第1話 投げ飛ばした男は、世界的天才画家でした
22時の裏通り。
人気のないその場所で、咲良はひときわ怪しい気配を捉えていた。
──スプレーの音。
──壁に向かって何かを描く、フードの男。
(何してんの、こんな時間に……)
街の壁に堂々と落書き?
そのスプレー缶の動きが、やけに滑らかだったことも気になった。
でも、そんなことより──
「こらッ、そこ止まりなさい!」
気づけば身体が動いていた。
タッと駆けて、一瞬で男の肩をつかむ。
驚いたように振り向いたその顔を確認する暇もなく、咲良は反射的に技をかけた。
「──背負い投げッ!」
男の身体が宙に舞い、きれいに地面に叩きつけられた。
ドスンという音と、鈍いうめき声が響いた。
「……うっ……あ、痛……」
(やった……成敗、完了)
そう思って、気を引き締めた咲良だったが──
「……あれ?」
よく見ると、男はフードの奥から苦痛にゆがんだ顔を覗かせていた。
(あ……やりすぎた?)
見れば、彼の左腕が変な方向に曲がっている。
「えっ、ちょ、うそ、折れた……? 嘘でしょ!?」
さっきまでの気合いが一気に霧散する。
しゃがみこんで彼の顔を覗き込むと、その視線がまっすぐに咲良をとらえた。
そして、彼は言った。
「……トレビアン。美しい」
「……は?」
痛みに顔をしかめたまま、それでも、彼の目は驚くほど真剣だった。
「美しい……君は、まるで彫刻のようだ」
まだ地面に倒れたままの男が、うっとりとした目で咲良を見つめている。
「ちょっ、ちょっと!? 何言ってんの!?」
咲良は慌てて距離をとった。
さっきまでの正義感はどこへやら。
今はただ、知らない男に投げ飛ばしたことと、
「美しい」なんて真顔で言われたことのダブルパンチで頭が混乱していた。
「ご、ごめんなさい!痛いよね!? 腕……たぶん、折れてるよね!? 救急車、呼んだ方が──」
「騒ぎには、しないでほしい」
男は、顔をしかめながらも落ち着いた口調で言った。
「目立つのはまずい。……頼むよ」
「でも、あなた──」
咲良は、迷った末にスマホを握ったまま震える声で言った。
「じゃあ……せめて、タクシーで病院行こう? ね? ほんとにごめんなさい。投げるつもりなかったの。……あ、いや、あったけど、でもこんなことになるなんて……」
取り乱しながら頭を下げる咲良に、男は苦しげに微笑んだ。
「君に背負い投げられて、骨を折ったなら……まあ、悪くない」
「よくないでしょ!!」
必死で否定しながら、咲良は心底思った。
(わたし、なにしてんだろ……)
男は少しずつ起き上がり、足を引きずるようにして壁際に寄りかかった。
その手元に落ちたスプレー缶。
そして壁には──
(……絵?)
咲良は、はっと目を見開いた。
それは落書きなんかじゃなかった。
淡く、やわらかく、でもしっかりと描かれた“虹”。
思わず息を呑む。
なんだか胸の奥が、きゅっとなった。
(これ……この人が?)
