第十一話:バビロン再訪(中編)
「じゃあ、八竹さんも来てないの?」そう言って飾森陸さんは訊ねた。
「あの人ならご実家に戻られましたよ」と、バーテンダーは応えた。「お母さまのお身体の具合が悪いとかで」飾森さんのグラスを見つつ、「お代わりは? どうされます?」
「うん? ああ、そしたらハーフロックで」と飾森さん。いま飲んでいるのと同じボトルを指で差しながら、「しかし、そいつは気の毒だなあ」と、グラスの底の残りを飲み干す。「それじゃあ、大地さんは? 赤井大地さん」
「単身赴任で北海道へ、三年は帰って来れないそうですよ」
「サルハマシギのダンナは? いつも茶色の背広を着てた」
「先週来られましたけどね」とバーテンダー。彼のコースターを取り換えながら、「ドクターストップがかかったそうで、当分は飲みに来られないとのことでしたよ」
「そうかあ、そいつも、残念だなあ」
と、新たなグラスに手を伸ばしつつ飾森さんは、以前よりも更に後退した、バーテンダーの髪の生え際に、余分な寂しさを感じてもいた。
ここは、都内某所のホテルのバー。いま名前の上がったひと達は、ほんの数年前ならば、彼と朝まで飲んでもくれた、そんな飲み仲間、遊び仲間のひと等であった。が、しかし、
「いつまでもお若いのは、飾森さんくらいのものですよ」
と、初老のバーテンダーも言うとおり、彼が登場してからこっち、いろんな場面でかたち作った、奇妙なかたちの交遊録にも、いまではちらほらちらほらと、宛ての取れない連絡先や、赤のチェックや取り消し線が、まるで何かの澱かのように、そこに溜まり増していた。
この澱のようなものについては、相棒のボーダー・コリーや、他の“連中”と一緒の時には、あまり感じない類いのものなのだが――、
コンコン。
とここで、路上側の窓を叩く音がした。
「あれ、エルくんですか?」バーテンダーがつぶやいた。「彼も、年を取りませんね」
さすがにアイツは、バーに入れられないからなと、外で待たしていたのだが、催促なんて珍しい、
「わかったよ、エル、こいつを飲んだら――」
そう言ってふり向く飾森さんに、まるでそれに合わせるように、
コンコン。
と、今度はちがう人物が――彼女の相棒の姿は、バーテンダーには見えないようだが――、その、同じ窓を叩いた。
いつもの飛行士姿とは違う、スーツ姿のミセス・アメリア・リンディだった。
*
「じゃあ、これからはずっとこっちに?」
と、ひとの流れに流されながら、猪熊先生は訊いた。レジの方へと向かいながら、いつも選んで並んでいる、手際のよいおばさんの列ではなく、普段なら絶対に並ばない、若いおっとりとした、お姉さんの列の方へと向かいながら。
「ほら、僕ももう、五十を半ば過ぎでしょ? いつまでも地方を行ったり来たりってわけにもいかないらしくて」
と、彼女のうしろを追うように、茂木紘一さんは応えた。ここのモールは初めてなのか、どうやら、ひとの流れをつかみ切れていないようだ。
「お仕事場は?」と先生が訊き、
「本社は飯田橋、僕は八丁堀」と、茂木さんは答える。
「遠くないの?」と先生。レジ台にカゴを載せ、すこしでもゆっくり時間が流れてくれることを願いながら。
「一時間くらいかな?」鼻の頭をかきながら、茂木さんは続ける。「でも実家にも近いし、それにここなら――」
するとここで、
「こらッ! ヒデカズッ!」と、むこうの列で、どこかのお母さんが叫び声を上げた。「お菓子なら! さっき買ってあげたでしょ!」
いっしゅん、買い物客たちの目がヒデカズくんとお母さんに集まった。が、それもつかの間、みなまたすぐに自分たちの会話へと戻って行くと、
「それで?」と、続けて先生は訊いた。すこしでもスリムに見える角度を模索しながら、「ご実家にも近いし?」
「うん?」と、続けて茂木さんは応えた。妙な動きの先生を不思議に想いつつ、「あー、それにここなら――」そう返そうとして、
「二千七百八十円になりますー」若いおっとり系お姉さんが先生に声をかけた。――って、ちょっと、いつもより早くない? 「ポイントカードはー、お持ちですかー?」
え? あ、そう、そうね、この前やっと800ポイント貯まったんだったわね。
「あ、じゃあ、アプリで」と、スマートフォンを取り出す先生と、
「アプリ?」と、興味深そうにそれをのぞき込む茂木さん。「なんだか便利そうだね」
うん。カードも増えなくていいし、ポイント率もお得だし。
「へー、だったら、僕も入れておこうかな?」
え? そう? よかったら、入れ方教えるけど?
