第4話 利用されていたとしても
1週間ぶりのスイートルームだった。
咲良は、いつものようにロビーを抜け、エレベーターで最上階へと昇っていく。
扉の奥に広がる景色も、あのやわらかな香りも、変わらないはずなのに――
なぜか足取りが重かった。
(なんで、こんなに緊張してるんだろ)
ノックの音に、すぐレオンが出てきた。
変わらぬ優しい笑顔。
「咲良。来てくれてうれしいよ」
「……うん。遅くなってごめんね」
「大丈夫。待ってた」
そう言ってレオンは、部屋の奥へと歩いていく。
咲良もあとに続こうとして――ふと、目が止まった。
レオンの左腕。
そこに、もう包帯はなかった。
「……腕、もう」
「ああ、うん。治ったんだ。先週、病院で診てもらってね。もう完璧」
レオンはそう言って、軽く左手を握ってみせた。
その仕草は、もう痛みを忘れた人のものだった。
(あ……)
何かが、すうっと冷めていく音がした。
「元通りに描けるって、ちょっと不思議な感じだよ。
右手だけで描いてたから、少し感覚が変わっちゃっててさ」
咲良は笑顔を返そうとしたけれど、うまく口角が上がらなかった。
元通り。
それは、彼にとっての自由。
でも――咲良にとっては、自分の役目が終わったという合図に聞こえた。
「……よかったね」
やっとの思いで出た言葉は、自分でも驚くほど遠く感じた。
(じゃあ、私は……もう、必要ないんだ)
そんな予感が、胸の奥をじわりと締めつけた。
「また描くね」
あの日、レオンはそう言っていた。
左腕が治った夜、スイートルームの扉が閉じる間際に、優しく微笑みながら。
でも、その日から──一度も、呼ばれていない。
スマホの通知は鳴らなくなり、メッセージを送っても「ごめん、ちょっと忙しくて」と短く返ってくるだけ。
(変わったのは、私じゃなくて……レオンのほう)
咲良はスマホを握りしめたまま、道場の休憩室でひとり、じっと天井を見上げていた。
(でも、それが自然なのかもしれない)
レオンの怪我は治った。
もう、モデルは必要ない。
もともと、そういう約束だった。
そう自分に言い聞かせながらも、心はざわついていた。
「毎晩のように描かれていた」あの時間は、たしかにそこにあったのに。
あの視線も、あの手も、あの温もりも。
今では何ひとつ、届かなくなってしまった。
(私は、あの時間に甘えてたんだ)
モデルとして。
助手として。
そして……少しだけ、特別な存在だと、信じたかった。
けれど今となっては、それすら幻想だったのかと疑ってしまう。
ネックレスを指でつまんで、そっと握りしめた。
ピンクダイヤの硬い輪郭が、冷たく指先にのしかかる。
(呼ばれない、という事実が答えなら……)
その先は、考えたくなかった。
土曜の午後。
道場の掃除を終えたあと、咲良はひとりで畳の上に座っていた。
静かな室内。
窓から差し込む春の日差しが、まるで過去の残像みたいに淡く広がっている。
スマホには、既読のつかないトーク画面がそのまま残っていた。
「今夜、少しだけ顔を見られたら嬉しいです」
送ったのは、三日前。
返事はない。
通知の音が鳴るたびに胸が跳ねる。
でも、それがレオンじゃないとわかるたびに、すぐ落ち着く。
(……こんなの、バカみたい)
膝の上に置いたスマホを裏返す。
「もう終わったのかもしれない」
ぽつりと、咲良は口にした。
誰にでもなく、自分自身に。
レオンが左腕を回復させたときから、予感はしていた。
必要とされる時間の終わりが、そこまで来ていたことを。
──それでも、あの昼の出来事が嘘だったとは思いたくなかった。
あの目も、あの声も、
咲良の肌に残った熱も。
レオンは、咲良をモデルとして見ていたのか、
それとも愛する人として抱いてくれたのか。
答えがないまま、時間だけが過ぎていく。
(考えたって意味ない。……気にしないほうが、楽なのに)
何度もそう思う。
