第四話:天使たちの時間(後編)
*
さて。
と、いうことで。
運命の、と言うか、問題のその日、鳥取恵一さんが、土曜の午後に、芹沢倉夫さんと、石神井公園テニスコートでテニスをするのは、これで五週連続つづいていたことになります。
鳥取恵一さんは、悪魔のミアさんも語っていたとおり、ハンプティ・ダンプティ的肥満体型の内科医師ですが、それでもいわゆる、“歌っておどれるタイプのデブ”というやつで、もっと言うと、スポーツ全般、格闘技全般を得意とし、水泳はプロ顔負け、いまでも50m走は7.5秒を切るほどのデブで、もちろんテニスも大の得意でありました。
で。
いっぽうの芹沢倉夫さんは、研修医時代からの恵一さんの友人、と言うか、悪友兼腐れ縁ってやつで、細マッチョなさわやかイケメン外科医。テニスのうではそこそこながら、実家が名家というのもあるのでしょうか、いつもきれいなシューズを履いては、いまだ封を切っていないボール缶を持って来て、そのまっさらなテニスボールを、惜しげもなく、彼らのゲームに提供してくれる、そんな好人物でありました。
でありましたが、それとはまた別の話として、このさわやかイケメンに対して恵一さんは、ここ数週間ばかり、奇妙な違和感を持たざるを得なかったのでもありました。
と言うのも、ここ数週間、この友人から、おんなの臭い、と言うか、“おんなのような臭い”が、ただよって来ていたからなんですね。
*
「なあ、芹沢」
と、テニス後のシャワールームで、ハンプティなそのボディを、黒のタートルネックに押し込めながら恵一さんは訊きます。
「どうだい? ひさしぶりにビールでも」
どうやら、その“おんなのような臭い”の由縁を、アルコールのちからを借りて聞き出そうとしたようなんですね。
「どうせお互い、家に帰ってもひとりだしさ」
なんですが、これに対して芹沢さんは、
「あ、いや」と、スポーツバッグを手探りしながら、「ネコを待たしてるんでね」そう言って答えます。「ぼくのラケットカバー知らないか?」
「お前、ポケットに突っ込んでたじゃないか」と恵一さん。
この日は、暦のうえでは初夏だったんですけど、天気のほうは、二人ともにトップコートをはおらせるような、そんな天気だったんですね。
「って待て、ネコだって?」と、続けて恵一さん。
ある種の男性の中には、いっしょに住む恋人やなんかを、ネコに例えてごまかすひと達もいるそうなので、今回のこれもそうだと、恵一さんは想ったようで、
「あ、ほんとだ、ありがと鳥取」と言う芹沢さんの感謝もそっちのけで、「あったよ、カバー」
「そいつは一体……、どんなネコなんだ?」と前のめりに訊くことになります。
ふたりは着替えも終わっていて、あとは各々家路に着くだけなのですが、数少ない独身仲間が同棲を始めたとあっては、おいそれと帰すわけにも帰るわけにもいきません。なので、
「いつから一緒に……、その……、」と続けて恵一さんは訊き、「飼ってるんだ?」
「なんだよ、いったい?」と、いぶかしそうに芹沢さんは返します。「色は天使みたいな白で、ウチには一ヶ月ほど前からいるよ」
「ほぉー」と恵一さん。
彼女かなにかは知らないが、“天使みたいな”とは聞き捨てならない。
「そしたらどうだ? その……、そのネコちゃんも一緒にビールってのは」
「は?」と芹沢さん。
いっしゅん、驚いた様子でしたが、どことなくトビー・ジョーンズを想わせる恵一さんの笑顔にいろいろ合点がいったのでしょう、
「なんだ? うちに来たいって意味か?」と、そう訊き返します。「それだったら、べつに構わないけどさ」
「そういう意味だよ!」と、にやけた笑顔で恵一さん。ふたり分の荷物を一気に持ち上げ、「“善は急げ”だ、はやく行こう」と足早に出口へと向かいます。
「あ、おい、いそぐな、」と芹沢さん。彼のあとを追いかけながら、「ただ、ネコにビールをやるのは反対だぞ」
「了解、了解。お酒に弱いんだな、その子」
「まあ……、ネコだしな」
「はいはい。だったらいいよ、代わりになにか、その子の好きなものを買って行こう」
と。
まあ、そんな感じで、コートを去って行くふたりなのですが、そんな彼らの様子を、野球場のフェンスのうえから眺めている存在がありました。
この“存在”は、まっ赤な髪に真っ黒なサングラスをかけた、黒ずくめの長身女性だったのですが…………、あ、そだ、ミアさん。このルビー・ローズ似のイケメンって、ほんとにむかしのミアさん?
