第3話 ピンクダイヤモンドが輝く夜
完成した絵は、窓辺に立てかけられていた。
まだ薄暗い明け方の光が、室内に静かに滲み込んでいる。
スケッチの中の咲良が、淡く微笑んでいるように見えた。
レオンはその前に立ち、じっと絵を見つめていた。
「綺麗すぎる」という言葉じゃ足りない。
咲良はその後ろ姿を、ただ黙って見つめていた。
──どうして、この人にこんなにも惹かれるのか。
「……描けてよかった」
低く澄んだ声が、空気をふるわせる。
咲良は隣に並び、完成したスケッチをのぞき込んだ。
そこにいたのは、確かに「自分」だった。
けれど、自分でも知らないような、凛としてやさしい顔をしていた。
「……なんで、そんなに私を描きたいの?」
ぽつりとこぼれた問いに、レオンは静かに答えた。
「きみは、僕の光だったから」
「光?」
振り返ったレオンの瞳が、まっすぐ咲良を射抜く。
「描くことは、僕にとって生きることだった。でも、ずっと……息をしてる気がしなかった。
君を描いたとき、はじめて心の奥に風が吹いたんだ」
言葉は詩のようだった。
くるくるの髪が頬にかかる。まるで古典絵画の天使のように美しい──それでいて、目だけは人間味にあふれていた。
「……君が、僕を呼吸させてくれたんだ。だから、君を描けて……本当に、幸せだった」
咲良は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
こんなにも美しくて、遠くて、完璧に見える人が。
こんなにも優しい目で、自分のことを見ている。
「……そんなふうに言われたの、初めて」
「僕もだよ。誰かに、こんな気持ちを話すのは」
白む空の向こうで、新しい一日が始まろうとしていた。
咲良の心にも、それは似たような光で満ちていた。
朝の光が、スイートルームの重たいカーテン越しに滲んでいる。
絵を描き終えた夜の余韻がまだ部屋に漂っていて、咲良はバスローブ姿のまま、ゆっくりとソファに腰を下ろした。
レオンはキッチンの奥で、片手でカフェオレを淹れている。
動きは不器用だけど、どこか優雅だった。
窓辺のテーブルの上。
無造作に置かれた黒い小箱が、ふと視界に入った。
(……アクセサリーケース?)
何気なく手を伸ばしかけて、すぐにやめた。
レオンの私物かもしれない。そう思ったのに──視線だけが離れなかった。
「……それ、見つけた?」
気づけば、レオンがすぐそばに立っていた。
金の髪が朝日を受けてきらめき、薄く笑ったその横顔は、まるで夢から抜け出してきた王子のようだった。
「開けてみて。君のものだから」
咲良は一瞬戸惑ったが、そっと箱のふたを開けた。
そこには、虹のようにきらめくピンクダイヤのネックレス。
粒は小さいのに、目を奪われるような光を放っている。
可憐で、やさしくて、どこか儚くて──でも明らかに最高級の輝き。
「……なに、これ」
「君を描いていたとき、頭に浮かんだんだ。
この色、このかたち。君の線の余韻みたいだと思った」
レオンは言葉を選ぶように、ゆっくりと語った。
「だから、君に持っていてほしかった」
咲良はネックレスを手のひらにのせたまま、何も言えなかった。
胸の奥が、また新しい色で満たされていく。
それが嬉しいのか、こわいのか、自分でもわからなかった。
咲良は手のひらにのせたネックレスをじっと見つめていた。
光の角度で色を変えるピンクダイヤ。
まるで虹のしずくが結晶になったようで、見ているだけで胸がいっぱいになる。
けれど──その美しさは、あまりにも遠い。
「……こんなの、私に似合わないよ」
小さくこぼれたその言葉に、空気がぴんと張り詰めた。
次の瞬間、レオンの声がふるえた。
「やめて」
その響きに、咲良は顔を上げた。
レオンは目を見開いたまま、まるで胸の奥から叫ぶように続けた。
「そんなこと、二度と言わないでくれ」
「……レオン?」
「だって、君は僕の光なんだ。
君が美しくないなんて、僕のすべてを否定されるのと同じ」
そのまなざしが真剣すぎて、言葉を飲み込んだ。
「君の身体も、君の心も、君の線も、すべてが僕を救った。……咲良、僕は君を、愛している」
静かな告白だった。
でも、それは確かに彼の本心のすべてだった。
胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
こんなふうに、まっすぐに「愛してる」と伝えられたのは初めてだった。
抱きしめたい、とも、奪いたい、とも違う。
ただ、描くように、包むように──咲良の存在を、愛している。
「……レオン」
名前を呼ぶだけで、声がふるえた。
レオンの告白が、部屋の空気を変えた。
スイートルームの朝は静かだったのに、
心臓の音だけが、騒がしく響いていた。
「……君が、欲しいわけじゃない。
君を手に入れたいんじゃない。
君そのものを、ただ愛してるんだ」
その声は、咲良の奥の奥に届いた。
こんなふうに、触れもせずに
「すべてを肯定された」ことなんてあっただろうか。
