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第2話 甘い夜、はじめての人

「もう、慣れてきたね」


キャンバスの向こうから、レオンの声がする。


「……そう?」


「うん。今日の君、リラックスしてる。線がやわらかい」


咲良は窓辺に立ったまま、なんとなく目を伏せた。

スイートルームの静かな夜。

見慣れてきたはずの夜景も、なぜか今夜は少しやさしく見える。


──ヌードモデル生活、5日目。


最初はただの「お詫び」だった。

けれど、描かれる時間は、想像していたよりずっと穏やかで。

レオンの視線は、どこまでも丁寧で、ただまっすぐだった。


「今日は、何色使うの?」


「薄い藤色。君の肩のラインに似合うと思って」


「また、そういうこと言う」 


咲良はふん、と鼻を鳴らす。


「ほんとうのことだよ。君を見てると、自然に色が決まる。アニメの女の子よりも、ずっと美しい」


「……もしかして、レオンってアニメ好き?」


「うん。日本語を覚えた理由」


レオンの指が右手だけでスプレー缶を操作し、

やわらかなラインを走らせていく。


咲良は、それをじっと見ていた。


(あんなに真剣な顔、初めて見たかも)


モデルとして見つめられているのに、変な居心地の悪さがない。

むしろ、まるで、自分がちゃんと存在してるって認められているような、そんな感覚。


「君を描く時間が、いちばん静かで幸せだよ」


ぽつりと、レオンがつぶやいた。


咲良の胸の奥で、きゅうっと何かが鳴った。


(……やっぱり、ずるい)


その声も、視線も、

どこまでもやさしくて、心が溶けていきそうだった。




「……最近、構えがやわらかくなったな」


畳の上、目の前の男がふとそんなことを言った。


朝比奈道場。

咲良は白い道着に袖を通し、組手に励んでいた。


組手の相手は、幼なじみの榊原隼人。


長身で切れ長の目、髪は短く、無口で真面目。

昔から咲良の柔道のパートナーだった。


腕も強いが、無駄な力は入れず、攻めも守りも冷静。

道場の内外で「堅物イケメン」と密かに評判だが、本人はまったく意に介していない。


「そう? 気のせいじゃない?」


咲良は笑ってごまかした。


「いや、力の抜き方が変わってる。昔より、『見られる意識』がある」


「……っ!」


思わず言葉に詰まる。


隼人は組手の構えを緩めず、淡々と言葉を続ける。


「良い意味で、女らしくなった。柔らかくて、しなやかで。前は投げることしか考えてなかったのに」


「ちょっ……そんな言い方、失礼じゃない?」


「本当のことだ」


そっけない口調なのに、不思議と胸に刺さる。


「見られていること」を意識するようになったのは、確かだ。

あの夜から、レオンの視線が脳裏に残っていて、無意識に姿勢や呼吸まで変わってきたのかもしれない。


(……バレてるの、ちょっと恥ずかしいな)


「別に……なんでもないから。変わってないよ」


「ふうん。ならいいけど」


組手は再開されたが、咲良の頬はじんわり熱を帯びていた。



「今日は、横たわってみて」


レオンの声に、咲良は少し戸惑った。


「……横に?」


「うん。背中を見たい。君が休んでる姿を、ちゃんと描きたいんだ」


スイートルームのベッドの上。

シーツの端にバスタオルを敷いて、咲良はそっと身体を横たえた。


下着姿のまま、背中を見せる。

すべてを差し出すみたいで、自然と呼吸が浅くなる。


(レオンは、見てるだけ。……それだけなのに)


なのに、こんなにも心臓がうるさい。

レオンの視線が、肌に触れるわけでもないのに、

なぜだかふれてくるみたいに熱い。


「背中、すごくきれい。肩甲骨のラインと腰のカーブが、自然でいい」


「……また、そういうこと言う……」


「本当だよ。描く側としては、最高のモチーフだ」


シャッ──。


スプレーの細い音が、静寂に溶けるように響いた。

レオンの右手がキャンバスに滑るたびに、咲良の胸の奥が、すこしずつ、震える。


(レオン……今、わたしを描いてる)


この身体の曲線を、光の反射を、まるごと目でなぞっているのに──

彼は、触れてこない。


そのことに、ふと気づいたとき、咲良の中に、得体の知れない感情が生まれた。


──どうして、触れてこないの?


