第2話 甘い夜、はじめての人
「もう、慣れてきたね」
キャンバスの向こうから、レオンの声がする。
「……そう?」
「うん。今日の君、リラックスしてる。線がやわらかい」
咲良は窓辺に立ったまま、なんとなく目を伏せた。
スイートルームの静かな夜。
見慣れてきたはずの夜景も、なぜか今夜は少しやさしく見える。
──ヌードモデル生活、5日目。
最初はただの「お詫び」だった。
けれど、描かれる時間は、想像していたよりずっと穏やかで。
レオンの視線は、どこまでも丁寧で、ただまっすぐだった。
「今日は、何色使うの?」
「薄い藤色。君の肩のラインに似合うと思って」
「また、そういうこと言う」
咲良はふん、と鼻を鳴らす。
「ほんとうのことだよ。君を見てると、自然に色が決まる。アニメの女の子よりも、ずっと美しい」
「……もしかして、レオンってアニメ好き?」
「うん。日本語を覚えた理由」
レオンの指が右手だけでスプレー缶を操作し、
やわらかなラインを走らせていく。
咲良は、それをじっと見ていた。
(あんなに真剣な顔、初めて見たかも)
モデルとして見つめられているのに、変な居心地の悪さがない。
むしろ、まるで、自分がちゃんと存在してるって認められているような、そんな感覚。
「君を描く時間が、いちばん静かで幸せだよ」
ぽつりと、レオンがつぶやいた。
咲良の胸の奥で、きゅうっと何かが鳴った。
(……やっぱり、ずるい)
その声も、視線も、
どこまでもやさしくて、心が溶けていきそうだった。
*
「……最近、構えがやわらかくなったな」
畳の上、目の前の男がふとそんなことを言った。
朝比奈道場。
咲良は白い道着に袖を通し、組手に励んでいた。
組手の相手は、幼なじみの榊原隼人。
長身で切れ長の目、髪は短く、無口で真面目。
昔から咲良の柔道のパートナーだった。
腕も強いが、無駄な力は入れず、攻めも守りも冷静。
道場の内外で「堅物イケメン」と密かに評判だが、本人はまったく意に介していない。
「そう? 気のせいじゃない?」
咲良は笑ってごまかした。
「いや、力の抜き方が変わってる。昔より、『見られる意識』がある」
「……っ!」
思わず言葉に詰まる。
隼人は組手の構えを緩めず、淡々と言葉を続ける。
「良い意味で、女らしくなった。柔らかくて、しなやかで。前は投げることしか考えてなかったのに」
「ちょっ……そんな言い方、失礼じゃない?」
「本当のことだ」
そっけない口調なのに、不思議と胸に刺さる。
「見られていること」を意識するようになったのは、確かだ。
あの夜から、レオンの視線が脳裏に残っていて、無意識に姿勢や呼吸まで変わってきたのかもしれない。
(……バレてるの、ちょっと恥ずかしいな)
「別に……なんでもないから。変わってないよ」
「ふうん。ならいいけど」
組手は再開されたが、咲良の頬はじんわり熱を帯びていた。
*
「今日は、横たわってみて」
レオンの声に、咲良は少し戸惑った。
「……横に?」
「うん。背中を見たい。君が休んでる姿を、ちゃんと描きたいんだ」
スイートルームのベッドの上。
シーツの端にバスタオルを敷いて、咲良はそっと身体を横たえた。
下着姿のまま、背中を見せる。
すべてを差し出すみたいで、自然と呼吸が浅くなる。
(レオンは、見てるだけ。……それだけなのに)
なのに、こんなにも心臓がうるさい。
レオンの視線が、肌に触れるわけでもないのに、
なぜだかふれてくるみたいに熱い。
「背中、すごくきれい。肩甲骨のラインと腰のカーブが、自然でいい」
「……また、そういうこと言う……」
「本当だよ。描く側としては、最高のモチーフだ」
シャッ──。
スプレーの細い音が、静寂に溶けるように響いた。
レオンの右手がキャンバスに滑るたびに、咲良の胸の奥が、すこしずつ、震える。
(レオン……今、わたしを描いてる)
この身体の曲線を、光の反射を、まるごと目でなぞっているのに──
彼は、触れてこない。
そのことに、ふと気づいたとき、咲良の中に、得体の知れない感情が生まれた。
──どうして、触れてこないの?