気づけば、咲良の足元がすこしだけ揺らいでいた。
ほんの一歩、レオンが近づく。
その瞳は、相変わらずまっすぐだった。
恐れも、迷いも、何もない。
ただ、彼女だけを見ている。
そっと咲良の頬に手が伸びる。
左腕ではない、まだ動く右手で──やさしく、触れた。
その手は大きくて、温かくて、
ずっと以前から自分を知っていたような感触がした。
「……キス、してもいい?」
問いは優しいのに、心臓は暴れそうだった。
咲良は、ほんのすこしだけ首を縦にふった。
次の瞬間、くちびるが触れた。
それは驚くほど静かでやわらかく、
痛みも過去も、全部溶かしてしまいそうなほど。
(こんなキス、あるんだ……)
触れているだけなのに、
なにか大切なものが、じわじわと心にしみ込んでくる。
キスの中で、レオンの指が髪をそっと撫でる。
まるで線を引くように、彼女の存在をなぞっていた。
咲良の手が、自然とレオンの胸元をつかんでいた。
もう、逃げなくていい。
この人の中に、身を委ねてもいいんだ。
そう思えるほど、レオンの愛は深くて、
あまりにもやさしかった。
レオンのくちびるが、そっと離れる。
けれど咲良は、ただじっと、その顔を見つめていた。
青い瞳は、まるで夜空にぽつんと浮かぶ一等星のようだった。
強くて、揺るぎなくて、でもどこか寂しそうで。
(どうして……そんな目をするんだろ)
胸の奥がきゅっとなる。
感情の名前はまだわからない。
好き……なのかもしれない。
でも、確信するにはまだこわくて。
ただこの人のまなざしから、目をそらせなかった。
レオンが、そっと咲良の肩に手を添える。
引き寄せられるように、ふたりの額が触れた。
「……咲良」
名前を呼ばれただけで、背中をなぞられるように熱が走る。
レオンの手がそっと背中をなぞる。
ぎゅっと抱きしめられる。
そのまま、ふたりの身体は自然と傾いて──
ソファからなだれ込むように、ベッドへ。
咲良は少しだけ身をこわばらせた。
でも、レオンはすぐにその様子に気づいたように、
髪をそっと撫で、囁くようにキスをした。
「大丈夫。……描くときと同じ。君の線をなぞるだけ」
レオンの声は、低く、どこまでも穏やかだった。
まるで筆先で語りかけるような、その響きに、咲良の心はそっと緩んでいく。
レオンの右手が、咲良の髪をそっとかき上げる。
頬に触れ、首筋をなぞり、鎖骨を指先で感じとる。
そのすべてが、咲良の存在を慈しむように、ゆっくりと、やさしく──まるで繊細な絵を描くようだった。
「きみは、美しすぎて、見とれてしまう……光の中の彫刻みたいだ」
ふっと囁かれたその言葉に、咲良は照れくさく笑って、小さく首を振る。
けれど胸の奥では、あたたかな波紋が広がっていた。
レオンの唇が、咲良のまぶたに、頬に、唇にそっと触れる。
それはまるで、筆がキャンバスをなぞるように、静かで、確かなキスだった。
柔らかなベッドに背を預けながら、咲良は自分の中に芽生えていた気持ちの正体を感じていた。
──この人のそばにいたい。
ただそれだけで、身体の力がほどけていく。
「咲良……僕のミューズ」
そう呟くレオンの眼差しには、欲望ではなく、深い愛情と尊敬が宿っていた。
ひとつひとつの所作に、嘘ひとつない本気の想いが込められていると、咲良にはわかった。
(この人になら……委ねても、いい)
ふたりの距離は、言葉よりも静かに、確かに近づいていく。
くちづけの合間に聞こえるのは、互いの呼吸だけ。
贅沢な沈黙のなかで、肌と肌が触れ合い、心と心が溶け合っていく。
昼の光に満たされたスイートルームで、
レオンは咲良をひとつの芸術作品のように、何度も、何度でも、大切に愛した。
絵を描くときと同じように。
焦らず、急がず、ただそこに「彼女がいる奇跡」を確かめるように。
そして咲良もまた、彼の胸に身を預けながら、そっと微笑んだ。
昼の光が、分厚いカーテンの隙間から差し込んでいた。
レオンは咲良の隣で、目を閉じていた。
無造作に広がる金の巻き毛が枕にほどけ、
長い睫毛が頬に影を落としている。
(……こんなに綺麗な顔、あるんだ)
思わず目を奪われた。
ふと、胸元に視線を落とす。
ピンクダイヤのネックレスが、光を受けて淡く輝いていた。
その瞬間、レオンがゆっくりと目を開ける。
「……咲良」
声は低くて、少しかすれていて、どこまでもやさしかった。
咲良は、言葉に詰まりながら、こくんとうなずいた。
レオンは上半身を起こすと、無言のまま手を伸ばし──咲良の鎖骨のラインを、そっと指先でなぞった。
ネックレスのチェーンをかすめて、肩へ、腕へ。
なにも言わずに、ただ線を引くように、ゆっくりと。
(……また、描かれてる)
声はないのに、
その指先が語るすべてが、咲良の胸にしみ込んでいった。
「君を描いた昨日より、
こうしてそばにいる今日の君のほうが、もっと綺麗だよ」
その囁きに、咲良は胸の奥がじんとした。
──まだ、言えない。
「好き」とはまだ、言葉にならない。
けれど今は、それでもいい気がした。