第十話:香椎千里の薔薇色の時代(後編:その1)
ベロンッ
と、巨大で血色のよい、ヨダレまみれのその舌が、わたしの顔をひと舐めし、それから、
ベーロベロベロ、ベロベロベロンッ
と、多分に親愛の表現なのだろうが――だと信じたいが――わたしの顔をなめになめ尽くした。その上で彼女は、
キュエァアァーーッス
と、天と耳とをつんざかんばかりの雄叫びをあげたので、
「いまのは?」
と、わたしは訊いた。かねて用意の大判バスタオルで顔を拭きながら、「なんて言ったんですか?」
「ひさしぶりに会えてうれしいってさ」
と、目の前の巨大なメスドラゴンではなく、うしろにいる飛行士姿のお姉さまは応えた。わたしの方に近付きながら、「コイツのお気に入りだもんね、ヤスコちゃん」
と、言うことで。
ここは、上石神井にある猪熊先生の仕事場マンション。その屋上で、
キュゥウーーーーン
と、体長12メートルはあろうその巨体をくねらし、わたしに顔をスリスリしてくるのは、メスドラゴンのエレクトラちゃんであります。
「はいはい」
と、いつか食べられるじゃないか? との不安を抱きつつ、そんな彼女の巨大な頭をナデナデするわたしですが、「こっちも会えてうれしいわよ」
と、それはさておき、これとは別に、
「アレ……ですか?」
と、また別種の不安を抱きながら、飛行士姿のお姉さま――堅忍不抜なる冒険家、我らがミセス・リンディ――に訊く。
と言うのも、わたし達の目の前、メスドラゴンのエレクトラちゃんよりもはるか向こう、曇りがかった練馬の空のその先に、そんな空想上の動物よりも更に奇妙な光景、風景、非現実的なナニカが、拡がっていたからである。
そう。
それはまるで、ぼやけてかすんだ巨大な手織りシルクが、うすーく何層にも何十層にも重なり合い、溶け合いそうになりながら、巨大なひとつの壁となって、中野や杉並といったエリアを見えなくさせている風景、光景、非現実的なナニカであり、
「カザモリから連絡があってね」
と、アメリアさんも言うとおり、
「気付いたのはアイツなんだが、先生はじめ、例の悪魔や双子とも連絡が取れなくてね」
と、いつもなら、このあたりに来るのもまれな、彼女と彼女のドラゴンを、練馬くんだりまで来させる風景、光景、非現実的なナニカなのでもあった。
「それにカザモリも、来るのは難しいだろうしね」
*
と、言うことで。
すこし説明が必要だと想うので、この一人と一匹について、その補足と言うか、軽い紹介だけ、やっておきますね。
先ず。
前編その2でも少しお話したとおり、ミセス・アメリア・リンディは、19世紀生まれのアメリカ人で、当時としては珍しい、航空機の女性パイロットでありました。
そんな 《現実世界》における彼女は、1930年代のある日、パプアニューギニアのラエという都市から、北太平洋に浮かぶとある無人島に向かって飛行するのですが、その途上、連絡が取れなくなり、アメリカ海軍および沿岸警備隊、さらには、当時の日本海軍も一緒に捜索したものの、彼女も、彼女の機体も、彼女の副操縦士も、今日に至るまで見つかってはいないそうであります。
で、
次に、《こちらの世界》の彼女はと言いますと、その失踪の直後、なんと時間と空間のはざまへと突入、彼女と同じく、その境界線で迷子になっていたメスドラゴンのエレクトラちゃんと遭遇し、大破した飛行機の代わりに、彼女の背中にまたがって、時間も空間も飛び越えた冒険の旅に出るのであった!!
っていうのが、猪熊先生の傑作冒険ファンタジー『虹のエリーゼ』の大まかな設定なワケでありますけれども…………え? なに? ……「《エリーゼ》って誰?」?
あー、ねー、それはねー、連載中もねー、物議を醸したんですけどねー、そっれがさー、これがさー、連載も最終ラウンドのさらに終盤に入ってからタイトル回収してきやがってさー、最初読んだときはわたしも――
*
「ちょっと? ヤスコちゃん」
と、ここでアメリアさん。
「そのへんの話をし出したらやたら長くなるしさ、読者さんには、必要な情報だけ流してあげなよ」
え? あ、すみません。つい、いつものクセで……。
*
と、言うことで。
エリーゼの正体については、マンガ本編を読んで頂くとして、要は、彼女とエレクトラちゃんなら、
「時間と空間のすき間、場合によっては、先生が作るような虚構と現実、現実と虚構、虚構と虚構のすき間も、すり抜けることが可能だからね」
それでさっきの、
「それにカザモリも、来るのは難しいだろうしね」
と言った彼女のセリフへとつながり、千葉県在住の飾森陸さんが、彼女たちにこちらに向かうようお願いをした――という話にもつながるワケですね。ワケなんですが、
*
「てっきり、先生がまたなにかしでかしたのかと想ったんだがな」と、アメリアさんがつぶやき、「例の地震のこともあるし――」
「地震?」と、わたしは訊きました。「……なんのことですか?」
すると彼女は、すこしあわてた様子で、
「あ、いや、」と一瞬、こちらをふり返ってから、「すまない、気にしないでくれ」と言ってふたたび、問題の手織りシルクの壁を眺めた――「ただ」
「ただ?」
「アレを通ったときの感じは、先生のとは、だいぶちがってた感じがする」と彼女。エレクトラちゃんの背中をなでながら、「……が、だったら誰が、なぜやったかだが――」
*
「※※※※さんに宛てた手紙です」
香椎千里の話は続いていた。「これが、どうしても、出せないのです」
「手紙?」
猪熊先生は訊き返した。作業机に投げ入れたままの、あのネームを想い出しながら、「なぜ、そんなものを?」――あなたも私も、こちら側の人間でしょう?
