I.
雨が窓につぎつぎとはねかえる音を聴いていた。知らないうちに、かすかな音のつらなりに眠りに誘われていたらしい。
わたしは、いつしか、木々に取り囲まれているようだった。
顔をあげると、まぶたに、頬に、雨がふりしきった。ほんとうなら濡れることはゆるされない。わたしはほんのわずかな間にこまかな水滴にびっしりと表面を覆われ、未知の感触をたのしんだ。
雨、わたしの呼吸、遠くでさざめく葉ずれ、地面に雫があたってはねかえり、近くでなにかが踏みしめたように枝が折れる音。
まるで、わたしを呼んでいるようだった。
幹に絡むようにもたれていた背を起こし、口を開き、しめそぼった空気を取り込んで、わたしは、ゆるやかにほどけた。胸とおなかが一呼吸ごとにひろがり、手と腕の先が溶けて細く長くしなやかに伸びる。わたしも、大きく空に向かって呼びかけを送ろうとした。
わたしはここよ、ここよ……。
管理者が呼びにくるまでのつかの間、見ていた夢はそこで途切れた。ふるいふるい記憶のひびきを抱えて、ずっと眠っていたかった。
頭のてっぺんから薄い布をかけられ、手を引かれて階段をそろそろと下りた。連れていかれた先の扉がぱっと開かれると、まぶしい光が満ち、私は思わず目をぎゅっとつむった。
背中を押されて部屋の中に進む。青黒い装いをした背の高い男性が、ぼやけた目に映った。
「鑑定をなさいますか」
私を連れてきた管理者がたずねると、彼はいったん首を振ろうとしたが、途中で考えを変えたかのようにうなずいた。
「そうだな、少しの間でいい。一対一にしてほしい」
この人は鑑定士なのだろうかと、私はベールを外されつつ考えた。かたくて無骨な手が、私の顔の輪郭をたどって左耳をそっとさわる。何回も鑑定されたことはあるけれど、こんなやり方はしらない。わたしたちの由来、年代、材質、使われているパーツの真偽、パーツの組み合わせの妙などを調べる彼らは、もっとやわらかな手をしていて、もっと自信をもって、わたしをくまなく探ったものだ。
私は、もとからそう見えない目をこらし、目の前にある彼の服の布地に集中しているふりをした。しっかりしたつくりの濃い色の制服にはおぼえがある。軍のえらい人たちの着ている服だ。軍はわたしたちの上客で、いろいろな機会によく呼ばれたものだ。
私の新しいオーナーは、どうやら軍人のようだった。
しばらく慣れない方法での確認をした後、彼はほっと息をつき、管理者を呼び入れると契約の最後の手続を行った。
「購入だ、貸し出しではなく」
「はい、楽器と専用ケースをセットで」
軍人は硬い声で宣言し、管理者がおもねるような響きで相槌を打った。
これにより私は管理者の手をはなれ、新しいオーナーである彼の元で過ごすことになる。管理者から、所有者が変わる以上もうここに戻ることはないと事前に説明を受けていた。前のように楽団に所属していたなら残念に思ったのかもしれないが、いまではかえって好都合だった。
とっくに運びだされていたケースを除くと、私の荷物は小さな鞄ひとつだけだ。オーナーについていくと、彼は書類を持っていない方の空いた手で鞄をとりあげ、私が外に出るのをエスコートしてくれた。
「ケースはもう積んでしまったから、馬車まで歩いてもらってもいいか? 濡れないようにケースに入れた方がいいなら、取ってくる」
「いえ、歩きます」
「そう」
あっさりと言われたけれど、その声はさきほどより少しやさしげだった。彼は黒くて大きな傘をひらき、私が馬車に乗りこむまで、濡れないように慎重に差しかけてくれた。そもそも、わたしごとき欠陥品は温度や湿度の管理を徹底的に求められるほどの存在ではないし、馬車は建物のまん前にとめられていたので、濡れるのをおそれたるほどの距離ではないというのに。
