第十二話:スモール、グッド・シングス(後編:その1)
さて。
猪熊先生と彼女の初恋のひと、茂木紘一さんが再会してから数週間ほどが過ぎた、ある木曜日の午後、締め切り明けの仮眠から目覚めた彼女は、すこし浮かれた足取りでマンションを出ると、川向こうにある古いパン屋を目指しました。
軽いステップを踏みつつ、橋の手前の赤信号を待つ先生。
すると、そんな彼女を、横断歩道の向こう側から、ジッと見つめる者がおりました。
「うん?」
と、その視線に気付き、その見つめる者の方に視線を送る先生。
するとそこには、丸いかたちの三毛猫のオス、レイン伯爵の部下のひとり、フェビアンくん (二才六ヶ月)が、ごろん。と座っているのが見えました。
見えましたが、もちろん先生は、彼のこともよーく知っていたので、かるく手をふり挨拶すると、
「あなた、こんど父親になるのよ? 分かってる?」
と、ひき続きの浮かれ模様で、その場を去るのでもありました。
すると、そんな衝撃の事実なんかはまったく知らなかったオス猫のフェビアンくん、
ぶるっ。
といっしゅん、「いったい、どのメスとのヤツだ?」と動揺してはみたものの、それでもやはり、与えられた任務の方が大事とばかりに、先生のうしろを、適度な距離を取りながら、付いて行くのでありました。
*
さて。
と、それからしばらくして先生は、目的地のパン屋――昔ながらの、ケーキも作ってくれるそのパン屋――にはいると、ルーズリーフ式のバインダーをめくり、色とりどりのケーキの写真にしばし頭を悩ませたあと、そのまま、そのバインダーを閉じると、
「あのう……」と、すこし心配そうに、「すこし、季節が遅いのかも知れませんが」と断ってから、店の主人に、こう訊きました。
「シナモンチェリーパイってお願い出来ますか?」
この店の主人は、つっけんどんな、いかにも職人といった感じの、高齢の男性でした。
いつもの日なら、愛想がよく、恰幅もよい、先生と同い年くらいの女性が、お店のレジにいるはずなのですが、この日は、そんな彼女の大きなからだは、ちいさなこの店内の、どこを探しても見付からない。そのため先生が、
「知り合いの男性が、こんどの土曜に誕生日でして」
そう言葉を続けても、そのつっけんどんな店主は、ただただ無口に、年季の入った白エプロンで手を拭くだけで、そうしてそれから、
「ちょっとその人を驚かせたくて、その人、こどもの頃から、あのパイが好きで――」
と、続ける彼女のお話に、やっと諸々の算段が付いたのでしょうか、不意に、
「まあ、まだ、そんなに遅くはありませんよ」と、彼女の話をさえぎるように応えます。「砂糖の量と生地の加減と、ちゃんとした材料さえそろえれば――」
そうして、ひき続きのつっけんどんな感じで、
「サイズは? どうされます?」
この質問に先生は――それでもこちらもひき続き、なるだけ親しくなれるような口調で、
「そうですね。さっきも言った感じで、おどろかせたい気持ちもありますし――」
と、ふたりで食べるには大き過ぎるであろうサイズと、マンションの住所と、携帯の電話番号を、彼に教えました。
店の奥を見ると、こちらも主人と同じくらいに年季のはいった木のテーブルと、その端には、いくつもの金属製の枠が置かれていて、横に見える巨大なオーブンでは、今も、パンが焼かれているのが分かります。
そうして、壁にかけられた彼のラジオからは、高野寛さんがザ・キング・トーンズの為に書いたナンバーが流れていて、
「それじゃあ、土曜日に」
と、特別注文のノートを取りながら主人は言いました。
「土曜の朝に、取りに来て下さい」
けっして無礼ではないけれど、ひき続きのつっけんどんなその態度に、先生はすこし吹き出しそうになりましたが、それでもそれをおさえると、
「よろしくお願いします」
そう言って、マンションへと戻って行くのでありました。
*
ピロン。
と、それからしばらくして、招待メールへの返信は、半日遅れで届いたそうです。
