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第十一話:バビロン再訪(後編)

     *


「あら?」


 と、想定外の訪問者に悪魔のミアさんは、彼女らしからぬ声で応えた。が、しかしすぐに、


「なによ?」と、彼女らしい口調にもどって、「あんたなんかに用はないわよ」


 すると件の訪問者は、


「私だって、おまえに会いたくはないがな」


 と、背広と同じ色のフェルト帽を脱ぎながら、


「それでも結局、身内みたいなもんじゃないか」そう言って肩をすくめた。「すこしは仲良く、やれないか?」


「忘れられないこともあるからね」


 と、ミアさんは応えた。不機嫌さを隠そうともせずに、


「問題は、私があんた達を信用出来るかってとこよね」それから辺りをうかがいながら、「今日は? あのドラゴンは?」


 すると、


「外で待たせてるよ」


 と、問題の訪問者――ミセス・アメリア・リンディは応えた。


「あいつもあいつであんたが…………分かるだろ?」


 ミアさんはうなずいた。そうして、


「どっちに用事? 私? 恵一?」


 するとそこに、部屋の奥から恵一さんが顔をのぞかせ、すこしおどろいた様子を見せてから、かるく彼女に会釈した。


 すると彼女もそれに応えて、


「もしも出来ればふたりにも、」そう言って続けた。「“あの日”のことを、想い出してもらいたいんだ」


     *


「あのう、奥さま」


 と、やたらと背の高いウェイターが、猪熊先生に声をかけた。


「お荷物、よろしければ、こちらでお預かりいたしますが?」


 顔が赤くなるのが分かった。


 さっき選んだ大ぶりの大根は、葉っぱを折り折り、エコバックの中に押し込めて来たが、そうね、そうよね、こんな大きなエコバック、テーブルまで持ってかないわよね、ふつう。すると、


「あ、そっか、ごめん、ヤワラさん」


 黙ってしまいそうな彼女に代わって、茂木さんがウェイターに応えた。


「僕のも一緒に、預かってもらえるかな」


「かしこまりました」


 やたらと背の高いウェイターがほほ笑んだ。ふたり分の荷物を預かりながら、


「テーブルは、あちらになります」


 紘一さんのうしろを歩きながら、窓にうつった自分を見た。


 奥さま? 奥さま?


 そう、見えなくもないのかしら?