羞恥でも、不安でもない。
そのやさしさが、むしろ切なくて。
思わず、言葉になっていた。
「……触れないの?」
レオンの手が、止まった。
筆を持ったまま、彼はそっと咲良の方へ目を向ける。
そのまなざしは、少し驚いて、それでも静かだった。
「触れた方が、いい?」
問いかけられた瞬間、心臓がひときわ跳ねた。
「……わかんない」
自分でも、その答えに戸惑った。
わからないはずがない。触れてほしいと思った。そう思ってしまった。
でも、それを言うには、まだ自分の気持ちが整っていなかった。
空気が、ぴたりと止まった。
けれど、レオンはただ静かに微笑んで、言った。
「でも、君を『見る』って決めたから。
触れなくても、ちゃんと伝えたい。君が、どれだけ美しいか」
その声が、筆先のようにやわらかくて──
咲良の胸に、ふわりと、熱が広がっていく。
(触れてないのに……なんで、こんなに伝わってくるんだろう)
息がゆっくりと深くなり、
シーツの上に身を沈めながら、そっと目を閉じた。
彼の視線が、やさしく肌をなぞっていく。
触れられていないはずなのに、
心の奥の、もっと奥まで、何かが届いてくる。
──そんなこと、いままでなかった。
誰かに触れてほしいと思ったことなんて、なかった。
むしろ、触れられないことにほっとしていた。
でも今は違う。
(……わたし、触れてほしいって、思ってる)
そのことに気づいて、自分で驚いた。
でも、それを怖いとは思わなかった。
ただ、不思議だった。
やさしさが、こんなにも深く人を揺らすなんて──。
レオンの指が描く音がまた静かに始まる。
そのたびに、咲良の奥にある何かが、少しずつ、ほどけていった。
その夜、スイートルームの空調はほどよく涼しく、
咲良は描き終えたあと、バスローブのままソファで紅茶を飲んでいた。
「今日はよく描けたよ」
レオンはそう言って、スケッチブックのページを閉じる。
「ふーん。私は……あんまり動けなかったけどね」
「動かなくていい。君がそこにいてくれるだけで、十分なんだ」
甘すぎる言葉に、咲良は反応しきれずに黙った。
照れくさい。でも、嫌じゃない。
そのとき──
「続いての話題です。都内・下町の路地裏で見つかったストリートアートが、SNSを中心に話題となっています」
テレビの音声に、ふたりの視線が自然と向いた。
画面に映し出されたのは、薄暗い夜の街角。
古びた壁に描かれた、大きな『虹』。
「この独特な色彩と構図から、海外で活動する覆面アーティスト“L”による作品ではないかと見られており……」
咲良の手が、カップを持ったまま止まる。
(この虹……見たことある。いや、あれは──)
言葉にはならなかった。
でも確信だけが胸を突いた。
それは、あの夜、自分が背負い投げしたあの場所。
彼が、痛みをこらえながら描いていた絵。
「……レオン」
思わず呼びかけた。
レオンはソファに肘をかけたまま、穏やかな表情でテレビを眺めている。
「この“L”って……もしかして」
その瞬間、レオンの目がゆるやかに揺れた。
けれど彼は何も言わず、ただ微笑んだ。
「さて、どうだろうね」
その曖昧な返しに、咲良の胸の奥が、すっと冷えたような気がした。
レオンはその次の夜も、それ以上何も言わなかった。
虹の絵。テレビの中で話題になる“L”というアーティスト。
その色も、構図も、目に焼き付いている。
あのスプレーの感触。
レオンが利き腕を使えず、右手で必死に描いていたあの姿が、今も記憶の奥にある。
(……やっぱり、あれはレオンの絵だった)
でも彼は、名前を明かさない。
笑ってごまかす。
テレビに自分の絵が出ているのに、どこか他人事みたいに。
咲良は、そっと目を伏せた。
(なんでだろう……)
さっきまで感じていた甘さが、少しだけ遠ざかった気がした。
目の前にいるのに、触れられない。
レオンの「本当の場所」は、もっとずっと高くて、広くて。
自分の知らない世界の、もっと奥にあるんだって、はっきりしてしまった。
「……君は、すごい人なんだね」
ぽつりと、咲良は言った。
レオンはティーカップを傾けたまま、小さく笑った。
「僕のどこが?」
「わかるよ。見てれば。……描くときの目が、本気だから」
「君を描いてるときが、一番本気だよ」
その答えは、どこまでも甘かった。
けれど──
(……でも、きっと。わたしからは「遠い」人)
そんな言葉が、心のどこかに浮かんだ。
部屋の灯りが少し落とされて、夜が深まっていた。
咲良はベッドの縁に腰かけたまま、足を揺らしていた。
バスローブを羽織った肩先には、まだレオンの視線の余韻が残っているような気がした。
「……黙っててごめんね」
突然、レオンが言った。
「“L”のこと。君は気づいてたのに、僕は……なにも言えなかった」
咲良は驚いて顔を上げた。
レオンはソファに座り、スケッチブックを閉じた手をそっと膝に置いている。
どこか、すこしだけ不安そうな目だった。
「君には、嘘をつきたくなかった。
でも……名前を明かすと、距離ができる気がしたんだ。
君が、ただの『有名人』を見るような目になったら、たぶん僕、描けなくなる」
咲良は、なにも言わなかった。
けれど、その胸の奥が、じんわりとあたたかくなるのを感じていた。
「君が、誰かの目を気にせずに笑ってるとき、
君の線はとても自由になる。……それがうれしい」
「線?」
「うん。体のラインだけじゃない。君の心の輪郭。
それが見えるとき、僕はほんとうに幸せなんだ」
彼の声は、決して押しつけがましくなくて、ただまっすぐだった。
どこまでも優しく、誠実で。
でも、それ以上に──
(こんなふうに「見られる」って、どうしたら慣れるんだろう)
咲良は、胸の奥でそっと思った。
こんなに丁寧に心を見られたのも、
こんなにまっすぐに「幸せだ」と言われたのも、たぶん、初めてだった。
「──できたよ」
レオンが、スケッチブックをそっと咲良の方へ向けた。
描かれていたのは、咲良だった。
バスローブの肩を落とし、窓辺の光に包まれた横顔。
柔らかな髪と、真剣なまなざし。
そして、引き締まった首筋から肩、腕へとつづく、筋肉の美しさ。
けれど、それだけじゃなかった。
そこには、自分でも見たことのない、やわらかさがあった。
(これ……私?)