*
「え? なに? いきなり? というか、ほんとに私ってどういう意味よ」
ほらほら、この黒ずくめの――、
「うん? ちょっとよく見せて、そのマンガ」
ほら、ここの、フェンスのうえに立ってるのとか――、
「あー、うん、そうね。これ、地獄に居たころの私よ、よく描けてるじゃない」
うわー。
「なに? ひとの身体じろじろ見て」
いや、さすがに私、この部分はウソか誇張だろうって想ってたんですけどー、
「は?」
だって、この細身のイケメン女性が、そんなペネロペ・クルスばりのセクシー悪魔に変わっちゃうワケでしょ?
「ま、まあ、そうね」
そりゃまあ、さすがに、にわかには信じがたいワケで。
「信じがたいって……、読んだことあるんでしょ? あなた、このマンガ」
もちろん何度も読み返してはいますけど、さすがにマンガなんで、ウソや誇張のひとつやふたつ――、
「なに言ってんのよ、あの子がマンガに、ウソや誇張をいれるワケないじゃない」
…………え? …………あれ? あー、まー、いやいや、…………あれ?
「はいはい、あんまダベってばっかいると、また紙数足りなくなるわよ」
あ……、そか……、そうです……よね? えーっと? そしたら――、
*
「そしたら、ソファにでもかけて待っててくれ」
と、言うことで。
こちらはふたたび、時間と空間を行ったり来たりした、石神井台にある芹沢さんのマンション。
「荷物置いて、ついでに着がえて来るからさ」
そう言うと芹沢さんは、恵一さんをリビングに残したまま、自分の部屋へとはいって行くのでありました。
「テレビでも雑誌でも、好きなように見といてくれよ」
ここのマンションは――やっぱり、お金持ちの家系は違いますね――芹沢さんの伯父さんが、田舎暮らしを始めるとかで彼に譲ってくれたものらしく、和室付きの広々リビング4LDK、ふつうの家族なら、4~5人は住めるようなお部屋で、しかも、
「あいかわらず豪勢だな」
と、こちらはこちらで、先祖代々の古びた一軒家に住む恵一さんも言うとおり、その南向きバルコニーからは、公園を含んだ石神井の街並みが一望出来たりする、豪華マンションでもありました。が、ただ、
「あいかわらず悪趣味だな」
と、続けて彼も言うとおり、家具や調度類なんかはあまりほめられたものでもないらしく、
「彼女さんから、文句は出ないのかよ」
そうつぶやくと恵一さんは、テーブルの上の『GOETHE』に手を伸ばそうとしてそれを止め、部屋のなかを見回しては、頭のなかで、家具の位置や、壁掛け時計の色を変え、趣味の悪い天使の置物や造花の花束なんかを追放すると、そのままカーテンの柄に一家言くわえようとしたところで、
「は?」
と、こちらに向かって飛んで来る、一羽のおおきなカラス……、とはちょっと違うな……、ツバメ? ……にしては大き過ぎるし…………、ねー、ねー、ミアさーん、この鳥って――、
*
「あ、それ、ツバメであってるわよ」と、ここで悪魔のミアさん。
あ、そうなんですか。
「ヤワラちゃんにも訊かれたけどさ、ひとサイズでこっち来ちゃったからその大きさになっただけで、飛びやすいのよね、ツバメ」
*
と、言うことで。
「な、な、な……」
と、巨大なツバメの到来におどろく恵一さんでありますが、その巨大ツバメは、そのままそこのバルコニーに降り立つと、先ほどの黒づくめの女性――昔のすがたのミアさんね――に変身していき、
「…………おんな?」
とつぶやく恵一さんに、
コンコン。
と、バルコニーの窓を叩き、
「ここを開けて、」
という身ぶり口ぶりで、彼にお願いするワケでした。
が、もちろん、こんな怪しいツバメって言うか、おんなって言うか、バケモノって言うか――、
