第三話:僕らとフリオと公園で(後編)
*
さて。
それからまた、何日か何週間かが過ぎた、あの日あの時あの場所で――な、ある日曜日。飾森陸さんは、例の公園の、例の樫の木のうえにいました。
彼の左手にはいま、アーサーから借り受けた、猪熊先生のオペラグラスが持たれていて、そのグラスののぞく先には、いままさに、JJJ団のパレードが始まろうとしているところであったワケです。
「あーあ、このあっついのに、どいつもこいつも、頭からマスクなんかかぶって」と飾森さん。ペットボトルの炭酸水をひと口飲んでから、「あの舞台に立ってんのが、ボスかなー?」
毎年、夏のはじめからなかばにかけて行なわれる、JJJ団のパレードは都合三回。
どの地域でも、幸せそうなカップルや家族連れで街や公園がにぎわう祝祭日を選んでは行われていて、パウラちゃんたちの町も、その例外ではありませんでした。
しかも、これから始まろうとしているのは、その三回目のパレードで、これには、地域の団員のほぼすべてが集まるらしく、
「しっかし、佃煮にしたいぐらいいるな、こいつら」
と、飾森さんも引くぐらいのJJJがそこにいて、そうしてこれはまた、
「ま、これくらいの方が楽しいけどね」
と、飾森さんに悪いかおをさせるくらい、今回の作戦にもって来いのシチュエーションでもあったワケであります。
「どうだい、アーサー? そっちの準備は?」
*
と、言うことで。
こちら場面変わって公園の東側、だいたい記念庭園の奥あたり。
こちら呼ばれたアーサーくん、飾森さんから借りているウォーキートーキーに向かって、
「うーん? ととのってる…………のかなあ?」
と、なにやら自信なさげな様子で応えます。
「エルもずっとイヌ語だしさ、正直、よくわかんないよ」
ってことで。
いま、アーサーくんの目のまえには、色とりどりのリードにつながれた、色とりどりのワンちゃん (ときどきネコちゃん)が十数匹からいて、
「ワン、ワワ、ワワン、ワワゥ」
と言うエルくんの説明に、
「わふ? わふふん? わほぉん?」
と、脱走癖のあるキャバリアが訊き返したり、
「ワン、ワワン、ワーン! ワン!!」
と、返事だけはハッキリしているが、つぶらな瞳が逆になにを考えているのか分からないゴールデン・レトリバーがいたり、
「フウン、わふんふ、ワフンフ、フ~ン♡」
と、すました感じのミニチュア・ダックスが、エルくんに色目をつかって来ていたり、
と、まあ、皆がみな、アーダコーダ・ナンダカンダと、好き勝手のたまわっているせいで、ちょっとしたカオス状態になっていたりするのですが、そこにまた、
「オッケー、また連れて来たわよー」
と、パウラちゃんが、あらたな柴やパグやプードルなんかを連れて来ては、
「みーんな運動不足なんだろうね」
と、ブルーゴールドのヨーキーをなでつつ、
「ご主人さまたちも、あんまかまってくれないみたいでさ」
と、彼らのリードを弟にわたす。
「やったらみんな、はしゃぎたがってんのよね」
*
と、言ったところで。
これ、彼らがいったい何をしているのかというと、
今回の作戦、っていうか、“いつものいたずら”のために、町中のワンちゃん (ときどきネコちゃん)を、お散歩代行のフリをして、集めまわっているところなんですね。
「こづかい稼ぎにもなるしな」
と、これは木のうえの飾森さんだけど――って、そう言えばフリオは?