「わずかばかりの、技術的欠陥」
香椎千里は応えた。
「彼女の作品の中の、好ましくない部分、文勢を損なっている部分、特に、光と色に関する描写、視覚優位になり過ぎて、他の感覚が置き去りにされている部分。それらを指摘し、直すことが出来れば、六作品の残り五作品も、きっと、完璧なものになる――そう考えました」
そのために必要な技法書、参考とするべき作品リスト、それらのおおよその値段、入手方法、そうして、
「そうして、彼女が使用している辞書は? 私以外に読んだことの、愛読している作家は? チェーホフやサリンジャー、カート・ヴォネガットやカーヴァ―を読んだことは?」
そんなような質問をして、
「もちろんこれは、彼女の作品をより良いものにするためですが、」
と、自分に向けた言い分け・偽装工作をも付け加えつつ、
「例えば彼女の年齢や生い立ち、また、もし機会があれば、彼女の勤める女学校は、私のような訪問者の受け入れも許可して頂けるのだろうか? 等々」
それらも教えて欲しい。
残念ながら私は、ナザレの大工も、そのふたりの父親も、けっして信仰してはいないが、それでも、彼の母親が立派な女性であったことは、その確信だけはある。そうして、
*
「――“心よりの感謝と尊敬を込めて。走り書きのほど、何卒ご容赦頂きたく。かしこ。香椎千里”」
カタン。
と、ここで彼は筆を置き、テーブルの上の時計を見詰めた。
彼が、この、いつ果てるとも知れない長い手紙、ホテルの便箋いっぱいに、しかも両面を使って書いたこのあまりにも長い手紙、それを書き始めたのは、朝の八時過ぎであったが、いまは既に、午後の二時をいくらか過ぎている。
ドアには、【DoN'T Disturb】のプラスチックカード。フロントには、連泊のお願いは済ましている。
椅子から立ち上がり、両手を上げる。
パキッ
肩と背中が同時に鳴る。
しびれる指で、便箋を折る。
それから、こちらも同じテーブルの隅に置かれていた、このホテルの郵便封筒にそれを押し込む。
よし。
部屋を出よう。
コーヒーで祝杯を上げ、
コンビニでコピーを取ろう。
郵便局の位置を確認し、
それから花屋に立ち寄ろう。
だれにあげるのかって?
「ミス・マリアに花束を!」
脱ぎ散らかしていたスポーツシューズに足を入れ――やはり私に、文才はない。
「が、それがどうした」
サリエリにはサリエリの、矜持と幸福があるはずだ。
浮かれ気分で部屋を飛び出し、
フロントに近隣の地図をもらう。
とがったナツメヤシのようなコンシェルジュに、
いちばん近くのコンビニとコーヒー屋と郵便局と花束――ちがった、花屋の位置を教えてもらう。
コーヒーで祝杯を上げ、
コンビニ、花屋、郵便局。
買った切手をペロンと舐めて、
そこの路上の、赤いポストに、
封筒を投函――しようとした瞬間、
パーーーーンッ
どこか遠くで、
天から降って来たような、
なにかの弦の、
切れるような音がして、
そうして、
*
コンコン。
と、扉をノックする音で香椎千里は目を覚ました。
時間は、本日午前六時ぴったりだったし、きっとそうなることだろう。
老いた馬になり、老いた従僕の話を聞こうとしていたその記憶は、すでにとおい過去のものとなり、
また、その話の内容を、まったく憶えていなかったことすらも、彼は憶えていなかった。
時間はやはり、午前六時ぴったりだった。
「先生? 起きてますか?」
扉の向こうで、彼の編集者が訊いた。
今日が、くり返し始めた。
*
「それじゃあ、先ずは駅方面だな」
エレクトラちゃんの背中にまたがりながら、アメリアさんは言った。
この巨大なメスドラゴンの上なら、まだまだひとは乗れそうだが、
「私たちは上空から、ヤスコちゃんは地上で先生を探してくれ――やっぱりまだ、高所恐怖症は治っていないのかい?」
ええまあ、いま屋上にいるのもちょっと怖かったりします。
「了解」
とアメリアさん。雲が増えた空と、その先の手織りシルクの壁を見つめながら、
「なにかあったら、それで連絡を」
と言って、工事現場の人が使っているような、骨伝導式インカムをこちらに投げてよこす。それから、
「くれぐれも気を付けてくれ」
とそのまま、マンションの屋上から飛び出して行くのでありました。
「誰がやっているにせよ、まずは、先生を確保しておいた方がいい」
*