*
「だから、悪魔だって」
え? あ、まあ、そうなんですけど、なんかいきなりそう書くのも芸がないかなって……、って、ま、いっか、悪魔で。
*
「悪魔?」
と、なんだかんだで――と言うか、彼女の魔力と目力で――バルコニーの窓を開けさせられた恵一さん。そんな彼女の正体にさらにおどろいていると――「きみが?」
「そう。それで、天使を追ってここまで来たんだけど」
と、イケメンモードのミアさん。まっくろなサングラスを掛けながら――「それっぽい男か女、見なかった?」
「天使?」
と、続いて出て来た言葉の流れに、眉を片方つり上げる恵一さんだけど、たったいまツバメが悪魔に変わったのを見たばかりだし、
「あ、いや、ここにいるのは、僕の友人とその彼女――」
そう言いかけて、さっき頭のなかで追放した、趣味の悪い天使の置物を想い出すわけです。
彼の記憶だとそれは、うしろのオープン棚の、いちばん上に置いてあったはずだけど、そう言えば芹沢さんも、自分の部屋にもどったまま、いっこうに出て来る気配がないし、問題の彼女さんも、その声どころか、物音ひとつ聞かせて来ない。
それにそもそもこのマンションに、このリビングをみる限り、女性の住んでる気配もない。
まさか?
と想いながら恵一さん、目の前の悪魔からゆっくり目をそらすと、問題の天使を見ようと、首をうしろに向けようとして、
にゃーん?
と、突然、彼女でも天使でもない、まっ白な毛並みのアメリカンカールが、どこからともなく現れて、彼の足もとにすり寄ろうとして来た。しかし、
*
「アレが猫に見えるってんだから、人間の目も当てにはならないわね」
*
と、ミアさんも言うとおり、このまっ白なネコちゃんが、問題の“地獄から抜け出した天使”――なんだけど、この時の恵一さんにそんなことは分からない。
しかも、ミアさん登場からの非現実的な空気のなか、突然あらわれたこの白ネコに、ほっとしたのかさせられたのか、ついつい、
「なんだー、君が芹沢の“天使”かー、俺はてっきり、アイツに女でも――」
そう言ってしゃがみ込み、その彼女を抱き上げようとする恵一さんだが、
「さわるな!」
と、ミアさんが忠告するよりもはやく、
ビリッ
と、ちいさな火花が飛び散り、
ドンッ
と、恵一さんのハンプティな身体は、部屋向こうの壁まで弾き飛ばされる。
「ちっ」
ほんの一瞬、彼のほうを向くミアさん。
あばらが数本と、内臓もいくつかイッてしまったようだけど、それよりマズいのは、
「いくらか、喰われてるな」
っていう部分。
というのも、ここで、“喰われ”たっていうのは、恵一さんの生命と言うか魂と言うか、いわゆる 《時間エネルギー》なるものが、その“天使”に奪われたって意味なんだけど、
もちろん、初対面の人間の男がどうなろうがこうなろうが悪魔のミアさんにはまったく関係がない。しかし、
「なんでいままで?」
そう想った彼女が、ふたたびそちらをふり向く前に、すでにそこにネコはなく、代わりに、
「なあ、スリエル」
そう呼ばれる、白いドレスに赤いケープの女性――天使は立っていた。
「私が来るのを待ってた?」とミアさん。「それとも、地獄をだましとおせると想ってた?」
この質問に天使は、しばらくの間、無言でミアさんの顔を見つめていたんだけど、奥の部屋から、
「う、うぅ……」
と言う芹沢さんのうめき声が聞こえて来たのを合図に、部屋をひかりで埋め尽くすと、皆の目をくらまし、そのまま、
ふっ、
と、その場からいなくなってしまった…………んですが……って、あれ……? ねえねえミアさん、これなんですぐに追いかけなかったんですか?
