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第十三話:ささやかだけれど、誰かのなにかの、役に立つもの。(前編:その3)

 承前。


     *


 ミセス・アメリア・リンディは、それを――青い表紙の日記帳を――鞄から取り出し立ち上がると、隣りにいる石橋さんに、一瞬それを見せてから、しばらくそのまま立ち尽くしていた。


 読むべきか読まざるべきか、いやきっと読む必要が彼らにはあるのだろうが、それでも、それでも何度か考え直した結果彼女は、きょろきょろとあたりを見まわし、どこか座れる場所はないものか? と、それを探した。


 なるだけ、他人の日記帳を、拾い読みしても咎められないような、そんな場所を。


 そうして、それから、結論として彼女は、寝室を出、いちどリビングまで戻ると、そこに置かれた居心地のよさそうなソファやクッションなどには目もくれず、そのままキッチンにまで出ると、そこに置かれた、真っ白なキッチン・テーブルと、その横に置かれた背もたせのまっすぐなイス、その中のひとつに、ちいさな腰を、おろすことにした。


「アメリアさん?」


 と、誰かが彼女に声をかけたが、彼女はそれを無視した。


 目の前の、もうひとつのイスに、誰かが座った。


「なにか、お飲みになる?」


 彼女は、そんなことを彼女に、言おうとでもしている様子だったが、彼女――ミセス・アメリア・リンディは、その申し出を、丁重にお断りした。大変、失礼なことだとは想いながらも、それでも。


     *


 さて。


 このとき彼女が読んだ日記の断片、その何ページかを、ここにそのまま書きのこすことは、やってやれないこともないが、しかしそれでは、あまりに物語としての体裁を欠いてしまうだろうし、創作者として、このご婦人の好意に甘え過ぎてしまうことにもなるであろう。


 であるからしてわたしは、ここで、その日記の一部を抜粋しつつ、その概略、あらまし、著者の言わんとする本筋のところを、自分なりに咀嚼・解釈し、載せおくに止めたいと想うし、それがわたしに出来る精一杯であることを、ここに告白しておく。


 が、ただ、その前に。ひとつだけ。


 ここでわたしが、どうしても、ひとつだけ補足しておかなければならないのは、どうやらこの日記帳は、同様の主旨で書かれたものの数冊目に当たり、その最初のもの――それもまた、あの海へと流れ、流されたのだろうが――猪熊先生が出版社を変えたころ、彼女がもっとも世間からの非難を受けていた頃に書き始められたものである、という点である。


 そう。


 かつて、アンドレ・ジッドは、若きトルーマン・カポーティに向けこう語った。――「犬は吠える、がキャラバンは進む」


     *


「私は、彼女が、猪熊さんのことをなんと言おうと、そんなことは気にも止めない。」


 最初にアメリアさんが目にしたのは、その一文だった。


 その文字と文勢から、その日記の著者が、猪熊先生への世間の批判と、また世間一般に偏在する批評精神の不健全性に、静かにではあるが、不満と怒りを覚えていることは、たしかであった。


 著者は続ける。


「いや、そのことならば、職業的好事家や、アマチュアの大学教授が何を言おうと知ったことではない。」


 彼女は、十七才の年に単身、あの世界に足を踏み込んでからずっと、この国のあらゆるタイプの批評家、コラムニスト、インテリ気取りの学生たちに至るまで、ずうっと批判のされどおしだったではないか。


「もちろん、それも人気商売の常と言ってしまえばそれまでだが、それでも、もしも彼女が、その才能を鼻にかけた自慢屋で、お金や、承認欲求や、そんなもののために、マンガを描くような人間であると、」


 彼らが本当に、ほんの一瞬でも、本当にそう想うのならば、彼女の作品を、どの作品でもいい、


「あなたたちこそ本気で、それらの作品を、読み返してみるとよい。」


 そうすれば、余程の文盲でもない限り、彼女がどれだけ、自己を犠牲にし、読み手を、世界を、彼女の世界の登場人物たちを、愛そうとしているのか、


「愛そうと努力しているのかが、分かるはずだ。」


 いや、分からなければおかしい。


「私は、彼女を尊敬する。想像を絶するほど、勇敢なひとだ。」


 それから著者は、きっと彼女の、彼女の夫に対する好意を十二分に分かったうえで、


「いつかまた、三人で話してみたいわね、」


 と、宛先人不明のままに続ける。


「そのときは皆で着飾って、私は小さな、オレンジ色のチューリップなんかを持って、ささやかだけれど、あなたに対する愛と、友情と、たゆまぬ支持とを、表明するつもり。」


     *


 さて。


 残念なことに、この日記はここで終わっていた。最後の日付は――いや、書くのは止めておこう。


 パタン。


 と小さな音がして、日記は閉じられた。


 アメリアさんは、それからしばらく、テーブル向かいの、誰も座っていないテーブル・チェアを、だまって、ジッと、見詰めていたのだが、不意に横を見上げると、そこには、他のみんなの、彼女を見つめるみんなの、心配そうな眼差しがあった。


