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第十二話:スモール、グッド・シングス(前編:その1)

 さて。


 森永久美子さんが猪熊スタジオにお手伝いに来てから、早いもので、そろそろ数週間なり数ヶ月なりが過ぎようとしているわけですが、この数週間なり数ヶ月なりは、彼女の人生において、マンガに対する認識、いや、プロのマンガ家に対する認識を一変させるものであったようで、そう、それは例えば、


     *


「え?! じゃあ、『鉄腕ダーク』の頃って、ほんとにおひとりで描かれてたんですか?」


「うん。途中からアシスタントさんにも来てもらったけど……、7~8巻くらいまではひとりっきりだったかしら」


「あの、緻密で繊細な絵を、おひとりで……?一週19ページも?」


「だいたい4日ぐらいかしら? カラーだと5日ね。のこりの日で新作のネームを考えたり、絵の勉強をしたり、取材や背景素材を撮りに行ったり」


「はあ……」


     *


 とか、それに例えば、


     *

「……20……、21……と。あ、はい、たしかに、21ページ、しっかり頂きました。いやー、今回も最高ですよ、猪熊先…………先生?」


「ごめん、望月さん。その原稿、ちょっと返してもらってもいい?」


「え? あ……、あー、いや、あの……先生?」


「ちょっと、ちょぉっとだけなんだけどね、ちょおっと、気になるところがあって――」


「え? でも、ぜんぜん、ぜーんぜん、毎度のことながら、完っ璧に近い原稿で――」


「いいから、いいから、望月さん。ちょっと、ちょぉっと確認するだけだからさあ――」


「は、はあ……、それでは――」


「うん、うん……ここね、ここはいいのよね……」


「あのー」


「あっ、」


「はい?」


「……ごめん、望月さん。これ、締め切りっていつだったかしら?」


「え? それはもちろん、今日の17時……」


「じゃ、なくて、本当の締め切り」


「本当の締め切り?」


「本当の、締め切り」


「え? あ……、えー、いや、そのー、それはー…………、編集長にお伺いを――」


「いいから、いいから、望月さん。本田さんがなにか言って来たら、私が応えるから」


「は……あ、じゃあ、まあ、あの…………ゴニョゴニョゴニョゴニョゴニョ」


「うん。それならぜんぜん、余裕はあるわね」


「はあ……」


「ごめーん、コマちゃーん」


 がらがらがらがら。


「なんスか先生、私これから、やっと仮眠に――」


「あのね、やっぱね、ここのね、16ページから17ページの流れがね、やっぱね、ちょぉっとね、ちょぉっとだけなんだけどね、不自然な感じがするのよね。それでね、それがね、この最終ページのね、ここ、ここッ! この最後のコマのね、このコマのね、次回への引きをね、弱い感じにしてるんじゃないかなあ? って、私なんかは想うんだけど、――コマちゃん、どう想う?」


「え? でもそこは散々最初に――」


「いいからッ もう一度読んでみて」


「はあ……、うーん? …………ああ、うん、まあ、たしかに。このままだと、主人公のヒロインに対する想いってヤツが、読者にはちょぉっと軽く感じられるかも知れないですね」


「でしょッ?! やっぱさあ、ネームと完成原稿だとさあ、見え方がさあ――」


「あー、あと、それを言うなら、この14ページのコマの割り方も、微妙っちゃ微妙ですよね」


「え? どこ?」


「ほら、ここ、こことここは、本当はすこし斜めにして勢いを――」


「あっ、うん、たしかに。さすがはコマちゃん。――よし、そこも直しましょう」


「え? あの、ちょっと……、おふたりとも?」


「ってことでゴメン、望月さん。明後日の朝一でまた来てくれる? それまでには直しておくからさ――コマちゃん?」


「了解。14ページ以降すべてリテイクっスね。グリコちゃん起こして、カズに来るようメールします」


「うん、お願い。さあー、楽しくなって来たわよー」


     *


 とか? あとは例えば、


     *


「え? なに? グリコ、今日も来られないの?」


「そうそう、なんかさー、猪熊先生のクリエイティビティがビッグバンしてるっぽくてさー、私が辞める以前、って言うか、その1.5倍ほどの仕事量になってるみたいなのよね、あそこ、いま」


「ふーん? 私、その辺はよく分かんないんだけどさ、グリコひとり増えたくらいで、そんなに量って増やせるもんなの? マンガ家さんって」


「んなワケないでしょ、ふつうのスタジオなら、5~6人体制でも厳しい量よ」


「何人だっけ? あそこ、いま」


「先生いれて4人」


「それは……、大丈夫なの?」


「まあ、あそこはほら、先生がスイッチはいっちゃえばさ、先生ひとりで3人分のペン入れ、背景、トーン貼りから消しゴムかけ、夜食のおにぎりづくりまで始めちゃうからさあ――こんな感じに」


     *


「最高にッ!