とても「ただの不審者」が描いたとは思えない。
心に残る、温かい色だった。
そして、咲良はようやく、男の顔を正面から見る。
──金髪。くるくると自然に巻いた、柔らかな光を抱えた髪。
吸い込まれそうな青い瞳。
まるでミケランジェロの彫刻から抜け出したような、美しい顔立ち。
夜の街灯に照らされたその横顔は、現実のものとは思えないほど整っていた。
「……ほんとに、ごめんなさい」
もう一度、深く頭を下げる。
そして、思わず口をついて出た。
「なんでもします。責任取りますから……!」
男の目が、ふっと細くなる。
「……本当に?」
その声に、咲良は背筋がぞわっとした。
「なんでも、って言ったよね?」
その言葉に、咲良の背筋がぞわりと凍った。
「ま、待って、今のはその、勢いで……!」
「タクシー、呼んでくれる?」
男は痛む腕をかばいながら、微笑を浮かべる。
まるで“この先に何があるのか”を知っているような目をしていた。
「……とりあえず、病院行こうね。ね!」
咲良は半ばパニックになりながらも、スマホを取り出してタクシーを呼んだ。
罪悪感、焦り、そして少しの不安がごちゃ混ぜになって胸の中で渦巻く。
*
到着したタクシーに乗り込み、向かったのは都内でも有名な5つ星ホテルだった。
咲良はフロント前で立ち尽くす。
「え、ちょ、ここ!?」
「うん。いつも泊まってる場所。病院は後。先に必要なのは……」
「なに?」
レオンは振り返り、いたずらっぽく微笑んだ。
「君の身体を、ちゃんと見せてもらうことだ」
「……え?」
頭が真っ白になった。
エレベーターに乗せられ、最上階のスイートルームへ。
開かれた扉の先には、まるで映画のセットのような空間が広がっていた。
厚手の絨毯。高い天井。
そして部屋の奥には、大きな白いキャンバス。
「ここで描くんだ」
「え、ちょっと待って、描くって……?」
レオンはソファに腰を下ろし、咲良をまっすぐ見つめた。
「ヌードモデルになって。今夜だけでいいから」
「…………なに、言ってんの……?」
声がかすれる。
でも、咲良の中のどこかが、ずっと前から予感していた気がした。
「なんでもする」って、言ってしまった。
──自分の身体を、絵にされる。
それがどういうことかなんて、考える間もなかった。
ただ、レオンの瞳はまるで、彼女という人間そのものを描きたがっているようで。
そして咲良は、言ってしまった。
「……一晩だけ、だよ」
「じゃあ、そこに立って」
レオンの声はいつもより低く、優しかった。
咲良はソファの前、カーテンのかかる窓辺に立つ。
下着姿の自分が、こんな風に誰かに見られるのは、たぶん初めてだ。
(いや、「見られる」っていうか……「見つめられてる」……)
それがどれだけ違うことなのか、今になってわかる気がした。
レオンの視線は、まるで線をなぞるように丁寧だった。
じっとりと肌を這うようないやらしさはなく、
ただ静かに、美しさを確かめるような──純粋な目。
「……背中を少し、そらして。そう、肩甲骨のラインが……完璧だ」
その言葉に、咲良の心臓がどくんと鳴る。
(完璧……? 私の身体が……?)
今までの恋人たちは、咲良の身体を見て「守られたくない」と言った。
抱きしめるより、投げられそうで怖いと冗談混じりに笑われた。
けれど、この男は違った。
「肩の筋肉がとてもいい。張りすぎてない。やわらかくて力強い。君の輪郭は、描いていて楽しい」
「……恥ずかしいんだけど」
思わずつぶやくと、レオンがふと笑った。
「僕のためじゃないよ。これは、君の“美しさ”を世界に残すためだ」
その言葉が、じんわりと咲良の胸に染み込んでいく。
恥ずかしさと、高揚と。
「誰かに見つめられて、肯定される」という体験に、
咲良の心はゆっくりと溶けていった。
翌朝。
咲良は自分の頬に、うっすらと赤みが残っているのに気づいた。
──あの視線。
まるで愛を込めてなぞるような、あたたかいまなざし。
「美しい」
「描いていて、楽しい」
「君の線は、どこも無駄がない」
思い出すたびに、胸がくすぐったくなる。
(昨日だけのはずだったのに……)
けれど気づけば、その夜も、咲良はまたスイートルームにいた。
「また来てくれると思った」
出迎えたレオンは、変わらず左腕を吊ったまま、嬉しそうに笑っていた。
「し、仕方ないでしょ。怪我治ってないし……責任、あるし」
「トレビアン。君のそういう誠実なところ、大好きだよ」
そう言って、当然のように準備されたバスローブを手渡される。
──それから。
ふたりの、静かな夜が始まる。
部屋は広く、窓の向こうには夜景。
咲良はいつものように下着姿になり、立つ位置を微調整され、そして──
「今日の光、すごく君に似合ってる」
そんなひとことに、心がじんわりあたたまる。
(おかしいな……なんで、また来ちゃったんだろ)
でも、描かれるたびに、咲良は少しずつほどけていく。
「怖い」って言われたこの身体を、
「美しい」って言って、見つめてくれる人がいる。
そのことが、ただうれしかった。
そうして、咲良は気づく。
もう一晩だけ、なんて無理だった。
この人の前でなら、何度でも描かれてもいい──
そう思ってしまっている、自分に。