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第十話:香椎千里の薔薇色の時代(後編:その2)

     *


 キューーーーイッ!!


 はるか上空から、エレクトラちゃんの呼ぶ声が聞こえ、それに続くように、左耳のインカムから、


『聞こえる? ヤスコちゃん?』と、アメリアさんの声が流れた。


「はい、聞こえてます」と、わたしは応えた。


 不思議なことにこのとき、道行く人の中に、空を見上げる者は、誰ひとりとしていなかったが、


『ザッと見た感じ、通りや公園に先生らしきひとも、所謂“あやしい人影”的なひともいないな』とアメリアさん。まるでそんなことは気にも止めない様子で、『ヤスコちゃんの方は?』


「先生がよく行くお店やなんかに電話しながら色々のぞいてますけど、いまのところはなにも」


『どこか建物にでも入ったか……、例のウェイトレスの子は?』


「八千代ちゃんですか? 彼女まだ学校で、連絡取れなくて」


『学校? 国道沿いにそれっぽいのが見えるが、あれかい?』


「え? ええ、西に1kmほど行ったところに――って、ちょっと待って下さい、アメリアさん」


『なんだい?』


「まさか、エレクトラちゃんに乗って行くつもりですか?」


『その方が早いしな』とアメリアさん。『ヤスコちゃんはそのまま、先生を探していてくれ』


 と、まるで、この現象を引き起こした何者かより先生の方がずっと重要――いや、危険であるかのように続けると、


『よし、エレクトラ、あっちだ』


 と、そのまま西へと飛び去って行った。


     *


「それで?」


 と、猪熊先生は訊いた。彼らの問答は、いまだ続いているようである。「そこで? 私は貴方にお会いした?」


「セ・イグザクト」


 と、香椎千里は応えた。まるで、答えを知っているのに、すぐには見付けさせてもらえない子どものような顔で、「すぐに、その飛行機乗りに追い返されましたが」


「いや……」猪熊先生は応えた。利き手の中指を噛みながら、「おぼえてないわ」


「きっと、記憶にロックを掛けられたのでしょう」


「ロック?」


「彼らのセリフを聞いた」


「セリフ?」


「彼らのセリフが真実ならば、いえ、きっと真実なのでしょうが」


「真実?」


「貴女には、現実を改変――破壊する能力がある」


     *


「先生!」


 と、とつぜん佐倉八千代が立ち上がったので、クラスの全員が彼女の方を向いた。


 彼女は長身で、眼もよく見え、ときどき意味不明の言動をする割には成績もよかったので、教室の一番うしろの席をあてがわれていたワケだが、


「どうしたね、佐倉くん」やせ衰えた、柳のような漢文教師が、それに応えた。「こんどは宇宙でも救いに行くかね?」


 ドッ


 と、クラスの全員がわらった。


 この一・二ヶ月前、彼女が世界――正確には練馬区と武蔵野市だが――を救ったときにも、似たようなやり取りがあったからである。


「あ、いえ」と、窓の外を一瞥してから彼女は続けた。「あー、そのー、えー、できればキジ打ちに」


 ドッッ


 と、ふたたび、クラスの全員がわらった。


 漢文教師は右手を振って、「サッサと行きたまえ」と彼女をうながしたが、それでも、教師の性でもあろうか、


「待ちたまえ、佐倉くん」と言って、出て行く彼女をひき止めた。「君に……、その……、キジは撃てんだろう?」


 ドッッッ


 と、みたび、クラスの全員がわらった。


 が、しかし、その笑声のなか、佐倉八千代はマジメな声で、


「え?」と、柳のような漢文教師に訊こうとした。「でも、おしっ――」


 したがそれでも、ここで、この事態を重く見たこのお話の作者が、


『これ以上、猪熊マンガのヒロインに恥をかかせるわけにはいかない』


 とばかりに物語に介入、多少以上の強引さ、不自然さでもって


「いいから!」と、漢文教師に叫ばせることに成功、「あとで辞書でも引きなさい!」


 そのおかげもあってか佐倉八千代は、


「え? あー、はい……」と片付かぬ顔で教室を去り、


「まったく……」と漢文教師は窓外に目をやることになった。


 なったがしかし、漢文教師はもとより、このクラスの誰ひとりとして、そこに浮かんでいるはずの、赤褐色のドラゴンと、飛行機乗りの女性に、気付く者はいなかった。