『ご招待ありがとうございます。
是非、寄らせていただきます。』
いきなり家に呼ぶのもどうかとは想ったけれど、こども時代からの付き合いだし、手料理をご馳走したいから、と、自分で自分を誤魔化しながら、ただ、パイのことを隠しながら、彼女は彼を、食事に招待したのでした。
「やった」
と、よろこび半分、ふあん半分で、宙に浮かび上がりそうになる先生。そこに、
ピロン。
と、追伸メールが届きます。
『実はいま、仕事で鹿児島に来ています。』
東京には金曜の夜に戻るのだが、お土産の希望などはあるか? と言うことで、もちろん、食いしん坊で酒豪の先生のことですから、すぐに、からし蓮根やさつま揚げや黒霧島のボトル等々があたまの中を過ぎって行ったようなのですが、それでも、
『とくには、ありません。』
とだけ書いて返したそうです。
『気を付けて、お帰り下さい。』
*
「なんだよソリャア、うかれてんなあ」
と、それからしばらくして、人語を解すボーダー・コリー、うねったカールのエルくんは言いました。
「オレん中の先生は、もっとピッとした感じなんだがよ」
と、言うことで。
こちら場面かわって、前編にも出て来た石神井川沿いの木のベンチ。
エルくん&レイン伯爵の動物コンビと、人間代表 (?)の石橋伊礼さんが、三毛猫フェビアンくんの報告を聴いているところであります。
「ま、そう言うな、エル」
と、こちらはレイン伯爵。自身の肉球をエルくんのホッペにペタペタさせながら、
「先生も、こころは可憐なレディのひとり。愛しい殿方との再会とあっては、十代の少女に戻られても不思議はないさ」
するとエルくん、伯爵の肉球を前足で避けつつ、
「しかしよお、アドリアン」と、眉間にしわを寄せながら彼に返します。「アイツだろ? 7年前のドタバタの元凶はよ?」
するとここで石橋さん、
「飾森さんは?」と、心配そうに彼に訊ねましたが、「なにか気付いてたりは?」
「いいや、」とエルくん。「コイツと竜の姉さんから止められてるからな」と言って返します。「ウチの旦那にゃ、ひと言も喋っちゃいないよ」
と、言うことで。
前回、ここのベンチで伯爵と石橋さんが話をしてからこっち、事情を知っている関係者と連絡、先ずは先生の様子を見ることにしたのは、前編の最後にも書いたとおりですが、
「例の“クリエイティビティ・ビッグバン”の頃は、正直すこし焦りもしたが、」
そう伯爵も言うとおり、
「いまは、どちらかというと落ち着いて、あえて言えば、幸福そうにも見える」
茂木さんと先生が再会されてからの数週間、彼らが心配したような“ナニカ”は――猪熊スタジオのスケジュール・カレンダーが更なる修羅に入った以外は――起こらず、
「先生の記憶も、戻って来るようすは見られない」
と、問題の七年前に彼女が起こした、起こしかけた、犯してしまったと想い込んでいる出来事も、
「先生自身がロックをかけてるってことなんだろうけどよ」と、ここでエルくん。「やっぱ、あの男とは、別れさせた方がイイんじゃねえか」そう言って口を曲げますが、「俺と旦那が、ここを離れたのと同じようにさ」
「まあ、まだ、お付き合いされているワケでもないがな、」と言う伯爵に、ふたたびほっぺをペタペタされます。「それでも、ここでまた急な別れにでもなれば、それこそ、それがナニカの引き金にもなりかねん。離れさせるなら、自然に、ゆっくりと――」
と、ここで伯爵、エルくんのほっぺからその肉球を離すと、
「どうした?」と問う彼に、
「あ、いや」と、しばらく考えるフリをした後、「男女のあれこれは別としても、」そう言って応えます。「先生には、あの男が必要な気がするのだよ」
「ふん」とエルくん。「相変わらず、ロマンチストだな、オメエは」
「まあな」と伯爵。「これも、先生から頂いた性格だよ」
そう言って、流れてひかる青い川に、その黄色い瞳を移すのでした。
「なんとかこのまま、何事もなく、落ち着くところに、すべて、落ち着いてくれればよいのだが」
