第34話 『斗真がいなきゃ何もできない、弱い女の子なの』『とーまくんが間違える時は、あたしも一緒に間違えます』
陽菜の父、花守陽介。
H大学哲学科の教授であり、日本を代表するニーチェ研究者だ。俺がニーチェにハマったのも先生の著書がきっかけで……まさかこんなところでお会いできるなんて。
「は、初めまして。さしゃはら斗真です」
「おお、君が笹原くんか。いつもうちの娘がお世話になっているよ。陽菜の父の花守陽介です」
「ぞぞ存じておりましゅ! 昔からたくさん本も拝読していて、その……サインくだしゃい!」
「はっはっは、喜んで。よかったらご一緒してもいいかな」
「もちろんです!」
むしろ今まで教授を立たせていたことが申し訳ない。さっきからテンパって噛みまくりだし。
店員さんにも確認を取って、教授には俺の隣に座っていただいた。陽菜は三森の隣に着席する。
「あの、サインを頂いてもいいですか?」
「僕の本じゃないか。いつも持ち歩いているの?」
「は、はい。『ニーチェ──道徳批判とその応答』はぼくのバイブルなので……」
「はっはっはっ。嬉しいよ。こちらこそありがとう」
あまりにもったいないお言葉。天にも昇る気持ちだ。
そして裏表紙に刻まれる『花守陽介』という達筆な文字。うぅ……嬉しい。
「はい。どうぞ」
「あ、ありがとうございます……! 家宝にします!」
「はっはっはっ。まさか娘の婚約者からファンとしてもサインをお願いされるとはね」
そっか、教授はあの婚姻届けにもサインしているのか。……じゃあプロポーズの件も公認なのかな。どう思ってるんだろ。
「あの~。すみません、陽介さん」
三森が教授を名前で呼ぶ。
え、何様?
「たしか君は……」
「三森咲月。斗真くんの婚約者です」
あ、言ってしまった。教授は笑顔のまま固まり、陽菜の眉間にしわが寄る。
だから婚約はしてないって……。
「……笹原くん」
「いや、あの、これは、その──」
「はーっはっは。いやー、笹原くん。見事な修羅場じゃないか。はっはっはっ」
「ちょっとパパ! 笑い事じゃないでしょ」
「ああ、すまんすまん。でもこういう男、ぼくは好きだよ。ニーチェを志す者にピッタリじゃないか」
「は、はあ」
なぜか教授は嬉しそう。
どうしてこの状況を笑って楽しめるんだ……?
「あの。陽介さんはそれでいいんですか?」
「それでとは?」
「あたしから言うのもなんですけど~。これってとーまくんが二股掛けている状況ですよ……」
いや、俺はたしかにプロポーズされたけど、婚約まではしていない。
だから2股では断じてないぞ。
「ぼくはねぇ、三森くん。老人の凝り固まった道徳的価値を、未来ある若者に押し付けるようなことはしたくないんだ。それはニーチェの言う”弱者”の振る舞いだからね」
「弱者、ですか」
「そう。だから僕はせめて、弱者の自覚を持つ弱者として、君たち若者の選択を可能な限り尊重したいんだよ」
「は、はぁ」
「さて、年寄りはこの辺でお暇しようかね。後は若者だけで、美味い物でも食べてくれ」
「あ、ありがとうございます」
教授はテーブルに万札を置き、席を立った。
そして残される若人たち。最初に口を開いたのは三森だった。
「……あの。花守先輩」
「なにかしら、咲月ちゃん」
「噂で聞いたんですけど。海外の高校、行くらしいですね」
陽菜の眉がピクリと動いた。
「えぇ、そうよ。それが何か?」
「いや~。とーまくんにプロポーズしておきながら、自分は一人で海外だなんて、ずいぶん身勝手だなと思いまして」
「そんなの……咲月ちゃんには関係ないじゃない」
「そうですね。でも第三者的には、そんな人がとーまくんを幸せにできるのか、甚だ疑問です」
「それは……」
陽菜が言葉に詰まる。
ピリついた空気が流れた。
「とーまくんはどう思います?」
「えっ?」
「花守先輩が離れること、どう思ってるんですか?」
三森と陽菜の視線が同時に俺を捉える。
……陽菜が離れるのは、正直寂しいし、不安だ。この3年間、当たり前に隣にいたんだから。だけど。
「俺のことは気にせずに夢を追いかけて欲しい、かな。だって陽菜はすごい才能があるし、正直俺なんかに構っているのももったいないって言うか──」
「違う!!!」
俺の言葉を遮ると、陽菜は何度も激しく首を振った。
まるで自分に憑いた何かを払い落とすかのように。
「違う違う違う! 私は斗真がいたから頑張れたの。努力の正しさを信じられたの。斗真がいなきゃ何もできない、弱い女の子なの。高根の花なんかじゃない。孤独だった私にとって、斗真の正しさだけが心の支えで、誰にも触れて欲しくなくて、ずっと好きで好きで好きで好きで……ねぇ、斗真はもちろん、私を選んでくれるよね?」
瞳を涙でいっぱいにしながら、陽菜は俺に訴えた。
それは久しぶりに見る、ヤンデレな陽菜だった。
「まだわからないんですか? 花守先輩のそういうところが、とーまくんを苦しめてるって」
「……なんですって」
「とーまくんはそのままで魅力的なのに、花守先輩先輩は、とーまくんに正しくあることを強要しているんです」
「──!?」
「あたしは違います。あたしはありのままのとーまくんを肯定して、どんなとーまくんも愛せますから。別に正しくなくてもいいし、とーまくんが間違える時は、あたしも一緒に間違えます」
俺を名前で呼びながら、三森もまた、涙に潤んだ瞳を俺に向けていた。
「そんなの……そんなの嘘よ!!! 斗真はきっと、最後は私を選ぶに決まっているわ。ねぇ、そうだよね斗真?」
「いいえ、とーまくんはあたしを選びます。そうですよね?」
「俺は……」
わからない。
正しさも、ありのままの自分も。俺に誰が必要なのかも、誰が俺に必要なのかも。
「……少し、考える時間が欲しい」
だから俺は、答えを保留することしか、できなかった。