羞恥でも、不安でもない。

そのやさしさが、むしろ切なくて。


思わず、言葉になっていた。


「……触れないの?」


レオンの手が、止まった。


筆を持ったまま、彼はそっと咲良の方へ目を向ける。

そのまなざしは、少し驚いて、それでも静かだった。


「触れた方が、いい?」


問いかけられた瞬間、心臓がひときわ跳ねた。


「……わかんない」


自分でも、その答えに戸惑った。

わからないはずがない。触れてほしいと思った。そう思ってしまった。


でも、それを言うには、まだ自分の気持ちが整っていなかった。


空気が、ぴたりと止まった。


けれど、レオンはただ静かに微笑んで、言った。


「でも、君を『見る』って決めたから。

触れなくても、ちゃんと伝えたい。君が、どれだけ美しいか」


その声が、筆先のようにやわらかくて──

咲良の胸に、ふわりと、熱が広がっていく。


(触れてないのに……なんで、こんなに伝わってくるんだろう)


息がゆっくりと深くなり、

シーツの上に身を沈めながら、そっと目を閉じた。


彼の視線が、やさしく肌をなぞっていく。

触れられていないはずなのに、

心の奥の、もっと奥まで、何かが届いてくる。


──そんなこと、いままでなかった。


誰かに触れてほしいと思ったことなんて、なかった。

むしろ、触れられないことにほっとしていた。

でも今は違う。


(……わたし、触れてほしいって、思ってる)


そのことに気づいて、自分で驚いた。

でも、それを怖いとは思わなかった。


ただ、不思議だった。

やさしさが、こんなにも深く人を揺らすなんて──。


レオンの指が描く音がまた静かに始まる。

そのたびに、咲良の奥にある何かが、少しずつ、ほどけていった。


その夜、スイートルームの空調はほどよく涼しく、

咲良は描き終えたあと、バスローブのままソファで紅茶を飲んでいた。


「今日はよく描けたよ」

レオンはそう言って、スケッチブックのページを閉じる。


「ふーん。私は……あんまり動けなかったけどね」


「動かなくていい。君がそこにいてくれるだけで、十分なんだ」


甘すぎる言葉に、咲良は反応しきれずに黙った。

照れくさい。でも、嫌じゃない。


そのとき──


「続いての話題です。都内・下町の路地裏で見つかったストリートアートが、SNSを中心に話題となっています」


テレビの音声に、ふたりの視線が自然と向いた。


画面に映し出されたのは、薄暗い夜の街角。

古びた壁に描かれた、大きな『虹』。


「この独特な色彩と構図から、海外で活動する覆面アーティスト“L”による作品ではないかと見られており……」


咲良の手が、カップを持ったまま止まる。


(この虹……見たことある。いや、あれは──)


言葉にはならなかった。

でも確信だけが胸を突いた。


それは、あの夜、自分が背負い投げしたあの場所。

彼が、痛みをこらえながら描いていた絵。


「……レオン」


思わず呼びかけた。


レオンはソファに肘をかけたまま、穏やかな表情でテレビを眺めている。


「この“L”って……もしかして」


その瞬間、レオンの目がゆるやかに揺れた。


けれど彼は何も言わず、ただ微笑んだ。


「さて、どうだろうね」


その曖昧な返しに、咲良の胸の奥が、すっと冷えたような気がした。


レオンはその次の夜も、それ以上何も言わなかった。


虹の絵。テレビの中で話題になる“L”というアーティスト。

その色も、構図も、目に焼き付いている。


あのスプレーの感触。

レオンが利き腕を使えず、右手で必死に描いていたあの姿が、今も記憶の奥にある。


(……やっぱり、あれはレオンの絵だった)


でも彼は、名前を明かさない。

笑ってごまかす。

テレビに自分の絵が出ているのに、どこか他人事みたいに。


咲良は、そっと目を伏せた。


(なんでだろう……)


さっきまで感じていた甘さが、少しだけ遠ざかった気がした。


目の前にいるのに、触れられない。

レオンの「本当の場所」は、もっとずっと高くて、広くて。

自分の知らない世界の、もっと奥にあるんだって、はっきりしてしまった。


「……君は、すごい人なんだね」


ぽつりと、咲良は言った。


レオンはティーカップを傾けたまま、小さく笑った。


「僕のどこが?」


「わかるよ。見てれば。……描くときの目が、本気だから」


「君を描いてるときが、一番本気だよ」


その答えは、どこまでも甘かった。

けれど──


(……でも、きっと。わたしからは「遠い」人)


そんな言葉が、心のどこかに浮かんだ。


部屋の灯りが少し落とされて、夜が深まっていた。


咲良はベッドの縁に腰かけたまま、足を揺らしていた。

バスローブを羽織った肩先には、まだレオンの視線の余韻が残っているような気がした。


「……黙っててごめんね」


突然、レオンが言った。


「“L”のこと。君は気づいてたのに、僕は……なにも言えなかった」


咲良は驚いて顔を上げた。


レオンはソファに座り、スケッチブックを閉じた手をそっと膝に置いている。


どこか、すこしだけ不安そうな目だった。


「君には、嘘をつきたくなかった。

 でも……名前を明かすと、距離ができる気がしたんだ。

 君が、ただの『有名人』を見るような目になったら、たぶん僕、描けなくなる」


咲良は、なにも言わなかった。

けれど、その胸の奥が、じんわりとあたたかくなるのを感じていた。


「君が、誰かの目を気にせずに笑ってるとき、

 君の線はとても自由になる。……それがうれしい」


「線?」


「うん。体のラインだけじゃない。君の心の輪郭。

 それが見えるとき、僕はほんとうに幸せなんだ」


彼の声は、決して押しつけがましくなくて、ただまっすぐだった。


どこまでも優しく、誠実で。

でも、それ以上に──


(こんなふうに「見られる」って、どうしたら慣れるんだろう)