     *


「これまでの」


 と、猪熊先生は訊いた。


「あ、その、これまでの今日の、という意味ですけれど」


 わらい飛ばすことも、必要以上にシリアスになることもなく、淡々と、まるでそれが当然起きたことであるかのように、


「そこでの私は、どうしたんですか? いままでのお話を聞いて」


「ここまでの」


 と、香椎千里は応えた。


「それはつまり、現実改変の能力について、という意味ですが」


 そしてこちらはシリアスに、救いを求める受難者のような口ぶりで、


「最初は、出会った瞬間に逃げられ、話が出来たのは三回目、前回、五回目のとき、ようやく※※※※さんのお話に行き着きました」


「手紙は?」と先生。彼の方に身を乗り出し、小声で、「五回目の私は読みましたか?」


 そうして、しまったままのネームと、あの夜見上げた星空を想い出しながら、


「まだなら、ぜひ、読ませて下さい」


 そうしてまるで、自分こそが罪人であるかの如くに。


     *


「ヤスコ先生!」


 と、八千代ちゃんに声をかけられたときわたしは、通り沿いのブティックに、突然現れたヒナギク畑の端にいた。


 ショーウインドウの空は、アーモンドの花が咲き誇りそうなほどの青空であったが、それでもそこに現実の――と言っていいの?――手織りシルクの壁と、集まり始めた雲が重なり映り、いまにも空を、落とさんばかりであった。


「八千代ちゃん?」わたしはふり返り、「アメリアさん達は?」


 横をみると、ヒナギク畑の前景に、赤いコートの女性、いや、トルソーが、あちらを向いて立っていた。


「エレクトラちゃんを屋上に」息を切らして彼女が答え、「さきに、先生を、探しててって――」


 わたしは不意に、赤いコートの女性は、マリヤ・マグダレナではないのか? との直観に至った。その顔にも佇まいにも、悲しみの色、いや、問題の埋葬者との関係を匂わせるものが、なにひとつなかったにも関わらず。


「この辺にいるの?」わたしは訊いた。


「だれかは分かりませんけど、」八千代ちゃんは応えた。「すっごく、このへん、歪んでいる感じが――」


 が、ここで突然。


 パーーーーーーーンッ


 と、なにかの弦の、切れる音がして、


「あら、ヤスコちゃん?」通りの向こうで、猪熊先生の声がした。「どうしたの? お客さまは?」


「先生?!」わたしは想わず、声を出した。上ずった、少年みたいな声で、「大丈夫ですか?!」


「うん?」いつもと同じ、いや、それよりすこし、明るい声で、彼女は応える。「あー、なんか、下落合の方みたいよ、事故」ショーウインドウの女性から、目をそらしながら、「おかげでこんな遅くなっちゃったけど――って、なんで八千代ちゃんが?」


 集まり始めた雲も、手織りシルクの壁も、まるでそもそもそんなことは起こらなかったかのように、どこかへ消えて、なくなっていた。


     *


「うん。丁寧ないい線ね、好きよ、私」


 それから一時間ほどがして、森永さんの猪熊スタジオ入門が決まった。


「ところどころ、インクや紙とケンカしちゃってるところもあるけど、それも先輩たちに教えてもらって頂戴」と、猪熊先生は続け、「もちろん、私も教えるしね」


「あ、ありがとうございます!」と、森永さんは応えた。これから始まる地獄も知らずに、「精一杯! お手伝いさせて頂きます!」


 が、まあ、それでも、それはそれこそ余計なお世話だし、地獄でなぜ悪いって話でもあるし、それにそもそも、この子をここに引きずり込んだきっかけは、わたしが作ったようなものでもあ…………うん。まあ、この辺は、あんまり気にしないことにしよう。


 きっと、この子なら大丈夫だろうし。(適当)


     *


「え? それで八千代ちゃんまで連れ出して来たってこと?」


 と言って、猪熊先生はわらった。巨大な深鉢に、ツナとトマトと大玉ミートボールのスパゲッティをよそおいながら、


「まったく、陸くんもアメリアさんも心配性なんだから」


 それから彼女は、それとは別に、解凍したばかりの業務用鶏もも肉の塊を、


「エレクトラちゃーん」


 と、ベランダの向こうで隠れたむろっていたメスドラゴンに、


「ごめんねー、ぜんぜん足りないと想うけどー」


 と、投げて渡した。


 ピューーーーイッ!!