胸の奥が、じんわり熱くなる。
「……すごい」
それしか言葉が出てこなかった。
何がすごいのか、どこがどう、と言えない。
でも、確かにそこにいるのは自分で、
だけど、自分じゃないような──
「なんで、こんなふうに描けるの?」
咲良は、思わず問いかけていた。
レオンは、静かに笑う。
「君が、僕に『描かせてくれた』からだよ。
自分を差し出すって、すごく勇気のいることなんだ。
君は、それをしてくれた」
「……わたし、そんなに勇敢じゃないよ」
咲良は、ぽつりと呟いた。
それは、強がりでも、謙遜でもない。ただ、胸の奥に沈んでいた本音だった。
「いや、君はすごく、強いよ。
その強さが……君の美しさになってる」
レオンの声はまっすぐで、やさしかった。
その瞬間、咲良の視界がぼやけた。
涙がこぼれ落ちるのを見せたくなくて、ふいにうつむく。けれど、もう間に合わなかった。
(この人の目には……私が、こんなふうに映っていたんだ)
そう思っただけで、胸の奥がじんと熱くなった。
──思い出すのは、制服を着ていた頃のこと。
柔道の大会で勝つたびに、誰かの視線が冷たくなった。
「女の子なのに強すぎ」「男より力あるんじゃない?」「女捨ててるね」
そんな言葉が、笑いながら平気で飛んできた。
恋なんて、する資格がないとさえ思った。
身体を褒められることもあったけど、
それは「守られる存在」じゃなく「使える身体」としてだった。
付き合った人に、「怖い」「女に守られたくない」って言われて、
笑われるように別れを告げられたあの夜。
泣いても誰にも言えなかった。
ただ、また強さが、自分を孤独にするのだと思い知っただけだった。
咲良は、レオンの横顔を見つめた。
彼は何も問わず、ただそっと見つめてくれている。
その眼差しに、少しだけ自分を許せた気がした。
いま、ようやく思える。
(……今だけは、少しだけ、自分を好きでいたい)
気づけば、涙は溢れ出ている。けれど、咲良は微笑んでいた。
咲良がそっと目元に指を添え、涙をぬぐおうとしたそのときだった。
ふと視線をあげると──レオンが、静かに俯いていた。
その表情は見えない。けれど、どこか傷ついたようで。
「……どうしたの?」
咲良がそっと声をかけると、レオンはほんの一瞬、ためらうように息を吸って──
それから、ごくわずかに口元をほころばせた。
「……そんなふうに絵を見てもらえたの、初めてだった」
「そんなふうに、って……?」
咲良の問いに、レオンはゆっくり顔を上げた。
その瞳は、どこか脆く、透明だった。
「まっすぐに、心から……感動してくれて。
何かを求めたり、評価したりせずに、ただ──『描かれた自分』を受け入れてくれた」
その声には、言葉にしきれない長い孤独が滲んでいた。
咲良の胸が、きゅうっと締めつけられる。
「……僕の周りにいた人たちはね、みんな結果しか見なかった。この絵が売れるか、有名になるか──あるいは、僕という存在をどう使えるかって」
少し笑ったように見えた唇が、すぐにかすかな震えに変わった。
「でも君は、違った。
ただ、僕を──『レオン』という人間を、描かれたままに、見てくれた」
咲良は、言葉を失っていた。
それでも目は、離せなかった。
なぜなら、レオンの睫毛の端に、ゆっくりと光が集まっていくのが見えたから。
それは、ほんのひと粒の涙。
けれど、その涙が零れた瞬間、咲良の心にも静かな熱が灯った。
(──この人も、ずっと誰かに、ただ『見てほしかった』んだ)
咲良は滲む視界に浮かぶ、レオンの姿をみつめていた。
「……ごめん、変なこと言ったね。画家が泣くなんて、情けないよね」
「ううん……泣いていいよ」
咲良は、そっと立ち上がってレオンの隣に座った。
言葉はそれ以上いらなかった。
ただ、ふたりは肩を並べて、
キャンバスの奥にいる「もうひとりの咲良」を静かに見つめていた。
その夜、ふたりの間にはまだ名前のない感情が流れていた。
けれどそれは、確かに、あたたかくてやさしくて──
恋の入口に立ったばかりの、やわらかな鼓動だった。