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第32話 ……私に……ご主人様を……養わせて欲しい

『それでも待ってくれるなら、私は斗真と結婚するよ』


 ぐるぐると。ぐるぐると。陽菜の言葉がずっと、頭の中に渦巻いている。

 たしかに陽菜は以前、2週間の交際が終わったら、俺を落とすと宣言していた。でもまさか、こんな猛スピードで突っ込んでくるなんて……。


 結婚、か。考えたこともなかった。そもそも自分の進路さえ、俺はまともに向き合ったことがない。未来はいつも不確実で、不明瞭だ。普通に勉強して、普通に進学して、普通に就職して──その先に何があるのか、俺は知らない。

 だからこそ俺は、未来への不安から目を背け、今この瞬間に埋没してしまうのだ。


「……あ。ご主人様だ」

「氷護先輩。こんにちは」


 廊下の前方から氷護先輩が歩いてきた。制服の彼女を見るのは新鮮だけど、夕日に淡く彩られた顔がどこか幻想的で、氷の女王というより女神様だった。


「ちょうどよかった……ご主人様に……お願いがある」

「お願い、ですか?」

「うん」


 すると氷護先輩は突然、片膝をついてこうべを垂れた。そして、まるで姫に求婚する王子のように、困惑する俺の手を取った。


「……私に……ご主人様を……養わせて欲しい」


 ──ん? なんて?


「えぇっと、どういう意味ですか?」

「……卒業したら……ご主人様が私に……婿入りする」


 うん、余計に意味がわからない。

 婿入り? 俺、氷護斗真になるの? 


「……だめ……かな」

「だめというか、すみません。話がまったくわからないです。とりあえず頭を上げてください」

「えっ……なんで……?」

「いや、ここ人通りますし。あと普通に話しにくいです」

「そっか。わかった」

 

 氷護先輩は何事もなかったかのように身体を起こし、相変わらず無感情な顔をこちらに向けた。


「……あのね……さっき三者面談で……進路のこと話した」

「あぁ。そうなんですね」


 氷護先輩、受験生だもんな。だから放課後なのにユニフォームじゃなかったのか。


「……それで私……バドミントンで……実業団目指すことにした」

「氷護先輩、プロになるんですか!?」

「……うん……最近はスカウトの人も……練習とか試合とか……見にきてる」

「すごいじゃないですか!!!」


 スポーツをやったことがある人間なら一度は夢見る道だ。それを実際に叶えられるかもしれない場所にいるなんて、本当にすごすぎる。


「……それでね……もしプロになれたら…、私がご主人様を……養いたい」

「いやその飛躍はよくわかんないです」


 冗談を言うタイプではないから、たぶん本気なんだろうけど。だとしたらやっぱりわからない。

 なぜ俺が氷護先輩に養われることになるんだよ。


「……あの日……ご主人様が叱ってくれたから……私は……強くなれた」

「そんなこと──」

「だから……今度は私が強くなって……ご主人様を守るの……そんな私を……10年後も……20年後も……罵って欲しい」


 それはあまりにも現実味がなくて、遠い世界の話にしか思えなかった。

 そんな俺に、彼女は小さく微笑んでいた。


「……じゃあ私……部活行ってくるね」



 家に帰った俺は、制服のままベッドに身を投げ出し、天井の明かりをぼーっと眺めていた。


「そんなの、わっかんねぇよ……」


 陽菜も氷護先輩も、俺にとっては高嶺の花だ。俺は彼女たちに求められるような立派な人間じゃないし、ましてや結婚だの婿入りだのなんて、考えられるはずもない。

 いや……きっとそれも言い訳だ。

 俺はまだ、他人の人生に責任を負う覚悟ができていない。それなのに俺は、自分じゃ釣り合わないと己に言い聞かせ、向き合うことを放棄しているのだ。情けない。


 その時。枕元においたスマホの着信が鳴った。

 俺は無造作にそれを取り、仰向けのまま応答のボタンを押す。


「……もしもし」

「あ、せんぱ~い。お久しぶりで~す……でもないか」

「三森か」

「咲月ちゃんです♡」


 昨日祭りに行ったばかりなのに。

 俺にはその声が、妙に懐かしく感じられた。


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