「ひまそうな友だちみつけて、野次馬のなかにはいり込んでるよ」
とこちらは、リードまみれのアーサーくんで――って、そうそう。たしかに、そういう手はずだったわよね。
*
と、言ったところで。
またまた場面は変わって、こちらは、そんなアーサーくんと木のうえの飾森さんと、そのほぼ中間地点にある、公園の野外ステージ。
こちらでは、問題のJJJ団の中でも、このエリアの中心的存在であるらしい“偉大なるリーダー”なるものが、
「ようこそ! 賢明なる我らが同士諸君!」
と、堂々たる声と態度で――とは言っても、顔も身体もかくしたままなんだけどね――、
「本日ここにお集まりの諸君は! いま! この国を蝕んでいる、(*検閲ガ入リマシタ)で、(*検閲ガ入リマシタ)で、(*検閲ガ入リマシタ)な、(*検閲ガ入リマシタ)野郎や! そんな男どもを唾棄するどころか、(*検閲ガ入リマシタ)で、(*検閲ガ入リマシタ)で、(*検閲ガ入リマシタ)してしまうような、堕落した女どもを! 粛清! あるいは矯正させるべく! 日夜! 粉骨砕身! その身を削り、この国のために――」
云々かんぬんと、ここに書くのも腹が立つというか検閲が間に合わないようなヘイトスピーチを、がなり立てては、団員を扇動&先導、広場から公園、公園から街路へとくり出し、団の威光とパワーとを、町中の人々に誇示してまわろうとしているところであったワケです。
で、こんなJJJの周りには、怖いもの見たさと言うか、
「やつらはいったい何者なのだ?」
的好奇心から、彼らの白装束の下を想像しにやって来る、モノ好き・好事家・野次馬連たちもけっこう来ていて、我らがフリオくんも、学校のワルガキやヒマそうな子どもたち (ときどき大人たち)を誘導しては、そのモノ好き・好事家・野次馬連のなかに、ひっそりとまぎれ込ませているワケですね。
「どうだい、フリオ? そっちの様子は?」
と、ここで木のうえの飾森さん。こちらもウォーキートーキーで、野次馬のなかの彼に訊く。すると、
「だいたいいいよ」とフリオくんも応え、「やつらも舞台から降りるみたい」
そう言われて舞台を見ると確かに、問題の“偉大なるリーダー”が、舞台を降り、皆に行進の準備を始めるよう促している。
じゃあ、そろそろですかね?
と、わたしは訊き、
「だね」
と、飾森さんは応える。
それから彼は、作業机の猪熊先生に向かって、
「BGMは? なんにします?」
と、訊く。
すると、この質問に先生は、描いてたペンをいっしゅん置くと、さっきの飾森さんがやっていたように天井を見上げ、
「そうね」
と、ひと声つぶやくと、
それから再び、またペンを取って、
「『エブリバディ・ニード・サムバディ・トゥ・ラブ (誰もが誰かを愛したい)』は?」
と、木のうえの飾森さんに問い返す。
「ブルースブラザーズの?」って、飾森さんが訊いて、
「そうね、いっしょに見たでしょ?」って、先生は応える。
応えるんだけど、この応えに飾森さんは、
「“ヤワラちゃん”」って、すこしさみしい声で返すんですね。「――それ、俺じゃないですよ」
「そうだっけ?」と、とぼけたフリの“ヤワラちゃん”と、
「たぶんですけどね」と、すねた笑顔の飾森さん。「でも、選曲はナイスです」
そう言うと彼は、先生にステレオのスイッチをいれるようお願いする。
「それで、やっちゃいましょう」
パチッ。
「もちろん、大音量で」
*
さて。
と、いうことで。
問題の公園に戻るまえに、この『エブリバディ・ニード・サムバディ・トゥ・ラブ (誰もが誰かを愛したい)』って曲をご存知ない方のために、いちおうの補足を入れておきたいと想います――わたしも大好きなんですよね、この曲。
と、いうわけで。
この曲は、もともとが、西暦1964年、バート・バーンズ、ソロモン・バーク、ジェリー・ウェクスラーによって書かれたご機嫌なロックン・ロールで、リリースされた当時のチャート最高値は全米58位、おしくもトップ40入りは逃したんですけど、その後も、ローリング・ストーンズとか、ジェリー・ガルシア・バンドとか、いろんなバンドにカバーされ、歌い継がれている曲なんですね。
そうそうそう。
で、そんなカバーのなかでも、いちばんご機嫌で、いちばんロックン・ロールなのが、皆さまよくご存じの、ドタバタアクション・ミュージカル・コメディ『ブルース・ブラザース』(1980年)の中で、主演のジョン・ベルーシ&ダン・エイクロイドが演っていたバージョンで……、え? なにか言いまし………… 『ブルース・ブラザース』を知らない?!
え?
うそ?
ほんとに?
観たことないの?
え? いや、それはダメよ、あなた、そんな、こんな、どーでもいいような小説読んでる場合じゃないわよ、あなた。
え? なに?
え? どうしたらいいのかしら?
ちかくにレンタルビデオ屋は?
ある?
あるならいますぐそこに行っ…………、あるけど、これから行くのはメンドクサイ?
え?
あ、だったらサブスクは?
はいってる?
だったらいますぐ、テレビなりパソコンなりを立ち上げ……、え? 「これを読み終わってからじゃダメなのか?」?