*
「ん? なに? こんどはなんの話?」
ほら、ここのページで、スリエルさんがジャンプしたあと、恵一さんの車で追いかけるじゃないですか、
「あー、そうだったっけ?」
そうそう。で、なんでここで、ミアさんもすぐにジャンプして追いかけなかったのかな? って想って。
「あー、それはアレよ。この手の時間跳躍とか空間跳躍って、ひとりじゃ出来ないのよね、私」
え? でもなんかの回でやってませんでした? 空間跳躍。
「それ多分、マルテムか誰かと一緒のときじゃない?」
あー、言われてみれば。
「そのとき私、単独行動だったしさ、それでそのあと、恵一の時間エネルギーを調べて、アイツの後を追ったんじゃなかったかしら」
あー、そっかそっか、それで恵一さんを助けることにもなるワケですね。
「そうそう。あそこで恵一に死なれたら、のこりの時間エネルギーもアッチへ行っちゃって、」
スリエルさんを追えなくなるのか――芹沢さんの時間エネルギーは、奪われてなかったんでしたっけ?
「奪われてたのは、恵一の分だけだった。おかげで追跡は楽だったんだけど――」
*
「じゃあなんだ? 僕は死ぬのか?」
「これが終わったらね。でも安心して、地獄も結構いいとこだから」
「地獄行きも決定なのか?!」
と、言うことで。
こちらまたまた場面は飛んで、こちらは、恵一さんの運転するフィガロの車中。あの巨体を運転席に押し込んで――って、ほんと、なんでもっと大きな車にしないのかしら?――助手席のミアさんと一緒に練馬区内を、天使を追いかけぶっ飛ばします。
「そりゃまあ、大抵の人間は地獄に来るからね」とミアさん。「だけど問題は、どこの地獄に行くかよ」そう言って、助手席から思いっ切りハンドルを切る。
キキキキキキキーーーッッッ!!!
「あぶない! 殺す気か!!」
「だから、あいつを捕まえるまでは殺さないって」
「……で、そのあと地獄か?」
「これがうまく行ったら、軽めの地獄にするようボスに言ってあげるわよ」
「うまく行かなかったら?」
「さあ? コキュートスとか?」
と、この辺からすでにいい感じのバディ感を出すおふたりですが、この後、問題の天使が、どこか森のようなところ――池の雰囲気とかから、光が丘のバードサンクチュアリなんじゃないかって言われてます――へ逃げ込んだことを突き止めます。
「なあ、」
と、恵一さん。すっかり日も暮れた森のなかを、懐中電灯ひとつで進みながら、
「あの天使は、なんで捕まってたんだ?」
と、ミアさんに訪ねます。すると彼女は、
「捕まってたワケじゃないわ」
そう言うとサングラスを外し、
「ちょっと待って」
と、前を進む恵一さんの肩を止めます。
「……どうした?」
「奇妙ね」ヘビのような金眼を闇の奥へと向けるミアさん。「気配があちこち散らばってる?」
恵一さんを自分のほうに引き寄せながら、
「ちょおっと……」と、こまった声で言う。「ちょおっとばかり……ミスったかも」
「……ミスった?」
「狩ってたつもりが……、狩られてたかも」
カサッ
たかい杉の木のうえで、一羽のノスリが羽をたたいた。
「狩られる?」と恵一さんが訊き返し、
「アイツは、」とミアさんは応えた。「アイツは、こっちに、寝返るはずだったのよ」爪を伸ばし、牙を伸ばしながら、「そう言って、地獄に来たハズだったの」
カサッ
池のすすきが揺れ、おおきなカササギがこちらを向いた。
カサササッ
カササギの横には、カモとカワウがいる。
ガサッ
ノスリのうしろには、ハイタカとフクロウが降りて来ている。
ガササササ、ザサッ
森中の鳥たちが、池畔に集まり、目をあかくひからせながら、彼らを見ている。
「お、おい、」恵一さんはおびえ、
「“善が悪に勝てないこともない”」ミアさんは応えた。「“ただ、そのためには、天使も、マフィアなみに組織化される必要がある。”」
「……なんの話だ?」
「マフィアどころか軍隊だけどね」
鳥たちが、すがたを変えはじめた。
「悪かったわね、人間さん」
ミアさんの背中に、黒く、大きな、羽根が生えた。
「こいつらみんな、天使だわ」
森が、しろい光で満たされた。
「地獄の方が、マシだったかも」
(続く)