。
「すみません」
「こちらこそ帰宅が遅くて悪かった。彼女はクビにした」
彼は淡々と言った。
「あのひと、あなたの奥さんのことをとても知りたかったようです」
私は、真上にあるオーナーの顔と天井との境目あたりをぼんやりと見上げた。気持ちが悪かった。おなかがぐるぐるし、背中が軋むのを感じながら、彼の呼吸を聞いていた。いつも演奏しているときに寝室から聞こえてくる音。吸う息と吐く息がほぼ同じ長さの、体の深いところから湧き出すような音。家政婦さんと廊下に出たとき、その音はどこからも聞こえなかった。だから私は彼が留守なのだと知って、彼女の後についていった。
それよりもっと前から実はわかっていた。私は欠陥品だし、オーナーはいつも私の左耳を気にしているようだけれど、わたしの聴力は損なわれておらず、人間よりははるかに鋭敏だ。わたしが演奏しているときに寝室から聞こえるのは、オーナーの呼吸の音だけだ。彼にそう伝えた。
「あなたの奥さんはあの寝室にいないのに」
「ああ」と彼は一言答えた。