「いいの? 忙しいんじゃない?」
いいのよ、だって、
チクリ。
と、またちょっと、胸のスクリーントーンが痛んだ。でも、
「でも、今日、締め切り明けでね」このまままた、会えなくなるような気がした。「コウさんがよければだけど、」と、少しずーずーしい感じで。「どこかで、お茶でもしない?」
「え?」と茂木さんは言った。すこしおどろいた様子だったけれど、それでも、「うん、じゃあ、まあ、すこしだけ」
*
「あ、いや、すまない、最近は自重しているんだ」と、ミセス・アメリア・リンディは応えた。「水か、炭酸水をたのむよ」
すると、初老のバーテンダーは、意外な顔で、それでも彼女をほめ上げながら、
「ええ、いや、なかなか出来ることじゃありませんよ」と言って、彼女の前にもナッツを置いた。「いつだったかは、大層お飲みになられてましたけど」
「それ以来かな」彼女は苦笑した。「大丈夫、この習慣は、守ってみせるさ」
バーテンダーがほほ笑んで、
「それで?」と飾森さんが割り込んだ。「千葉の先生はどうだった?」
「バラと毒ガスとホットドックサンド」と、ミセス・リンディは応えた。自分のセリフに苦笑して、「が、いまはまったく、そんな気配はひとつもない」出された炭酸水をひと口含んだ。「やはり、我々には分からん生き物だな、物書きという連中は」
「そいつがやったのは、間違いないのかい?」
「ウェイトレスの子にも何度か確認してもらったがな、“へんな感じ”がしたのは、アイツだけだったようだ」と、アメリアさん。「取り敢えず、あの日はな」
「ヤスコちゃんは?」
「まったく」
「ヤワラちゃんは?」
「これも、今回は、まったく」
「そうか、」と、ここで飾森さん。残っていたスコッチをひと息で飲み干すと、「すまない」初老のバーテンダーに声をかける。
「はい?」
「ハーフロック……あ、いや、水割りで、もう一杯」
「かしこまりました」
氷を取りに向かうバーテンダーの背中に向け、飾森さんはほほ笑むと、
「覚えてるかい? 姉さん」アメリアさんに、そう訊いた。「ここでみんなで集まって、飲んだこともあったよな」
「ああ」とアメリアさん。バーテンダーの氷を割る音を聞きながら、「先生も、あの双子も、一緒だったな」それでもすこし心配そうに、「あのな、リク」そう言って返した。「あんたの、先生への気持ちも、知らないわけじゃないが――」
「わかってるよ、姉さん」飾森さんは応えた。「この、イケメンフェイスが問題なんだよな」すこしだけ、おどけた調子で、「しかも、年を取らないと来てる」自分のセリフに苦笑して、「会うのは、控えておくよ」
「すまんな、リク」
「ま、でも、」と、飾森陸さんは言った。「もしもオリジナルが戻って来たら、」今度はすこし、自嘲気味に、「そんな気遣いも、関係なくなるんだろうけどな」
*
「そしたら僕はブレンドで、猪熊さんは?」と、茂木紘一さんが訊いた。
ここは、さき程のスーパーからすこし歩いた珈琲店。最近人気だし、いつものお店は、なんだか今日はたどり着けない気がしたらしい。
「そうね、そしたら私は――」と言って先生は答えようとするが、
『って、ここ、食事もスイーツも充実してるのね』
と、このお店の写真付きメニューにこころ奪われそうになる彼女。
『いやん、カレードリアが美味しそう』
と、がっつり食事モードに変身しそうになるが、
『って、だめダメ、ダメダメよ、ヤワラ。ここはちゃんと自制して、なんか、こう、ちゃんと、おんなの子っぽいものを……』
と、なんとか自分を律すると、
「だったら私は、この“たっぷりフルーツアイスティー”で」
そう言って応えた。
『って、これはこれで、なんだか若者ぶってる感じとかしないかしら? 大丈夫?』
とかなんとか、そんなことを考えながら。すると、
「はい。それでは、ご注文くり返させて頂きます」
と、こちらはコーヒー屋のお姉さん。そんなおばさんの揺れる乙女心なんかには気付きもしない様子で、
「オリジナルブレンドがおひとつ、“たっぷりフルーツアイスティー”がおひとつ」――うん。笑われたりはしてないわね、オッケーオッケー、「以上でよろしかったでしょうか?」
はいっ
ふたり同時に声が出た。彼がすこし笑って、目じりのしわがかわいかった。
「い、いじょうで」彼から視線をはずしながら、先生は続けた。「お、お願いします」
「かしこまりました」とお姉さん。――うん、いまのはすこし笑ってたわね。
すると、それからすこし間があって、
「ここには?」と、茂木さんが訊いた。お姉さんがいなくなるのを待ってから、「よく来られるんですか?」
ぷっ
と、ついつい彼女はおかしくなった。
「なに?」彼が訊いた。
「だってコウさん」彼女は応えた。視線を相手に戻しながら、「なんだかおかしいんだもん、話し方」
「え? そう……かな?」
「そうよ」ときどき敬語が混ざって来るし、「さっきも“猪熊さん”って言ってたわ」
「あー、でも、」彼は言った。鼻の頭をかきながら、「やっぱり、ずっと会ってなかったですし――」
また、胸のスクリーントーンが、ちくり。と痛んだ。
「むかしみたいに、“ヤワラ”でいいですよ」
「そ、そうかな?」照れくさそうに、ほほ笑んだ。「じゃあ……ヤワラちゃ……ヤワラさん?」
「“ちゃん”でいいですよ、“ヤワラちゃん”で」
そう呼ばれるのが、好きだったんだから。
*
アハハハハ!