「私は、彼女を尊敬する。想像を絶するほど、勇敢なひとだ。」


 彼女は立ち上がり、すこしふらついた。


 日記帳を石橋さんに渡すと、汗がふき出した。


 のどに渇きをおぼえたが、それよりも今は、この気持ちをどうにか静めて、もっと違う、もっと現実的な、もっと建設的な何かを探すべきではないか? そう、彼女は考えた。


「それでも、死人は死人だ」


 と、彼女は考えそうになった。


 が、そのとき、


「そんなことありませんよ」


 目の前の少女が、彼女にほほ笑みかけた。


「まずは、そのことを、みんなに伝えましょうよ、アメリアさん」


     *


 作業部屋に入ってしばらくの間、男性は黙って書棚を眺めていた。そうして、一冊の本を取り出すと、すこしの間、ぱらぱらとそれをめくってから、また、元の位置へと戻した。


 一緒に入った森永さんは、結局、それが何の本であったのか、確認出来ずじまいだったのだが、彼がこちらをふり返り、


「ヤワラの席は?」と、そう訊く声に、


「そちらです」と、壁掛け時計の下の、よく整理し整頓された、作業机を指して応えた。「いつも、そちらで原稿を」


「そうですか」


 そう男性は応えると、机の右端に置かれた、描き掛けのネームやアイディア帳に一瞬注意を払いはしたものの、それでも直ぐに、その一番上の引き出しに手をやると、それを開こうとし、しかしそこには、しっかりと鍵がかけられていたので、続けて彼は、


「すみませんが、お嬢さん」


 と、依然緊張状態の森永さんに訊いた。「ここの引き出しを、開けては貰えませんか?」


 が、しかし、いくらアシスタントとは言え、先生の机のカギの在り処までは彼女は知らないし、また、たとえそれを知っていたとしても、たとえそれが先生のお兄さんであっても、当人の許可なくそこを開けてよいとは想えなかった。なので彼女は、


「すみませんが」そう言って応えようとしたが、「カギの場所は、先生しか知らな――」


 次の瞬間、


 ばきぃッ


 と、ちいさくするどい音がして、その引き出しは、タケシさんの手によってこじ開けられていた。


「いつも」


 と、彼は言った。


「いつもアイツは、本当に大事なものにはいつも、カギを掛け、自分にも見えないところに、隠してしまうんです」


 そうして、引き出しの中を探りながら、


「そうして、そのくせ絶対に、」


 と言って、その引き出しの奥から、茶色の封筒にしまわれた、一組のネーム原稿を見付けた。


「いつでもそれを、自分のそばから離すことが、出来ないんです」


     *


「なるほど、分かった」


 と、わたしを引き上げながらミスターは言った。


「分かったけど、それがどうなるかはよく分からないな」そうして、「ウェイトレスの子はなんて?」


 ここは、問題の鹿児島空港17時00分発の飛行機内部。いま、わたしたちは、その胴体部分を、貨物室から客室方向に向かって上がって行っているところで、


「「なんだかよく分からないけど、とにかく皆に伝えましょうよ」?」


 そう続ける彼の通話相手は、ここから5~6時間後? の世界にいるアメリアさんである。


「相変わらず、自分がなにを見ているのか、話しているのか、分からないんだな」


「先生の様子は?」


 と、ここでわたしは口をはさんだ。彼の肩につかまりながら、


「目覚めたりしてない?」


 この会話は、わたしとアメリアさん、それぞれのスマートフォンを、亜空間ターなんとかってミスターの技術で改造――やっとパクリじゃない技術が出て来ましたね――、24時間以内の時空間であれば、リアルタイムで (?)通話可能にしたものを使って行っているんだけど、


「先にあやまっとくよ」


「なにを?」


「通話料金」


 うん。まあ、世界の存亡もかかってるらしいし、そこは我慢するけどさ――それより先生は?


「いや、」と、声をひそめるミスター。天井を持ち上げ、客室の様子をうかがいながら、「マンションの方には、これから電話するらしい――おっと」


 そう言ってふたたび、天井を閉める。


「ベルト着用サインが消えたようだ。乗務員さん達が動き始めた」


 どうやら、この真上が機内食などを置いているギャレーらしいが、


「問題の脱出用スライドを確かめておきたいんだけど……」とミスター。「このまま入って行っても大丈夫かなあ?」


     *


 さて。


 一応の補足だけしておくと、今回の事故のもともとの原因は、右側エンジンの火災なので、いちばん手っ取り早いのは、そいつを直すことなのだけれど、


「ほんと、空を自由に飛べたらなあ――」


 と、彼も言うとおり、離陸直前に機体にたどり着いたわたし達に、それを直す時間も術も既になく、その代わり、


「要は、火災が起きたときに、脱出出来てればよかったんだよな」


 と、茂木さん死亡の原因のひとつとなった、緊急脱出用スライドの修理を、プランBとして実行したいワケですが、


「正常に機能しなかったスライドがドレなのか、ネットで見付けた報告書だけじゃあ、はっきりしないんだよなあ」


 って感じで、それがドレだか分からないし、


「あと、このカッコじゃ怪しまれるよね?」


 と、第十二話の最後でもすこしご紹介したとおり、いま、ミスターが着ている服ってのが、例によって、ぼっろぼろに破けて汚れたヴィクトリア朝末期のイギリス紳士みたいな服なもんだから、怪しいことこの上ないんですよね。