でも、何度思っても、胸の奥に広がる空白は消えなかった。
*
「……集中してないな」
一歩、二歩。
畳の上を踏み込みながら、榊原隼人が静かに言った。
咲良は軽く息を切らせ、黙って構え直す。
汗がこめかみをつたって落ちる。
それなのに、頭の奥だけは冷たく、ずっとよそ見をしていた。
「前なら、もっと容赦なかった」
「……わかってる」
そう返すのがやっとだった。
いつもなら読み合いの瞬間に反応できたのに。
いつもなら、ためらいなく投げていたのに。
いまの咲良は、どこか守りに入っていた。
力が出ないのではなく、出せない。
身体は反応するのに、気持ちが追いつかない。
「何かあった?」
隼人の問いは短く、ぶっきらぼう。
でもその声の奥には、確かに「知っている」響きがあった。
咲良は黙ったまま帯を握りしめる。
否定すれば嘘になる。
だけど説明なんて、できなかった。
しばらくの沈黙のあと、隼人が畳に正座したまま言った。
「何があったのかは知らないが、落ち込んでるな」
「……」
「子供の頃と同じだ。けっこう引きずるタイプ、だろ?」
咲良は、ふっと息を吐いた。
それはため息とも、笑いともつかない吐息だった。
「……うん。たぶん、そうかも」
日溜まりの中の出来事。
あのまなざし。
あの指先。
忘れるには、あまりにも丁寧で、やさしくて。
描かれただけなのに、消えない。
「だったら、行動しろ」
唐突に、隼人が言った。
「何に悩んでいたのか忘れるくらい、動け。おまえなら、できるだろ」
驚いて顔を上げると、隼人はいつも通り無表情のまま、
ごく普通の声で言った。
「まあ、俺は柔道しかできないけどな」
咲良はその瞬間、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
*
「──会いたいの」
送信ボタンを押したあと、咲良はスマホをテーブルに置いた。
一瞬で心臓が跳ね、すぐに静まり返る。
返事は、しばらくなかった。
でも1時間後、短く届いたメッセージ。
『いいよ。今夜、待ってる』
それだけで、なぜか涙が出そうになった。
*
夜、スイートルームの前。
いつもと同じはずの扉が、やけに重たく見えた。
咲良は手のひらに汗をにじませながら、ノックする。
ドアが開く。
レオンがそこにいた。
金の髪。整った顔立ち。
いつもと変わらぬやさしい微笑み。
でも、どこか──目の奥が静かだった。
「咲良。来てくれてありがとう」
咲良は、何も言わずにうなずいた。
部屋に入ると、あのキャンバスは片隅に立てかけられていた。
もう描かれることのないまま、白いまま。
「元気だった?」
「うん。……そっちは?」
「まあまあ、かな」
取り繕うような会話が、妙にぎこちない。
咲良は、意を決して切り出す。
「……モデル、もう必要ないんだよね」
レオンの表情がすこしだけ陰る。
けれど、否定はされなかった。
「左手が治ったから。自分ひとりでも描けるようになった。
だから……もう、大丈夫」
その優しさが、いちばん痛かった。
咲良は笑おうとしたけれど、うまくいかなかった。
「……そうだよね。わたし、あくまで“お詫び”で来てただけだもんね」
レオンの目が揺れる。
「ちがう。咲良、君は──」
言いかけて、言葉が途切れる。
でも、その先を咲良はもう求めなかった。
「大丈夫。私も……ちゃんと終わらせたくて来ただけだから」
ふたりの間に、少し長い沈黙が落ちた。
それは、描きかけた絵を破り捨てる代わりに、
そっと机の引き出しにしまうような、静かな終わり方だった。
「……本当はずっと、苦しかったんだ」
レオンがぽつりとつぶやいた。
ソファに腰を下ろし、片手で顔を覆うようにして、
彼は視線を咲良からそらしたままだった。
「君を巻き込んだと思ってた。怪我も……あの昼のことも」
咲良は何も言わなかった。
ただ、黙ってその言葉を受け止めていた。