*
さて。
それから、日付けが変わった金曜日の朝。翌日には五十七回目の誕生日を迎えるであろうその男性は、せまいビジネスホテルの一室で、目を覚ましました。
シャワーを浴び、ひげを剃り、スーツに着替えて、朝食を取ります。
部屋に戻り、残酷なニュースをかたわらに、鏡に向かい歯を磨きます。
同僚との待ち合わせ時間の十五分前には部屋を出て、エレベーターのボタンを押…………押そうとしました。
が、そこで彼は、不意に、津波で流された妻のことを想い出し、
「こんな世界、消えてなくなってしまえばいい」
と、彼は一瞬、そう、たしかに想いました。
が、すぐに、
ぴいぃ。
と、鳴く鳥の声に、こちらに戻ると、最近再会したばかりの、古い友人のことを想い出すのでした。
前を向いて、かたむきながらも前を向いて、肩の力を抜きます。
二・三度、その場で軽い足踏みをします。
それから改めて、ロビー行きのボタンを…………今度はたしかに、押しました。
ピィン。
と、エレベーターは到着し、その到着したエレベーターの中には、誰ひとりとして乗ってはいませんでしたが、それでも彼は、なみだを流すというようなことはしませんでした。
会いたいとか、そばにいたいとか、守りたいとか、そんなことの以前に、そんなこととは関係なく、彼は、これ以上、誰にも、彼女にも、自分より先に死んだりして――いや、これも傲慢だな――そんな風に、男性は想いました。
ポォン。
という音とともに、エレベーターは一階に着いて、
「すみません、茂木さん」と、彼の同僚は、五分遅れでロビーにやって来ました。「ちょっと、お腹の具合が――」きっと、昨夜も飲みすぎたのでしょう。
「いや、いいよ」携帯をしまい、ソファから立ち上がると彼は、「時間なら、まだあるし」そう続けて荷物を持ち上げようとしましたが、
「茂木さん?」そんな彼に、同僚が訊きました。「なにか、ありました?」
「……なにか?」
「なんか、ちょっと雰囲気が――やっぱ、怒ってます」
「ええ?」そう言って彼は微笑し、「べつに、怒ってなんかないよ?」
「ほんとに?」
「ほんとうに」そう言って、また笑いました。「別になんにも、なんにもないよ」――うん。ほんと、なんでもないよ。と。
そうして、それからふたりは、ホテルを出て行きましたが、ここで、この同僚の人が感じた違和感は、実は、茂木さんの現在や、茂木さんの過去に関することではなく、ほんのちょっと未来の、彼と関係する違和感であったのですが、そのことにこの同僚が気付くのは、その“ほんのちょっと未来”が来てからのことになります。
と言うのも、この日の夕方、この同僚の男性は、レンタカー屋の手違いのせいで、その手違いを直したせいで、帰りの飛行機を、一人だけ、一便遅らせることになるのですから。
*
さて。
そんな茂木さんの、古い友人のひとりであるカトリーヌ・ド・猪熊――いや、猪熊和楽さんは、ずっと、自分には、何にもないと想っていました。
もちろん、これは彼女の勘ちがいで、彼女には、天の神さまだか地獄の大魔王さまだかからは分かりませんが、あふれんばかりの才能と、そうして、とても特別な能力が、授けられていました。
が、しかし、それでも彼女は、自分には何にもないな、と、そう想い込んでいました。
自分には、特別な容姿もなければ、好きな人たちの前で、上手に笑うことも出来ないのだ、と。
だから、嫉妬した。
と、彼女は想いたくありませんでした。
彼女の事は大好きだったし、彼と彼女がお似合いのふたりであることは、もちろん彼女にも分かっていました。
きっと、当人たちよりも、彼女の方が、そのことを分かっていたでしょう。
だから、嫉妬した。
と、彼女は想いたくありませんでしたし、自分には、天の神さまだか地獄の大魔王さまだかがくれたマンガの才能があるではないか。
と、彼女は信じようとしました。
だから、描いた。
描いて、描いて、描きまくった。