 と、言うことで。


     *


「と、言うことで、ヤスコちゃんお願い」


 と、こちらを向くミスター。なんか間違ったT型ドライバーみたいなのをわたしに渡しながら、


「無線で指示は出すからさ、」


 と、わたしに上にあがるよう促すのでありました。


「ビビビッで、サササッと直して来てよ」


 うん。まあ、多次元宇宙の存亡とやらもかかってるらしいから、頑張るけどさあ――ほんとにわたしで大丈夫?


「やること自体は簡単だから大丈夫だよ。それに――」


「それに?」


「“あっち”に、例のお兄さんが来たらしい。なにかし出かす前に、急いだ方がいい」


     *


「いえ、お兄さん、それはいけません」


「いいから通してください、鳥取先生」


「なにをなされるおつもりなのかは分かりませんが、安静状態の方を「無理にでも起こす」と言われて、はい、そうですか、とお通しするワケにはいきませんよ」


 と、言うことで。


 こちら、時間を進めた猪熊先生のマンションでは、その「なにか」をし出したタケシさんを、恵一さんがなだめ止めようとしているところでありました。


「いいから、通して下さい」


 彼は、立っていた。脚を肩幅に開き、自分より10cmは高い恵一さんを見上げながら。右手には、先ほど見つけたネーム原稿を持って。


「私が、あいつを起こします」


 恵一さんは、彼の動きを見ていた。脚の上に乗った胴体はいかにも重そうで、まるで鉛かなにかで出来ているように見えた。


「あいつには、仕事があります」タケシさんは続けた。「起こさなければ、いけません」


 そう言う彼に向き合いながら、恵一さんは、同時にいくつものことを考えていた。


 体格的にも年齢的にも、有利なのは自分だ。


 お兄さんには悪いが、こう見えて護身術の心得もある。


 肩を押さえ、腕を取れば、いかな「練馬のシルバーバック」と言えども、抑えこむことは可能だろう。


「無理に起こすのは危険です」


 と、恵一さんは応えた。


 飾森くんが“消された”場面を、自分は見ている。


 そう。


 いま現在の一番の危険は、このお兄さんではなく、猪熊先生だ。


 いまはただ静かに眠ってくれている彼女だが、もし無理に起こし、あれと同じことを自分や他の誰かにしたとしたら?


 くそっ。


 憎らしい悪魔の横顔ばかりが、彼の脳裏を過ぎって行く。――が、これがマズかった。


 タケシさんの思考は、言うなれば、「一瞬に、一直線に」だった。


 迷いはなかった。


 確信があった。


 自分と、妹と、彼女が創った世界を信じていた。


 彼女の世界の登場人物たちよりも彼は、「一瞬に、一色線に」妹のことを信じていた。


「鳥取先生」彼は言った。


「しかし、」恵一さんは応えた。腰を落とし、彼の肩と腕を押さえるつもりで。しかし、


「猪熊タケシ、まかり通る」


 直後、衝撃があり、痛みがあった。


 恵一さんの身体は、宙を舞っていた。


 彼は、空中で体勢を整えようとした。


 が、ここで続けて、ふたつ目の衝撃が彼を襲った。


 恵一さんは、背中から床に落ちた。


 さいわい、頭を打つことはなかった。


 すぐに立ち上がり、タケシさんを止めようとしたが、寝室のドアに手をかける彼の背中に、人間、いや生物として、本能的な恐怖を感じ、彼は、それ以上動くことが出来なかった。


「鳥取先生」


 タケシさんは言った。


「これ以上、手荒な真似はしたくありません」


 そのまま、先生の眠る寝室へとはいって行った。


 このふたりのやり取りを――残り紙数が少ないにも関わらず、作者の趣味で、四百字詰め原稿用紙三枚半ほども使ってしまったこのやり取りを――すこし離れた場所から、森永久美子さんは眺めていた。


「きゃーっ、すっごい再現度!」


 とか、そんなことを、『とってもトレビアン』の1シーンを想い出しながら、小躍りをして。――うん、まあ、こっちが本物なんだけどね。


 そうして、それから彼女は、床に倒れている恵一さんの所にまで行こうとしたのだが、そこに、

ちょんちょん。


 と、彼女の足を、突っつくものがあった。


「ニャ―ン。(訳:お嬢さん、お願いがある)」


 すっかり存在を忘れかけられていた、アドリアン・ヤン・ファン・メリージ・ダ・ピーテル・ディエゴ・ロドリゲス・デ・シルバ・フォン・レイン伯爵だった。



(続く)

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