え?
いや、まあ、ダメじゃないですけど……、こんな小説読むぐらいならさあ……、
え?
はあ……、はあ……、
あー、まー、そう言って頂けるのはうれしいですがー……、いやー、そうかー、知らないかー、どうしましょ? 飾森さん。
*
「は?」
と、とつぜんのことに驚きこちらをふり向く飾森さん。
「いや、ちょっと、ヤスコちゃん、そんないきなり訊かれても」
そう言って、わたしと広場を交互に見る。
「こっちもJJJの行進はじまってるし……、いいんじゃない? またいつか見てもらうってことで」
えー、だってー、『ブルース・ブラザース』ですよ?
「いや、なんだかんだで、40年前の映画だしさ」
それでもー、やっぱー、必須科目じゃー、ないですかあー、
「いや、そんな、皆がみんな君みたい――」
チャッチャ、チャッチャ、
チャッチャ、チャッチャ、
「あ、ほら、イントロ始まっちゃったよ」と、飾森さん。オペラグラスをのぞき込み、
チャッチャ、チャッチャ、
チャッチャ、チャッチャ、
「よし、アーサー、犬どもを広場に」ウォーキートーキー片手に指示を出す。
するとそこに、
パララーーーー、
パララーーーー。
って、ご機嫌なホーン・セクションが乗って来て、
チャッチャ、チャッチャ、
チャッチャ、チャッチャ、
「ほらほら、ヤスコちゃん」と飾森さん。
チャッチャ、チャッチャ、
チャッチャ、チャッチャ、
「ヤスコちゃんもおどって」そう言って、こちらをあおる。
パララーーーー、
パララーーーー。
「ヤワラちゃんなんか、もうノリノリだぜ?」
チャッチャ、チャッチャ、
チャッチャ、チャッチャ、
先生の方を向くと、たしかに彼女も、せまい作業部屋のなか、レイバンのグラスなんかかけておどってる。
パララーーーー、
パララーーーー。
これ、わたしもおどっていいやつですよね?
パララーーーー、
パララーーーー。
「それでは皆さま、お待たせしました」と飾森さん。
チャッチャ、チャッチャ、
チャッチャ、チャッチャ、
うん、よし、おどっちゃおう。
パララーーーー、
パララーーーー。
「本日最後のメーン・イベントはッ!」
チャッチャ、チャッチャ、
チャッチャ、チャッチャ、
「かの、名高くほまれも高きJJJ団と、」
チャッチャ、チャッチャ、
チャッチャ、チャッチャ、
「われらが町の、ワンちゃん・ネコちゃんたちによるダーンスタイム!」
チャッチャ、チャッチャ、
チャッチャ、チャッチャ、
「そうですッ! 曲はッ!」
パララーーーー、
「みなさまッ! ご存知ッッ!」
パララーーーー。
「ジョン・ベルーシ&ダン・エイクロイドで!」
パララーーーー、
「『エブリバディ・ニード・サムバディーー!」
パララーーーー。
「――トゥー・ラブ!』」
チャッチャ、チャッチャ、
ワン……、
「誰もが!」
チャッチャ、チャッチャ、
ツー……、
「誰かをッ!」
ワン……、
ツー……、
「――愛したい!!」
ワン、ツー、
ワン、ツー、スリー、フォー!!