と、わかい男たちの一団が耳ざわりな声を響かせながら店にはいって来て、その片すみへと陣取った。そうして、
「じいさん!」
初老のバーテンダーを呼びつけると、あーだこーだと、まとまらないままに注文をはじめた。
「姉さんのきらいなタイプだな」
と、飾森陸は考える。目の前の女性の表情が、こころもち険しくなっていた。
「あの手のヤツラは、何事にも影響されない。景気がよくてもわるくても、戦争が起きても起きなくても、自分にはなんの関係もないってような顔をしている」
それから、
「姉さんさ」と、彼は彼女に声をかける。自分でも気が滅入っていることに気付き、声の調子を上げながら、「これからどうする?」
「石神井にもどるよ」と、彼女は応える。椅子からゆっくりと離れながら、「もう少し、他の子たちの話も聞いておきたい」
「そうかい?」と、彼も応える。財布の中身を確認し、「よければ、わが家にご招待申し上げたかったんですが、」すこし、足もとがふら付いた。「ま……、次のチャンスを待ちますか」
窓の外に目をやる。
静かな雨がふり始めている。
街はすっかり遅い時間で、人々のざわめきや、赤や緑のネオンライトがきらめいていた。
「それじゃあ、気を付けて」
「リクもな」
そう言って、ふたりは別れた。
愛犬と裏通りを歩きながら男は、にわかに漂い始めた、素朴な、鄙びた気配に、なんだか――、
「なんだか、あの夜のようだな」
そんなことを、想い出した。
*
想い出話が続いていた。
茂木さんが二杯目のコーヒーを注文し、猪熊先生は、メニューを見て気になった小倉カフェオレのつめたい方を注文した。――だって、二杯目半額なのよ? と。
「いっしょにバスに乗ったの、おぼえてる?」
先生が訊いた。
「おぼえてるよ、“あのおんなのひと”」
茂木さんが応えた。
「“おんなのひと?”」
「“彼女は、きっとスパイだ”」
*
ふたりにしか分からない話で、
わらいあった。
先生は、かれのことが大好きだったし、
今でも、かれのことが大好きだった。
時間と、
空間が、
あっという間に、
飛び去って行った。
いっしょにあるいた夜のまちと、
始発電車のフラッシュライトを、
想い出していた。
窓の外に、
バラ色の月が、
消し忘れた蛍光灯のように、
のぼっていた。
いっしょに読んで、
いっしょに笑った、
まんが雑誌を、
想い出していた。
しわが増え、
目もおとろえ、
ぐちが増えたおばさんも、
十代のおんなの子に、
もどっていた。
いっしょに食べた、
シナモンチェリーパイの味を、
想い出していた。
先生は、かれのことが大好きだったし、
かれも、先生のことを大好きだったら、
そうで、あって、くれればいいのになあ、
そんな、ふうに、猪熊せんせいは想った。
ト、ォオーーーーーーーーンッ
どこか、遠くで、
なにか、ほそい、弦の、
切れる、ような、
そんな、おとが、
した。
*
想い出話が、続いていた。
まるでそれは、尽きないような想出話で、
まるでそれは、尽きさせたくないような、
そんな、想い出話だった。
一時間?
二時間?
二時間半?
それは、時間が止まった、
空間だった。
だけど、
だけどそれでも、
ズズズッ、
ズズズズズッ
二杯目の、
小倉カフェオレストローが、
せつなく空気を吸っていた。
ほんの一瞬、
かれから顔をそらした。
消し忘れた、
バラ色の月があがっていた。
また胸が、
こんどはほんとに、
ほんのすこしだけ、
チクリ。
と痛んだ。
*
「ねえ、」
勇気を出して、訊いてみた。
「どこかでいっぱい、飲みません?」
(続く)