咲良は、胸の奥でそっと思った。


こんなに丁寧に心を見られたのも、

こんなにまっすぐに「幸せだ」と言われたのも、たぶん、初めてだった。


「──できたよ」


レオンが、スケッチブックをそっと咲良の方へ向けた。


描かれていたのは、咲良だった。

バスローブの肩を落とし、窓辺の光に包まれた横顔。


柔らかな髪と、真剣なまなざし。

そして、引き締まった首筋から肩、腕へとつづく、筋肉の美しさ。


けれど、それだけじゃなかった。


そこには、自分でも見たことのない、やわらかさがあった。


(これ……私?)


胸の奥が、じんわり熱くなる。


「……すごい」


それしか言葉が出てこなかった。


何がすごいのか、どこがどう、と言えない。

でも、確かにそこにいるのは自分で、

だけど、自分じゃないような──


「なんで、こんなふうに描けるの?」


咲良は、思わず問いかけていた。


レオンは、静かに笑う。


「君が、僕に『描かせてくれた』からだよ。

 自分を差し出すって、すごく勇気のいることなんだ。

 君は、それをしてくれた」


「……わたし、そんなに勇敢じゃないよ」


咲良は、ぽつりと呟いた。


それは、強がりでも、謙遜でもない。ただ、胸の奥に沈んでいた本音だった。


「いや、君はすごく、強いよ。

 その強さが……君の美しさになってる」


レオンの声はまっすぐで、やさしかった。


その瞬間、咲良の視界がぼやけた。


涙がこぼれ落ちるのを見せたくなくて、ふいにうつむく。けれど、もう間に合わなかった。


(この人の目には……私が、こんなふうに映っていたんだ)


そう思っただけで、胸の奥がじんと熱くなった。


──思い出すのは、制服を着ていた頃のこと。


柔道の大会で勝つたびに、誰かの視線が冷たくなった。

「女の子なのに強すぎ」「男より力あるんじゃない?」「女捨ててるね」


そんな言葉が、笑いながら平気で飛んできた。


恋なんて、する資格がないとさえ思った。


身体を褒められることもあったけど、

それは「守られる存在」じゃなく「使える身体」としてだった。


付き合った人に、「怖い」「女に守られたくない」って言われて、

笑われるように別れを告げられたあの夜。


泣いても誰にも言えなかった。


ただ、また強さが、自分を孤独にするのだと思い知っただけだった。


咲良は、レオンの横顔を見つめた。


彼は何も問わず、ただそっと見つめてくれている。


その眼差しに、少しだけ自分を許せた気がした。


いま、ようやく思える。


(……今だけは、少しだけ、自分を好きでいたい)


気づけば、涙は溢れ出ている。けれど、咲良は微笑んでいた。


咲良がそっと目元に指を添え、涙をぬぐおうとしたそのときだった。


ふと視線をあげると──レオンが、静かに俯いていた。

その表情は見えない。けれど、どこか傷ついたようで。


「……どうしたの?」


咲良がそっと声をかけると、レオンはほんの一瞬、ためらうように息を吸って──

それから、ごくわずかに口元をほころばせた。


「……そんなふうに絵を見てもらえたの、初めてだった」


「そんなふうに、って……?」


咲良の問いに、レオンはゆっくり顔を上げた。

その瞳は、どこか脆く、透明だった。


「まっすぐに、心から……感動してくれて。

何かを求めたり、評価したりせずに、ただ──『描かれた自分』を受け入れてくれた」


その声には、言葉にしきれない長い孤独が滲んでいた。


咲良の胸が、きゅうっと締めつけられる。


「……僕の周りにいた人たちはね、みんな結果しか見なかった。この絵が売れるか、有名になるか──あるいは、僕という存在をどう使えるかって」


少し笑ったように見えた唇が、すぐにかすかな震えに変わった。


「でも君は、違った。

ただ、僕を──『レオン』という人間を、描かれたままに、見てくれた」


咲良は、言葉を失っていた。


それでも目は、離せなかった。

なぜなら、レオンの睫毛の端に、ゆっくりと光が集まっていくのが見えたから。


それは、ほんのひと粒の涙。

けれど、その涙が零れた瞬間、咲良の心にも静かな熱が灯った。


(──この人も、ずっと誰かに、ただ『見てほしかった』んだ)


咲良は滲む視界に浮かぶ、レオンの姿をみつめていた。


「……ごめん、変なこと言ったね。画家が泣くなんて、情けないよね」


「ううん……泣いていいよ」


咲良は、そっと立ち上がってレオンの隣に座った。


言葉はそれ以上いらなかった。


ただ、ふたりは肩を並べて、

キャンバスの奥にいる「もうひとりの咲良」を静かに見つめていた。


その夜、ふたりの間にはまだ名前のない感情が流れていた。

けれどそれは、確かに、あたたかくてやさしくて──


恋の入口に立ったばかりの、やわらかな鼓動だった。

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