「怪我が治ったとき、すごくほっとしたはずなのに……君がいなくなるのが、こわくて、なにも言えなくなった」
その声は、絵を描くときと同じくらい繊細で、揺れていた。
「……僕は、君のことを利用したんだ。だから、君に『返さなきゃ』って思った。もとどおりの毎日を」
「でも、私はそんなふうに思ってなかったよ」
咲良の声は静かだった。
震えているのは、どちらかと言えば胸の奥のほうだった。
「私は……レオンに呼ばれて、ここに来て、
描かれて、愛されたって思ってた。
利用されたなんて、少しも思ってなかった」
「咲良……」
「モデルだったって言われたら、それまでだけど」
レオンは苦しそうに目を伏せた。
言葉が届いているのか、ただ責められていると感じているのか、
咲良にはもう、わからなかった。
「でも、終わりにするっていうなら……私、受け入れるよ」
それが精一杯だった。
ほんとうは、もっと叫びたかった。
もっと縋りつきたかった。
でもそれをしたら、
あの夜の記憶すら、自分で壊してしまう気がして。
咲良は静かに目を閉じた。
レオンの気配が近づいて、そして遠ざかる。
目を開くと、レオンはぽつりと窓際に座っていた。
身じろぎもしない、彼の背中。
それがきっと、答えだった。
次の日の朝、咲良はニュースサイトをぼんやりと眺めていた。
手元のスマホには、既読のつかないメッセージがいくつか残っている。
「無事に帰れた?」
「気をつけてね」
「ほんとは、もっと話したかった」
どれも、短くて、あいまいで、決定的じゃない。
でも、どの言葉にも「さよなら」が滲んでいた。
──そして今、
咲良の目の前にあるのは、たったひとつの現実だった。
【L氏、パリへ帰国】
【次なる新作の舞台はフランスか――ストリートアート界の天才、沈黙を破る】
名前は出ていない。
顔も写っていない。
でも、記事のなかに添えられた一枚の写真。
──空港のラウンジ。
──手にはスケッチブック。
──くるくるとした金の髪。
(やっぱり、レオンだ)
もう、いないんだ。
日本にも、この街にも、スイートルームにも。
咲良はその場に膝を抱えて座り込み、スマホを抱いたまま、じっと目を閉じた。
(私、ちゃんと……「好き」だったんだな)
やっと、その言葉が胸に落ちてきた。
遅すぎた自覚。
間に合わなかった想い。
でも、それを悔やむよりも先に、ただ涙が溢れてきた。
静かに、あたたかく、音もなく。
──もう描かれないとしても、
この感情だけは、心のなかに絵として残りつづける気がした。
深夜0時をまわったスマホの画面。
通知がひとつ、ぽつんと浮かんでいた。
【Leon_art_officialが投稿しました】
咲良は反射的に指を動かす。
タップして開かれたのは、1枚の写真だった。
──パリ、エッフェル塔。
夜の空に浮かぶライトアップ。
見上げるような構図に、塔の足元だけが切り取られている。
(……今、そこにいるんだ)
説明も、ハッシュタグもない。
レオンらしい、静かな投稿だった。
でも咲良には、それが何より雄弁だった。
「ここにいるよ」
「見つけて」
まるで、そう言われているような気がした。
心臓が強く打ち、身体の奥から何かがこみ上げてくる。
咲良は引き出しを開け、パスポートを取り出した。
次に、クローゼットの奥から小さなスーツケース。
カチリ、と静かな音を立てて開かれる。
あのスイートルームでもらったピンクダイヤのネックレスが、
やわらかな光を浴びて淡く輝いていた。
咲良はそれをそっと首元にかける。
そして、声にならない声でつぶやいた。
「……行こう」
まだ、好きかどうかも、自信なんてない。
再会して何を伝えたいかも、言葉にはならない。
でも、描かれたまま終わるのは、いやだった。
この線を、自分の手でつなぎに行く。
たとえ結末がどんなものであっても――
もう一度、「会いたい」という気持ちだけは、嘘じゃないから。