 口もとがゆるみそうになる自分を、窓にうつった自分が、責めるような、あわれむような、そんな目で見つめていた。


     *


「アメリアさんの心配する気持ちも分かりますけどね」


 と、恵一さんは言った。彼女にコーヒーをすすめながら、


「それでも先生は、とにかくみんなに、よくしてくれてますよ」


 ミセス・アメリア・リンディは応えた。


「それは分かってるさ」


 コーヒーカップに手をかけながら、この部屋のソファの、雰囲気のよさに苦笑しながら、


「君たちふたりを見ててもね、それは分かるさ」


 この言葉に恵一さんは、一瞬、ふしぎな顔をしたのだが、ハッと気づくと、彼の背中に寄りかかる、彼の悪魔の細い身体を、ゆっくり向こうに押し出した。


「ちょっと、」


 という彼女の苦情は無視しつつ、


「それでもですよ、」


 と、恵一さんは続けた。


「それでも、もう、7年ですよ?」と。


 その7年のあいだ先生は、それまでと変わらず、いやそれまで以上に、一所懸命、ひたむきに、誠実に、ただただ、仕事に向き合って来られてましたよ、と。


 それから彼は、今度は静かに、ゆっくりと差し出された、悪魔の右手を取りながら、やさしく、


「あの夜のことだけじゃないですか」


 ふっと、彼女の消えかけた夜のことが想い出された。が、それでも、


「たったひと晩、あれで終わりですよ」


     *


 ライトの位置を確認しながら、すわる角度を微妙に変えた。


 目の下クマが気になるけれど、化粧ポーチを入れててよかった。


 飲み物を頼んだら、すぐに直しに行きましょう。


「僕はビールにするけど、ヤワラちゃんは?」


 と、彼が訊いた。


 あー、締め切り明けの一杯目はビールって決めてるんだけど――、


「最近、飲めなくなってさあ」


 と、彼が言ったので、


「そうそう、私もそうなのよ」


 と、ついつい応えちゃったため、


「だから、軽めの白ワインにしておくわ」


 と、いきおい、聞いたこともない銘柄のものを注文することになった。――火曜に出した、空き缶の山を想い出しつつ。


 すると今度は、


「あと、食べる量も減っちゃったんだよね」


 と、彼が言ったので、


「ほんと、わかい頃の半分も食べられないのよねー」


 と、毎回五号炊きの猪熊スタジオを想い出しつつ、それでも、


「じゃあ、美味しそうなのを、ちょっとずつ注文しちゃいますか」


 と言ってメニューをながめた。――出来れば二人前ずつ頼みたいところを、ジッと我慢の子で、


「あ、このパイ美味しそう」


 それでもやっぱり、すこし浮かれながら。


     *


「いや、それはないと想うわよ」


 と、悪魔のミアさんは言った。


「あの日は地獄も大変で、詳しい調査は、だいぶ後になったって聞いたけど、それでもあれは、あの地震は、まったく、完全に、単なる自然現象だったって」


 彼女たちの会話も、続いていた。


「そうですよ、アメリアさん」


 と、恵一さんが続けた。悪魔の右手を、やさしく、今度は包んであげながら、


「僕もあのとき、先生を診ましたけどね、そりゃまあ確かに、かなり動揺はされてましたけどね、それでも、現実に向かって、なにかちからを使ったような、そんな様子は、まったく感じられませんでしたよ」


 と、ここで男は、この「現実に向かって」の部分を、すこし意識して、すこし声のトーンを下げて、話したのだが、それがかえって、いかにも不自然な感じを出してしまったのだろう、そこでそのまま言葉はとぎれて、すこし長めの沈黙を、その場にもたらすことになってしまった。


 三人ともが、すこしずつ、神経が張り詰めているのが、分かった。


 次に言葉を発するとしたら、それはミセス・アメリア・リンディになるべきだろうが彼女は、ここで実に7年ぶりに、一杯やりたいって気分になっていた。


 いや、それはいけない。


 あの日、そう決めたはずだ。


 ふと顔を上げると、いつも生意気な悪魔が、不安そうな顔でこちらを見ていた。


 いまの先生は、以前と変わらない。


 先ほど男が言ったとおり、あれは、あの夜だけのことである。


 それは彼女も、身体の一部で感じ取っていた。


 が、しかし、それでも彼女には、先生が、本当の意味では幸福ではないのだと、大好きな仕事を続け、彼女の愛する、読者の愛する、物語やキャラクターたちをつくり続けていたとしても、それでもやはり、それでもやはり、本当の意味では、彼女は幸福ではないのだと、と、そんな疑念・偏見が、彼女にはあった。


 事実、彼女は、あの恐ろしい夜、私を消し去りかけたではないか、と。


 それは彼女、悪魔である彼女の中にも、ぬぐい去れない恐怖として残されているだろう。


 存在そのものを消される恐怖、誰の記憶からも、この、隣にすわる、憎らしい男の記憶からも、存在そのものを、存在したことそのものを、消し去らわれる恐怖として。


 沈黙が、つづいた。


「しかし、それでも、」


 とようやく、ミセス・アメリア・リンディは口をひらいた。


「しかし、それでも、先生がそう信じてしまったとしたら、我々にはどうしようもない」


 声は、かすれていた。


 悪魔にまた、嫌われるかもな、と想いつつ、しかし、それでも、


「しかし、それでも、あのひとの、あの女性の死に、先生がどれだけ関係しているのか、どれだけ責任があるのか、どれだけ有責性を感じられているのか、事実も真実も、それは誰にも分からないし、それはきっと、先生ご本人にも」