*
さて。
と、まあ、そんな感じで。
この日のJJJの行進は、過去最高の団員数を数えたまま、野外ステージからスタート。
そのまま公園を抜け、街へと歩み出て、団の威光と力とを、町中の人々に見せつけつつ、
と同時に、彼らの正体不明さを周囲の見物人たちに囁き合わせることによって、
団の神秘的なる力をより強力なものにし、その“偉大なるリーダー”の鼻を高々とさせるものになる。
――ハズだった。
そう。
公園のそこかしこから、
ご機嫌なロックン・ロールと、
楽しそうなワンちゃん・ネコちゃんたちのはしゃぎ声が、
ひびいてくるまでは。
『今日、ここで、この公園で、こんなに素敵な人たちにお会い出来たことを、我々イヌたちは、大変嬉しく想います!』
と、白い毛並みのレトリバーが吠え、
『なぜならぼくらは、ぼくらの大好きなご主人さまを、ここで皆さまに、ご紹介することが、出来るからです!』
ながい舌のジャーマンシェパードがそれに続いた。
そう。
アーサー&パウラちゃんの住む町のひとたちは、なんだかんだで顔見知りが多く、その飼い犬や飼い猫についても、少なくとも主なワンちゃん・ネコちゃんたちについては、皆がみな、どこの家のだれなのかを、よーく知っていたのである。
そうしてこの日、その恩恵に最初に浴したのは、まさにこのひと、パレードの先頭に立つ、我らが“偉大なるリーダー”、そのひとであった。
というのも、公園出口をめざす彼のもとに、かわいらしいブルーのヨーキーと、おめ目くりっくりの、これまたかわいいグレーのトイプーが、
わんわんわんっ。
ふゃんふゃんふゃんっ。
と、
『抱きしめておくれよ、ご主人さま』
とばかりに、飛び込んで来たからであった。
「ダック? マーフ?!」
と、白装束のした、おどろきの声と顔を隠したままの我らが“偉大なるリーダー”は、そのまま彼らを無視しようとしたのだが、彼の飼い犬たちが、愛しいご主人さまの大きな手やからだのにおいを間違えるはずがない。
ふゃんふゃんふぇん、ふゃんふゃんふぇん。
わんわんわん、わんわんわん。
と、ちぎれんばかりの彼らは、シッポを振っては、“偉大なるリーダー”に、
『頭をなでて、ご主人さま』
と、飛びはね、転げ、また飛びはねるのであった。
*
『ときどき俺は、すこし寂しくなったりする。
そうベイビー、君に冷たくされたときとか。
そんなときはベイビー、逃げ場がないほど、
そうベイビー、君が――きみが必要なんだ。』
*
犬たちのはしゃぎ声に合わせるように、公園の至るところから、拍手と喝采と陽気なブルースハープが聞こえ、周囲の野次馬・観客連も、楽しくみんなで、
「I need you, you, you!」
の、大合唱である。
そうして、またそこには、
「なあ、あれ、ヨンのとこのダックとマーフじゃないか?」
とか、
「あそこでクロッパーになめまわされてんの、酒屋のダンだよな?」
とか、
「あ、ほら、あそこ、モモがご主人のマスクをとるわよ」
みたいな感じで。
彼らJJJ団の正体が、さざなみのように周囲にひろがって行くのでもあった。
そうしてさらには、
「おい! こら! ダック! マーフ! 家へ帰れ!!」
と、我らが“偉大なるリーダー”こと、「PTAに人気のヨンおじさん」も、うっすい白装束のした、長い手足をばたつかせながら、彼の愛犬二匹を追い払おうと必死であったが、
「あ、こら、マーフ、やめろ! そでを引っ張るな!」
彼のこの動作がかえって、彼らのあそび心に火をつけたのでもあろう、ご主人のそでを引っぱっては、すそを引っぱり、かれを芝生のうえに寝っ転がせては、そのまま彼のマスクをはぐ。そうして、
「あ、おい、おまえたち!!」
と言うさけびも聞かずに、彼にたっぷりのハグとキスを与えることになるのであった。
*
『ときどき俺は、すこし寂しくなったりする。
そうベイビー、君に冷たくされたときとか。
そんなときはベイビー、逃げ場がないほど、
そうベイビー、君が――きみが必要なんだ。』
*
と、まあ、そんな感じで。
拍手と喝采とブルースハープ。それに、
「I need you!」
の大合唱とともに、かれら白ずくめ集団の正体は白日の下へとさらされ、かくしてこれが、パウラちゃんたちの町における、JJJ団の最期となったワケであります。
そうして。
そんな広場のようすを、木のうえから満足そうに眺めていた飾森さんは、どこから持って来たのやら、ふるーいタイプのガイコツマイクを口につけると、
「いいかい、みんな? 「逃げ場がないほど、君が必要」? もし、ほんとうにそんな誰かを見つけることが出来たら、しっかり抱きしめ、けっして、はなしたりしちゃダメだぜ」
と、まるでエルウッド・ブルースみたいなノリで続ける。
「愛して、愛して、きっついぐらいによろこばせて、抱きしめ、抱きしめ、抱きしめて、彼に、彼女に、ずっと一緒にいて欲しい誰かに、その愛を、すべての愛を、ささげるんだ」
広場のあちらこちらでは、はずされたマスクとともに、憑き物も落とされた感じのオジさんたちが、代わりに愛犬 (ときどき愛猫)たちからの、“胸いっぱいの愛”ってやつを、もらっていた。
「誰もが誰かを愛したい。
愛してくれる誰か、
愛し合える誰かを。
いないと寂しくて、
切なくて、
想い出すだけで涙と勇気が湧いてくる、
あまいキスを交わせる誰かを――」
と、ここで飾森さんは一瞬、寂しくて、切なくて、涙と勇気を一緒くたにしたような笑顔を、ほんの一瞬だけ見せると、
「だよね?」
と、喫茶店で打ち合わせ中の、猪熊先生に向かって訊いた。
「きっとそうだよね? “ヤワラちゃん”?」
*
くすっ。
と、不意に、
不意に先生が、わらった。
なので、
なので当然、
なので当然――、ここで、
「そうね」
の言葉、ことば、コトバ、
とともに、
「きっとそうよね」
きっとそうよね?