 と、メスドラゴンは叫んで返し、彼女が屋上にのぼるのを見送ってから、


「それで結局、」と、アメリアさんは訊いた。頭にいくつものクエスチョンマークを浮かべたまま、「いったい全体、なにがどうなってたんですか?」すこし、いら立ちながら。


     *


「白紙?」わたしは訊き返した。ギュギュっと硬い大玉ミートボールに苦戦しつつ、「何時間もかけて書いたって言ってませんでした?」


「そうよ」猪熊先生は応えた。大玉ミートボールにフォークをぶっ刺し、「だから、何度も何度も、書いては消した痕があったわ」大きな口で、そのままガブリと、「きっと進めるのが、未来を確定させるのが、怖かったんでしょうね」


「怖かった?」ふたたびわたしは訊いた。


「多分ね」先生は応えた。「だから私がしたことは、手紙を破いてあげたことだけ」


「えっ?」と、わたしは驚いて、アメリアさんと顔を見合わせた。「破いちゃったんですか?」


「うん」先生は応えた。まるでそれこそが、当然のことであるかの如くに、「きっと自分じゃ、破けなかったでしょうしね」


     *


 さて。


 そう言えば、ずっと以前に読んだ小説に、「仕合せ」と「喜び」について、それら両者の最も大きな違いについて、そのお話の作者が、語っている部分があった。


 それはつまり、その小説、その作者の見解によれば、「仕合せ」とは固体で、「喜び」とは液体である――と言うことになるらしい。


 この違いについてわたしは、いまだにその小説、その作者の言わんとするところを、キチンと理解し切れてはいないのだが、それでも、今回の香椎千里が引き起こした奇妙な現象については、彼がこの「喜び」にとらわれ過ぎてしまったからなのではないか? という風に感じ、それをそのまま、猪熊先生に訊いてみた。訊いてみたのだが――、


     *


「え? ごめん、よく分からなかった」


 と、トマトソースまみれの口で先生はこたえる。


「なんか、文章書きの人ってのは、ほんと、考えることが複雑ね」こまった声で、わらいながら、「ま、でも、なんとなく、言わんとしたいことは、分からないでもないけどね」


 そう言って彼女は、次の大玉ミートボールにフォークをぶっ刺すが、ここで、


「なるほど」


 と、ずっと黙っていたアメリアさんが口を開いた。


「それで、その香椎何某は、「喜び」をくり返すことを望んでたってことか――それも多分に無意識に」


「ってことなんでしょうね」と、先生はそれを受け取り、「ヤスコちゃんも気を付けなさいよ」


「え?」――わたしですか?


「漫画も小説も、書き始めた直後、お話が固まる前、その瞬間が一番楽しいってことない?」


「あー、そりゃまあ、」とわたし。ほったらかしの締め切り連中を頭から追っ払いながら、「アイディアがひらめいた直後ですしね」


「お話を確定させるまでは、頭の中には無限の可能性が広がっている?」


「そう……ですね」


「出来ることなら、その時間を、瞬間を、何度も何度もくり返したい?」


「うん。それはもう」


「あらゆる可能性を試してみたい?」


「まったくもって、その通りですね」


「なるほどね」とここで先生。ソースまみれの口をぬぐうと、「“「仕合せ」は固体で「喜び」は液体”――上手いことを言うひともいるもんね」


 そう、続けてほほ笑んだ。


 わたしはいまだ、いまいちピンと来てはいなかったのだけれど、彼女は、なんだかかなり納得した様子だった。


 すると、ここでふたたび、


「それで?」と、アメリアさんが口をひらいた。「先生は? 大丈夫なんですか?」


「私? なにが?」


「その香椎何某のようなことは?」


「私は大丈夫よ」先生がわらった。「約束と締め切りで、あんなことする余裕はないわ」ことさらに、明るい感じを装って、「でもおかげで、「仕合せ」を作れているのかもね」


 アメリアさんは、どこか片付かない顔で、出された炭酸水を飲んでいた。


     *


 さて。


 ここでこれを書くことは、まったく蛇足の感が無きにしもあらずとは想いつつ、それでも一応、香椎千里のその後について、すこしばかりの補足をしておきたいと想う。


 あの日、猪熊先生に白紙の手紙を破かれたあの日、彼はそのまま、バラと毒ガスとホットドッグサンドくさい息のまま、ホテルへ戻ると、新たな便箋を一枚つかって、ミス・マリアに、当たりさわりのない、誰が書いても同じような内容の手紙を、ササッと書いた。


 それからそれを、彼の編集者に手渡して、


「なるだけ早めに出してくれ」


 とだけ言って彼は、荷物をまとめると、その夜のパーティーは欠席、タキシード姿のまま千葉の自宅へと戻ると、ため込んでいた仕事や約束などを整理し整頓し、翌日からは、それらひとつひとつを、自分で決めたスケジュールの通りに、ある意味粛々と、こなして行った。