 と、ここで冷え切ったコーヒーを、ひと口含んだ。


「しかし、それでも、彼女のモラルが、良心が、その呵責に耐えられなければ、またあの夜のように――」


 が、そこで言葉は、途切れて終わった。


     *


 テーブルには、色とりどりの料理がならべられていた。


 先生のワインは、白から赤へと変わっていた。


 初恋の相手と、美味しい料理と、適度なアルコール、


 それに浮いたり沈んだりの気分のくり返しというのは、


 十分な用心が必要な組み合わせだけれども、そもそも、


 適度なアルコールと浮いたり沈んだりの気分のくり返しがもたらす最大の作用と言うのが、


 その十分な用心ってやつを、すっかり忘れさせてしまうことなのだから、


 こればっかりは、いかな聖人・賢人・君子と言えども、


 こればっかりは、どうしても、自分自身では如何ともしがたい。


 目の前の男性が、バラ色に変わっていた。


 いや、彼だけじゃなく、このテーブル、このレストラン全体が、バラ色に変わり始めていた。


 もう一杯、お代わりを頂こうかしら?


「絵美さんがさ」


 と、紘一さんが言った。


「絵美さんがね」


 と、紘一さんがわらった。


「絵美さんが――」


 不意に、


 色の、


 消えて行くのが、


 分かった。


「コウさん?」


「なに?」


 胸に、


 ナニカの欠けらが、


 ちくり。


 と刺さった。


「私……」


 ことばをさがした。


「ごめんなさい」


 見付からなかった。


「なにが?」


 紘一さんが訊いた。


「あの日」


 彼女は応えた。


「あの日、私、行けなくて」


 ああ、


 彼は、


 きっとまだ、


 絵美さんのことを、


 愛しているのだろう。


「かまわないよ」


 彼がこたえた。


「あの頃は、東京も大変だっただろうし」


 必要以上の、やさしい声だった。


「ヤワラちゃんは、無事でよかったよ」


     *


「せっかく来て頂いたのに、ごめんなさいね」


 と、その女性は言った。声をひそめて、


「今日もいっぱい遊んだみたいで、ごはん食べたら、みんなで寝はじめちゃって、だから今日は、ふたりもこっちに」


 ミセス・アメリア・リンディは応えた。


「いえ、こちらこそすみません、マリサさん」


 こちらもすこし、声をひそめて、


「事前に、お電話のひとつでもしておけばよかったんですが」


 ここでもすこし、肩をすくめて、


「ちょっと気になることが出来て、ふたりは? とくに変わった様子なんかは――」


 と、ここで、


「伯母さん?」


 と、ちいさな男の子が、女性に声をかけた。


「だれか来たの?」


 この店の、マリサさんの甥っ子の、フリオくんだった。


 眠たげな目をこすり、古くて青くて、きっと借り物であろう、新しい毛布を、肩にかけながら、


「……お姉さん、誰?」


「きみが、フリオくん?」


 と、ミセス・アメリア・リンディは訊いた。


「……うん?」


 男の子は応えた。どこかで見たような顔だな。そんなことを、感じながら。


「パウラちゃんとアーサーのお友だち?」


 と、ミセス・アメリア・リンディは続けた。


「親友だよ」


 男の子は応えた。寝ぼけた声で、それでも、なんのためらいもなく、


「……あいつらいないと、世界の終わりさ」


「ほらほら、フリオ」


 と、女性は言った。腰をかがめ、彼の目の高さに合わせながら、


「お部屋にもどって、ちゃんと寝なさい」


 彼はふらついていて、伯母さんの肩に、顔を当てた。


「うーん?」


 とそのまま、彼女の首に手をまわしながら、


「連れてってー」


「こら、フリオ」


 と、彼女が彼を叱りそうになり、


「あ、すみません」


 と、ミセス・アメリア・リンディが、その声を止めた。雨で濡れた帽子を、腰のあたりで払いながら、


「私も、もう、帰りますんで」


 店の出口へ向かいつつ、