時間と記憶と空間は――、
「そうだと想うわ」
そうだと想うわ?
時間と記憶と空間は――ぴきっ、
「リクくん」
という言葉とともに、
ぴきぴきぴきぴきっ。
という音ともに、
不意に?
すでに?
切り替わっていた。
*
「はい?」
と、白髪まじりの男性が――だれに? 猪熊先生に? ――訊いた。
「なにか、おっしゃいましたか?」
ここは――、ここは多分、またちがう年の、またちがう空間の、6月8日金曜日 (仏滅)。
場所は――、場所は多分、石神井公園駅前――からすこし離れた? はいった? ところにある、町のちいさな喫茶店、青い扉の『喫茶シグナレス』
そこの、六人掛けソファのうえ、である。――たぶん。
「あ、いえ」
と、“こちら”に切り替わりながら、先生は応えた。
「飾森さんと、エルくんの回ですよね?」
テーブルに隠した左手は、しずかにみんなに、バイバイをおくっている。
「まさか、尚談社さんが了承してくれるとは、想ってもいなかったもので」先生は続けた。
「そう、そこなんですよ」男性が応えた。「今回の『カトリーヌ・ド・猪熊大全集』には、コミックス未収録になっていた彼らとパウラちゃんたちのお話も、どうしても入れたくて――」
と、とてもほこらしく、うれしそうな声だった。そうして、
「あちらの権利部を口説き落とすために、それはもう、ありとあらゆる手練手管を――」
と、白髪まじりの男性の、武勇伝的手柄話にお話はつながって行きそうだった……、んですが、このへんすこし、補足が必要ですね。
と、いうのが。
実は、エルくんと飾森さんのお話は、けっこう昔に、猪熊先生が、まだ尚談社でマンガを描かれていたころのお話で、ファンの間での人気は高かったんですけど、先生が向学館に移籍するときに、未完ってかたちで、終わらされちゃってたんですね。
そうそう。
いわゆる、“大人の事情”ってヤツです。
で、まあ、いま先生は、向学館専属で描かれていらっしゃるワケですけれど、第一話で出て来たミスターや、今回のパウラちゃんたちのお話は、向学館に来てから描いていらっしゃるお話なんですね。
そうそう。
ですから本来、パウラちゃん達のお話に飾森さんやエルくんを出すのなら――まあ、著作権の考え方からしたらおかしな話なんですけど――尚談社さんの了解というか、仁義を通さなければいけなかった――いけないハズだった。なんだけど、
「でも、あの時はびっくりしましたよ」
と、白髪まじりの男性――あ、この人はもちろん、向学館の方です――も言うとおり、
「いつも慎重な先生が、あんなゲリラ戦をされるとは」
なんと先生は、いま話したJJJ団のお話を、尚談社側の許可を取らず、仁義も通さず、当時の編集さんをなかば騙すようなかたちで、雑誌に載せちゃったんですね。
そうそうそう。
だから、まあ、いまなら、SNSとかで大炎上しててもおかしくないようなお話なんですけど、当時の編集長と両社のお偉いさん、そのあたりの方々の、たぶん、表にはけっして出て来ないであろう話し合いの結果、なんとか、事なきを得ることが出来たらしいんですね
「ほんと、あのとき、何があったんですか?」
と、これは、先生のとなりでメモを取っている女性――現・担当編集の望月さんね――も言うとおり、
このときの先生の動機については、いまだに、どこにも、だれにも、事態を処理してくれた当時の編集長にも、明かされてはいないらしく、皆さんどうにかして、その謎を解きたいって想っているようなんですけど、
「なんかねー」
って、いっつも先生は、冗談めかして、こう答えるだけなんですって。
「ひっさしぶりに、リクくんと踊りたくなっちゃったのよね」
だってさ。
よかったね、飾森さん。
(続く)