ひさしぶりに体を動かしてつかれてしまった。固い座席に身をおちつけると、私は彼がなぜわたしを手に入れたのか考えることにした。
わたしの左耳には、なにがあるのだろう。
「妻のために演奏してほしい」
一日最低二時間以上。それが新しいオーナーの望みだった。
一時間近く馬車に乗って着いたのは、街の外側の一軒家だった。御者に金を払って帰らせると、彼は、軽く曲げた左腕に私をつかませ、じょうずにエスコートしながら中を見せてまわった。
一階に応接室、居間、食堂、台所。どの部屋もひんやりとして、使われている気配がまったくない。彼の肩は私の目線のはるか上で、ちからづよい腕と重い靴音は彼がめぐまれた体格をしていることをうかがわせた。
階段をのぼっているとき、私はベールを踏んでつまずき、あわや一階に背中からもどりそうになった。オーナーが間一髪のところで支えてくれた。
「軽いな」
「中はほぼからっぽですから」
私は言わずもがなのことを口にした。彼はとんちゃくせず、「差し支えなければ、その頭の布は取ったらどうだろう」と提案した。
「ここには俺以外、誰もいないし」
私はめぐまれない視力をなんとなしに悔やみつつおとなしくベールを外して、彼の、私の腰に回っていない方の手に渡した。こんなに距離が近くて、へだてるものがなくても、私には彼の顔立ちがぼんやりとしかわからない。私から彼が観察できなくとも、彼がこちらを見ているのはよくわかった。彼は私を抱きとめたまま、またわたしの左耳を見下ろしていた。
弱まる様子のない雨の音だけがしばし流れた。
「気をつけて」
「はい」
なにもなかったかのように私の姿勢を立て直して、彼は二階を見せてまわった。寝室が二つ。主寝室とそれにつながっているウォークインクローゼット、客用寝室。浴室と洗面所。浴室と洗面所は共用で、私が使うのは客用寝室。主寝室は絶対に開けてはいけない。私には、廊下側の出入り口からウォークインクローゼットに入り、そこで主寝室にいる彼の妻のために演奏してもらいたいのだとオーナーは説明した。
「妻は病気だ」
人前に姿をあらわせない。彼女は音楽が生きがいだったから、せめて聴かせてやりたいと思って。彼はさらりと依頼の背景を口にした。この家は防音措置もしてあるし、隣の家ともじゅうぶんに距離があるから、演奏の音はおさえなくていいとも言った。
私達は、明日から私の仕事場となる部屋で向き合った。クローゼットというけれど、じゅうぶんに大きい。わたしのために、まんなかに椅子が置かれていたが、それ以外にはオーナー夫妻の衣類もなにもないがらんとした空間だった。
彼はそこでいくつか私に約束させた。
主寝室につながる扉を開けないこと。彼は、彼が家にいない日中にわたしが稼働するように設定するので、稼働時間内に準備と彼の妻のためにの演奏をして、時間になったらケースに戻ること。家の外に出ないこと。
「君が起きているのは一日三時間程度だから、その間演奏するように」
「演奏する曲のご希望はありますか?」
「きみが自由に決めてくれていいよ」
オーナーが客用寝室にケースを設置している間に質問した。シングルベッドとそんなに変わらないサイズの物体を置くため、もとから置いてあったベッドを一人で動かしていた彼は軍服の上着を脱いで、顔の汗をぬぐった。ベッドとケースの間に、私がぎりぎり通れる隙間があることを確認して、私にケースに入るよううながす。正直なところ、もう動力がなくなりそうだった私は、よろこんで彼にしたがった。
「じゃあ明日からよろしく」
彼がケースをしめる。家じゅうを満たしていたよりも、密度の濃い闇がケースの中になだれこんでくる。明日から、最低二時間、演奏する。新しいオーナーとの会話を思い出していると、おなかのあたりでなにかが動くような気持ちがした。明日は何を演奏しよう。おなかを少しなでてみたが、すぐに私は眠ってしまった。