「どうか彼を、連れて行ってあげて下さい」


 そんな自分の言葉を、なんだかおかしな調子だな、と想いながら。


「すみません、リンディさん」


 女性が応えた。大好きな甥っ子を、やさしく、抱きしめながら、


「またいつでも、いらして下さいね」


「おやすみー」


 と、男の子が言った。大好きな伯母さんを、キュッ、と抱きしめながら、


「空飛ぶお姉さん」


「おやすみ、フリオくん」


 と、彼女は返したが、どこかすっきりしない口調だったので、


「ふたりには、君から言っておいて」


 そう言って、彼女は続けた。まるでナニカを、なだめるように。


「……なんて?」


 男の子が訊いた。


「おやすみ、大事なふたごちゃん」


 そう、彼女は言いかけたが、急に気恥ずかしくなったのか、


「あ、いや、ごめん」


 と言って男の子にあやまると、そのためいっそう、やさしい声になるよう努めながら、


「おやすみなさい、ちいさな皆さん」


 そう、付け加えた。



(続く?)



 …………、



 ……………………、



 …………………………………………、



 ……………………………………………………………………………………ありがとうございましたー



「いやあ、食べた、食べた、ひさしぶりだよ、こんなに食べたの」


「私もひさしぶりよ、こんなにしゃべったの」


「僕もさ。ヤワラちゃん、お家は?」


「私こっち。コウさんは?」


「あ、じゃあ、真反対だなあ、送ろうか?」


「え? あ、いや、大丈夫よ」


「でも、女の子ひとりでさ」


「“おばさん”ひとりね。大丈夫よ、庭みたいなもんだもの、このへん」


「そうかい? うん。それじゃあ、ここで?」


「うん。明日も早いんでしょ?」


「うん。それじゃあ、気を付けてね」


「コウさんもね」


「楽しかったよ」


「楽しかったわよね」


「“それでは奥さま――会えない時のために”?」


「“こんにちは”」


「“こんばんは”」


「“そしておやすみ”」


「おやすみなさい、ヤワラちゃん」


「おやすみなさい、コウさん」



(続く?)



 …………カチャカチャカチャカチャ、


 ……………………カチャカチャカチャカチャ、


 …………………………………………カチャカチャカチャカチャ、カチャカチャカチャ、


 ……………………………………………………………………………………カーチャカチャカチャ、カ………………………………えーっと? どうしよっかなあ?



「うーん? ……あ、そっか。

 “そうしてふたりは、手をふってわかれた。

 すこし歩いてから先生は、

「きっと、また会えるわね」と、こころの中でつぶやいた。

 そうして、またすこし歩いてから、勇気を出して、うしろをふり返ってみた。

 が、しかしそこには、往きばのないひとなみと、消し忘れた蛍光灯が、

 ぽつん。

 と、うかんでいるだけだった。

「きっと、また会えるわね」と、こんどは、いのるようにつぶやいた。

 本当に神さまがいるとして、いつまでも罪の償いを――“」


 ガチャッ!!!


「たっだいまー!! ヤッスコちゃーーん? いるーー?」


「…………えっ? っと? あれ? ここ、現実? ……だわよね?

 あ、はーい、台所ですー、おかえりなさーい、せんせー」


 ドタバタ、ドタバタ、


 ドタドタ、ドタバタ、


「ごっめんねー、なっんかー、ひとりにさせちゃってーー」


「あ、いえ、こちらこそ、すみません、なんかずっと居座っちゃってて」


「いいのよ、いいのよ、そんなのさー、って言うかさー、それがさー、さっきさー、駅前のスーパーでさー、だれに会ったと想うーー?」


「え? ……誰ですか?」


「あのさー、それがさー、……えへへへへへへ」


「え? なになに? 気になるじゃないですか、もったいぶらずに教えて下さいよー」


「あのねー、それがねーー」



(続く)

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