「いったい、誰の名前をもじったんだ?」
と、二回目の今日でも香椎千里は、ミセス何某のペンネームの元ネタが分からなかったし、それと同じように、
「本当に、私の小説を読んだことがあるのか?」
と、彼女が自身のファンであることを信じ切れなかった。そうして、
「おいおいおいおい、おっさん」
と、三回目の今日でも香椎千里は、福山在住五十六才の執拗かつ隠微な性的描写に眉をひそめ、それと同じように、
ガラガラガラガラ、ガラガラガラガラ
ガラガラガラガラ、ガラガラ、
ペッ
と、打たれ続け鉄の味がし出した口腔内を丹念にすすいだ。そうして、
『はいほー!!!』
と、五回目の今日でも香椎千里は、ミス・マリアの自己紹介文に、こころの中で快哉を叫び、それと同じように、
「ラ・パーフェクシオン!」
と、七回目の今日でも香椎千里は、彼女の六つの短編にこころ打たれた。そうして、
「それでも、そこには、私の望むものが全て入っていた」
と、十一回目の今日でも香椎千里は、そのひとつに完全にこころを抉られ、奪われ、そうして、
「あいつに盗られたらどうする?」
と、十三回目の今日でも彼は、自身の担当編集にもそれを隠すことを決心し、そうして、
「ホテルに残ってすこし書くよ」
と、十七回目の今日でも彼は、大量のマスタードパンを口につめつつ、
「それから靴と、バラの花束でも買いに行こうかな」
と、十九回目の今日でも彼は部屋へと戻り、
二十三回目の今日でも手紙を書き、手紙を書き終え、これ以上はない達成感と未来への希望を感じ、
二十九回目の今日でも彼は、部屋を出、フロントへ行き、地図を貰い、とがったナツメヤシのようなコンシェルジュに、いちばん近くの、コンビニと花屋と郵便局の場所を確認し、街へくり出し、踊り、コピーを取り、また踊り、花束を買い、またまた踊り、
三十一回目の今日でも彼は、郵便局で切手を買い、
三十七回目の今日でも彼は、切手を貼り、
四十一回目の今日でも彼は、通りのポストに封筒を投函しようとしたところで、
パーーーーンッ
どこか遠くで、
天から降って来たような、
なにかの弦の、
切れるような音がして、
そうして、
*
コンコン。
と、扉をノックする音で、香椎千里は目を覚ました。
時間は、本日午前六時ぴったりだったし、きっとそうなることだろう。
老いた馬に――老いた馬とは、いったい何のことだろう?
「先生? 起きてますか?」
扉の向こうで、四十二回目の今日と同じく、四十三回目の彼の編集者が、彼に訊いた。
*
「それで?」と、猪熊先生は訊いた。「なぜ、私のところに?」
訊いたのだが彼女は、それまでずっと、黙って彼の話を聞いていたので、その言葉をうまく発せなかったし、発せなかったことにもすぐに気付いたので、
「それで?」ともういちど彼に訊ねようとした。しかし、
「以前、お会いしたことがあるんです」と、香椎千里は応えた。質問がきちんと発せられるよりも早く、「今日よりも、ずっと以前に」
そうして、これを伝えるのは、これで六回目なのだ、と。
「先生のことを想い出したのは、四十二回目の今日でしたからね」と。
そうして、これを受けて先生は、
「しかしそれなら」と、重ねて訊いた。五回やってダメだったのなら、「それこそ、私のところに来るのは不正解では?」
しかし、
「しかし、」と、彼は応える。「先生におすがりする以外、他に方法が想い付かないのです」
そうしてもう一度、
「以前、お会いしたことがあるんです」と。「今日よりも、ずっと以前に」と。
この言葉に彼女は、いつもの彼女ならば簡単に想い出せる、それどころか、いつでも飛び越えられる時間と空間の壁、その壁の中に、意識的・無意識的に、見ていない・見えていない部分があることに気付いた。そうして彼女は、
「今日よりも?」そうつぶやき、
「ずっと以前に」男はこたえた。
「いつ?」
「七年前」
「七年前のいつ?」
「その年の春」
「どこで?」
「この街で」
「この街のどこで?」
「皆が混乱していたあの夜、星の下、路の上」
「路の上?」
「貴女は取り乱し、傍らには飛行機乗りの女性と、数匹の猫が居た」
「ネコ?」
「大柄の男性が貴女の脈を診、呼吸を測り、そのうしろには、彼ら以外、周囲の誰も気付いてはいなかったが、赤褐色のドラゴンが、貴女を見下ろし、見守っていた」
(続く)