評価をもらい、賞を獲りました。
担当が付いて、デビューが決りました。
連載がつづき、それが本になりました。
同期の中では、一番の出世頭になりました。
彼をモデルにした、キャラクターも作りました。
最初は、性格もそっくりにしたかったそうですが、それではあまりにも自分がみじめになりそうだとでも想ったのでしょうか、彼女は途中で、彼の設定を変更しました。
そんな彼にも、人気が出ました。
何かの雑誌で、モデルについて訊かれたことがありました。
彼女は笑って、答えなかった――と、その記事にはありました。
ある春の一日、結婚式への招待状が届きます。
だけど彼女は、それを無視しました。
仕事がある。
締切がある。
食わせなくてはいけない、アシスタント達がいる。
私のマンガを待っている、編集者たちがいる。
私のマンガを待っている、全国何万人もの読者がいる。
私のマンガですくわれる、全国何万人もの読者がいる。
そう、彼女は、信じたかった。
そんな場所へ行く時間なんか、私には、ないではないか。
そう、彼女は、信じ込みたかった。
ただただ、好きな人たちの前で、上手に笑うことが出来ない自分を、見たくないだけだった、にもかかわらず。
彼女は、そう、信じたかった。
最初から持っていないものを、持っていないことに、胸が痛んだ。
だから、描いた。
描いて、描いて、描きまくった。
夏が来て、秋が過ぎて行った。
描いて、描いて、描きまくった。
冬が来て、ウソのように春が過ぎて行った。
描いて、描いて、描きまくった。
子どもが生まれた、そんな噂を聞いた。
描いて、描いて、描きまくった。
ウソのように、
ウソのような季節が、めぐって行った。
だから、描いた。
描いて、描いて、描きまくった。
なみだ、の一粒くらいは、
流れて、くれてもいいじゃないか、
だから、余計に、救いがなかった。
七年前のある日、
彼女は、ほんの一瞬だけ、
今の自分とは違う自分を、想像した。
今の自分とは違う自分を、創造した。
それが、いけなかった。
しかし、止められなかった。
特別な容姿や、気の利いたセリフや、とっておきの笑顔や。
そんな自分を、想像した。
そんな自分を、創造した。
それが、いけなかった。
しかし、止められなかった。
暗い部屋で、ひとり、マンガの続きを考えている自分。
こんなものに、なんの意味があるのか、分からなくなった。
双子の笑い声や、動物たちの喋る声が聞こえた気がした。
が、そんなものに、なんの意味があるのか、彼女には分からなくなっていた。
それが、いけなかった。
しかし、止められなかった。
彼女が好きになった、唯一の男性のことを想った。
つよく、つよく想い、つよく、願った。
それが、いけなかった。
その想像、いや創造には、邪魔なひとがいた。
しかし、止められなかった。
もしも、絵美さんがいなかったら。
七年前のあの日、
彼女は、ほんの一瞬だけ、
そんな風に想った。
想像し、創造した。
それが、いけなかった。
ダメ!
いまのはちがう!
しかし、もう、止められなかった。
七年前のあの日、
十四時四十六分十八.一秒。
彼はその時、赴任先から、九州支社への出張中で、無事だった。
彼女はその時、アシスタント達と東京の自宅マンションにいて、無事だった。
しかし彼女は、彼女だけは、夫の赴任先であった東北地方のあの街で、あの災害に見舞われ、そのまま、帰らぬ人となった。
もちろん。
前回の途中で、悪魔のミアさんも語ったとおり、あの地震は、「まったく、完全に、単なる自然現象」であり、そこに彼女の力が関係しているとは、およそ想えないし、どんなに彼女の力が強くとも、そんな現実変成能力が、人間に宿るとは到底想えない。
想えないが、それでも、それを望み、それが現実になってしまったことに、彼女の良心は、耐えられなくなった。
だから、彼女の記憶には、いまだにすこし、カギが、かけられているのである。
(続く)