 『ハイ!』って

 やつだアアアアア

 アハハハハハハハ

 ハハハーッ」


 グリグリグリグリ、

 グリグリグリィーー!!!


     *


「な、なに? いまの」


「覚醒モードにはいった猪熊先生」


「それは…………、大丈夫なヤツなの?」


「まー、まわりに誰かいる分には大丈夫なんじゃないかなー、べつに人間をやめてるワケでもないし」


「はあ」


「あ、まあ、でも、ひとりにしとくと勝手に新作のネームと企画書つくって仕事取って来るからさあ、注意な必要なんだけどね――いやあ、マンガ家稼業ってのは地獄、いや、煉獄ですなあ」


「はあ……」


     *


 みたいな感じで。


 森永さん的には、目から鱗がぼっろっぼろ落ちる日々が続いているようで、


「これが……、プロの仕事ッ?!」


 って、まあ、ここを基準にされると困るんだけど、でもまあ、それでも毎日、マンガに対する認識を新たにさせられているようではありました。


     *


「なんですけどね、樫山さん」


 と、そんなある日の森永さん。


 彼女たちの修羅場を横目に、のほほ~んと、アハハーっと、本業の恋愛小説そっちのけで、趣味のハードSFなんかを書いているわたしに声を掛けて来ます。


「それはさておき気になるのが、“クリエイティビティがビッグバン”の方でして」


「あー、アレはねー、アレこそ真似出来ないわよねー、なんか、この宇宙の時間と空間だけじゃなく、マルチバースのそれすらものぞいて描いてる? 行き来している? って想うときあるもんねー」


「……は?」


「……なに?」


「え? あ、あー? いや、え? いえ、あー、いや、えーっと? うん、いや、それもそうなんですけど……、それよりちょっと気になるのが――」


「なに?」


「駒江さんも和江さんも仰ってたんですけど――」


「うん?」


「先生って……、その……、」


「はい?」


 と、ここで森永さん、そのどことなくクールビューティーな能面顔を、


「こっ、こっ、こっ、こっ、こっ、」


 と、なんだかちょっとまっ赤にしながら、


「こっ、こっ、こいッ…………、恋……とかしてませんかね?」


 と、訊いてくるのでありました。なによ、この子、カワイイわね。


     *


 と、言うことで。


 そんなカワイイ森永さんはさておいて、ただいま現在の猪熊先生の暴走、もとい“クリエイティビティがビッグバン”については、すでに皆さまお気づきのとおり、前回先生が再会された初恋のひと、茂木紘一さんの存在がおおいに関係しておられます。


     *


「もうもうもうもう、そっれが! ぜっんぜん! 変わってなかったのよぉッ!!」


 と、ここで時間はググイッと巻き戻って、こちらは前回の最後、いまと同じ台所にワインくさい猪熊先生が帰って来たところであります。


「スタイルも? シュッとしててさー、中年太り? なにそれ? みたいな感じだったしー」


 と、いったい誰の話なのかもこちらには伝えぬままに先生、


「そりゃあね、髪にはね、白いものもね、すこしはね、まじってましたよ、まじってましたけれども――」


 と、高橋真琴先生描くところの美少女が如きキッラキラおめ目になりつつ、


「顔にはね、しわもね、そりゃあね、ありましたけれども、それもさー、それでもさー、それがさー、なんかさー、ナイスミドル? 的な? そんな感じで…………って、ナイスミドルっていくつまでだっけ? ――ヤスコちゃん、分かる?」


「え? あ、いや、分かりませんけど」


「だったら調べなさいよー、あんた物書きでしょ? 物書きなら、正確な情報を読者にご提供してナンボじゃないのよー、ほらほら、ご提供して、ご提供」


「はあ」


「ね? ほら、その、目の前の、目の前のインターネッツとかでさ、カチャカチャカチャってさー、ピッとしてさー、ハッとしてさー、ササッと調べてみてよー」


 と、こちらが奈良漬けで酔っ払うほどの下戸だと言うことも忘れて先生、ワインくさい息でこちらに指示を出して来ますが、マジで面倒だな、この酔っぱらい。


「えーっと?」と、そうは言いつつ、まじめに調べるわたし。「なんか、とくにこれと言った定義はないみたいですけど……、まあ、おおむね? 30~54才ぐらいをミドル、55才以上をシニアって呼ぶ感じですかね」