 そうしてそれから、バラと毒ガスとホットドッグサンドの臭いも薄れて行った、ある夏の日の昼下がり、たまたま立ち寄ったホームセンターで彼は、異様に恰幅のよい女性店員と知り合い意気投合――その彼女には、詩人の才能はおろか、小説を読む習慣すらなかったのだが、それでも――荒れ放題だった彼の庭は、彼女の手ほどきにより、とてもきれいな、とは言わないまでも、まあ、それなりに見栄えのする、初夏には色とりどりのバラが咲きほこる、ステキなお庭へと変貌したそうであります。


 で、まあ、それが良いことなのか悪いことなのかは、このお話を書いているわたしにも、まったく全然わかりかねますが、その後、彼とミス・マリアは、実際に会うこともなければ、なにがしかの連絡を取り合うことも、二度となかったそうであります。


 で、まあ、その代わりと言ってはなんですが、こちらもやはり、良いことなのか悪いことなのか、このお話を書いているわたしには、まったく全然、わかりかねますが、それでも、最近出た香椎千里先生の最新小説『運輸係の厄災日』では、きっと、福山在住五十六才の技法を真似たのでもありましょう、異様に隠微な少女たちのシーンが、ほんの一ページだけではありますが、しっかりくっきり、入れ込まれており、旧来のファンを戸惑わせると同時に、あるいは、喜ばせたそうでもあります。


 なるほど、「仕合せ」とは固体ですね。



(続く?)



 …………、


 ……………………、


 …………………………………………、


 ……………………………………………………………………………………キューーーーイッ!


「それじゃあ、私たちもそろそろ戻るが――ヤスコちゃん」


「なんですか? アメリアさん」


「いま、先生のいちばん近くにいるのは君だろう?」


「え? あー、まあ、この連載が終わるまでですし、実際いちばん近いのは、アシスタントの方々だとは想いますけれど――」


「それでも、しかし、彼女たちが私たちと接触することは難しいだろう?」


「あ、はい、それはもう」


「だから、杞憂であることを願いたいが、それでも、もしまた、先生になにかあれば、すぐに私や飾森、それに例の悪魔に連絡して欲しいんだ」


「なにか? って、なんですか?」


「うーん? それは、起こってみないと分からないとしか言いようがないんだが――」


「はあ」


「ただ、それでも、今日のアレは、結局あの程度ですんだが、もし、先生になにかあったら、もし、先生がなにかをしたら、きっと、あんなものではすまないんだよ」



(続く?)



 …………、


 ……………………、


 …………………………………………、


 ……………………………………………………………………………………カチャ


「あ、では、もともとは、このあたりにお住まいだったんですね」


「ええ、同じ練馬区内で、駅で言うと桜台ですか」


「あ、ならホントにすぐそこですね、公園駅からだと10分~15分ほどですから」


「ええ、それもあって、このあたりで探しているんですが……、あー、でも、ここのお部屋、想った以上に広いですね。本当にそのお値段でいいんですか?」


「はい。大家さんもいい方で、掘り出し物だと想うんですが、なぜか借り手がつかなくて」


「あー、うん。日当たりもいいし、ひとりで住むには広すぎるくらいだけど……、ここに決めちゃおうかなあ」


「敷金・礼金も相場に比べ格安ですし――、あ、それにですね」


「はい?」


「不動産屋がこんなこと言うと、どうしてもウソくさくなっちゃうんですが――」


「はあ」


「お客さんがお店に入って来られた時、なぜだかピンッと来たんですよね、この部屋が似合いそうな方だなあって」


「うーん? たしかに、それはウソくさいですね (笑)」


「でしょう?(笑)」


「でも、あー、たしかに。そうだなあー、なんかいやに、しっくり来るんですよね、このお部屋……」


「まあ、他にも数件、候補はありますんで。まずはそれらも――」


「あ、いや、ちょっと待って、金原さん」


「はい?」


「決めますよ、ここ」


「あ、ほんとうですか?」


「なんか、僕もピンッと来ちゃって」


「あ、ありがとうございます。それじゃあ、このままお店に戻って」


「ええ、契約しちゃいましょう」


「あ、ほんとありがとうございます。まさか一軒目で決断されるとは」


「なんか、町並みも、はじめて来たわりにはなつかしい感じがしましたし」


「いやいや、決断の早い方で助かりましたよ、茂木さん」


「いえいえ、金原さんのおすすめがよかったんですよ」


「いやいや、ではでは、お店にもどりましょうか?」


「はいはい。よろしくお願いします」


 カチャリ。



(続く)

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