「てことは、今年が平成**年だから……あらやだっ、私もコウさんも、もうすっかりシニアじゃない!」


「あれ? そうでしたっけ?」


「そうよー、それにコウさん、もうすぐ誕生日だしねー、ああん、またひとつ離れちゃうわー」


「へー」……って、コウさん? 「コウさんって、紘一さんですか? 茂木紘一さん?」


 と、おどろくわたしに猪熊先生、


「そうよおー」と、こちらの肩をバッシンバッシン叩きながら、「最初にそう言ったじゃないのよー!」


 ガアッハッハッハッハッハッ。


 と、メスのヒポポタマスがごとき大口で笑われますが、いや、最初にそんなの言ってないし、マジで酔っぱらいウザいんだけど――ってまあ、それはさておいて。


「え? ど、どこで? どこで再会されたんですか?」


 と、わたしは訊き、


「そう、それは、黄昏に気付いた街灯たちが、ためらいがちな人々の、家路につくまばらな影を、照らし出した夕暮れだったわ――」


 と、やおら立ち上がる猪熊先生であります。


 エディット・ピアフか越路吹雪か、まるでこれからシャンソン・ショーでも始めるかのごとく、


「あの人を見かけた瞬間、わたしの呼吸は早まりはじめ、胸の鼓動は高鳴ったのよ。声をかけるかかけまいか、それが問題。揺れる乙女ごころ、揺れる、大根の葉っぱ――」


 と、延々、延々、えんえん、えーんえん、


「彼がこちらをふり向いて、瞳と瞳が重なって、そうしてときは止まったの――」


 とか、


「ひと混みのなか、肩をならべて歩くふたり。ふと見上げると、そこにはきらめくばかりの星のカーテンが――」


 とか、


「「あの、奥さま」と、愛想のよいウェイター。「お荷物、よろしければ、こちらでお預かりいたしますが?」って……、“奥さま”? “奥さま”よッ! ほかのひとにはそう見えてるってことじゃなーい?」


 みたいな?


 そりゃまあ、そこは流石の猪熊先生ですから、このへんのストーリーテリングも、そりゃもう見事な三幕構成で、こちらが最後まで飽きず、迷子にならず、お話の筋をキチンと追っていけて、且つ、読者がストーリーに没入しつつも緊張し続けないようにと、要所要所でギャグや回想シーンなんかも織り交ぜてくれたりなんかして、そりゃもう楽しいお話を聞かせてくれはしたんですけどね、二時間半もかけて。――ほっんと、ウザいな、酔っぱらい。


     *


 で、まあ、そんな感じで。


 たぶん、この時のテンションのまま、乙女モード、少女マンガモード全開の、ドーパミンどっぱどぱ状態のまま、


「最高にッ! ハイ!」


「クリエイティビティッ! ビッグバンッ!」


 って感じに、お仕事してるんだろうなあー、などと、そんな風に想うわたくしなのですが、それはさておき、気になったのが――、


     *

「そうして、

 「おやすみなさい、ヤワラちゃん」って彼が言って、

 「おやすみなさい、コウさん」って私は返した。

 それからふたりは手をふって別れ、私は、すこし歩いてから、そっと後ろをふり返った。

 彼の背中を見つめ、

 「きっと、また会えるわよね……」

 と、こころの中でつぶやいたの。…………どう? すてきな再会だと想わない? ヤスコちゃん?」


「…………」


「……ヤスコちゃん?」


「はっ……ご、ごめんなさい、ちょっと寝……聞きほれていました」


「でしょう? 聞きほれちゃうでしょう? ほっんと、すてきだったんだから、コウさん」


「はあ」


「あ、そうそう、写真もね、写真も撮ったのよ、ふたりで。見てみる? こどもの頃しか知らないでしょ、ヤスコちゃん」


「え? あ、あー、たしかに。このまえ過去に飛んだ時に、小学校時代の茂木さんならお見かけしましたけれども……、あの、でも、もう遅いですし、写真は明日にして、そろそろ寝――」


「いいから、いいから、ほらほら、ちょっとだけ、ちょぉっとだけでもいいから見てみてよー、って、あ、でも、ほれたりなんかはしないでよねー、って、ヤスコちゃんなら大丈夫かー」


「はあ……、じゃあ、まあ、ちょっとだけ……」


「どう? カッコいいでしょ?」


「……え?」


「どう?」


「これ……、茂木さんですか?」


「そうよぉ。子どもの頃もかわいかったけど、大人になると、これまたカッコいいでしょう?」


「え?」


「なに?」


「でも、このひとのお顔って――」



(続く)

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